第96話 鉱山に潜む竜
水に広がった靄は薄れて一見は清浄な湖に戻っていく。が、魔力反応は変わらず残ったままだ。そういう性質を宿した毒ということなのだろう。
「湖が……!」
そこに降りてきたセレーナは湖を見て声を上げる。セレーナが駆けつけてきた時には湖底まで見通せるほどの透明なものに戻り、一見すると落ち着いたものになっていたが固有魔法を通した視界では違う光景が広がっているのだろう。
セレーナは湖が汚染されたことに口惜しそうに歯噛みをして男達のいる茂みに目を向けるも、場所が場所だ。先走ってクレア達を危険に晒すような事はしない。
すぐには男達に詰め寄るようなことはせず、まずはクレア達のところへと降り立つ。
「セレーナさんの目にはあの毒、どう見えていますか? 私達には魔力は感じますが既に透明になっています」
「正体は分かりませんが……紫色の靄が広がって全体に広まっていて……消える気配がありません。ダドリー達は撤収の準備を進めているようです」
「水がそんな状態では竜も感知するでしょうに……。そんな罠で竜が騙せると思っているのなら舐めすぎているわ。竜は単なる猛獣ではなく、知恵のある怪物なのに」
「もしくは、怒らせて混乱を引き起こす事による意趣返しか。伯爵領に混乱が起きれば更に困窮すると踏んでいるのかも知れない」
ディアナとグライフの分析にクレアとセレーナが頷く。
竜は硬く速い、空を飛ぶ要塞のような生き物だ。
魔法も使うし歳経れば人の言葉を操る者もいて怪物どころか叡智を蓄えた賢者のような存在になる個体さえいるという。だから、雑な仕掛けというのは不発に終わる可能性が大きい。
それで竜が暴れるような事があれば、被害がどうであれセレーナも領地に戻ってくる。意趣返しではなくそれを狙った可能性もある。
目的が仕返しであるにしろセレーナの発見であるにしろ、やったことがやったことだ。男――ダドリー達を見逃す理由はない。
「糸を張り巡らせて逃走不可能な状況にしてから制圧を――」
クレアがそう言ったその時だった。巨大な魔力反応が鉱山の稜線に向こうに現れる。目を覚ましたのだろう。
竜は山体の中腹と坑道の一部をぶち抜き、鉱山内部の地下に巣を作っているのだ。だから――そのまま鉱山の中腹から外に出てくることができる。
クレアは反射的に隠蔽結界を更に高度なものに張り直し、もしもの場合に対抗できるように準備を行う。セレーナもまた身構えたままで稜線から立ち昇る魔力に眉根を寄せた。
魔力反応が一旦上空に舞い上がる。稜線を越えて竜が顔を覗かせ、そのまま大きく羽ばたいて山のこちら側にゆっくりと舞い降りてきた。
黒竜だ。喉のあたりに緑色に輝く結晶の塊のようなものがある。背中にもいくつか水晶がせり出していて……これは鉱物資源を食らって体内で生成。或いは精製したことによるものだ。
次なる進化のために成長途上の成竜。これこそが伯爵領の鉱山に潜む黒竜であった。
竜はいつものように湖畔に降り立ち、その顔を湖面に近付けていく。クレア達と男達が隠蔽結界の中で息を殺して見守る中で、竜の鼻先が水面に触れるか触れないかというところで、ぴたりと止まった。
竜は喉を鳴らして水の臭いを嗅いでいるようだったが、やがてそのまま首をもたげ、周囲を探るように顔を巡らせた。鼻を鳴らして周囲の臭いを嗅いでいるようであったが――先程翼をはためかせてやってきたために周囲の空気をかき乱してしまった。異変は感じていても嗅覚ではその所在を掴むことができない。
だから。竜は喉を鳴らした。歌っているようにも聞こえる不思議な音。
「探知魔法……!」
クレアが小さく声を漏らす。竜の眉間のあたりに魔法陣が浮かび、そこから光の波が大きく広がっていった。
竜の動きが、止まる。静寂。人も鳥も虫も息を潜める中で、鉱山竜は喉を低く鳴らしつつも緑の結晶部分を強く発光させ、首を巡らせる。そして。
「喉元の魔力が――」
「吐息……!」
セレーナとクレアが反応したのは、ほとんど同じタイミングだった。次の瞬間、煌めくような吐息が竜の口から吐き出される。
吐息が撃ち込まれたのはダドリー達が潜んでいた茂みだ。ガラスの砕けるような音と共に爆発が起こった。
「ぐああッ!?」
潜んでいた男達が爆風と共にあちこちに吹き飛ばされて転がる。転がった男達にまだ息はあるように見えるが、苦悶の声を漏らし、立ち上がることができない。
竜の口から放たれた吐息は単純な炎ではない。魔力の奔流に乗せられて撃ち出される、爆裂する結晶の散弾だ。
鉱山竜は首を巡らせる。クレア達は隠蔽結界の方が竜の探知を上回ったのか、捕捉されていない。されていないが竜の探知魔法は別のものを捉えていた。
つまり――森の外縁部にいるカール達、巡回の部隊のいる方角であり、領都のある方角でもある。どちらに狙いをつけたのかは分からない。セレーナはカールに隠蔽結界のタリスマンを預けてきているからだ。
だが、竜は間違いなくカール達や領都の方向を見定めるように首を巡らせ、空を仰ぐようにして猛々しい咆哮を響かせた。
動けない男達に止めを刺すよりも、人間達への報復を優先する。そういう意を込めた長い長い咆哮だった。
「……ダメですね。この場で戦わないと沢山の犠牲者が出ます」
その意志の一端でも感じ取ったのだろう。クレアが言う。
「どうすればいいですか?」
「作戦があるのなら、指示に従おう」
「クレアちゃんを信じるわ」
セレーナ達が言うとクレアは頷き、即席ではあるものの自分の作戦を伝えた。
「――竜を倒すための状況は私が作り、その時が来たら合図をします。それまでは、このままここで待っていて下さい」
クレアの伝えた作戦に3人は歯噛みする。下準備も陽動も、買って出るのはクレアであったからだ。
それでも他の者達では無理なのだ。空を飛行しつつも戦えるのはクレアとセレーナだけで、セレーナには竜の強固な鱗を突破する手段がない。少なくとも竜に回避行動をとる必要があると思わせなければ、空戦では戦いにすらならない。
「……分かった。クレアを信じて待っている」
「頼りにしていますわ。あれを一緒に倒しましょう」
「気を付けてね、クレアちゃん」
「はい。スピカとエルムも待っていて下さいね」
スピカとエルムを懐から出して、クレアは箒に身体を預ける。そして――。皆に見守られる中、微笑みを見せるとそのまま、地面すれすれの低空を飛行する。
隠蔽結界はまだ解除しない。湖面から光る何かを上空へと放り投げた。
飛行型の妖精人形だ。煌めく鱗粉を散らしながら下から上へ。
飛び立とうとした竜の視界の端に煌めく蝶のような何かが入ってくる。そちらに、竜が目を向けた瞬間に。
箒で湖面を滑るように飛び込んできたクレアが、手の中に展開した糸弓から光の矢を放っていた。人形劇で培った視線誘導の技術も用いての、完璧な位置とタイミングでの射撃。
隠蔽結界が解けてクレアが認識されるのと、矢を放ったのがほぼ同時。
狙いは視線を誘導した、その左目だ。
間違いなく竜の反応は遅れていた。着弾まで顔を逸らすのは間に合わず、しかしそれでも瞬膜を閉じて眼球への直撃を防ごうとしたのは、竜の反応速度が優れているからに他ならない。
瞬膜とて竜のものだ。鱗程とは言わないが、単なる矢や魔法なら直撃しても問題ない強度はある――はずだった。
今まで感じたことのない鋭い痛みに竜は思わず顔を逸らすこととなった。
顔を逸らし、危険から遠ざかるように咆哮を上げながら飛び立つ。
距離を取って、そこでやっと状況が飲み込めた。
針のような脆弱そうな魔法だったはずだ。それが――自身の体表の防御を侵食するかのように撃ち抜いてきた。
左側。自身の左側の視界がない。暗黒に閉ざされている。鋭い痛みが竜を苛立たせる。
完璧な不意打ちだった。大した魔法使いだ。だが、それ以上に人間一匹に距離を取らされたことが我慢ならない。
旋回しながら視界を巡らす。見つけた。不意打ちの後は逃走しようというのか。木の棒のようなものに乗った人間が、森の上空を飛行しているのが見えた。鍔の広い三角帽子の陰から覗くその人間と、竜との視線がぶつかった。
縄張りを奪われて以来、これまでこそこそと遠巻きに顔色を窺っているだけの脆弱な生き物だったはずだ。
だが、これは。この魔法使いは自身が狩り、喰らうに足る獲物だと見定める。奪われた左目の傷はこの獲物の血肉で癒すと、そう竜は心に決めて大気を震わせる咆哮を響かせた。




