第195話 姫と魔将
「くくっ!」
監獄島の副獄長シグネアは笑い、低い姿勢でアストリッドへと突っ込む。蹴り上げに乗せるように氷を爆ぜさせるアストリッドの一撃を、地を這うように横跳びに避けてから身体を屈ませて長剣を構え、伸びあがるような刺突を繰り出す。
シグネアが得意とするのは身の軽さと速度、それに相手の感覚を狂わせる幻惑の術だ。
アストリッドの死角に回り込みながら魔力を込めた斬撃を見舞う。
劣化した氷の鎧を再度強化することでそれを止め、氷爪を振り下ろす。そこにはシグネアはもういない。大きく後ろに跳んでアストリッドの反撃を回避していた。
アストリッドの動きや反応、反撃が遅いというよりも、間合いを見誤せられている、という方が正しい。
ちょっとした距離感、感覚を要所要所で少しずつ狂わせ、アストリッドの繰り出す攻撃をいなし、その隙に再び踏み込んできて一撃離脱を繰り返すという戦法だ。
アストリッドが生成する魔法の氷は、ネストールの黒い波に巻き込まれる度に劣化してしまう。防御面において信頼性が損なわれてしまう。
瞬間的にしか発動させず、ネストールに呼吸を合わせて攻め立てるシグネアに比べればアストリッドの集中力や魔力はどうしても消耗させられる。加えて言うなら、シグネアの幻惑術は魔力の運用効率が良い。
戦闘にも尋問や拷問にも使える魔法系統だ。例えば――。
「つっ!?」
氷の手甲で斬撃を受け止めたはずが、斬られたような鋭い痛みが走る。
アストリッドが大きく裏拳で払うも、既にシグネアは跳び退ってそこにはいない。痛みの走った箇所を見るが、どうともなっていない。
怪訝そうなアストリッドに、シグネアは肩を竦める。
「何。魔力を通した箇所に偽りの痛みを走らせるだけの下らん幻惑術だよ。とはいえ、こういう戦いの場では存外有効な事もあってな。例えば――痛みを嫌がって判断を誤るだとか、逆に痛覚を麻痺させられ、肝心な時に怪我で満足に動けなくなってしまっている、だとかな」
長剣の先端をくるくると円を描くように弄んでから構える。
相手を侮るような言動、態度を見せながらもその実シグネアは油断していない。そうした態度は苛立ちや焦りを引き出して優位に事を運ぶためであるし、瞬間瞬間しか幻惑術を発動しないのは、違和感に慣れさせないためだ。そう思わせて幻惑術を発動せずに真っ当に切り込むといった虚実を織り交ぜ、シグネアの手札を理解しても尚対応させずに相手を屠る。それが魔剣士シグネアの戦法だ。
最初に氷の一撃で間合いを見誤って軽く頬を裂かれてはしまったが、種が割れてしまえば氷の形状変化を計算にいれて戦うだけの話。シグネアは目を見開くと風を巻くように疾走してくる。長剣と氷の拳足をぶつけ合い、幻痛や偽りの感覚を叩き込んでは一撃離脱を繰り返す。アストリッドもまた、その身を盾にシグネアを他の者達のところには行かせない。
シグネアもまた、他の看守達より一段も二段も上の実力である事が見て取れるからだ。乱戦にシグネアを跳び込ませるのは危険度が高い。
攻防が交差する瞬間に氷の欠片を撒き散らしながらも、アストリッドは思考を巡らせる。
時折ネストールから戦場に撒き散らされる黒い波。あれが問題なのだ。その場でかき消すだけではなく、しばらくその場に留まる性質がある。氷の生成程度なら問題はない。だが、温度感知等の繊細な違いを読み取る事がネストールの影響下ではアストリッドにはできない。それさえなければ幻惑術も見切れるとは思うのだが。
ともあれ平常心を乱せば一気に畳み込まれる。攻めるように見せかけての守勢を心掛け、幻痛を叩き込まれながらもシグネアと切り結んでいたが――そんな戦いの中で状況に変化が生じた。
クレアが虹の鎖を戦場に林立させ、ネストールの黒い波を封じたのだ。
シグネアは一瞬視線を巡らせ、笑みを消す。冷たい相貌がアストリッドを見据える。
「人質故に生け捕りにしようと思っていたが……この状況では仕方がないな」
それはつまり。アストリッドを殺して他の看守達と共に制圧に動く、という意思表明だ。
「やれるものなら」
アストリッドも拳を構える。温度感知は、もう使える。幻惑の術とて見切れる。その自信があった。
魔力が爆発的に高まった次の瞬間、シグネアが二人に分かれて左右から突っ込んできた。アストリッドが驚愕に目を見開く。どちらにも体温があり、踏み込む瞬間の音があり、重量のある振動を感じる。
本当に分身しているわけではあるまい。かなり高度な幻術だ。だが、幻痛や痛覚麻痺といった幻惑術があるということは、交戦した際の痛みや衝撃といったものですら本物か幻術かを判別できないという事だ。
温度の判別を頼りに本体を叩き潰す算段であったが、それは叶わない。
入れ替わり立ち替わり切り込んでくる二人のシグネアの猛攻は凄まじいものがある。防御をしているのに痛みが走り、或いは切り込まれたという感触がなく。手傷を負っているのかいないのかの認識すらも高速の攻防に追いやられていく。
「邪魔っ!」
アストリッドが腕を振るえば、床ごと凍り付かせ、放射状に氷のスパイクのようなものが放たれる。二人ごと巻き込む広範囲攻撃であったが、一人にしか直撃していない。もう一人は後ろに跳び退っている。
「外れだ! そろそろ終わりにしようか!」
氷に胸を貫かれて崩れ落ちるシグネアの片割れ。その姿が掻き消え、残ったもう一人からまた分身が生じる。先程の焼き直しのように。今度は二人同時に突っ込んでくる。片方は刺突。もう片方は横薙ぎ。幻影が紛れているのだから同士討ちの恐れもない。そういう動きだった。
アストリッドは――それを自ら飛び込むように迎え撃つ。腕を交差させて急所だけを庇い。攻撃に身を晒しながら一気に踏み込んだ。纏った氷を、何か硬質なものが掠めていくような感覚がある。
「な、にっ!?」
声は左右のシグネア。どちらからでもない。何も無いはずの空間――アストリッドのすぐ近くから聞こえた。分身は二つ。本体は姿を消したままで、本体の攻撃を急所に叩き込もうとしていたのだ。幻惑の術が看破されたことで解ける。剣を突き出したシグネアの姿が、アストリッドの手の届く位置にあった。
「ちっ!」
舌打ち。即座に両者の位置、姿勢から攻撃方法を予測して防御と回避に転じるシグネア。
だが。
「な、にっ!?」
「捉えたよっ!」
横跳びに離れようとして、それは叶わなかった。足元から伸びた氷の蔦がシグネアの半身を絡めとっていたからだ。
シグネアの術は、ほとんど完璧だった。分身に実像はないが体温や鼓動、匂いや感触すら再現している。本体の情報を、分身を基点に再現するという術だからだ。
だが、本体の吐き出す呼気がその場の空間に残す温度変化はシグネアそのものではない。術の対象外だったということだ。そもそも周辺大気の微細な温度変化を感知するというアストリッドの性質が想定外だった。
目に映るシグネア達はどちらも虚像。やや離れた位置に感じる温度の、更に一歩先。何も感じないはずの空間にこそ本体が潜んでいる。だから本当は分身と思わせている方が本体である可能性も視野に入れ、急所さえ攻撃を受けなければ良いと、守りを固めながら分身のその先へと飛び込んだのだ。
そうして、そこに本体がいると信じて、巨体で視野を塞いで足下から氷の蔦を伸ばし、シグネアを捕まえた。
シグネアの表情が変わる。アストリッドがその拳を後ろに大きく溜めていたからだ。
「吹っ飛べ!」
容赦なく。身動きを封じられたシグネアをアストリッドの拳が捉える。下から上へと伸びあがるように放たれた拳を、シグネアは腕を交差させながら防殻で防ごうとする。
「ぐはっ!」
だが。凄まじい衝撃と共にシグネアの身体がくの字に折れて空高く舞った。天井に激突。同時に身体を覆っていた防殻が砕け散る。意識はある。それだけに、眼下に映る絶望的な光景にシグネアはその表情を引き攣らせた。
氷の棍棒のようなものをアストリッドが形成していたからだ。浮遊感。落下するまでの時間が、やけに長く感じて――。
「う、おおぉおあぁああぁっ!」
氷の棍棒が振り抜かれる。重い音と衝撃。落下してきたシグネアの身体は床と水平方向に吹っ飛び、訓練場の壁に激突するのであった。
蹴り脚に圧縮した魔力を破裂させる要領で加速。ネストールは凄まじい速度で突っ込んでくる。黒い鎧の魔将が渦を纏う斧槍を振るう様は、さながら漆黒の暴風だ。
距離を取って戦うクレアに、間合いを詰めるネストールという形の戦い。
ネストールが術者と対峙した場合、普通ならば黒い波と魔力硬化によって形成した鎧で相手の魔法を一切合切無視して突破して斬り伏せるというような、およそ戦いとは呼べないものになる。が、ことクレア相手に限っては違ってくる。
ネストールはクレアを殺さないようにはしているが、それが不利に働いているというわけでもない。
斧槍の先端部を魔力で覆い、硬化させることで鈍器のように使っているのだ。直撃すれば防核を減衰し、骨を砕くぐらいの威力がある。だから、殺さないようにしている事が問題になっているわけではない。
問題は、その立体的な機動力だ。
虹の鎖、床、天井、壁。あらゆる場所から伸び、接続した糸に乗り、あらゆる方向に予備動作を見せずに跳び、着地点も分からない。ネストールの戦闘経験にもない動きで予測がつかない。
更にそんな動きの中から、あらゆる間合い、位置関係、体勢からでも攻撃を繰り出してくる。一方的どころか、どちらかが手を誤れば瞬時に戦闘不能に陥りかねない。そんな五分の戦いだ。
固有魔法も手の内も隠すことを止めた結果としての動き。それに対してネストールはクレアの立体機動に対抗するため、背や足から圧縮した魔力を後方に爆裂させる力技で空中で機動を変化させて追い回す。
四方八方から叩き込まれる糸矢を風車のように回転させる斧槍で弾き、黒い鎧で相殺して突破し、クレアに向けて斧槍を叩きつけ、移動方向を限定するように黒い波を放って張られた糸を断ち切る。
跳ぶ、跳ぶ。先読みされないように糸で引き寄せ、新たに張り直し、動き方を矢継ぎ早に変え続ける。
天井も壁も床も関係なく、クレアとネストールはあらゆる場所を足場にしながら立体的に飛び回って切り結ぶ。
空気を引き裂くような斧槍の一撃。上体を逸らして掻い潜り、クレアがそのまま落下したかと思えば、床に激突する前に糸で引き寄せる形で斜め上方に跳ぶ。ネストールは天井を足場に身体を屈めると、クレア目掛けて砲弾のような速度で迫る。
無数の糸の斬撃を放って迎え撃つ。煌めく糸は魔封の力を宿しているが、斬撃に向いた形状で生成しており、勢いよく放つことで殺傷力を持たせている。拡散させた波では相殺し切れない。斧槍で弾き飛ばしながらも更なる移動方向の先読みをするように黒い波を放つ。移動用の微細な糸ならば魔封の性質を宿せないためにかき消すことはできる。
それを相殺するようにクレアは虹の鎖から煌めく魔封の欠片をぶつける。干渉しあって細かく弾ける中で交差し、再び跳躍を繰り返す。
人形を使ったクレアの大技は種類問わず、準備段階で糸を切られてしまうために決め手にはなりにくい。狩人の弓は溜めれば溜める程威力を増す技だし、踊り子は回避動作そのものが電力のチャージに繋がっている。いずれも励起している魔力を目標に目星を付けられてしまうと感知され、糸を断ち切る形で妨害される。
手元に置いて小さくしたまま準備だけ済ませ、本体から放つ形ではネストールも注視しているために直撃させるのは難しいだろう。
互いに押し切る事ができないまま攻防を重ねていくが――そんな中でネストールの動きが段々と洗練されてくる。
クレアの動きを先読みし、間合いを詰めてくる時間が増えているのだ。戦闘経験ではネストールが上。クレアのちょっとした癖、得手不得手。それに戦いの中での誘導。そうしたもので次第に追い詰めていく。
クレアが勝っているものは手札の多彩さ。奇抜さ。魔力量だ。
対して経験や体力、近接戦闘の技術という面ではネストールに軍配が上がる。多彩な応用力を、魔法を種類問わず減衰させる汎用性で断ち切り、迫る。迫る。
皮一枚の距離を豪斧槍が唸りを上げて通り過ぎ、至近から放たれた糸矢を瞬間的に硬化した黒壁が受け止める。
凄まじい技量と研鑽。付け入る隙は――ないこともない。クレアの機動力に対抗するのであればネストールとて重装ではいられない。動きの柔軟性を確保するためにも鎧には関節部や稼働域を確保しなければならない。即ち、装甲には隙間がある。そこを精密に通すことができればネストールに致命傷を与える事ができる。技量や経験で勝る相手との戦いも――ロナとの模擬戦で慣れたものだ。だからこそ、戦える。相手の技量が上ならばそれと割り切った上での戦い方、出し抜き方というものがある。
「くくっ! 粘るものだな!」
「まだまだッ!」
嵐のように振るわれる斧槍を掻い潜り、編み上げた糸盾で跳ね上がる膝蹴りや黒い槍を受け止め、反撃とばかりにスリングの礫。糸矢、炎弾、雷撃、氷槍――手を変え、品を変えて様々な角度から叩き込む。
クレアは踊り子人形の連接剣を直接手に握り、オーヴェルの剣術をベースに、分割しての斬撃を切り替えて斧槍とも切り結ぶ。本来ならば扱えないような重量の武器。ただ内部に糸を通す特殊な剣であるが故に操る事ができる。
寄られた場合に対抗するための苦肉の策だが、これも変則的で意表をつくものだ。だからネストールの予測を超えて、対応までの時間を稼ぐことができる。
後方に跳びながら蛇のようにのたうつ変則的な斬撃で牽制。意識を散らしながら鎧の隙間を通すように十字砲火を浴びせる。そんな攻防の中で。
「付け焼刃よな! 小娘!」
背中から圧縮魔力を弾けさせて斧槍で以って伸ばした斬撃を弾き飛ばす。装甲の隙間を変化させて射撃を弾き。大きく撓んだ連接剣が手元に戻るまでの空間を一気に潰して迫る。
捉えた――。斧槍を叩きつけるように振るえば、クレアは連接剣を手放し、両手の間に帯を形成して受け止める。止まらない。止まらない。そのまま膨大な魔力を放出して周囲に張り巡らせた糸を断ち切り、クレアの身体ごと、壁際に向かって押し込む。このまま魔力を外から押し潰し、力技で捻じ伏せる。
クレアの背中がかなりの勢いで壁に叩きつけられる。痛手にはなっていない。全身に防殻を張り巡らせているから。だが、ネストールならばそれすらも塗り潰し、押し潰す事ができる。
ファランクス人形がクレアの袖から現れ、槍を突き立てようとしているのが見えた。
「悪足掻きをッ!」
嘲笑うようにネストールは牙を剝き、更に妨害のための魔力を放射する。人形を操るのは結局糸だ。それを妨害してしまえば制御を失う。ぐらりと人形が揺らぎ、槍を取り落とし、崩れていく。クレアの防殻にも亀裂が走り――。
「ぐッ!?」
激痛と苦悶の声。それはネストールの口から漏れたものだった。
魔力も何も感じなかった。隠蔽結界で隠したとしても内に秘めた魔力が励起していれば感知できる。そのはずなのに。
ネストールがそちらに視線を向ければ、崩れ落ちたはずのファランクス人形がその手にした刃を鎧の隙間から突き立てているのが見えた。何が起こったのか理解できない。体内に潜り込んだ刃から魔力が伸びて、臓腑を貫いているのが分かる。
無力化したはずの人形が。いや、違う。
突き立てられている刃には見覚えがあった。クレアの前に自分と戦っていた戦士が使っていたものだ。あの戦士ならばクレアからは離れ、部下達と戦いを――。
視界の端で部下を切り伏せているグライフの姿が目に入る。本物だが、手にしている剣の内、一本はアルヴィレトの宝剣とは違うものだ。
では、今ここにいて、剣を突き立てている方が。
兜の隙間から、生きた人間の目が覗く。間違いなくあの娘の目だった。
「こちらが、本、物……?」
「途中で入れ替わりました。あなたと戦っていた方が最初から人形ですが、私の場合、人形を戦わせた方が、戦闘力も上がるんですよ」
糸で予備動作なく跳ぶ非生物的な動きも。それが糸であるからというだけでなく、偽装として機能するからだろう。
糸の幕で一瞬視線を遮った時には人形と既に入れ替わっていたのだ。後は小人化で姿を隠したまま、ファランクス人形を模した鎧を身に纏い、然るべき時に切り札を切る。
「くっ……はは、はっ……まさか……正面からここまで見誤らせる、とは。大した技量だな」
ネストールは笑う。笑って。そして口の端から血を溢れさせると崩れ落ちた。




