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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

過去作

雨音が消す

作者: きりねのゆるり

過去に書いた話です。後味の良い話は期待しないでください。

 吾輩は猫である、という出だしから始まる小説があるらしい。それならば、私もそれに倣ってこう始めてみよう。

 吾輩は蛙である。名前は無いが、住んでいる場所から古池と呼ばれている。

 私が住む古池は、神社境内にある。小さな池だ。さして特徴もない小さな神社にある、ちっぽけな池。それが私の棲み処である。私の友人たちが集まって小さな宴を開くこともあるが、普段は風が葉を揺らす音くらいしか聞こえない静かな場所だ。

 さて、吾輩について長々と語る必要もあるまい。今回の話の主役について紹介していこう。

 柔らかな毛並は黄金の穂波の色。ピンと立った耳にふさふさの尻尾、まどろみに身を任せて軒下で眠っている小さな狐。そんな彼女が、吾輩が語る話の主役だ。

 彼女の名は藍。この神社に住まう神の使いであり、長い年月を生きているにも関わらずまるで成長していない幼子だ。神から創り出された彼女は変化が緩やかにしか表れないらしい。

 眠っている今はただの狐のように見える。しかし彼女は獣ではなく、また人間でもない。それゆえに犯してきた過ちというものも多い。その過ちの一つは今も藍を蝕んでいる。

 本来なら傷一つつかないはずの神の使いである藍。狐の耳に似つかわしくない鉄の輪が、そんな彼女に今も傷を与え続けている。

鉄の輪。吾輩は人間たちの常識にはあまり精通していないのだが、これはピアスというものだと聞く。耳に穴をあけて固定する装飾品。しかし傷が癒えているはずなのに、藍の耳を挟み込んだそこからは常にじわりと血が滲み続ける。

藍が憎悪を向けられたあの日から、彼女は痛みとともに耳を赤く染めている。


 しとしとと降り続ける雨に、藍は辟易していた。梅雨時は毛並がしっとりとして気持ちが悪い。仕方がないので人間の姿を取ってみたが、人間は服を着なくてはならないため気分の悪さに変わりはなかった。賽銭箱の近くで所在なさげに足をぱたぱたと揺らしている。

 べたべたするし、気分は落ち込むし、外で自由に駆け回ると泥まみれになるし、藍は梅雨が嫌いだった。つい最近までは。

 人間に化けているにもかかわらず、狐の形を残した耳と尻尾がピクリと跳ねた。水たまりだらけの地面を歩く靴音が聞こえる。ぴちゃ、ぴちゃり、ちゃぷ。深い溜まり場を避けているのか、そのリズムは不規則でどこか楽しげでもある。

 地面に放り投げていた草履をきちんと階段に並べなおして、代わりにピンク色の長靴を取り出した。小さなそれは、幼子に化けている藍のために見繕われた物だ。かわいらしいそれをどこか嬉しそうに履いて、藍は訪問者を迎えに駆け出した。

「藍、来ましたよ」

「遅いぞ清良!」

 傘を差したままの少女に思い切り抱き着いた藍は、その顔を綻ばせた。少女は濡れてしまった肩や額に張り付いた髪を払いながら苦笑している。

 少女の名は清良。三年前の雨の日にふらりとこの神社を訪れた彼女は、珍しいことに神の使いである藍の姿をはっきりと見ることができた。それ以来、彼女は藍が半ば無理やり押し付けた約束のため、雨が降るたびに藍に顔を見せに来ている。

 雨粒が地面に当たって砕けるたびに、二人の体は濡れていく。しかし藍はそれを気にもかけず、清良の制服のスカートを引っ張りながら歩きだした。

「濡れちゃいますから、少し落ち着いてください」

「やだ」

「藍」

「だって時間はゆーげんなのだろう? 清良が藍にそう言ったんだからな」

「それはそうですけど……」

「はやく行くぞ!」

 藍が清良に望んだのは、雨が降った日には自分の遊び相手となること。その願いは些細で、しかし幼く加減を知らない神の使いたる藍は、あまりにも強く祈りすぎた。

 清良は藍に呪われている。雨が降った日の夕暮れ時までに神社に来るというその約束を守らなければひどい頭痛に苛まれる。たとえ怪我をしていようとも熱が出ていようとも、藍に会わなければならないのだ。強すぎる願いは、相手を縛り付ける鎖になった。

 目的地に到着するころには、だいぶ雨音が強くなっていた。藍はいつものように古びた蔵を開け放つ。小さな体では重たい扉は開けないため、後ろから清良が手伝っているのだが藍はそのことには気づいていない。いつものことだ。

 そう、いつものことなのだ。

 清良だって藍のことは嫌いではない。むしろ大切に思っている。藍が幼いゆえの呪いを嘆きはしたが、それを責めるつもりもなかったのだ。

 彼女たちの関係は、呪いが介入していることを忘れてしまうほどに穏やかなものだった。藍が求める愛を、清良は惜しみなく与えてくれる。口では尊大なことを言いながらも、母に甘える赤子のように清良のことを慕っている藍。

 そんな藍が愛おしいと思うからこそ理不尽な呪いを解くのではなくやり過ごす方法を学んだ。呪術的なことなんて清良にはわからない。解呪のために誰かに相談したら藍のことを知られてしまう。それは、嫌だった。

 彼女たちの世界は、誰も付け入る隙がないほど二人で完結していたのだ。

その関係が崩れる日が来るなんて、二人とも考えていなかった。


 家から電車で三駅かかる高校に通う藤埜清良には友達が少ない。少ない、というか皆無だ。これこれこういう理由で、というようなはっきりとした理由はないのだが、クラスの中で微妙に浮いた立場に立っている。

 曇りの日はしきりに空の様子を気にしているし、雨の日には気が付けば消えている。つかみどころのない態度で笑う彼女は、クラスメイトからすればどこか近寄りがたく思えるらしい。

だからこんな事態は清良にとって想定外だった。

「え、と……ごめんなさい、もう一度言ってもらえますか?」

 緊張で体をこわばらせた様子の男子生徒が、裏返りそうなほど力の入った声で彼女に愛の告白をしてくる、だなんて事態は。

「……好きです、藤埜さん。俺と付き合ってください」

 二回目でも頭によく入ってこない。なんで話したこともほとんどないような自分のことを、という気持ちが強かった。

「でも、あの……お話したこと、そんなにないですよね」

 だから単に見た目目当てなのかとか、友達がいないから御しやすいとでも思われているのかなとか変に勘ぐってしまう。

 まあ言い訳がおかしかったらすっぱりお断りできるしそれでもいいか、と思った。

「確かに話したことはあまりないけど」

 しかし男子生徒からの返答は、予想外にはっきりとした声音で告げられた。

「藤埜さんってさ、あんまり積極的にはクラスで話さないけど集まりとか仕事とかにはちゃんと参加してるよね。そういう時に皆を見ている目が、なんていうかそう……なんか、寂しそうだなって」

 うつむいていた彼はここまで言うと、はっと気づいたように顔を上げた。清良の目をまっすぐに見てくる。

 誰かとしっかり目を合わせたのはいつ以来だったかな、とぼんやりと彼女は考える。よくよく考えれば、藍と出会ってからはあまり真剣に人付き合いをしてこなかった。藍のことを優先するうちに、余裕がなくなって。

 一歩引いた位置に下がることが癖になってしまったのかもしれないな、と考える。藍とも、清良はあまり目を合わせない。

「ご、ごめん勝手なこと言って。でも、さ……一回そう思ったら気になっちゃって。そんで、気づいたらよく目で追うようになって、それで……」

 きゅっとスカートの裾を握りしめた。誰かにこんなに率直な気持ちを向けられたのは、久しぶりだった。

「だから、俺もっと藤埜さんと話してみたいなって……。こんな良く知らない状況のままで告白なんかしていいかはわからなかったんだけど、でも」

「あの」

「は、はい!」

「私はまだあなたのこと、全然知らないです」

「そ、うだよね」

 そりゃそうだよね、いきなりこんなこと言うなんておかしな奴だよね、ごめんね、と言いながらと項垂れる少年に慌てて付け加える。

「で、ですからまずはお互いのことを知るところから始めませんか?」

「え、いいの!?」

「はい。……まあ、よく知ってみたらなんだか思っていたのと違った、なんてことがあるかもしれませんし」

 清良は精いっぱいの笑みで彼に向き合う。彼のまっすぐな想いには、きちんと向き合って答えを渡したいと思った。

 正直なところ、彼女は藍の相手でいっぱいいっぱいで友達に避ける時間はあまりない。しかし清良は友達が欲しくないわけではないのだ。ただ単に、藍の呪いがその邪魔をしているだけで。

「私、結構不定期に用事があるからあまり皆さんとゆっくりしている心の余裕がなくって……だから、こういう風に私に興味を持ってもらえて嬉しいんです」

 相手の彼は喜びが顔に出やすいようだ。そのどこか無邪気な笑顔は、分かりやすく彼の持つ清良への好意を滲ませている。

「好きって言ってもらえたことにちゃんとした答えを返せないのにこんなこと言っちゃうのは申し訳ないですけど……」

「そんな、気にしないで! 俺は藤埜さんがこんな風にちゃんと考えてくれただけでも嬉しいから!」

「ありがとうございます。……じゃあ、これからよろしくお願いしますね」

「よ、よろしくお願いします!!」

 手を差し出して握手、なんて真似は恥ずかしい年ごろだからしなかった。ただ二人してぺこりとお辞儀をしあう様子はどこか滑稽で、顔を上げて目が合った二人はくすりと笑みを交し合った。


 こうして清良に友人ができた。人間の、ごくごく普通の友人が。

 ごくごく普通に会話をして、たまにふらりといなくなる清良に文句も言わずに彼は接してくれた。そんな風に、普通に話している清良を見て話しかけてくれた人もいて。クラスの中でどこか浮浪雲のような位置にいた彼女は、少しずつ周りになじんでいった。


 藍に呪いをかけられて以来、清良は雨の匂いに敏感になった。雨が降りそうだな、という時がなんとなくわかる程度に。

 放課後の教室。たそがれ時にはまだ早い時間帯。清良は少年と二人で掃除をしていた。

「掃除当番、今日じゃないのに手伝わせちゃってごめんなさい」

「いいんだよ、むしろ頼ってくれてうれしいからさ」

 少年の想いは割と周りにバレバレのようで、最近ではこんな風に露骨に周りが二人きりにしてくることもある。

 清良の掃除は丁寧で、その分時間がかかる。清良に少し几帳面な面があると最近わかってきた少年は、フローリングの隙間を執拗に箒で掃いていた。

 箒が床にこすれる音と、清良が窓枠を拭いているリズミカルな音が室内を覆っている。こういう時に黙ってしまうのが清良なのだが、それをわかって静かに作業をしてくれる少年の存在がありがたかった。

 清良は、少年が自分に好意を寄せてくれていることを前よりもずっと、大切に思うようになっていた。好きだなぁ、なんてぼんやりと思うくらいに。だからこのままいけば、順当に二人は交際を始めていたのだろう。

 その未来の可能性は、清良を縛る雨音が消し去った。

 掃除もほとんど終わり、箒や塵取りを片すだけという時に空模様が変わりつつあった。雨の気配が近づいてくる。あ、と思った時にはもう黒い雲が辺りに蔓延っていた。

 雨が降りそうになると、清良はいつもひっそりとその場を離れるのが常だ。しかしそれでは片付けを少年に押し付ける形になる。それは申し訳ないと、そう思った。

 無意識のうちだ。無意識に、ごくごく自然に。彼女も少年と二人きりの時間を終わらせたくないと思っていた。それがたとえ、不可能なことであったとしても。

「もうすぐ、雨、降りそうですね」

「え? ……あ、本当だ。結構雲が来てる」

「あの……私、今日傘忘れちゃって。その」

 申し訳ないんですけど、先に帰ってもいいですか。と、言おうとした。名残惜しむように。ただ、さようならとまた明日を言いたくて、言ってほしくて。

 傘を忘れたなんて嘘だ。清良は藍のもとに行かなければならない、それだけのための、嘘。

 ただ清良は見通しが甘かったと言わざるを得ない。コミュニケーションを人間と取ってきた経験が圧倒的に足りていなかった。

「あ、じゃあ僕の傘入る?」

「え」

 ただの恋愛イベント発生の流れとなった。青春の一コマ。

 清良が藍に呪われてさえいなければ。


 清良にとって、藍は楔であった。勝手に気に入られて、勝手に呪われた。

 最初は恨んだ。清良にだって生活があったのだから、雨が降るたびに強制的に神社へ行かされるなんて冗談じゃないと怒っていた。また何か呪いをかけられては困ると表面上は丁寧に対応していたが、無邪気にはしゃぐ藍の顔を見るのが腹立たしかった。

 それなのにいつからだろう。幼子の形をした理不尽は、大切な愛し子にもなっていた。

 それが清良を縛る鎖であることには変わりなかったけれど、甘んじて縛られてやってもいいと思えるくらいには。清良の一番がなんだかんだ言っても藍になってしまうくらいには。清良は藍が好きだった。

 清良の根幹には藍がいて、呪いのことを迷惑だ身勝手だと思っても切り離せないほどに大好きで。守ってあげなきゃと、一人ぼっちにさせたくないと思っていて。それはどうあがいたって本当のことだったのに。

 藍には、それがわからない。

 幼子のまま、人と同じ速度では変わることのできない藍にはわからない。大事なものが増えるということが。

 清良の一番が自分であると気づけない。藍は、自分以外の誰かが清良の大切になったことが許せないのだ。

 藍は、人間より……清良よりもっとずっと、世界を知らない子供だっただから。


 降りしきる雨が肩を濡らす。二人で入るには少し小さい傘だ。必然的に距離は近くなる。

 けれどそこに甘い空気はない。

「藤埜さん、大丈夫?」

「大丈夫です、よ。ちょっとだけ雨に……そう、雨に弱いだけですから」

 真っ青な顔で歩く清良の頭を占めているのは、痛み。

清良が見つけてくれるまで一人ぼっちだった藍の悲しみ。誰も藍が見えない寂しさ。一度手に入れた清良が己のもとを訪れない恐怖。見捨てられたのではないかという不安。

そんな藍の気持ちが、棘のついた鉄線のように清良の頭を締め付けていた。

 呪いは、幼子である藍の泣きじゃくる声だ。親を求めて鳴く雛鳥のような、どうしようもなく胸を締め付ける思いが呪いになったしまった。

 雨脚は強くなる一方だ。地面からの跳ね返りで足元が濡れる。じわりと濡れた靴下が体温を奪い、ズクズクと痛む頭を悪化させていく。

 神社の境内に傘を忘れてしまったんです、だからそこまで。

 少年はそんな清良の言葉に、藤埜さんって信心深いんだねと朗らかに笑った。その笑顔を不安で曇らせてしまったことに彼女は申し訳なさを覚える。

傘を彼女に傾けすぎて学ランの肩口がびしょ濡れになっていた。そのことに気が付かないほど、呪いの痛みは彼女を蝕む。

「本当に大丈夫? おせっかいかもしれないけど病院に行ったほうが」

「だい、じょうぶ、です」

 何とか神社の鳥居前までたどり着いた。鳥居の朱が所々剥げ、石畳もいくらか割れている寂れた神社を前に少年はごくりと生唾を飲む。

 本当にここが彼女の目的地なのか問うつもりで口を開きかけ、すぐに閉じた。清良の瞳はまっすぐと鳥居の先に向いていて、とても自分の入り込む余地なんかないように思えた。

 顔色はまだ蒼白で、肩で息をしているような有様なのに。一種の決意を滲ませたその横顔はとても綺麗だ。見惚れてしまうほどに。

 ふっ、と息を整える。腹の底に力を入れて、足を踏ん張り、呆けた少年の様子に気付かぬまま精いっぱい普通の顔を作った。

「ここまで、入れてもらって……ありがとうございました」

「ここまでって……まだ雨は降ってるし、中まで付きあうよ」

 はっと現実に戻ってきた少年は慌てる。雨音で声が聞きにくい。バケツをひっくり返したような勢いで、水溜りに一筋の線が潜り込んでは水面を乱す。

「気持ちはありがたいですけど、でも、駄目なんです」

「なんで」

「……この先には、私の一番大事な子が待っています」

 なぜ彼にこんな話をしているのだろう、と冷静な部分で考えた。簡単なことだ。笑顔を保ったまま言葉を続ける。自分を見てくれた人に、嘘を吐きたくない。

「私……好きって言ってもらえて、本当に嬉しかった。私にはあの子だけだって……あの子以外との関わりは持つべきじゃないって、思い込んでいたんです」

「藤埜さん……」

「でも、あなたのことも好きになっちゃいました」

 え、と驚いた顔は一瞬で赤く染まる。それって、どういう、本当に、なんて口走りながら目を回したように混乱する少年。そんな普通の、ごくごく普通の反応を清良は羨ましく、好ましいと思う。

「だから、ここから先は私の隠し事です。……このまま付いてきてもらったら、私は噓を吐かないといけなくなります」

 境内までは長い階段がある。藍はそこで、尻尾を揺らして待っているだろうか。耳をペタリと伏せて寂しがっているかもしれない。

「身勝手でごめんなさい。でも、あなたには嘘を吐きたくないんです」

 ぱしゃり。踏み出した一歩は水に浸る。体に当たる雨粒が体温をどんどん奪い、水を吸った布が体に纏わりつく。そんな中、彼女の顔色は先ほどよりも良くなっていく。鳥居を超えて、神社の敷地内に入ったからだ。藍の呪いは、神社に入れば会いに来る途中とみなして効力が弱まる。

 鳥居を潜って中に入ると、藍は清良の気配に気づきやすくなるらしい。神様の通り道を使うなんて不敬だなぁ、と思うけれど。神様どうか御許し下さい、あなたの使いである藍がさせているんです、なんて心の中で責任転嫁をする。

 傘が守ってくれる陣地の外に躍り出た清良の顔は、空模様に反して晴れ晴れとしていた。

「藤埜さんは」

 濡れ鼠になってしまった清良を見ながら、少年は苦笑する。

「やっぱり優しい人だね」

「こんな勝手なことを言っているんですよ?」

「優しいよ。嘘を吐きたくないってちゃんと言ってくれた。隠していることを隠さないでいてくれる」

 眩しいものを見るようにぎゅっと細めた目で、彼は笑う。

「その子のことが羨ましいよ。でもさ、俺だって藤埜さん以外にも家族は大事だ。大事な人って、沢山いるもんだと思う」

 雨音が酷い。けれど、耳に届く言葉を隔てることはできない。

「俺、やっぱり藤埜さんが好きだよ」

「私もあなたのこと、好きです」

 灰色の空、寂れた神社の入り口、傘を差しても若干濡れた少年と、雨の中に立つずぶ濡れの少女。

「八木君、また明日」

「また明日。……風邪、引かないようにね」

 少し異様なシチュエーションで、藤埜清良はクラスメイトの八木桂馬と笑い合い、境内に向かって走り出した。


 藍の耳はただの耳ではない。神の使いとして、神社の様子を事細かに知ることができる特別な耳だ。神社の敷地内で起きたことなら藍には全て聞こえている。

 だから聞いてしまったのだ。

 自分の大事な、大好きな、自分だけの清良が、自分じゃない誰かに好きと伝える声を。

「藍、遅くなりました」

 清良が誰かに好きだと言った。清良が自分以外の誰かに、好きだと言った。清良は、清良が、清良を、誰かが、誰かを、誰かに、どうして、なんで。

「……藍?」

 びしょ濡れの髪や服を絞りながら清良が藍の顔を覗き込む。

 ぐるぐる、ぐるぐる。世界がぐにゃりと歪んでいくような気分だ。黄金色の目には、何も映らない。大好きな清良が、どんな顔で自分を見ているかさえわからない。ただただ怖くて、体を抱えて蹲った。

 寒い。苦しい。でも何かが違う。空気がどんどん逃げていく。冷たい風が体を抜ける。わからない。どうしてこんなに、胸が、痛いのか。

「痛い」

「どうしましたか、大丈夫ですか?」

「ここが痛い。痛い。なんか寒くてひゅってなる」

 藍は子供だ。独占欲が強く、他者と分け合うことを知らない。

 そして清良も知らなかった。藍が、八木少年に向けた自分の言葉を耳にしていたことを。

「……清良は、藍のだもん」

「え?」

「清良には、藍だけいればいいでしょ」

 このすれ違いは致命的だった。

 二人の世界に、二人の意図せぬ形で亀裂が走った。


 この日の夜、ある一般家庭の次男が不審死したとの通報が警察に届く。

 死亡したのはまだ若い少年。自室の床に倒れた彼の死因は不明。目立った外傷も、毒物を摂取した形跡もない。しかしながら事件性なしと判断されたため、大々的に報道されることはなかった。

 噂に上るような特徴もなく、ただ壮絶に苦悶の表情を浮かべていることだけが一時期話題になった突然死。

死亡した少年の名は、八木桂馬という。


 いつも通りの制服姿で、清良は神社を訪れた。しかし、纏っている匂いが普段とは異なった。

「清良は藍のだもん。だからほかのやるになんかあげたくないって思うのはとーぜんでしょ?」

「藍」

「だからね、死んじゃえって思ったら死んだの。藍すごいでしょ!」

 楽しげな声だ。雨でもないのに清良が訪ねてきたことに機嫌をよくした藍は、彼女に問われたことに素直に答えた。

 藍が、八木君を殺したのですか。そのシンプルな問いの答えが、先ほどの言葉だった。

まるで新しくできるようになったことを自慢するかのような声音で藍はそう言った。

 いや、事実藍にとってはそうなのだ。人を呪い殺せるようになった、上手にできたから褒めて、と。

 藍が人ではない生き物だということを忘れてはいけなかった。肝に銘じておかなければならなかった。

「清良も清良だぞ、藍がいるのにほかのやつに好きなんて言っちゃダメなんだから」

 何の罪悪感もなく笑う幼子。そう、人間の子供でさえ、善悪を学ぶまでは無垢ゆえに残酷だと称されるのだから。そもそも人の価値観に縛られていない藍は、それ以上に恐ろしい存在だと、清良は知っていたはずなのに。

「藍は……藍ですよね。いつでも、いつまでも」

「そうだぞ?」

「ええ、わかっていたはずなんです。私を一方的に呪ったのはあなたでした。それを、忘れては……水に流して、なあなあのままにしてしまった」

 きょとんと首をかしげる藍の頭を左手で撫でながら、右手でポケットを探る。くしくしと気持ちのいいところを撫でてもらいたがっている藍の目に清良の右手は映らない。

「藍……大好きでした。愛していました。慈しんでいました。誰よりも、あなたが大事でした」

 バチン、と。嫌な音が響いた。藍の目が見開かれる。

「でも、私は叱るべきでした。怒るべきでした。嘆くべきでした。それを怠ったから」

 秋の黄昏を混ぜ込んだようですね、そう言って清良が撫でた藍の耳に小さな穴が開いた。じわりと滲むような、緩やかな出血と遅れてやってきた痛みに藍が引くつくような声にすらならない悲鳴を上げる。

 助けを求めて清良を呼ぼうとした藍は、その顔を見て固まった。

「私は、あなたを憎むことになってしまったんですね」

 清良は、ぼろぼろのぐちゃぐちゃに顔を歪めて涙を零していた。いつも余裕をもって微笑んでいた彼女が、感情を抑えきれずに。射貫くような強い視線にかち合う。右手には小さな鉄の輪が三つ、握られていた。枷のように無骨なピアスだ。

「強い思いは呪いになる、あなたもよく知っていることですよね」

 ふわりと枷が清良の手を離れた。そのまま、何が起こっているのか理解できていないままの藍に近づいていく。

「ねえ、藍。あなたのことが何よりも大事なのは本当なんです」

「せい、ら?」

「でも、今は憎くもあるんです。恨んで、しまったんですよ」

 清良の手から飛び立ったピアスが藍の耳に空いた穴を通じて固定された。めったなことでは傷つかぬ神の使いの肉体が修復されない。血が、流れ続けている。

「あなたは知らなくてはいけないんです。人間とともにありたいのなら……一人ぼっちになりたくないのなら」

「いたい、痛い、いたい、痛いいたい!」

「藍。あなたが孤独を望まないのなら、人の心を知ってください」

 痛みのあまり、その場に蹲った。聞いているだけで心が締め付けられるような叫びから目を逸らし、そんな藍を見下ろす。

 清良の覚悟は決まっていた。自分のせいで少年は死んだのだ。

 けれど、藍のことを恨む気持ちが生まれたというのに、清良の一番は変わらなかった。憎いのに、愛している。少年の死を知ってからしばらく、そんな気持ちの矛盾に苦しんだ。

 悩んで、悩んで、ようやく出した結論がこれだった。

「さようなら、藍」

 痛む心を押さえつけて清良は藍に背を向ける。藍は、痛い痛いと呻くばかりで周りの様子が見えていない。どこまでも子供なのだ。自分勝手な、幼い子。

 風が吹いた。清良の纏う香りが削られるように薄らいでいく。

 彼女に心残りはない。ただ一つ、かなわぬことではあるのだが。自分には誰もお線香をあげに来てくれないかもしれないと彼の墓前で考えたのを、笑い飛ばしてもらいたかった。


 これが、彼女の受けた呪いについての昔話だ。

この清良という娘は、藍を呪った数日後の雨の日に亡くなったらしい。藍の呪いは、結局彼女を死に至らしめたのだ。

吾輩は生憎、この古池からほとんど移動しないため伝聞ではあるが、おそらく真実であろう。

 娘が藍にかけた呪いは、藍が人の心を学ぶまで解呪されない代物だ。雨の日の度に痛みを与えるとは、因果応報である。

 しかし吾輩は一度藍に聞いてみたことがある。

「神の使いであるお主を、ただの人間の娘がかけた呪いで縛れるものなのかい?」

 答えは否であった。

 それならばなぜ、解呪しないのだと尋ねた吾輩に彼女はこう答えた。

「痛いのは嫌いだけど、この痛いのは清良がくれたものだもん。痛いのが終わらない限り、藍は一人ぼっちじゃないんだよ。痛いのを藍にくれた清良がいるんだから」

 何一つ疑問を挟まぬ眼でそう述べた彼女に、吾輩は正直背筋が凍るかと思った。蛙に背筋があるのかとも思うが、まあそのくらいに恐ろしさを感じたものだ。

 嗚呼、彼女を憎み、彼女を愛した少女の望みは藍には届かなかったのだ。彼女は人の心を学ぶつもりなどない。これを嘆かずにいられようか。

 雨が降れば、彼女は一人軒下で丸くなる。痛みを抱きしめるようにして一人、ただ失われた当時の幻想とともに殻に閉じこもる。

 今日も雨が降っている。

 憎しみと愛を含んだ少女の最期の願いを、今日も無為に雨音が消す。

関係ないけど蛙ってかわいいですよね。

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