五 ラグナロク (上)
開け放たれた神々の館の五四〇ある扉から一斉に飛び出す神々と戦士たち。
一つの扉につき八〇〇人の戦士たちが鬨の声を上げながら躍り出る様は、こちらも一つの山が動いているかのようだ。
そして両軍勢はヴィーグリーズ平野に怒涛の如く押し寄せると一気に戦いの火蓋が切られた。
激突する神の軍の戦士たちと巨人族。戦いの女神も戦闘に加わるが、こちらには死者の軍勢が立ちはだかる。
ヴィーグリーズ平野のあちらこちらで戦線が展開される中、軍神にして片腕の神チュールもまた、左手に剣を掲げ敵軍に突撃を仕掛けた。
片腕となった後も『剣の腕に些かの衰えなし』と謳われたチュールは、立ちはだかる巨人を斬り伏せながら敵を運ぶ死者の爪の船を目指す。
目前に死者の爪の船が迫ったその時、船の甲板から黒い巨体がチュールの前に降り立った。
手綱を引き馬を止めたチュールはその正体を睨み据える。
「ニブルヘイムの番犬ガルムか、主の名代でやって来たのだろうが、そこを通してもらおうか」
一方、剣の切っ先を突き付けるチュールを見下ろし、せせら笑うガルム。
「ぐっはっは、片腕の貴様に俺が倒せるか? 残ったその左腕も喰い千切り、絶望を味わわせ喉笛を引き裂いてくれるわ!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最強の神、雷神トールもまた激戦を繰り広げていた。
群がる巨人の頭蓋をミョルニルと呼ばれる強力な槌で次々と打ち砕き、巨人たちはトールの余りの強さに退散する。
だが次の瞬間トールの足元が暗い影に覆われる。いや、トールの足元だけではなく辺り一帯を覆い尽くす程の巨大な影。
「来おったか。まあ、貴様は俺と戦う運命にあるからな。ヨルムンガンドよ」
頭上を覆う影の正体は人間世界の大蛇ヨルムンガンド。
ギョロリとした目を眼下の雷神に向ける。
「これで貴様との対決は三度目だなトール。ここで貴様を葬り長きに渡る因縁に終止符を打ってくれる」
巨大な口から毒液を滴らせるヨルムンガンドを前に、トールもミョルニルを構える。
「望むところよ。貴様も巨人族の血を引く身だ。俺を敵に回すことの恐ろしさも、その異名も知らぬわけではあるまい?」
トールの豪腕から投擲されるミョルニル。投げれば敵を必ず殺し手元に返ってくる魔法の槌が直撃し、絶叫を上げるヨルムンガンド。
「忘れているのなら思い出すまでその身に叩き込んでやろう。俺が『巨人殺し』と呼ばれる所以を」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
神々の陣の後方で戦況を見守っていたオーディンは眷属である二羽の鴉、フギンとムニンからチュールとトールがそれぞれ因縁の相手と相対したことを聞いた。
やはり予言が外れることはない。だとすれば間もなくオーディンの元にもやつがやって来るだろう。
オーディンの見据える先、砂塵が巻き上がる戦場の更に奥の奥。そこからオーディンに向かって一直線に突き進んでくる何者かが現れる。
間にいる巨人も神の軍の戦士もろとも飲み込み、上顎は天を引き裂き下顎は大地を抉りながら猛進してくるのは灰色の巨狼フェンリルだった。
勢いそのままオーディンをも飲み込もうとするフェンリルに対して、オーディンは秘槍グングニルを投げつける。この槍もまたトールの持つミョルニル同様に一度手元を離れれば必ず敵を殺すという代物である。
グングニルがフェンリルの喉奥に突き刺さる軌道で飛来したが、フェンリルが寸前で口を閉じると牙に当たったグングニルはオーディンの手元に跳ね返されてしまった。
「オーディン! 待ち侘びたぞこの時を! 貴様を殺しバラバラに引き裂く瞬間を!」
憎悪に染まった眼光と憤怒の叫びを浴びせかけながらも、その隻眼の表情には一切の恐れはない。
「フェンリルよ。魔法の足枷に縛められたままでいた方が良かったと思えるほどの後悔と絶望を与えてやろう。運命を変えられるかどうか抗うがいい!」
「ほざくな老いぼれがっ!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
虹の橋ビフレストを赤黒い騎馬軍団が突き進む。灼熱の大地から出撃してきたムスペルの子らと呼ばれる巨人たちは、王であるスルトを先頭に怒涛の勢いで虹の橋を渡る。
灼熱の大地の軍勢が渡りきった後には虹の橋は燃え尽きて崩落してしまう運命を辿るのだが、橋の袂で眉目秀麗な神がそんなムスペルの子らを待ち受けていた。
我先にと突撃するムスペルの子らだったが、その美麗な神は鹿の角を武器にして尽く打払い薙ぎ払う。
勇猛な炎の軍団もその神の強さに思わずたじろぐ。
「こんなお粗末な武器だからってナメちゃいけないよ? 僕はこれを使ってかの有名な巨人ベリを討ち取ったんだから」
神の正体は豊穣と太陽の神にして貴公子フレイ。
絶世の美女と称される妻を娶るために、使えば必ず勝利をもたらす『勝利の剣』を手放したが、それでもその実力は流石のものだった。
フレイの強さの前に尻込みするムスペルの子らだったが、光り輝く大剣を手に、フレイと対峙したのは灼熱の大地の王スルト。
フレイはスルトの持つ美しく煌めく剣に視線を落とし、その端正な顔を綻ばせる。
「鹿の角も使い勝手は悪くないけど、いまいち品がなくていけない。そろそろいい武器が欲しかったところだ。悪いけどその剣、いただくよ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
戦場を闊歩する者が一人。
その正体は巨人族軍の総大将ともいえる人物ロキ。
長い拷問の日々から解き放たれたロキは、その地獄の時間で募らせた神々への憎悪を全身から迸らせながら神々の館を目指し突き進んでいた。
そんなロキの目の前に立ちはだかる者が一人現れる。
雪のように透き通った白い肌をしておりアース神族で最も美しいと言われ、『白いアース』とも呼ばれる神ヘイムダルだ。
ロキとヘイムダル、二人の神は静かに向かい合う。
他の神々が因縁の相手を前にして熱い口論を展開するのに対し、この二人にはそれがなかった。
「ヘイムダルか。よりによって俺の前に立ちはだかるのがお前とはな」
ヘイムダルは何も喋らない。ただ黙ってロキの言葉を聞いている。
「俺はアース神族もヴァン神族もどちらも嫌悪している。そんな神々の中で唯一殺したいと思わないのがヘイムダル、お前だ」
「……」
「俺が神々を罵倒した時を覚えているだろう? 奴らの犯した咎を暴いたが、唯一暴けなかったのがお前だった」
「ロキ、もう喋るな」
ヘイムダルがすらりと剣を抜く。
「皮肉だな、余りにも。罪を暴き切り捨てた神々があれだけいる中、唯一切れなかったお前を直接斬り捨てることになるとは」
ロキも剣を抜いた。
「いくぞ」
「お前の犯した唯一の過ちは今この瞬間、あの自分勝手な神々に味方したこの行いだ!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
神々も巨人族も、全ての者たちにとっての運命の戦いがヴィーグリーズ平野を舞台に巻き起こった。