一 光の神バルドルの死
「父上、私は死ぬ悪夢を見ました」
光の神バルドルは唐突に切り出した。それを聞いたバルドルの父にして、神々の主神たるオーディンとその妻フリッグの驚愕は尋常ならざるものであった。
バルドルは美しく光り輝く美貌の持ち主で雄弁で優しく、神々の中で最も賢明な神である。故にバルドルが微笑むだけで世界は光に満ち、バルドルが道をゆくだけで野の草花は咲き誇った。
「しかも一度ではありません。最近では毎日のように死ぬ夢を見るのです。私は死ぬ事が恐ろしい。何故なら私が死んだ後の世界は光が廃れ悪が蔓延り、終焉へと向かってしまうからです」
神々の運命は巫女の予言により定められており、世界は終末の戦い『ラグナロク』に向かっているとされる。
その『ラグナロク』の起因となるものにバルドルの死が予言されているのだが、バルドルの見た悪夢は正に予言が現実に起こる前触れのように思えるものだった。
オーディンは隻眼の顔を顰めて思案する。
世界の終末がいずれ訪れることを知っている神々は、その未来を受け入れると同時に様々な危険因子を取り除くことも怠らなかった。
ならば一体何者がバルドルを死に追いやるというのか。
世界中の情報を知る手段を持つオーディンといえども、現状それはわからなかった。
オーディンは隣の玉座で不安な表情を浮かべる妻、フリッグにその隻眼を向ける。
「フリッグよ。儂は今からバルドルの殺害者と運命を知る為にニヴルヘイムへ行く。そなたはバルドルを守るため世界中のあらゆるものから『バルドルを傷つけない』という誓約を取り付けるのだ」
「わかったわ。私達の大切なバルドルは何ものにも傷つけさせない。安心なさい、バルドル」
「父上、母上……」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
バルドルの見た不吉な夢は神々を大いに不安にさせたが、フリッグは世界中のあらゆる生物、無生物から『バルドルを決して傷つけない』という約束を取り付けることに成功した。
喜んだ神々はバルドルにあらゆるものを投げつける遊戯を行い、バルドルの不死性を確かめた。
生物も無生物もバルドルを傷つける意思が無いため、どんなにぶつけてもバルドルの身体には傷一つつかない。
バルドルが不死身になった!
これで世界は光を失うことはない!
神々は狂喜したが、それを面白く思わない神が一人いた。
神々と敵対する巨人族の血を引きながら、オーディンと義兄弟の契を結び、神々の列席に加わるロキである。
悪知恵の働くロキは、光り輝く美貌を持ち万人に愛され、その上不死身の肉体を手に入れたバルドルに嫉妬に近い感情を抱いた。
するとロキは老婆に姿を変え、誓約を取り付けたフリッグのもとを訪れた。
「バルドル神が不死身になられ喜ばしい限りじゃて。じゃがフリッグ様、まことにいかなるものも傷つけない誓約を交わされたので?」
バルドルの不死身を目の当たりにして気を良くしていたフリッグは、ここで迂闊にも口を滑らせた。
「ええ、交したわ。だけどただ一つだけ、ヤドリギの若木だけは幼すぎて約束することができなかったの。だけどあんなに小さくて柔らかいものだもの。心配するに及ばないわ」
「それはそれは、至極最もで」
老婆に化けたロキはくちゃりと歯のない口を愉悦に歪めた。
ある日、相変わらずバルドルの不死を喜ぶ遊戯が行われていたが、その歓喜の輪に加わらず、一人離れた草の上にぽつんと座る神がいた。
「やあ、ヘズ。君はバルドルに物を投げつけて遊ばないのかい? 皆あんなに楽しそうにしているのに」
声を掛けたのはロキであり、ヘズと呼ばれた神は声がするロキの顔の方へと、その両目の塞がった顔を向けた。
「その声はロキさんかい? 知っての通りおいらは盲目さ。投げたくても、オイラには兄様がどこにいるのかもわからないよ」
このヘズという盲目の神はバルドルの弟であった。
これを聞いたロキは哀れむ声を上げたがその実、表情は残酷そのもの。
「そうだったな、気の毒なヘズよ。だが、あの遊びは単にバルドルの不死を喜ぶだけのものではない。ああやってバルドルの不死を確かめることは彼に対する敬意の表れでもある。ヘズは兄さんを尊敬していないのかい?」
「そんなことはない。兄様の光輝く姿は、光を感じることができないオイラでさえ眩しいと思えるんだから」
「ならばヘズよ、これをバルドルに投げつけるといい。大丈夫、方向は私が教えるよ」
これを聞いたヘズはにこりと笑い、ロキに感謝を述べた。
「ありがとうロキさん。じゃあ、是非お願いするよ」
「ああ、任せなヘズ。じゃあ、これを握って。……よし、そうだ。いや、もう少し右かな? うん、いいぞ! 投げるんだ」
ロキに言われた通りに、ヘズは力いっぱい手渡されたモノを投げつけた。
ヘズの耳に飛び込む大きな歓声。
これでオイラも輪の中に入れた。兄様おめでとう! オイラは兄様を尊敬し、深く愛しているよ。
「ば、バルドル様あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「な、なぜだ! なぜバルドル様に刺さるのだ!?」
「誰だ! 誰がこれを投じたっ!?」
響き渡っていたのは悲鳴と絶叫。
神々の目がヘズへと向けられた時には、その隣に残酷なトリックスターの姿はなかった。
世界から光が失われていく瞬間だった。