中編
指の感覚が麻痺するほど冷える日は、あったかそうな動物を愛でるに限ります。
半鐘の音で夢を破られたのが午前三時のこと。
ワイシャツをコート代わりに羽織って、横町を走り抜け、畦道を駆けつけて見たものは、本堂に覆いかぶさる緋色の巨人であった。
完全に火の手が回っていた。
野次馬らは暗がりで私を見てぎょっとしたが、すぐに火災の原因は不心得者が投げ捨てた煙草ではないかと推測を聞かせてくれた。
燃える巨人は、まるで駄々っ子であった。
おんぶをせがむ童子のごとく本堂を揺する。
(あの奥にはご本尊が!)
建立当時からある聖観音は町の信仰の拠り所である。
戦場体験は私に無鉄砲の悪癖を植え付けていた。本尊を救い出そうと炎の中へ飛び込んで行こうとするのを、みんながあわてて止めた。
「頭を冷やしたまえ! 若い者が命を棒に振るなど言語道断!」
中学校で教導を務める初老の男の説教を聞き流す。
町の住民の中でも取り分けおせっかいな上に、従軍時代の上官と同じ名なので、どうしても好きになれなかった。
ともかく今は全力で鎮火に務めなければならない。
小型の消防車が放水を始めたので、私も井戸から水を汲もうと走り出した時、何かが夜空へ躍り出た。
火の粉に絡まれるように、ふわふわ舞う布巾のような物体。
そんなものに構っているときではないのを承知で追いかけていた。
途中何度も見失いそうになりながらも後を追ったのは、私にはそれが寺の御本尊が現世に残そうとした遺志のように思えたからだ。
どこまでも走り続け、雑木林にまで分け入り、やっとたどり着いた。
土地神を祀った祠の屋根で、うつ伏せに広がる生き物がいる。
夜空を流れる布巾の正体はモモンガであった。
おそらく本堂の屋根裏にでも住み着いていたのが火事に巻き込まれ、死に物狂いで炎を突っ切り、滑空しながら不時着した先がこの祠と見える。
しかし、どうしたものだろう。野生動物が人間が接近してもピクリとも動かない。それだけ弱っているのだ。
獣医みたいな気の利いた者など近所には存在しないので、見捨てるという選択肢だけは排除している以上、自分の素人療法がすべてということになる。
とりあえず家に連れ帰り、やれるだけの手当てはしてみよう。
モモンガを両手に包んだとき、毛皮の柔らかさに驚いた。
まさに天使の羽のごとしだ。これは救わなければなるまい。
ヨモギゴケ……あった。
火傷によく効く薬草は植物園で栽培されていた。無断で持ち帰るのはご法度だが、相手がモモンガなので少量ですむ。
「待ってろよ。いい薬をつけてやるから」
食卓に敷いたタオルの上で寝る患者に声をかける。
すりおろした薬草を毛皮の焦げた部分に塗布してやった。
「ありがとう。たいへん気持ちがいい」
はっきりと穏やかな男性の声が聞こえた。
私は肝を潰した。部屋の中をぐるっと見渡す。戸棚の上にも、流しの上にも、椅子の上にも猫の子一匹いない。窓を開けても悪戯者の気配はない。
この家に住むのは私だけなのから、無自覚に独り芝居を始める習慣がなければ、先程の台詞の主は必然、眼前の齧歯類ということになる。
「君がしゃべったのか?」
「私ですとも。痛みがひいていきますよ」
モモンガである。モモンガが礼を言ったのだ。
「人の言葉が話せるのか」
「少々たしなみます。他にも狐狸や蝙蝠の言葉も」
少々どころかあらゆる故事に通じていることは後に思い知らされる。
モモンガが、獣が言葉を話す。異常な事態にもかかわらず比較的冷静に質問ができたのは、うつ伏せで私を見上げる小さな生き物の声が徳に満ちていたからだ。
少年の無垢さと壮年の落ち着きを併せ持つ誠実な声。
「君は一体なんだ? 狐や貉みたいなものか?」
黒いビーズのような目玉を転がしてモモンガは答える。
「成り立ちはそのようなものですな。お寺に間借りして読経を聴くうちに菩提心を得て、仙鼠へ昇格しました」
こちらの推察どおり彼は本堂の屋根裏に潜んでいた。
ただし日常的な住処ではなく、遠方の知友を訪ねる際の宿代わりに使用していたのが長旅の疲れで深く眠りに落ちてしまい、火事に気付くのが遅れたのだと語った。
「仙術を以てしても火勢を抑えることは叶わず逃げ出すのが精いっぱいでしたよ。あなたに発見していただけなければ命も危うかった。恩人の名を聞かせてください」
決まり悪さを感じながら私が名乗るとモモンガも自らの名を告げた。
「私はポラトゥーチ、鼠の世界の学者です」
後編、結編と続くかもしれません。