後悔
一階に降りると、咲良は見たことない人と楽しそうにおしゃべりをしていた。
「あら、鈴鹿さん。どうしましたか? 悪いのですが、降りてこなかったのでご飯は片づけちゃいました~」
「い、いえ。あの、私、少し外を歩いてきますね」
話しかけづらかったため、咲良から来てくれて助かった。隣の見たことのない人は顔が整っていて美人さんだけど気が強そう。そんな人がキッと私を睨み付けてきたものだから、咲良さんの笑顔が天使級にかわいくても癒されはしない。さっきのことがあったから余計に。
なるべく物音を立てずに外へ出ると、空は西の方がオレンジに紫がかっていた。コンパスもないし方角が書いてある標識はどこにもないが、おそらく西だろう。そうだと思いたい。
少し歩いてみたが、どうやら妖界も人間界とあまり変わらないようで、スズメに似た小さな鳥が空を飛んでいたり、普通よりも大きいが虫が飛んでいたりする。そういうところではちょっと違和感があるが、すぐになじめないほど大きく違うところはなさそうだ。人間関係……妖怪関係? はまだ不安があるが、少し安心した。環境に慣れず、熱を出したりしたら56号に迷惑をかけるし、私も困る。少し……というか、とっても遠い親戚の家に泊まりに来ているのだと思えばいい。
しかし、56号が言っていたとおり道がたくさん絡んでいて、一度足を踏み入れたら一生出られなさそうだ。今が暗いせいで、見るだけでお化け屋敷に入る前のような恐怖を覚える。眺めていると薄暗くて怖いけど吸い込まれそう。怖いもの見たさなのだろうか? 入ろうとは思っていないのに、勝手につま先が方向を転換して足を踏み出す。一歩、その道に入ったとき。
「……そこには、行かない方がいいよ。お嬢さん」
背後からしわがれた低い声をかけられた。まさか人がいるとは思っておらず、大きく肩が跳ねる。この世界では通行人はあまり見ない。それは私がまだこの地域しか見てないせいかもしれないが。振り返ると、そこにはしわくちゃのおじいさんが立っていた。
「そこから先は、入った者は二度と出てこられなくなる。なぜかわかるかね?」
「いいえ、おじいさん。よかったら教えてもらえませんか?」
人生……と言うよりも妖生? が長そうなおじいさんの言葉に怖くなり、今度は自分のはっきりとした意志で足を引っ込めようとする。
「それはな……」
おじいさんの声音が変わった気がする。なんか、もっと低くなったような……。
「お前のような何も知らないやつが、わしみたいな人食いに食べられてしまうからよ!!」
おじいさんはジャンプし、その小さな体を空中に見上げるほど高く上がった。かと思うと急降下してきて、大きく開けた口からむき出された鋭い牙がはっきりと見えた。
「ほれほれ、逃げないと食われちまうぞー」
そんなこと言われても、このおじいさんは重力が関係ないと言いそうなほど速く落ちてくる。恐怖に竦んだこの脚で避けられるだろうか。
その時、脚に比べて手はまだ動けることに気づいた。震えてはいるが、力が入らないほどではない。私は力の限り遠くの地面に手をついて這った。後は一生懸命に地面を横に転がり、必死に連続の攻撃を避けた。初めのうちは助かってもそのうち体力は枯れ果てるし目が回る。自分がどこに向かっているのかわからなくなるし、きっとあと少しで家の外壁にぶつかる。そうなったら方向転換するのは難しくなる。景色がぐちゃぐちゃになって、自分が今どこにいるのかもわからなくなって……おじいさんの着地音を近くに感じたとき。私の体は壁にぶつかることなくそのまま転がり続けた。
いつかは止まると思っていた体が転がり続け、いつの間にかスピードが加速していく。訳が分からず転がり続け、おじいさんの着地音もどんどん離れていった。さっきよりも明らかにスピードが増している。さっきまで顔に小石が当たったりしないようにできていたのに、今は遠心力に振り回されて鼻が押しつぶされたり、ほっぺたに小石がぶつかって切れたりと忙しい。どうやら坂道を転がっているようだ。自力で止めるのは難しいだろう。このまま転がり続け、最後には家の壁とかにぶつかって衝撃でしばらく呼吸ができなくなるだろう。
この後に来るだろう衝撃に備えて固く目を閉じると背中に固く尖った物が浅く突き刺さる痛みが走り、体は回転したまま。しかし、地面の固さは一切感じなくなった。家の屋根しか見えない。空が大きい。そこでやっと私が宙に浮いていることがわかった。違う。浮いているのではない、飛んでいるのだ。どのくらいの高さを飛んでいるのかはわからない。でも、坂道で低くなっている固い地面に落ちるのは相当痛いだろう。ここで私の人生が終わったことを悟った。
短い人生だった。後悔はたくさんある。なんであの時5号を好きになってしまったんだろう。私はここに来る前になんですぐ逃げなかったんだろう。施設には何も話していない。遊びたがっていた子たちを置いてきた罪悪感が今更心を支配する。留守を頼まれた年長の子は大変じゃないだろうか? 部屋に置いてきた私の宝物はベッドの中に隠してある。小さい子に見つけられて壊されたりしていないといいな。私が死んだあとは、たとえ四肢がばらばらになってもいいから人間界に送り返してほしい。遺言として残せないのはつらいけど。この世界に一人でも、優しい心を持った妖怪が居たらいいな。
「んあ? お前、そんなとこで何してんだ?」
「……?」
目が回ってしまい、嘔吐しそうなほど気持ち悪くて返事ができないが、この声はきっと56号だろう。恥ずかしいところを見られてしまった。いや、死ぬ直前だから情けないところだろうか?
「君は、人間なのに宙に浮く能力を持っていたのかい? まさか、私たちを騙したとか? もしや、たぬきか!?」
「違うの! 今命を狙われてて、転がったら勢いつきすぎちゃって……!」なんて言えず。もし言えてたらきっと私は今この世にはいない。
「おや、あそこにいるのは……」
5号と思われる影は私の下を通り過ぎ、おじいさんの居る方へ向かって歩いていく。
「いや、これは……?」
私の体はとうとう勢いをなくし、地面へと落下し始める。ああ、終わりだ。
「やっぱりこれは、落ちてきてるんじゃないか!?」
56号の声がだんだんと大きくなって聞こえた。どさりと何か重い物が落ちるような音がして、次にどたばたと荒い足音が聞こえる。
「おいしず……5号! お前、戻ってこい! こいつ受け止めんの手伝え!」
「……は? 何を言っているのだ、56号」
「それはこっちのセリフだって! ああもう! いいから、戻ってこい。頼むから、来てくれ」
「そうか。幼馴染のお前の頼みなら仕方ない」
「ああ、助かる。歌鈴ー安心して落ちてこいよ」
いや、安心して落ちるってどういうこと。でもきっと受け止めてくれるのだろう。ありがたい。
「おっと……」
56号の声が顔の近くで聞こえた。目が回って気分も悪く視界もはっきりしないが、背中に二つの感触があるから受け止めてくれたのだろう。温かな感触に安心感を覚える。
「……痛い」
私の体調が戻ってきたところで、5号がつぶやいた。
「あったりまえだろ! 来いって言われてそのまま何もせずに突っ立ってるやつがあるか! 人間が落ちてくるのに受け止める姿勢がないってどういうことだよ。それともお前が下敷きになるつもりだったのか?」
「なるつもりなんてない」
「じゃあ何をするつもりだったんだよ! 何もするつもりがなかったのなら、お前を突き飛ばして歌鈴を受け止めても文句ないだろ?」
お前の真上に落ちてきたんだから、と56号は付け足す。
「文句はあるが、お前が想像したように全く動かないつもりはなかったぞ」
5号は私から少し離れたところにしりもちをついていた。私は56号の日本の腕を下敷きにして横になっていた。56号はスライディングをしたのかもしれない。顎を軽くすりむいていた。