第82回 創作物における美少年・美少女、美男・美女の多用の効用と弊害 (前編)
皆さん、お久しぶりです。Kobitoです。
実に4か月近くぶりの、文芸コラムの更新となりました。
ネタ切れというわけではなくて、書きたいテーマはいくつかあったんですが、書く意欲が高まるのを待っているうちに、こんなに期間が開いてしまいました。
どんなに執筆が滞っても、誰かにせっつかれたり、金銭的被害を与えてしまうわけではないのが、趣味の文芸の良いところですが、「実はずっと更新を待ってました」という方も、ひょっとするといるかもしれないので、その人のためにも、また新たな回を重ねる事ができて良かったです。
今回は、昔から論じられる事の比較的多いテーマである、『創作物における美少年・美少女、美男・美女の多用の効用と弊害』について、あらためて語ってみたいと思います。
皆さんも、創作物で目にする機会の多いこの演出手法について、一度は考えた事があるでしょう。
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古今東西、物語の、特に映画や漫画やアニメなどビジュアル系の媒体のメインキャストといえば、「容姿端麗な人」が務めて、作品自体の人気や評価を得る、という手法が定番なわけですが、小説でもご多分に漏れず、「容姿端麗」という設定は手軽に作品に魅力を付加できる手法として愛用されていますよね。
中でも、漫画的な挿絵との相乗効果で読者を引き付ける、いわゆるライトノベル系の作品では、「容姿端麗」要素が含まれていない作品がほとんどないのではないかと思えるほどに多用されています。
これはやはり、美男美女を登場させる事によって読者の注意を引く効果というのが、他の「知性」「腕力」「財力」「権力」といった人気のステータスと比べても、ひときわ大きいからなのでしょう。
小説というのは、つまるところ、娯楽のための媒体ですから、より面白くなる設定であれば、大いに活用して良いし、使用例が多いからとあえて苦言を呈する事もないんですが、一方で、この「容姿端麗」は、物語の欠点を隠せる便利な魔法でもあるので、作品の質をより深めて行きたいと思っている作者さんには、その点を用心しながら創作に当たる事をお勧めしたいな、とも思うのです。
この、「容姿端麗」の魔法に対する批判的意見は、特別珍しいものではなくて、これまでにも多くの創作文化の評論家やファンが指摘しています。
最近見かけたものでは、秋本治さんの漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の主人公、両津勘吉が端的な説明で主張していたので、その内容を記してみますね。
有名な童話『シンデレラ』は、継母にいじめられて召使のような生活を送っていたシンデレラが、魔法使いの助力で出向くことができたダンスパーティーで王子に見初められて、その後二人は結ばれる、というお話ですが、このお話は、そもそもシンデレラが容姿端麗だったから、ダンスパーティーの花形になれたのであり、もし、平凡な容姿だったら、王子に見初められることもなかったのだから、容姿端麗でなければ報われないという事になり、真に子供に夢を与える話とは言えないのではないか。
というのが、両津の主張です。
これは、半分その通りで、大昔から好んで作られた、「容姿の良さで報われたり引き立てられたりする」お話を思い出してもらえれば、その多くは、残念ながら、「美貌がなければ成立しないお話」という批判がまともに当てはまってしまう、という事に気が付きます。
『ギリシャ神話の女神、ニンフ、女性たち』『眠れる森の美女』、『白雪姫』、『美女と野獣』『竹取物語』など。
日本の古典や昔話よりも西洋の古典や童話に特に多いようです。
男性でも、女性ほどではないですが、同じように「容姿の良さで報われたり引き立てられたりする」お話があります。
『ギリシャ神話の美少年たち』、『人魚姫』、『源氏物語』など。
これらは、美貌が物語の筋立てに密接に関係している作品です。
筋立てとは直接関係ないけれど、美貌な人物が登場するお話となると、それこそ星の数ほどあります。
小説よりも映画の方がより分かりやすいですが、大抵の作品が、美男美女をキャスティングする事で、作品の魅力を増強し、注目を集めようとしています。
ちょっと話が長くなってきたので、今回はこの辺で区切らせてもらいますね。
次回は、「美貌の登場人物を多用する事による弊害と、それでも美貌の登場人物が必要な理由」について、より深く論じてみたいと思います。
どうぞお楽しみに。




