第80回記念講演 『我が娘、猫子と、ほっこり童話集に贈る言葉』(語り手・古寺猫清さん)
うぉほん。
あー、吾輩は化け猫である。名前は古寺猫清と申す。
次女の猫子が、このKobito殿の文芸作品に度々登場して、読者の皆様にも多大なご愛顧を賜っておるとの事で、一言お礼を申し上げに、この度参上した次第である。
参上と申しても、吾輩もコロナ騒動で外出自粛の身ゆえ(ねこの世界にも移動制限がかけられているのである)、インターネットなる文明の利器を用いて、リモート講演という形で、皆様に初めて語り掛ける機会を与えて頂いたというわけである。
しかし、この作品は文芸ゆえ、吾輩の顔を皆さんにお見せできないのが至極残念である。(また、皆さんのお顔を拝見できないのも、至極残念である。)
吾輩は、若かりし頃、肥前のグレゴリー・ペックとあだ名された、男前の猫なのである。
ぜひ、齢四百二十年のいぶし銀の容姿や、ついでに、当時の浮世絵のブロマイドなど、お見せしたかったのである。(吾輩の毛色は、猫の雄には珍しい、生粋の三毛なのである。)
ああ、吾輩なんて使い慣れない言葉を用いるのは、疲れた。
ここで、居住まいを崩させて頂くとしよう。
今回の講演は、Kobitoさんからメールで依頼されて、引き受けたのだが、猫子にはまだ知らせていない。
だから、わしがコラムに登場しているのを見て、さぞ大喜びする事であろう。
猫子、見とるか。わしだ。
顔が見えない分、「わしわし詐欺」の恐れもあるのだが、家族以外知りえない事を話せば、わしが父だと信じられるようになるだろうから、話す。
猫子は化け猫になって間もない頃、寺の小僧たちと正月に羽根つきをやっていて、池に落ちた事がある。
あんまり勝ち過ぎて、小僧たちの顔に○だの×だのへのへのもへじだの、墨で落書きし放題なものだから、良い気になっていたのだな。
それで、お前は泳げないから、猫の姿に戻って、アップアップと溺れてしまった。
小僧たちは、猫子の事を村の小作人の娘だと思い込んでいたから、急に猫の姿になったお前を見て、ビックリ仰天、気味悪がって遠巻きに眺めているばかりだった。
そこへ、わしが大きくて長い、ラーメンのどんぶりに描いてあるような竜の姿で飛んで来て、池に飛び込んでお前を助けたのだ。
小僧たちは、こけつまろびつ、散り散りになって逃げたなぁ。
ワッハッハッハッハ!
やれやれ。
そういえば、猫子よ、最近はちっともこのコラムに顔を出さなくなったが、どうしたのだ?
たまには親への連絡もメールで済まさずに、電話もするのだぞ。わしが出かけているときは、住職に伝言を頼みなさい。
大方、また何かに夢中になって忘れているのだろうが、お前が元気でいてくれればそれで良いという、親心の裏の、やっぱりたまには声を聞かせてほしいという気持ちだけは、忘れないでおくれ。
それから、Kobitoさん、いつも娘を気にかけて下さり、心より御礼申し上げる。
人より長く生きたからと、もはや一人前な顔をしておる娘だが、化け猫の世界ではまだまだ未熟者、今後もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。
ところで、また話はころっと変わるが、今Kobitoさんが催されている、『ほっこり童話集』なる企画、まことに有意義なものですな。
今の世の中、インターネットにつないでも、テレビジョンを付けたり新聞を開いたりしても、その度に暗い話題が多くて、気が滅入ってしまうようだ。
人が心安く生きるために、一番大切なものは、もはや金ではない。
許される場所と、夢を育める余裕なのだ。
かく言うわしら化け猫とて、人が夢を育まなくなったら、お役御免と相成るのだから、死活問題だ。
まあ、わしらの事はいいとしても、特に、未来の大人である子供たちには、夢があって、優しさや安心感のあるものを与えるのが、大人の務めではなかろうかと思う。
子供だけに限らず、疲れた大人にだって、童話は心身を癒し、明日へ向かう活力となり得る。
それは、作者である皆さんこそ、一番感じておられる事であろう。
そんな意味でも、わしはこの企画を応援しておるし、参加された皆さんで、子供たちや大人たちに、優しい気持ちを届けようとする心根を、これからも大切にしてもらいたいと、切に願っておる。
わしも猫子も、できることがあれば、喜んでこのように協力しよう。
とにもかくにも、この企画に共感し、関わっておられる書き手、読み手全ての方々に、心よりの尊敬と感謝の念を込めて申し上げる。
ありがとう。
では、今日はこの辺で。
どなたもご清聴ありがとう。