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第76回 文章は時を刻んでいる

小説を読んでいると、場面転換があって、日にちや時刻、場所などが異なるシーンに移行する、という展開が、ごく当たり前に用いられていますよね。


〝佐竹は取引先からのファックスを受け取るために、昼過ぎにいったん会社に戻った。その夜、帰宅した佐竹は、かばんに入れたはずのその見積もりのファックスが見当たらない事に気が付いた。〟


というように。


私たちは、普段特に違和感を感じることなく、この時間の経過や場所の移動という展開に付いて行けています。


しかし、この「時間の経過や場所の移動」は、いつもスムーズに成功するわけではなく、書き方によっては、読者に違和感を感じさせてしまう場合もあります。

今回は、この文芸において意外と頻繁ひんぱんに起きる重要な問題について、例文を交えながら分かりやすく解説してみたいと思います。


まずは、時間の流れに違和感がある下記の小説の例文を読んでみて下さい。(この論考のために書き下ろした自作の例文です。)



-------------------------------------


 ケンタは学校が終わると、10km離れた家まで、バスと渡船を乗り継いで帰ります。

 バスは市営でしたが、ケンタが住む椎竹しいたけ村方面へ向かうのは、一日二本の便しかありません。また、渡船は船外機が付いた木造船で、浜の近所に住んでいる、知り合いの漁師のおじさんが操縦してくれるのでした。

 椎竹村には、昔あった小学校が閉校になって以来、小学校が無いものですから、ケンタは毎日二時間もかけて、本島の学校に通わなければなりません。でも、ケンタ一人のために、村の小学校をもう一度開校するわけにもいかなかったので、村長さんが、「すまんなあ。」と何度もケンタに謝って、ケンタが渡船で学校に通えるように、漁師のおじさんに頼んで、毎日送り迎えをしてもらえるように手配してくれたのです。10kmがどのくらい遠いかまだ知らなかったケンタは、村長さんに謝られても、どうしてそんなに悪く思うのかがよく分からなかったですし、村長さんや漁師のおじさんが小学校に通えるようにしてくれた事が、何よりも嬉しかったので、大人たちからしきりに不憫ふびんがられても、かえって申し訳ないな、と思うだけなのでした。

「じゃあな。」

 友達のタロウといつもの角で別れたケンタは、バスに乗って、渡船に乗って、家に帰りました。

「ただいま!」

 玄関を開けて元気よく呼びかけると、奥の座敷からおばあちゃんが顔をのぞかせて、「ケンちゃんお帰り。お菓子があるよ。」と言いました。

「やったぁ!」

 ケンタは靴を脱ぐのももどかしそうに、急いで廊下に上がって座敷に行きました。

 お昼に給食を食べて以来、何にも食べていなかったですし、郊外のバス停でバスを降りてから、漁師のおじさんが待っている内海の浜まで、四十分も歩かなければならなかったので、お腹がペコペコだったのでした。



-------------------------------------



この例文を読んで、時間の流れのどの部分に、違和感があると感じましたか?

「いや、全く違和感が無かった。」と思う方は、あまり細かい事にこだわらない、大らかな性格か、小説内の時間の流れを感じ取りながら読んでいないかの、どちらかではないかと思います。


そして、違和感を感じた方の多くは、以下の個所で、時間が進むのが早い、と感じたのではないでしょうか?



〝バスに乗って、渡船に乗って、家に帰りました。〟



この文章の前に、私は散々、ケンタの家と本島の小学校がどんなに離れた場所にあって、通うのが大変かについて、文字数を費やして皆さんに力説しているのです。


ところが、いざその実際の下校のシーンになると、「バスに乗って、渡船に乗って、家に帰りました。」という、最小限の説明で済ませてしまっている。


端的たんてきに言うと、時間が進むのが早い、と感じるのは、この、前ふりと当該シーンの文章量の落差が原因です。


じっくりとそのシーンが見たくなる前ふりをしたのであれば、じっくりとそのシーンを描かなければいけません。

それを端折ると、文章の中に流れている時間がその箇所だけ縮んで、違和感となって読者に伝わってしまうのです。


逆に言うと、当該シーンへの前ふりが簡潔であれば、当該シーンへの移行はごく短い文章で済ませることが可能、とも言えます。


このコラムの冒頭で書いた、短い例文を、もう一度見てみて下さい。



〝佐竹は取引先からのファックスを受け取るために、昼過ぎにいったん会社に戻った。その夜、帰宅した佐竹は、鞄に入れたはずのその見積もりのファックスが見当たらない事に気が付いた。〟



昼から夜へ、外出先から自宅へ、という大きな時間経過と場所の移動が起きているにもかかわらず、違和感を感じずにそれを受け入れることができるのは、両者の文章の長さ、簡潔さがほぼ等しいおかげで、流れる時間もさほど伸びたり縮んだりせずに、スムーズに次のシーンへ移行できている事に由来します。


もちろん、これらの例文は、時間の流れや場所移動の違和感の有る無しを感じ取りやすいように、分かりやすい内容を例示しているので、実際の執筆では、もっとさまざまなケースで、時間と場所の「経過・移動」問題が起きる事でしょう。


しかし、今回のコラムを読むことで、「小説内にはゆるがせにできない時間が流れている。」という事を、意識して認識してもらえたなら、あなたが小説を執筆する際に、その経験を問題回避の役に立ててもらえるかもしれません。


何が違和感を生じさせるのか、その原因を知っているのと知らないのとでは、解決にいたるまでの道のりの困難さも、ずいぶん違って来るでしょうからね。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 時を刻む、興味深く拝読しました。たしかに違和感満載ですね(笑) 〝バスに乗って、渡船に乗って、家に帰りました。〟 この一行の上に載っかっている膨大な情報に、むしろ何かあるんじゃないかと、推…
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