第7回 閑話休題 古寺猫子さんの視点
はじめまして。古寺猫子です。
肥前の山奥の古寺で、齢三百四十年を数えるうちに、人語を話し、人の姿に化ける術を覚えた、いわゆる化け猫です。
でも、化け猫って呼ばれるのは、なんか嫌なので、「美猫の猫子さん」と呼んでください。(←※ここ重要)
容姿が気になる方は、Kobitoさんが描いてくれた、私の肖像画を見て下さい。
ご覧の通り、生粋の日本猫の証である、短毛の三毛です。なかなか可愛いでしょう。(実物は、もっと可愛いのですよ。)
まじめに考えを述べるばかりだと、読者さんが退屈するのではないかと、KobitoさんがLINEで心配していたので、今日は私が一肌脱いで、皆さんが面白いと思うような話をすることにしました。
講演の題名は、『猫から見た真実』です。本物の猫視点の話なので、「猫視点がちょうど必要だったんだ!」という方には、大変有益な内容になるでしょう。「猫視点は今のところ必要ないかな。」、という方も、途中退席は許されないので、聞き始めたからには、ちゃんと最後まで、正座して聞いて下さいね。(違反したら、猫パンチ二十発です。)
まず、初めに、人間が私たちを『猫』と呼ぶようになった、由来について教えてあげましょう。
人間たちの説明では、「よく寝るから『寝子』というのだ。」とか「鼠を取る熊だから『鼠熊』と言うのだ。」とか、勝手な事を言っていますが、事実はぜんぜん違います。
私が曽祖父から聞いた話によると、日本で一番最初に猫を見た陸奥の百姓が、「おめえはなんつう動物だ。」と猫に聞いたら、猫は「名前はねぇが(ないよ)。」と答えたそうです。ところが、それを百姓が「名前はねこ。」と聞き間違えて、みんなに言いふらしたものですから、みんながねこねこと呼んで可愛がりはじめたので、猫の方でもいちいち違うと説明するのも面倒ですし、名前がないのは信用の上でも心もとなかったので、ともかく猫と呼ばせておいて、焼き魚などのご馳走にあずかっておくことにした、という事なのです。
ですから、私たちの名前は「まだ無い。」と正直に打ち明けた夏目漱石という人は、とても物知りで、間違いを改める事を憚らない、実にえらい先生だったと私は思います。
え?Kobitoさん、なんですか?……ええ、まだほんのまくらを話した所ですよ。もういいんですか?
……皆さん、何だか、Kobitoさんがおろおろして、話を切り上げるように舞台そでから急かすので、今日はこの辺で、お開きにする事になりました。
せっかく、これから面白くなって来るところだったのにねぇ……。もしかすると、私の話したことは、Kobitoさんにとって、不都合な真実だったのかもしれません。
ねぇ。皆さんも、そう思うでしょう?
……何ですか、Kobitoさん。もういいからこっちへ来いって?分かりましたよ、皆さんにお別れのご挨拶をしていただけでしょうに。せっかちな人ですね。
じゃあ、Kobitoさんがキャンキャンうるさいので、今日は引き下がりますが、また必ず来ますから、それまで、どうぞ皆さんもお元気で。
あ、あと、猫という名前の由来についてですが、ぜひ皆さんの方でも、できるだけ多くの人に広めるように、協力して下さいね。
そうでなくちゃ、せっかく私が肥前の山奥から出て来た甲斐がないってもんです。
念のため、次回、何人に話したか、ちゃんと全員に確認を取りますからね。
そう、猫子先生に、ごまかしは利かないのです。
ふふ。それじゃあ、また逢う日まで、どなたもごきげんよう。




