第63回 無知の知 ソクラテスを真似するよりは、謙虚な方が私は好きです。
以前からお話している、『ある特殊な文芸の様式』を紹介するコラムは、まだ書き上がらないので、今回も別な話題を採り上げたいと思います。
待って下さっている方には申し訳ないですが、もうしばらく時間を下さい。
実は、猫子さんからも「書く書く詐欺じゃないですか。」とせっつかれてはいるんですが、急いで書くと出来栄えもそれなりになるので、より良いものを皆さんに読んでもらうためにも、無理をせずにじっくり取り組みたいと思います。
という事で、今回は、近頃考える事が多い、『無知の知』について話してみます。
『無知の知』とは、自分が無知であることを知る、という事です。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、知識人と名高い人々との対話の中で、彼らの知識が実際は不完全なものだったり、ごく狭い範囲の知識しかない事を知り、「知らない事を知っていると思っている」彼らに比べれば、「知らない事を知らないと自覚している」自分の方が知恵の面でいくらか優れている、と考えた、その状態を哲学用語で『無知の知』と呼ぶようになったそうです。
皆さんも、ある方面の知識が他者よりも豊富だと、その方面について熟知しているような気持ちになってしまう事って、あるのではないでしょうか?
でも実際は、詳しいと思っていた分野でも、知らない事はたくさんあるわけです。
また、知識が豊富な分野だけでなく、人は、初めて接する分野でも、分かったつもりになる事が往々にしてあります。
例えばこうです。
私は先日、四年ぶりに、フランスのバレエダンサー、シルヴィ・ギエムが踊る『ボレロ』の動画を観る機会を得ました。
四年前に観た時は、彼女の身体美に見とれていた部分が大きかったのですが、今観ると、良く練られたシンプルに繰り返されるダンスの「形」の美しさや、舞台全体のデザインの緊張感、男性ダンサーたちが加わる事による躍動感など、高度に洗練された舞台なのだと理解できました。
四年前の私だって、シルヴィ・ギエムのダンスが好きでしたし、演出の素晴らしさを感じながら観ていたので、彼女のボレロの魅力は把握できたつもりでいたのです。しかし、今観ると、指先の角度や手足の動きの自然さ、ダンサーたちのポーズや動きの一致度など、もっと細部の工夫や美点にいたるまで観察し、分析し、感心する事ができる事に気が付きます。
人は、自分が把握できる範囲でしか、物事を理解できないので、その結果、理解が不十分でも、十分分かったつもりになってしまいます。
つまり、あるものの良さが分かったからといって、そのすべてを理解できたわけではない、という事が、この例から分かるわけです。
だから、何かを鑑賞する時には、たとえ良し悪しが分かった気になっても、即断はせずに、時間をかけて理解を深める努力をした方が良い、と私は思います。
以前このコラムで、創作物に対する批評文化の在り方について、これと似たような事を語った事がありますね。
今感じている作品への評価は、あくまでも現時点のあなたの「好み」の範囲内での評価だから、今後変わる場合もある事を踏まえて意見しないといけません、という風に。(第28回のコラム参照)
「好み」も「理解」も、感覚的な面、論理的な面を両方含むから、似た文脈で語る事ができます。
ただ、「好み」は常に変化して行くので、感覚的な面が強く、「理解」は、例えば知識のように一度獲得すれば保持し続ける事ができる〝情報〟的な性質を多く含むので、より論理的な面が強いといえます。
ちなみに、『無知の知』の人ソクラテスは、知識人を自認している人々がいかに無知であるかを、彼らとの問答によって解き明かして行き、それによって世の中に『無知の知』を広めようという行為に取り組んだために、無知を露呈させられた知識人たちの反感を買い、裁判にかけられて死刑という、何とも重すぎる罰を受ける結果となりました。
ただ、ソクラテスは良かれと思ってした事でしょうが、知識人たちが怒る気持ちも、分からないではないのです。
誰だって、自分が無知だと暴かれるなんて、嫌なものです。
そして、ソクラテスが相手の無知をさらけ出させるために用いた手法も、良くありませんでした。
彼は、自分が無知であることを装って(知っている事まで知らないふりをして)、相手が無知を露呈するのを誘う、『アイロニー』という手法を用いました。
そんな事をすれば、相手は騙されて醜態をさらすことになるわけで、ソクラテスが彼らから憎まれる事になったのも、自明の理という事になってしまいます。
(もちろん、そんな事で死刑に処すなんて、とんでもない事ですけどね。)
自分が無知であることを自覚していれば、対象を評価する際により慎重に向き合うことができますし、後に評価が変わった際にも、素直に(多くは喜びを伴って)それを受け止める事ができるようになります。
ただしそれは、謙虚な姿勢があってこそ十全の効果が得られるようにも思います。
『無知の知』の効用を他者に伝える時も、他者に対して謙虚に向き合う事が大事です。
ソクラテスのように、他者への侮りがまずあって、不誠実な手段で相手の無知をあぶり出すような事をすれば、『無知の知』を素直に受け入れてもらう事が困難になるどころか、かえって強い反感を買うという悪い結果を招いてしまいます。
知恵というものは、鑑賞に活かしたり、他者と共有したりして、楽しむものであり、優劣を競うものではありません。
『無知の自覚』は、『無知の無自覚』よりも優位を意味するのではなく、より『謙虚』になった事を意味する言葉であるべきだと、私はソクラテスの災難について考えるうちに、思うようになりました。
だって、『無知の自覚』という有益なものを与えるという事は、相手にとって、本来は喜ばしい事であるべきなので、与える側の配慮如何でそれが可能になるなら、できる限り努力するのが、本当に相手のためを思っての行為だと思うからです。




