第59回 個性とは何か。
先日、画家の岡本太郎のドキュメンタリー番組を観たんですが、その中で、彼が子供の頃に、学校の嫌いな先生の言う事を聞きたくなくて、耳を両手でふさいでいた、という事を話していました。
「清らかな頭の中にいやしい音波が入って来ると汚されると思って」というのが理由だったそうです。
彼の言い分の突飛な印象から、芸術家特有の変わった考え方や行動のように思うかもしれませんが、こういう、「他人が自分に手を加えようとするのを嫌に思う」感覚って、実は多くの人が持っているものではないだろうか、と私は思うのです。
例えば、小学生の頃、私は週一回、近所の絵描きさんが開いている絵画教室に通っていたんですが、ある日、その先生が、私の描いた風景画を、もっと良くしようと思ってか、水彩絵の具で、エノコログサか何かの細長い葉の草を、ちょいちょいと描き足したんです。
手慣れた上手な描き方でしたが、私はそれを見て不愉快な気持ちになりました。
そして、「どうしてこの先生は、画家のくせに、他人が自分の絵に手を加えた時の嫌な感じを、考えないんだろう?」と思いました。
何かに取り組むときに、最初から最後まで自分一人の力でやり遂げる事にこだわる人って、いますよね。
それと、上記の岡本太郎や絵画教室の例は、似たところがあります。だから、この二つの例と、「最初から最後まで自分一人の力でやり遂げる事にこだわる」事は、同じ心理によるものだと考える人もいるかもしれませんが、私は明確な違いがあると思います。
最初から最後まで自分一人の力でやり遂げる事にこだわる理由には、プライドとか、責任感とか、得られる成果や賞賛を一人で味わいたいという目的があるわけですが、自分の性格や自作品に手を加えられることを不快に思う気持ちには、「個性が自己防衛しようとする事から来る反発」があると、私は見ています。
この、個性というものは、生まれながらに持っている部分が、きわめて大きいです。
皆さんも、ご自身の幼少のころを思い浮かべてみれば、物心ついた時にはすでに、今の自分と基本的には変わらない、「自分らしい思考や言動や行動」を行なっていたという事が分かるでしょう。
この個性が、どういう理由で生まれながらに備わっているのか、生物学的に考えてみると、生き物が自らの種を継承、保存して行くための、安全装置の役目も、担っているのではないか、という気がしてきます。
一つの種が、単一の個性しか持たない場合、種の存続にかかわる危険な状況などで、誤った選択を行なってしまった時に、全ての個体が同じ選択を行なう可能性があり、最悪の場合、種が絶滅してしまう恐れが生じます。種の継承、保存という観点から言うと、単一の個性は、危うい状態なわけです。
ですから、生き物は進化の過程で、個体にそれぞれ異なる個性を持たせることで、生存、発展の可能性を維持し、高めようとしているのではないか、というのが、私の考えです。
少々大げさな背景になりましたが、幼少の頃から、「個性を守る」事に極端に敏感な人がいる事も、これで説明が付きます。
本能の求めに応じて、思考、行動している面もあるのではないか、という事ですね。
もちろん、単なるわがままや、相手を困らせるのが目的で、反抗する事もあるでしょうから、似た事例でも、「個性が自己防衛しようとする事から来る反発」とは、異なる心理が原因の場合もあるでしょう。
ただ、個性を侵害される事に対する反発心は、そういう根源的な理由から湧いてきている可能性もあるかもしれない、という事は、心に留めておくと良いと思います。
反発心が起こる理由が分からないと、「自分はわがままで意固地な人間なんだ。」と、自分を責めたり、自己否定したりして、落ち込んでしまう人もいるでしょうからね。
本能が、種の継承、保存のために、あなたに与えたもの、それが『個性』だと思えば、自分が存在する意義を理解し、誇りを持てるようになりますし、他者に対しても、個性を受け入れる、より寛容な態度であろうという姿勢に取り組む事ができるようになると思います。
また、第58回のコラムの「嗜虐心」の個人差と同様に、「個性を守ろうとする」程度の表れ方も、人それぞれなので、例えば、個性に手を加えられることを全く嫌がらないどころか、むしろより良くしてもらえたと素直に喜べる人も世の中にはいます。
そういう大らかさも、本能が与えた一つの個性なんでしょうね。
創作に関して言えば、アマチュアであれば、一人で何でも自由に表現して発表できますから、個性の防衛という点で、さして問題はないんですが、これがプロとなると、編集者による意見を反映しなければならなかったり、作品に直接他者の手が入ったりする事も往々にしてあるので、個性を守る意識が強い人には、より精神的負担の大きな世界だと言えます。
他者の意見の反映や、手が入る事を気にしない、あるいは、気にしないように心がける事ができる人ほど、楽に仕事ができるようですし、プロの作家や編集者で、そうなる事を促す人も多く見かけます。
ただ、みんながみんな、個性を抑えることに適応してしまうと、飛び抜けたものや、新しいものが生まれにくくもなるので、プロの中にも、ある程度自由な表現が保てる場を確保する配慮が、あった方が良いのだろうな、と思います。
私たち鑑賞者が、創作物を求める理由の中には、「個性を楽しむ」、という事が含まれているし、そこを鑑賞の主眼にする人も、けっこう多いですからね。