第57回 新美南吉の魅力にようやく気が付く。
新美南吉、という人を、知っていますか?
昭和18年までに、寡作ながら良質な作品の数々を書き残し、わずか29歳で結核により亡くなった童話作家です。
この人の名前は知らなくても、「ごん狐」とか、「手袋を買いに」といった、彼の作品を読んだことがある、という人は多いでしょう、
少年時代に成績優秀、教員になって子供に英語や農業を教える傍ら、詩や童話の創作に才能を発揮し、作家としての評価が定まる前に病により早逝する、という彼の生涯は、宮沢賢治の生涯をまるでなぞるような、奇妙なまでの符合が見られます。
自然、彼の創作物についても、賢治の作品と比べてしまう部分があるわけですが、私は子供の頃に「ごん狐」や「手袋を買いに」を読んで、また、大人になってから、「花のき村と盗人たち」などを読んだ結果、作品の方向性が戦前戦中の修身(道徳)教育に縛られており、文章も〝であります〟調を多用するなど、硬さがみられる事から、賢治程の自由なイメージの飛翔はないな、という印象しか受けませんでした。
ところがです。最近になって、改めてしっかり読んでみようと思って、岩波文庫の『新美南吉童話集』を買って読み始めたんですが、ここまでがらりと変わるのかとあきれるほど、印象が変わりました。
彼の童話は、宮沢賢治の作品の質的、精神的な高さに迫る、非常に芸術性の高いものです。
世間で人気のある「ごんぎつね」や「手袋を買いに」よりも、「最後の胡弓弾き」や「久助君の話」など、やや大人向けの話の方に、彼の感受性の鋭さと力量の確かさが表れていると思います。
「最後の胡弓弾き」は、正月に小村の楽手たち(普段は農業などで生計を立てている人々)が、町の家々を訪ね歩いて演奏を披露してお金をもらうという、古くからの文化が、ラジオの登場などで次第に廃れて行き、とうとう最後の一人となった胡弓弾きも辞めてしまう、という、文化の衰退と消滅の過程を克明に記した、童話としては珍しいテーマの作品です。
これまでに、人間の文明の発展の中で、どのくらいの数の伝統文化が、こんな風に消滅して行ったのだろうと、寂しさを覚えると同時に、また演奏を聴く事ができるようになればいいのに、とも思わせる、読者に古い文化への関心を起こさせる作品で、それは、取りも直さず、衰亡する愛すべき文化に対する、南吉の同情の眼差しが、読み手の心に反映した結果なのだろうと思います。
「久助君の話」は、二人の子供が取っ組み合いのけんかをするという、極めて単純な筋書きの話なんですが、最後のあたりの、感覚の奇妙な変化が、実にリアルに、人間の性に対する共感を持って描けているのが見所です。
岩波文庫版は、他の出版社の童話集や絵本などと違って、文字のサイズが一般の文学作品と同じなので、南吉の文章が持つ気高い精神性を損なうことなく味わえます。それも、印象の変化の大きな要因のようです。
※ただし、南吉が創作活動をしていた時代は、日本が軍国主義・全体主義に染まり、太平洋戦争(昭和16年~昭和20年)を引き起こした頃と重なります。多くの芸術家や作家も、こういった社会の風潮を後押しする作品を製作しました。
南吉も、いくつかの作品で、軍国主義・全体主義を肯定する表現を行なっています。
罪のない人々を迫害し、嘘を重ねて戦争を長引かせ、国内外で多大な犠牲者を出したという、悲惨な結果を招いた責任は、当時の政治や軍部を讃える表現を行なった芸術家や作家たちにもあります。
南吉は教育者の立場ですから、童話でそれを子供たちに吹き込んだという点で、なおさら重い責任があります。
ですから、南吉の作品を、注意書きなしで、皆さんに勧める事はできません。
優れた童話作家だけに、それがとても残念です。
ちなみに、ウィキペディアで彼の生涯を読んでいると、彼が生前の一時期に作品発表の場としていた児童文学雑誌『赤い鳥』が出て来ます。
『赤い鳥』の主催者の一人は鈴木三重吉といいます。
この人は、夏目漱石の弟子だったようで、漱石の家に出入りしていた様子が、漱石の短編「文鳥」に出て来ます。
鈴木は、宮沢賢治とも因縁があって、ある時、賢治の童話集『注文の多い料理店』の挿絵を担当した菊池武雄が、賢治の短編童話「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」の原稿を鈴木に見せたところ、「俺は忠君愛国派だからな。あんな原稿はロシアにでも持っていくんだなあ。」と言って返されたのだそうです。
(私見ですが、「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」は、賢治の感覚的な文章と世界観の美点がよく表れた傑作の一つです。)
南吉も、恩師の北原白秋(赤い鳥の主催者の一人)と鈴木の仲違いのあおりを受けて、赤い鳥への投稿を止めた事で、作品発表の場を失う憂き目にあいます。
鈴木三重吉は、賢治の童話集の広告を赤い鳥に無料で載せたりもしているので、心意気のある人ではあるんですが、良くも悪くも、才能ある創作者の人生を左右する存在だったようです。
今では、インターネットが普及して、こういう小説投稿サイトなどもあるので、自作品を多くの人に紹介する場は、自分で容易に確保できるわけですが、賢治や南吉たちの時代は、雑誌に掲載してもらううか、同人誌を作るか、自費で出版するくらいしか、世間への作品発表の手段がなかったので、作品を発表できるという事自体が、彼らの大きな喜びになっていたのではないかと想像できます。
技術の進歩で便利な時代に生きる私たちですが、作品を読者に示す事すら容易でなかった彼らの時代を振り返る事で、自由な作品発表の場があるという事が創作者にとっていかに大事で幸福な事であるのかを、いま一度確認し、感謝の念を忘れないようにしたいと思います。