祝!第52回記念 猫子が生まれた時 【後編】 (作・古寺猫子)
『……そういうわけで、私を除く、姉と弟は、お寺のご住職のあっせんで、町家のそれぞれ別の商家に譲り渡される事になりました。』
っと。ふう。三百四十年も前の出来事なんて、思い出すのも一苦労だわね。
ピロリン
おや、珍しい。白珠姉さんからだわ。
なになに。
『猫子や。白珠姉さんですよ。ずいぶんご無沙汰でしたが、変わりなくお元気にしていますか。私は相変わらず、旅暮らしの毎日です。今は、クロアチアのドゥブロヴニクというアドリア海に面した町にいます。白い石壁とオレンジの瓦屋根が陽光に映える、とても美しい街です。ここで、ボーイフレンドのシャム君と、失われたシュメール文明期の化け猫秘術が描かれた金細工の秘宝を探しているのですよ。ところで、あなたは小説家になろうというサイトで、Kobitoさんという親切な人間に作品発表の機会を頂いて、文に絵に、いかんなく才能を発揮しているようですね。文芸コラムのあなたのコーナー、いつも楽しみに拝見していますよ。
それで、『猫子が生まれた時』の後編ですが、まだ書き上がらないのですか?
中編を投稿してから、もうずいぶん経ちますよ。
まさか、忘れて別な事を、してはいないでしょうね。
小僧さんからつまみ上げられた私が、その後どうなってしまったのか、読者の皆さんはたいそう気をもまれている事と思います。(かく言う私も、早く続きが読みたくて、うずうずしているのです。)いつまでもお待たせしないで、早く続きを投稿して下さいね。
しびれを切らした姉さんより。』
まあ嬉しい。白珠姉さん、小説家になろうでの私の活躍ぶりを、見ていてくれたんだわ。
五年前の電話では、ケイマン諸島に滞在中って言っていたけど、今は、クロアチアってところにいるのね。
シュメール文明期の化け猫の秘宝探しとは、インディ・ジョーンズみたいな事をしているのね。でも、一番気になるのは、ボーイフレンドの名前が、前回はフェリックスだったのに、今回はシャム君になっているって事よね。
フェリックスとは、別れたのかしら。でも、ロシアにいた時は、マルシクだったし、各地に男を作ってるって事?
それとも、シャム君ってシャム猫の事かしら。
おっと、そんな事より、姉さんも後編の投稿を待ってくれているのだから、執筆を急がないといけないわね。
ええと、どこまで書いたかしら?
そうそう、ここから、私たちはこうなって行ったのよ……。
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どのくらい経ったでしょう。あんまりいろんなことがいっぺんに起きて、子猫ながらに疲れていたのでしょう、私はお地蔵さんにもたれかかって、ついうとうとしはじめました。
すると、お地蔵さんがそっと私に手を添えて、抱き寄せてくれるのを感じました。
まだ眠っていないので、夢の中の出来事ではありません。
それに、添えられたのは、先ほどの冷たい石のお地蔵さんの手ではなく、温かい、肉球のある、びっしり毛の生えた大人の猫の手でした。
私は閉じようとするまぶたをどうにか持ち上げて、その前脚の主を見上げました。
立派な長いひげが、左右ではねるように曲がった、輝くような藍色の瞳をした、恰幅の良い、ダンディな顔立ちの三毛猫でした。
「案ずるな。眠るがよい。」
その三毛猫は、人間の言葉で、私に語りかけました。でも、私には不思議と、言っていることが分かったのです。そして、その猫の瞳を見た時、私はこの猫に全てを任せておけば大丈夫だと、心から安心できたのです。
力が抜けたように眠りに落ちて、外が暗くなる日暮れ頃、再び目を覚ました時、お堂の中に、その立派な三毛猫の姿はありませんでした。けれど、格子戸の向こうを覗くと、芦原のたもとで、母とその三毛猫が向き合って、何か言い争いをしているのが見えました。
母はもちろん、猫の言葉しか話せませんから、「ニャー」とか「ウー」とか「フー」とか「ウニャウニャ」とか、声色をいろいろに変えて、けんめいに訴えているのですが、対する三毛猫の方は、二本脚で立って、腕組みをして、先ほどと同様に、人間の言葉で、こんこんと母に語りかけているのでした。
「……お前、そうは言うがな。猫というものは、人間に飼われる事で、雨風がしのげて、食事も用意してもらえる、安楽な暮らしを得る事ができるのだぞ。たとえ一緒に暮らせなくとも、各自がそれぞれの人間の家で大事にされるなら、親としては喜ぶべき事ではないか。」
話しぶりから察するに、あの三毛猫は、どうやら私たちのお父さんのようでした。
それにしても、二本脚で立って、人間の言葉を話すなんて、何ともおかしなお父さんです。
その後も、母と父の押し問答は続きましたが、母はだんだん言葉少なになって、しまいにしょんぼりとうなだれて黙り込みました。
父は、
「なに、遠くにやられる事はないだろうから、ちょくちょく様子を見に行ってやればいいさ。」と、静かに慰めの言葉をかけていました。
母はそれで、諦めがついたようでした。
そういうわけで、私を除く、姉と弟は、お寺の住職のあっせんで、町家のそれぞれ別の商家に譲り渡される事になりました。
姉がもらわれて行ったのは、長屋の出口にある福屋という古着屋で、その店は、与吉という主人と、お亀というおかみさんが営んでいました。
福屋は、姉が行った頃はまだ小さな店構えでしたが、姉が成長するにしたがってねずみを良く獲って、方々(ほうぼう)から買い受けた着物や帯や足袋などをかじられないようにしっかり守った事と、白猫は縁起が良いという風説がどこからともなく町に流れたことで、次第に繁盛しだして、数年のうちに店構えは大きくなり、与吉とお亀の羽振りも良くなり、みんな白猫のおかげだねなんて、長屋の人たちに噂されるほど、姉の活躍ぶりは目覚ましいものがありました。
ちなみに、姉の名前の「しらたま」は、福屋のご夫婦が付けてくれたものです。
当時、水売りという行商人が、江戸名物ということで、白玉の入った砂糖水を売り歩いていて、福屋の夫婦が大そうそれが好きだったのと、姉もよく分け前をもらって食べたので、それにちなんで名付けられたのだそうです。
その白珠姉さんは、福屋が繁盛して与吉が町内では押しも押されもせぬ大旦那と呼ばれるようになると、それを見届けるようにして、ある日こつ然と姿をくらましてしまいました。
与吉とお亀は方々を捜し歩いて、人にも頼んで探させましたが、白珠姉さんはどこにも見当たりませんでした。
それもそのはず、姉さんは数日かけて隣町へ放浪して行って、間もなく端切れ屋の又吉の家に潜り込んで、そこでお世話になる事になったのです。
その端切れ屋も、白珠姉さんのねずみ取りの腕前と美貌のお蔭か、数年のうちに大そう繁盛するようになったのですが、そうなると姉さんは、ちっとも未練なくさらりと居なくなってしまい、今度はその隣町の造り酒屋の半兵衛の家に現れて、まんまと転がり込むことに成功しました。(当時はまだ猫が今ほど多くない時代でしたから、愛想よくして、ねずみ取りの上手なところを見せさえすれば、大抵の商家や製造所では歓迎されたのです。)
こんな具合に、姉さんは各地を転々と渡り歩きながら、それぞれの家でたくさんねずみをとって、大そう重宝がられて、その家が栄えるようになると、ある日突然居なくなる、という事を繰り返す生活を送るようになりました。
思えば、そういう姉さんの放浪癖は、子猫の頃の冒険好きな性格にすでに表れていた気がします。
こんな風にたくましく猫生を歩んで行った姉さんですが、一方で、あの臆病だった、髪をまん中で分けたような模様の弟の子猫は、その後どうなったでしょう。
長くなりますが、そちらについても、お話ししておきましょうね。
弟がもらわれて行ったのは、町一番の呉服屋、栄屋の栄達の家でした。
大きな倉を六つも持った、うなるほどお金のある家でしたから、引き取られた弟も、さぞや良い暮らしができただろうと、誰もが思うのではないかと思います。
ところが、そう上手くはいきませんでした。お金持ちというのは、残念ながらいつの時代も、けちんぼで性格が悪い、と相場が決まっているからです。
栄達もご多分に漏れず、猫もあきれるほどのけちんぼで、おまけに欲深で意地悪で自分本位な性格だったものですから、引っ込み思案な弟が苦労するのは、引き取られる前から目に見えていた事でした。
さらに悪い事には、弟は気が小さい上に根が優しかったものですから、いくらけしかけられても、食事を与えられずに飢えさせられても、ねずみをちっとも取る事ができなかったのです。
栄達としては、ねずみを取らない猫など、ただ飯食らいのやっかい者でしかありませんから、どうしてもねずみを取らないようだと分かった時点で、「寺に文句を言って返して来い!そして、今までの養い賃を耳を揃えて支払えと言え!」と、大番頭に命じました。
大番頭は弟の世話を命じられていた下女のおみつを呼んで、栄達の命令を伝えて、「なに、あの貧乏寺に養い賃なんか出せるわけはないんだ。それは大旦那様も分かっておられる。まあ事情を話して引き取ってもらうようにおし。住職が引き取れないと言ったら、かわいそうだけれども、戻って来られないくらい遠くに捨てておしまい。」と言いました。
おみつは弟を可愛がっていましたので、たいそう憐れに思いましたが、自分だってお給金のない住み込みの身分なので、どうしてやることもできません。
弟を抱いて、おみつは町屋の通りをお寺の方へぼとぼと歩いて行きました。弟も、何となく事情が分かっていたのでしょんぼりしていました。
すると、辻の角に立って調子外れな尺八を吹いていた虚無僧が、おみつを呼び止めて、「その愛くるしい猫をどうするつもりか。」と聞きました。
おみつは事情を話して、「引き取ってもらえなかったら、捨ててこいと言われたのですが、大人しくて、気の優しい猫なので、どうかして助けてあげたいのです。」と答えました。
虚無僧は振り向いて、尺八で筋交いの通りを指し示すと、「この道を一半町ほどまっつぐに行って左へ折れよ。また一半町ほど行くと、左手に街道へ抜ける開けた道があり、その先に煮売り茶屋が見える。そこの家では先月愛猫を亡くしたばかりでちょうどお前くらいの歳の子が寂しがっているから、たとえねずみを取らない猫であっても可愛がってくれるだろう。」と教えてくれました。
おみつは突然のこの幸運に、とまどいながらも、「ご親切に、ありがとうございます。」と、何度も頭を下げました。
弟も、何か言いたそうに「にゃあ。」と鳴きました。
「にゃあに。お互い様じゃ。」虚無僧は、妙な訛りのある言葉で応じると、また調子外れの尺八を吹き鳴らしながら、通りを歩いて行きました。
おみつが虚無僧から言われたとおりに筋交いの道を一半町ほど歩き、左へ折れてまた一半町の道のりを進んでみると、はたしてそこには街道へ抜ける開けた野辺の道があり、その先に一軒の小さな煮売り茶屋が軒先に葦簀をかけて、おかみさんが床几で休むお侍に団子汁を持って来たところでした。
「こちらで、猫はいりませんか。」
猫を抱いたおみつを、おかみさんとお侍が不思議そうに眺めるので、おみつは顔を赤くしながら尋ねました。
「その猫を、くれるのかい?へぇ。ちょっとお見せ。」
おかみさんはおみつから弟を受け取ると、赤子のように抱きながら、「あれぇ、大人しい猫だ事。それに、何だか面白い顔をしているね。頭の模様が人間の分けた髪のようだよ。」
と、心細く見上げる弟に顔を近付けて観察しました。
「どれ、俺にも見せろ。」お侍が脇からのぞき込みました。どうやらこの人も猫好きなようです。
「その猫はねずみを取らないので、大旦那様が要らないというのです。それで、頂いたお寺に返しに行く所なのですが、たぶんお寺の方でも戻されても困るでしょうから、どなたか引き受けて頂ける方がいらっしゃればいいけれどもと思っていたら、そこの四辻でお会いした虚無僧様から、こちらで猫を亡くされたばかりだと聞いたものですから、もしや猫をお求めではないだろうかと思って、来てみた次第です。」おみつは一生けんめい正直に話しました。
おかみさんは嬉しそうに、
「そうなんだよ。玉が死んじまってから、倅の彦六がひどく寂しがってねぇ。ねずみを取ってくれれば申し分ないんだけれど、取らなくてもなに構わないさ。」と言って、おみつをすっかり安心させると、「名前は何て言うんだい。」と聞きました。
「大旦那様は猫としか呼ばなかったので、うちではみんな猫と呼んでおりました。」
「それじゃあ、味気ないね。左門様、何かこの猫にふさわしい立派な名前はございませんか?」
左門と呼ばれたお侍は、「立派な名前か、そうさな……。」と考えようとしましたが、気が変わったらしく、「いや、名付けなら俺よりも龍剣先生にお頼みした方が良いだろう。」と提案しました。
おかみさんが、興味ありげにお侍を見上げるおみつに教えました。
「龍剣先生はね、彦六が通わせて頂いている筆学所の先生で、とても物知りなお方なんだよ。何でも、若い頃に江戸の方で、儒学やら蘭学やら色んな先生に師事して、たくさんの学問を修められたそうだよ。」
「左様、その上、決して偉ぶらずに、来る者は身分や貧富の分け隔てなく、皆受け入れて知識を授けて下さる、大変ありがたいお方だ。かく言う俺も生徒の一人なのだぞ。先生に名付けて頂ければまず間違いはあるまい。」
左門も大いに受け合いました。
おかみさんは、
「そろそろ彦六が先生のところから帰って来るから、ちょっとお前さんも彦六について行って、先生に猫の名付けを頼んで来てもらえんかね。」とおみつに言いました。
「はい。」
おみつが喜んで返事をすると、間もなくその彦六が、町の方から通りをいかにも浮かない顔でよたよたと歩いて来ました。
「これ、何だね。いつまでもしょぼくれた顔をおしでないよ。ほら、あんたが夢にまで見たものが来たよ。」おかみさんがそう言って、弟をさし出すと、彦六は「猫だ!」と叫んで、今にも泣き出しそうな顔をしながら駆け寄って来ました。
そして、弟をそっと受け取ると、まるで天にも昇りそうな笑顔で、弟に頬ずりしながら、「本当に来てくれたんだなぁ。」とつぶやきました。
「ほれ、この子が持って来てくれたんだよ。お礼を言いな。」
おかみさんに促されて、彦六はおみつをありがたそうに見つめると、
「おら、ちょっぴり自分の耳を疑ってたんだ。でも、やっぱりあの声は火の神様だったんだな。ありがとうございます。」
と言ってぺこりとお辞儀をしました。そして、「火の神様って、童だったんだな。おら、声の調子から、てっきり大人の男かと思ってた。」とも言いました。
意味が分からなくて、おみつはただぽかんとしているだけでしたが、おかみさんもやはりあきれたらしく、
「何を訳の分からない事を言ってるんだい。あんまり玉の事を恋しがり過ぎて、おかしくなっちまったんじゃないだろうね。」
と少し心配そうに彦六の顔をのぞき込みました。
そこで彦六は話し出しました。
「おら、どうしても玉のことが忘れられないので、この前火天神社にお参りして、『どうか玉を帰して下さい。』ってお願いしたんだ。そしたら、空から男の声で、『死者を生き帰らせることは自然の摂理に反することで叶わぬが、お主の冬毛よりも厚い猫への情愛を貴び、近々お主好みのかあいらしい猫を授けて進ぜる事にしよう。』とおっしゃられるのが聞こえたんだ。おらはきっとその声は火の神様だったんだと思う。それで、お前さんの事も火の神様だと思ったんだけど、違うのかい?」
おみつはかぶりを振りましたが、おかみさんは「そんじゃ、この猫は神様からの贈り物なんだわ。はあ、ありがたい事じゃ。」と、弟やおみつに手を合わせてねんごろに拝みましたし、左門も、「不思議な事があるものじゃ。これはますます、龍剣先生のご意見をお聴きしたいところじゃ。」と言って、弟を抱いた彦六とおみつについて、龍剣先生の筆学所を訪ねてみる事になりました。
筆学所は、おみつが働く栄屋から、そう遠くない町中の、水路に面した小奇麗な家並みの中程にありました。
左門が入り口の障子戸を開けて「御免。」と声をかけると、土間をはさんだ奥の襖が開いて、路考茶色の小袖を粋に着こなして、鬢をひっつめ程度に小さくまとめた四十ほどの女が顔を出して、「おや、珍しい取り合わせですこと。」と、子猫を連れた子供二人と左門におだやかに微笑み掛けました。
三人は招きに応じて部屋に上がると、子供たちが学んだ後らしい、賑やかさの名残が感じられる、天神机が隅に片づけられた畳に腰を下ろしました。
おみつは最初、この女性を筆学所のお師匠の奥さんだろうと思っていました。しかし、左門が「実は先生、今日はお願いがあってうかがいました。」と言ったので、この人が龍剣先生なのだと分かって、目を丸くしてしまいました。
龍剣もそれに気が付いて、
「どうした?」とおみつに尋ねました。
おみつが、言葉にするのを憚っていると、龍剣は、
「私が女だから、驚いたのであろう。」と、少しいたずらっぽく微笑んで、
「龍剣というのは、江戸で書の先生から頂いた名前なのだが、どうも響きから男と誤解する者が多くて困る。」と言い添えました。
左門はさっそく二人に代わって詳しい事情と用向きを話して、「この火の神からの授かりものの猫にふさわしい名前を付けてやっては下さらぬか。」と尋ねました。
龍剣は、四人のまん中にちょこんと座らされて、当惑している弟を、しげしげと見おろしながら、「ふむ。名付けは引き受けましょう。しかし、この猫が火の神からの授かりものというのは、どうも慎重に詮議せねばならん事のように思います。」と述べました。
「それは又どういうわけですか。」
左門の問いに、龍剣が答えます。
「もし、この猫が彦六の元へ来たのが火の神のおぼしめしであるならば、この猫が寺から栄屋へ譲られたのも、栄屋から放逐されたのも、火の神のおぼしめしだったという事でしょうか。そうではなくて、その人知を超えた声の主が力を及ぼしたのは、彦六と猫を結び付けるという、ただ一点に限られると考えるのが、自然なのではないでしょうか。そうなると、むしろ、その声の主にとっては、憐れな境遇の猫を助けるために、彦六の境遇が都合が良かったとも、私には捉えられるのです。つまり、この猫が火の神の授けものであると信じるには、この猫はこれまであまりにも憐れな境遇に置かれ過ぎていたというわけです。」
左門は「そう理詰めで考えると、神や仏のおぼしめしの入る余地が無くなりはしませぬか。それに、憐れな者同士を結び付けるのも、またありがたい神や仏のおぼしめしだと言えるのではないでしょうか。」と、尋ねました。
龍剣は、案外あっさりと、「そうかもしれませんね。」と、左門の言い分を肯定しました。
左門はもっとこの議論を突き詰めたそうでしたが、彦六とおみつが、話について来れずに退屈しているようだったので、これ以上の込み入った意見は控える事にして、「良い名前を思いつかれましたか?」と龍剣に尋ねました。
龍剣は、じっと弟を見つめて、一考してから顔を上げると、
「左様、勉尊と呼ぶがよかろう。」と言いました。
「命名の由来は?」
「学問は尊い。学びには男と女の差がないのと同様に、猫同士の差もないのだろう。だとすれば、学びというものはもっとも開かれた場所であり、自らを高めるために生涯をかけて取り組んだとしても惜しくはないものだと私は思う。」
おみつは、まるで雷に打たれたように、その言葉が全身を駆け抜けるのを感じました。
自分の知らなかった自由で広大な世界を、龍剣はその心の中に抱いているのです。
銘々に名付けのお礼を言って、三人がいとまをする段になると、龍剣は奥の箪笥から一冊の書物を持って来て、土間で草鞋をはいたおみつに差し出すと、こう言いました。
「勉学に興味があるようなら、よかったら持って行きなさい。」
それは、筆学所に入門した子供が最初に学ぶ、簡単な読み書きのお手本でした。
小さい頃から筆学所に通っている彦六にとっては、何でもないものだったので、その受け渡しの真剣な様子を不思議そうに見つめていましたが、一度もまともな教育を受けたことがないおみつにとっては、震えが来るくらい素晴らしい贈り物でした。「ありがとうございます。大事に致します。」優しい人たちへの感謝の思いが込み上げて来たおみつは、これだけ言うのがやっとでした。
さて、とうとう勉尊という大層な名前を頂いた弟ですが、彦六やおかみさんからずいぶん可愛がられて、だんだん自分に自信が持てるようになったのでしょう、彦六の後を追って、筆学所に通うという、猫らしからぬ行動が、間もなく彼の日課になりました。
まあ、さすがに一緒に勉強はできないでしょうが、和気あいあいと勉学に励む子供たちの中に混じって過ごすのが、彼にとってはもっとも居心地の良い時間のようでした。
今では、彼はすっかり勉強の虫で、尾張(愛知県)の大学に住み込んで、静電発電の実用化という何やら難しい研究に取り組んでいるそうです。この前、電話をして、「勉ちゃんの子供時代の事をエッセイに書いているのだけれど、発表しても良いかしら?」と尋ねたら、「いいよ。」とだけ返事しました。割と無口な子です。でも、今でも優しくて生き物を愛しむ、自慢の弟です。
さあ、長い長いお話になりましたが、とうとう語り終える事ができました。
さすがの体力自慢の私も、連日の執筆と記憶の掘り起こしで疲労困憊気味です。
そろそろこたつを引っぱり出さないといけない時期なのに、余力が残っているかしら。
残ってなかったら、Kobitoさんに手伝わせましょうね。
多分残ってないです。
え?私のその後の話は書かないのかって?
……がーん。すっかり忘れていました。
今回で結びまで書くと予告していたので、もう字数的にも無理です。四話完結にすればよかったですね……。
私のことは、またいずれ、機会を見つけて、お話ししようと思いますので、今日のところは、ここまでとさせて下さい。
何より皆さんに、私の愛する家族の事を知って頂けたのが、三編に渡る思い出話を語り切った私の、最大の喜びです。