第50回目前記念コラム 『たわいないお話』でも良いのです。
ちょっと話したい事ができたので、猫子さんに頼んで、コラムの担当回を譲ってもらおうとしたんですが、猫子さんが、「次回は節目の第50回ですから、ぜひとも、私に担当させて下さい。」と、身を乗り出して頼むので、今回のコラムは、『第50回目前記念コラム』という事にして、本来の第50回は次回に回し、猫子さんに担当してもらう、という形にさせてもらいました。
猫子さん、出番の交換を承諾してくれてありがとう。
今回のコラムでは、今までこのコラム連載で語って来た文芸の鑑賞ポイントやノウハウが、文芸にとって最重要のものではない、と私が思っている、という事を書きました。
書き手さんや読み手さんの参考になりそうな方法論を主に書いて来たわけですから、それを最重要のものではないと言うのは、一見矛盾するようですが、「文芸を楽しむ」というスタンスを重視して取り組んでいる人を尊重し、その良さを理解するためには、心に留めておかなければいけない事だと思っています。
また、コラム内で用いている、「ごっこ遊び」や「おままごと」という言葉は、悪い意味で用いているのではなく、むしろ、その素晴らしさに気が付かなければいけないという、良い意味で用いています。それを、くみ取っていただけると幸いです。
Kobito
物語とは何か。
それは、架空の出来事を生み出す行為です。
私たちは子供の頃、人形やおもちゃを使って、あるいはおままごとの中で、ごっこ遊びをしましたね。
何かになり切って、筋書きのない物語を、リアルタイムで生み出す。そんな、難しい事を、子供たちは楽しんでやっているのです。
彼らの生み出す物語は、たわいないかもしれない。整合性の点で、粗が多いかもしれない。
でも、それが一番大事な事ではありません。
一番大事なのは、彼らが自分の力で、物語を生み出した、という事と、その行為を楽しんでいる、という事です。
文芸の書き手として、より難しい作品に取り組もうとすれば、知識や文章力が必要になって来ますが、それはある意味、鍛練とか、研鑽とか、精進の道にもなって来て、苦しみや挫折感を生じる事にもなるので、楽しむことが執筆の主目的なのであれば、子供の頃のごっこ遊びのように、自由に、奔放に、物語を生み出すだけで、良いと思います。
その方が、よっぽど気持ちの良い作品ができたりします。
他の人は、「あと一ひねり欲しいね。」なんて言うかもしれないけれど、私は、必ずしも一ひねりはいらないと思います。
だって、ごっこ遊びや、おままごとをしている人に、「あと一ひねり欲しいね。」なんて言うのは、野暮というものですからね。
そして、ごっこ遊びや、おままごとというのは、はたで聞いていると分かりますが、とても熱心に、想像した世界に入り込んでやっているんです。だから、その一生けんめいさを、私は愛でるようにしています。
そうすると、意外と、ひねりを効かせたお話より、ごっこ遊びや、おままごとの方が、作為のない、心のこもった内容だと気が付いたりもするのです。