第47回 言葉の流れ 説明文とエッセイと小説の違い
文章には、『言葉の流れ』、というものがあります。
これは、文字数や、単語のイントネーション、句読点、改行などを変えることで、文章のリズムや響きが変化し、読み心地を変化させることができる、という、文章の性質を指します。
例えば、
(1) 僕は、明日、エジンバラへ、発つ。
(2) 明日私は京都へ出張します。
この二つの文章は、言葉の響きとか、雰囲気が、ずいぶん異なるように感じるでしょう?
丁寧語か、そうでないか、という違い以外にも、読点の多さ、「明日」の読みの違い、地名の響きの違い、選択した単語「発つ」と「出張」の印象の違い、など、似た内容でありながら、文章全体の印象に差が出るように工夫がしてあります。
どちらが小説らしい文章だと思いますか?
小説らしさ、というのは、一概に規定できないので、どちらの文章も、小説に用いて問題はないのですが、強いて言えば、(2)の文章は、(1)に比べると、事務的で、説明的な文章のような印象を受けます。
この印象の原因は、(2)が、際だった特徴や個性のない、なめらかだけれどもありきたりな文章になっているからではないかと思います。
それに対して、(1)は、事務的な文章というよりは、日記などを書くときに見られる、個人的な思いを込めた文章になっているように感じられます。
会社の事務書類を、何百ページも楽しんで読める人は、まれでしょうから、小説として読者に興味を持ってもらえる文章というのは、事務的な文章ではなく、情感を感じる文章という事になります。ですから、一般的には、(2)の文章よりは、(1)の文章の方が、小説の文章として適している、と言えると思います。
私が今、書いているこの文章だって、一見説明的な教科書調の内容のような気がするかもしれませんが、実は、そうならないように、エッセイとして読者が楽しみながら読めるように、心がけながら書いているのですよ。
ただし、説明的な文章と、情感を込めた文章に、明確な境界線はありません。
どちらにより重きを置くかで、文章の印象は変わって来ます。
こういう論考を軸にしたエッセイは、学術論文ほど肩ひじを張る必要はないものの、生粋の小説が持つ言葉の選択の大胆さやあいまいさに比べれば、やはり説明的な部分が多いので、半説明的な文章と言えるでしょう。
なお、上記の例文(1)で、読点を多くしましたが、小説的な文章に、読点が多いとは限りません。
読点が極端に少ない作品の例として、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節を例示してみます。
〝それはだんだん数を増して来てもういまは列のように崖と線路との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向う側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。〟
作品が収められた文庫の上では、五行ほどにも渡って、読点が全く使われずに、一文が構成されています。
この部分は、極端な例で、他の個所は、読点こそ少ないものの、一文の文章量自体はこれほど多くはありません。
この長大な一文が、作中では、実に効果的に用いられています。
列車が進むにつれて、一面のとうもろこし畑の光景が、車窓越しにいっぺんに開ける。
その急展開を、読点を用いない一気呵成の一文で読ませることで、賢治は、短時間のうちに起きたあらゆる変化を感動的に読者に体感させようとしているのです。
読点を用いないで、これほど流麗な、響きのよい言葉を連ねた(しかも説明的でなく情緒的な)、リズムの良い文章を書くのは、並大抵のことではありません。
リズムを重視した詩を得意とした賢治の、天才性が如実に表れた文章です。
このコラムの冒頭で述べた、『言葉の流れ』という点でも、この一文は、出だしから句点に至るまで、音楽的なノリの良さと構成の妙が楽しめる名文です。
試しに、読みながら、程よい節目ごとに、両足で交互に床を踏んでリズムを刻んでみて下さい。
「それは・だんだん・数を増して来て・もう・いまは・列のように・崖と線路との・間にならび・」
言葉の流れが、調子の良いリズムに乗って、途切れることなく次の言葉につながって行きます。
祭囃子の太鼓の複雑なリズムのような、グルーブ感を楽しめる。それが、賢治の魅力的な文章の秘密です。
私の場合、賢治の作品を読むとき、ともすると、この音楽的効果のおかげで、リズムを楽しむことに集中し過ぎて、文章の内容が全く頭に入らない事さえあります。
そのくらい、賢治は音楽的効果を重視した作品作りをしています。
こういう話を聞いて、「なるほど、気が付かなかったけど、確かにそうかも。」、と思った方もいるかもしれませんが、実は、読み手というものは(読書が好きな方は特に)、自覚的か、無自覚かにかかわらず、こういった文章の音楽的な性質を、常に多かれ少なかれ感じながら、読んでいるのではないか、と私は思うのです。
そう思うのは、ここ〝なろう〟で私が投稿した作品に、時々、文章のリズムが悪い箇所を指摘する読み手さんがいるからです。
「リズムが悪い」という直接的な指摘ではないんですが、私がリズムに不満を感じつつ、直せなかった個所で、「単語の選択を変えてみては?」という意見を何度か頂きました。
その方たちは、その部分の単語の違和感に引っかかったと思っているようですが、私が思うに、彼らは、言葉のリズムや流れの悪さに違和感を感じて、それを単語の問題だと思ったのではないか、という気がします。
なぜなら、リズムや流れの良い文章の中では、多少おかしな表現が含まれていても、気にせず読み流せるという性質が表れる、という事を、私は経験から知っているからです。
(そういう性質は、書き手が自作品を校正する際の、誤字脱字や言葉の誤用の見逃しを生じる原因にもなります。)
そういうわけですから、このコラムを読んで下さっている方も、きっと私の文章の流れやリズムを、意識的か無意識かにかかわらず、楽しみながら読んで下さっているに違いないと、私は考えているのです。
特に、文章のリズムや流れに無自覚だった方には、この締めの文章を読みながら、あらためて自分の中での読書時の感覚を確かめてみて下さい。「文章の流れを感じる、楽しめてる!」と、気が付いてもらえれば、これからは、さまざまな作家の文芸作品に限らず、新聞、雑誌などあらゆる読み物の文章の流れに関する、スタンスの違いや、個性や、テクニックまでをも、感じ取って味わってもらえるようになるのではないか、と、私は期待しているのです。