第36回 結び文の研究 【後編】
こんにちは。
猫子さんのコラムを挟んで、やや間が開いてしまいましたが、文芸作品の結び文の書き方の研究の、【後編】を始めたいと思います。
なお、この研究では、パブリックドメイン(著作権切れ)の有名作品の結び文(作品を締めくくる一文)を、例文として引用しているので、もし、結び文は自分で作品を読破してから読みたい、という方がいれば、ブラウザの戻るボタンなどで、このページを退出して下さい。
結び文を知ることになっても良いから、研究を読んでみたい、という方だけ、この先へ読み進めて下さい。
いいですか?
では、【前編】で提示した、有名作品三作の、結び文を、改めて見て行きます。
・南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
【夏目漱石「吾輩は猫である」】
・外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人の行方は、誰も知らない。
【芥川龍之介「羅生門」】
・勇者は、ひどく赤面した。 (古伝説と、シルレルの詩から。)
【太宰治「走れメロス」】
コラムの【前編】では、これらの作品の『書き出し』と『結び文』を比較することで、結び文の条件の一つに、「登場人物の紹介や、作品の世界観を示す舞台設定の提示などではない文章」が望ましいという性質があるのではないか、という事を指摘しました。
ところが、第35回の古寺猫子さんのコラムを読んでみたところ、結び文には、作中の追想に登場する西川先生の、人柄が推測できる容姿が書かれていて、しかも結び文としても違和感なく機能しているので、「登場人物の紹介」であっても、結び文として問題なく成立する場合もあるのではないか、と思えて来ました。
猫子さんが、その可能性に気が付いて、それとなく私に教えるために、あのコラムを書いてくれたのでしょうか。そうだとしたら、ありがたい事です。
しかし、結び文らしい文章の考察は、また振出しに戻ってしまったわけです。
残念ですが、めげずに新たな取っ掛かりを探してみる事にしましょう。
夏目漱石の『吾輩は猫である』の結び文には、韻にまつわる、明らかな特徴がありますね。
書き出しと並べてみると、
・吾輩は猫である。名前はまだ無い。
・南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
分かりますか?
書き出しと結び文の1文目は、母音の「あ」で始まり、中間は母音の「あ」「い」「あ」、末尾は母音の「う」、になっている、という点が共通しています。
2文目は、母音の「あ」で始まって、末尾は「あ」「あ」「い」の母音で終わる文章になっています。
書き出しと結び文の韻をそろえる事で得られる効果を考えてみると、落語の「オチ」のような、言葉遊びの面白さや粋が生まれる、という事と、似た形が再度提示される事で、そこが作品の区切りだという事が、意識的にせよ無意識にせよ、読者に伝わリやすくなる、というメリットがあると思います。
『吾輩は猫である』は、軽妙な落語風の語り口が特徴の作品なので、漱石は書き出しと結び文を、「韻」を用いて関連付けることで、その持ち味をさらに高めようとしたのではないか、というのが、私の見立てです。(漱石は落語が好きで、特に、三代目柳家小さんを天才と評して絶賛しています。)
では、芥川龍之介の『羅生門』の結び文には、どんな特徴があるでしょう。
試しに、この作品も、書き出しと結び文を並べて見てみましょう。
・ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
・外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人の行方は、誰も知らない。
書き出しと結び文の一文目では、『暮方』と『夜』という、どちらも時刻をイメージできる内容が提示されています。話の中でどのくらいの時間が経過したかを、読者に示す事で、作中の時間を主人公と共有させ、主人公により感情移入させる目的があるのではないかと思います。
もう一つ考えられる効果としては、主人公の人間性が作品冒頭から結末に至るまでにどのように変化したかを暗示する事ができる、という点が挙げられます。
光が暗みへと移ろい行く『暮方』から、黒一色の『夜』へ、つまり、主人公がその後、悪の道に進む事が印象付けられています。
一方、書き出しの二文目と結び文の二文目には、一見深い関係性は無いように思われます。
書き出しは主人公の紹介と、『羅生門』という場所、『雨』という舞台設定の提示。
結び文は、主人公が消息不明になった事を、ごく簡潔に述べています。
ここで、注目してほしいのは、この物語は、誰の視点で見つめられているか、という事です。
作中の全ての場面を見つめられる存在は、作者である芥川龍之介ですから、単純に考えると、物語は芥川龍之介の視点で見た景色、という事になりますが、実は、この物語の全体ではないにしても、主要部分を見つめられる存在が、主人公以外にも、もう一人挙げられるのです。
誰だと思いますか?
それは、作品のタイトルでもあり、物語が展開する現場でもある、『羅生門』そのものです。
そう考えて、書き出し二文目を読むと、主人公と共に紹介されている羅生門は、物語を目撃する影なる存在として紹介されている、とも受け取れます。
そして、結び文の二文目の、主人公の行方を「誰も」知らないという記述の、「誰も」の中には、羅生門も含まれている、と考えると、主人公の変化を見届けた羅生門の視点が、主人公を追えなくなる事で、主人公が後戻りのできない道に踏み出して行ったことが暗示され、物語が幕を閉じる理由にもなっている、という見方もできるようになります。
これはあくまでも、私の想像なので、作者の意図とは異なるかもしれませんが、この物語を読んだ人の中には、私と同様に、物語の中に、作者や登場人物以外の何者かの存在や視点を感じる人も、あるかもしれません。
未読の方は、短編ですし、青空文庫で全文が読めるので、ぜひ挑戦してみて下さい。
続いて、太宰治の『走れメロス』の、書き出しと結び文を並べて、研究してみましょう。
・メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
・勇者は、ひどく赤面した。 (古伝説と、シルレルの詩から。)
書き出しと結び文の一文目は、似た形を用いているのが分かりますね。
書き出しでは、物語を推進させるテーマである、主人公の『憤り』を提示しています。一方、結び文では、主人公の心を占めるものが憤りとは異なる感情に変化したことが明示されています。
似た文章を用いることで、主人公の心の変化が、より引き立っているように感じます。
書き出し文の二文目は、物語のテーマの、より詳しい説明です。「邪知暴虐」とか、「除かねばならぬ」という、いかめしく、やや大仰な言葉遣いが特徴的です。
それに対応するように、結び文では、
・(古伝説と、シルレルの詩から。)
という括弧でくくった説明書きが用いられています。これを読むことで、読者は、この物語が古い伝説や、外国の詩から題材をとった作品なのだという事を理解し、素っ気なさすら感じる独特な硬い文体が、それらの改作としてはふさわしい表現だったのだと納得します。
もし、
・勇者は、ひどく赤面した。
という文章が、最後の一文だったなら、悪くはないものの、やや物足りないと感じる終わり方になったかもしれません。
説明書きを添えることで、いかめしく大仰な文体を読者に納得させると同時に、作品全体に箔を付け、時代小説らしい風格ある終わり方という印象を読者に与える、という効果も得られていると思います。
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今回取り上げた三作品では、書き出しの二文と、結び文の二文が、相互に影響し、引き立て合い、作品の充実感や重みを増すように考えられて書かれていることが分かって来ました。
他の作品を研究すれば、また別のパターンも見つかりそうですが、今回の研究では、
「結び文らしい文章を書くには、書き出しと関連付けるようにすると良い」という結論が導き出されています。
技術論としては、何とも曖昧な結論になりましたが、それだけ結び文というものが奥深い難しさを持っている、という事でもあります。何も取っ掛かりが無いよりはいいと思うので、これから自作品を書く上で、今回の研究を参考にして行けたらいいなと思います。
(※有名三作品の引用部分は、全て、青空文庫からの抜粋です。)