第32回 直しちゃいけない時もある
お待たせしました。
久しぶりの、文芸コラムの更新です。
今回は、他者作品から受ける印象が、いかに読者の主観に基づいているか、という事を、自戒も込めて論じてみたいと思います。
作品の良し悪しの判断には、いわゆる、『好み』が、大きく関わって来ているんですが、いざ他者作品に対して公平に向き合おうとすると、これがなかなか、やっかいな問題として表れて来るのです。
例えば、『好み』というものは、人それぞれ、驚くほど違うものですよね。
絵画の好み、音楽の好み、服装の好みだって、千差万別です。
もちろん文芸の分野でも、書き手、読み手ともに、好みの違いはジャンルからテーマ、文体に至るまで実に多種多様です。
私は書き手としては、童話と随筆が好きですが、この二つのジャンルにあまり興味がない、という方も、けっこう多いでしょう。
一方で、私があまり興味がないのは、スポーツや盤上ゲームを題材にした作品、政治、経済など社会制度をテーマにした作品などです。
スポーツや盤上ゲームは、ルールを覚えないと楽しめない部分が多いので、覚える気のない私は楽しんで読むのが難しいです。
政治や経済に関する作品も、どうも素朴さを好む自分とは縁遠過ぎて、なかなか共感しながら読む、という事ができません。
『童話』、『随筆』と、『スポーツ』、『盤上ゲーム』、『政治・経済』を、同列に語りましたが、この二種は実際は、分類上の違いがあります。
『童話』、『随筆』、というのは、文芸のジャンルの、一番大まかな分類で、大ジャンルとも言います。そして、『スポーツ』、『盤上ゲーム』、『政治・経済』というのは、どの大ジャンルでも用いる事ができる、作品の主題、テーマにあたります。
大ジャンルの中にも、色々なテーマがあるので、その大ジャンルが好きだからと言って、それに属する全ての作品が好き、という事にはなりません。
政治経済をテーマにした童話、というのもあり得ますからね。そういう作品は、おそらく私は好きにはなれないでしょう。
私が好きな童話は、夢があって、自由な空想の力で作られている作品です。
それ以外の童話に、強い共感を持って接するのは、経験上、難しいのだろうなという事が分かっています。
これが、『私の好み』というものです。
私の好みは、かなり偏りがあるし、狭い範囲の作風しか愛着を感じられないという面がありますが、こういう性質は、多かれ少なかれ、誰もが持っている事で、しかもその偏りが、人によって全く異なるからこそ、文芸を愛好する人たちの中でも、冒頭で述べたとおりの、驚くほどの好みの多様性を生じる事になります。
ただ、心からの共感を持てなくても、その作品の良さを理解する、という事はできます。
先日、私は大江健三郎の『個人的な体験』という作品を読みましたが、内容的には、強い共感を覚えるほど好きではなかったものの、文章の巧みさ、知識の豊富さ、登場人物の独特さなどに、面白さを感じる事はできました。
(後書きで、大江さん本人が作品について語っていて、それも作品を理解するためにとても役に立ちました。)
「好みの作品ではない=良さが分からない」、ではない、という事です。
だから、もしかすると、政治・経済をテーマにした童話も、好みではないけれど、良さは分かる、という事が、あるかもしれません。
こういう考えを、心得として持つようになったのは、社会人になってからだと思います。
学生の時は、好きな作品は良さが分かる作品、嫌いな作品は良さが分からない作品、というように、もっと物事を単純に捉えていたと思います。
好きな作品にしても、隅々まで完全に気に入る、という事は滅多にありませんから、気に入らない部分を見つけては、作品の質や出来栄えにかかわる問題だと思って、「もっとこうすればいいのに。」とか、「こうじゃなければよかったのに。」と批判的に判断する事が習慣になっていました。
しかし、冒頭で論じたように、作品の良し悪しの判断には、受け手の偏った『好み』がかなりの割合で反映されるので、極端に言うと、受け手の意見というものが、単なる個人的な趣味の押し付けになる場合もあり得る、という事になって来ます。
その事に気がついてからは、他者作品を鑑賞し、感想を抱く際に、自分の『好み』とは別に、作者の『好み』も意識することで、批評が自分の個人的好みに偏らないようにする事を心掛けるようになりました。
また、同じ理由から、他者作品に対して、意見を述べる時、特に、「こうした方が良いのでは?」とか、「ここはおかしいのでは?」という、気になる個所の指摘をする時は、私の個人的好みに基づいていないかを確認し、作者と作品にとって有益な意見であるかどうかを十分に検討した上で、必要最小限の部分を伝えるようになりました。
ここまで自分の意見に慎重になるのには、実体験として失敗談があるからでもあります。
昔、某会社の社長の、社内向けのコラムを校正したことがあるんですが、その社長の文章は独特な、癖の強い語り口で、語句の誤用や不要な繰り返しも多かったので、私は、最初の校正で控えめに指摘をして先方に判断を委ねました。
すると、先方でも指摘した個所を変更して、別の個所はこれでいいかという質問付きで返してきたので、私がまた校正をし、先方が変更し、私が校正し……、という事を重ねているうちに、とうとうすっかり、全文を綺麗な文章に仕上げる事ができました。
ところが、校正している最中に気がついた事ですが、だんだん文章が標準的な読みやすい内容に改まって行くにしたがって、社長の語り口独特の個性も失われて行って、それに伴って文章の魅力も、大きく損なわれて行く、という現象が生じました。
そして、完成した原稿は、粗こそないものの、個性の薄い、アナウンサーの原稿のような退屈な文章になってしまいました。
間違いだらけ、粗だらけの最初の文章の方が、よっぽど魅力的だったのです。
事実誤認の部分でさえ、社長の持ち味が出ていたのです。
完成原稿を受け取った社長からは、念入りな校正を感謝されたものの、私は嬉しさよりは、申し訳ない気持ちを強く感じる事になりました。
良かれと思って直すことで、かえって悪くなることもあるのです。
だから、作者に指摘をして作品に手を入れさせる、もしくは、他者の作品に受け手が直接手を入れる、というのは、よほどのことがない限り、控えるべき、というのが、現在の私のスタンスです。
意見の交換は、文芸の楽しみでもあるので、そこは大事にし、尊重もしなければいけません。その上で、書き手と作品にとって最善の意見とはどういうものかを、私はいつも、ああでもないこうでもないと、時間をかけて考えた上で、書き手に伝えるようにしています。