第3回 あなたを、『 』と命名します。
小説を書くためには、『何か』を登場させなければいけませんよね。
人でも、他の生物でも、無生物でもいいのですが、とにかく、何かが出て来て、何かが起きない事には、話が弾んで行かないわけです。(何も登場させずに、話を進める事も、不可能ではないでしょうが、〝話が弾む〟ほど面白くするのは、至難の技でしょう。もしそれができたら、その書き手は本物の天才だと思います。)
それで、『何か』を登場させるとなると、まず初めに、考えなければいけないのは、その『何か』に、名前(固有名詞)を付けるかどうか、という事です。
固有名詞がなくても、『何か』を表わす普通名詞さえあれば、話を書き進める事はできます。『ある人』とか『謎の生物』とか『お皿』とか、呼べばいいわけです。(物語が主観視点なら、『私』『僕』『俺』など一人称を用いればいいので、語り手の固有名詞は必ずしも必要ではないですしね。)
でも、やっぱり固有名詞を付けよう、という事になれば、ここで、意外と大きな壁が、作者の前に立ちはだかります。
『ネーミングセンス』、という壁です。
(ちなみに、ネーミングセンスって、日本語では、何と言うんでしょうね。『命名力』?)
作品の質にこだわらないのであれば、どんな名前を付けても良いのですが、あんまり似合わない名前を付けると、作品を読んでいる間中、読み手は名前の違和感が気になって作品に集中できない、という事にもなりかねないので、やっぱり、その対象に似合った名前を付けるように、努力はした方が良いと思います。
私が尊敬する童話作家で詩人の宮沢賢治は、詩集『春と修羅 第二集』の詩の一節で、命名に関してこんな興味深い内容を書いています。
(ははあ、あいつはかはせみだ
翡翠さ めだまの赤い
あゝミチア、今日もずゐぶん暑いねえ)
(何よ ミチアって)
(あいつの名だよ
ミの字はせなかのなめらかさ
チの字はくちのとがった工合
アの字はつまり愛称だな)
これは、非常に分かりやすい、命名のテクニックの解説です。
賢治は名前の一文字一文字が、その対象のイメージを表わす響きを持つように、命名を工夫しているというわけです。(最後のアの字は愛称ですけれど、愛称がついてもおかしくない可愛い鳥だから付けているわけで、そういう意味では、やっぱり対象のイメージに沿った選択です。)
かわせみの、鮮やかでモダンな姿を想像してみると、ミチアという西洋風の名前は、いかにもふさわしいようにも思われます。
もちろん、見た目から取って、日本語名の『青ちゃん』でも良いでしょうね。それは、作者の好みの問題です。
ただし、『ゴンザルべス』など、イメージとかけ離れた名前は、特に読み手を日本人メインに想定した場合、定着させるのが難しいかも知れません。冗談で付けたにしても、その面白さは表面上のものに過ぎませんし、名前を笑うこと自体、未熟な人のする行為ですから、できれば控えたいものです。
もう一例をあげると、夏目漱石の名作小説『こころ』に登場する、静という女性がいます。
静は、主人公が敬愛する先生の妻です。先生が学生時代に知り合って、以来先生の人生に寄り添うように歩んで来た人です。
『静』という名前自体は、どちらかというとありふれたものですが、先生に寄り添う存在という性質上、あまり目立たないようにと配慮されて、この名前を付けられたのだと推察できます。
『静香』でも『静江』でも、だめでしょうね。響きから女性の色気が出てしまって、若い主人公と差し向かいで話す場面などでは、必要以上に存在感が強まってしまうと思います。
古風で清楚で、意思の強さもある、そういう役柄に、『静』はこれ以上ないほどぴったりな名前です。
漱石先生も、余程考え抜いて、この名前に決めた事でしょう。
こうやって、著名な作家の命名する際の入念さを見て行くと、固有名詞が作品に及ぼす影響の大きさというものが、改めてはっきりと分かって来たのではないでしょうか。
そして、書き手が作品を書き進める上でも、良い名前を付ける事ができた時と、しっくりこない名前しか付けられなかった時とで、筆の進み具合が変わってくる、という事も考えられますから、やっぱり、命名するのであれば、よくよく考えた上で、最適な名前を付けてあげた方が良い、という結論に達するわけです。