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第21回 物語っているのは誰か -書き手を知るという事-

本を読んでいると、声が聞こえて来るって体験、したことがありませんか?

お化けや、幻聴の話ではないですよ。

本に記された文章を読むのに合わせて、誰かが、その文章にふさわしい声で朗読してくれているように感じる、という事です。

それは、低く落ち着いた、若い男の人の声だったり、博学そうな、それでいて少し気むずかしそうな壮年そうねん男性の声だったり、無邪気な子供の声だったり、穏やかで優しそうな女性の声だったりします。

私がこの声の存在に気が付いたのは、宮沢賢治の童話集を読んでいた時です。

その時聞こえたのは、若い男の人の声でした。真面目な、二十代後半くらいの、先生が生徒に読み聞かせをする時のような、包容力のある声です。

私は、「これは宮沢賢治の声かもしれないな。」と思いました。

どうして、そう思ったかというと、本に収録されたどの童話を読んでも、やっぱり同じ人物が朗読しているらしい声が、いつ読んでも感じられましたし、他の本、例えば、種田山頭火たねださんとうかの句集などを読んでみると、また別の、五十代くらいの、しみじみと枯れた味のある声が、私が句を読むのに合わせて朗読してくれているのが、聞こえて来たからです。


これは、賢治の童話で言うと、地の文を読んでいる時に感じた事です。

会話文の箇所かしょでは、その言葉を発している登場人物の声が聞こえて来ます。

会話文の声については、その人物の言動、行動、思考など、作中に記された内容を参考にして、読み手である私たちが、想像力を働かせて声を補っているのだろうな、という事は推測できます。

では、地の文からも朗読する声が感じられる、というのは、どういう事でしょう。


賢治の童話には、登場人物の主観視点による一人称の話、というのが少ないように思います。

たいていの話は、客観視点で物語る話者という存在がいて、地の文はその人の語りで構成された話です。その人の声が、多くの作品の地の文から聞こえて来るのは、そういう理由からだろうと思います。

でも、この説明では、その人がどうしていつも、「真面目な、二十代後半くらいの、先生が生徒に読み聞かせをする時のような、包容力のある男の人の声」なのかは分かりません。だって、地の文をどんな素性すじょうの人物が物語っているかは、たいていの場合、作品で明示されていませんから、極端な話、読み手が自由に設定して、例えば子供だったり、老人だったり、女性だったりに置き換えても良いはずなのです。

でも、聞こえて来る声は、「どうも賢治さんらしいぞ。」と思える、上記のような特徴を備えた声なのです。

どうして、こんなことが起こるのでしょう。


思い返してみると、私が初めて宮沢賢治の作品を読んだのは、小学生の時に、国語の教科書に載っていた、『やまなし』という童話が最初だったように思います。

(ちょっと話がそれますが、この作品は、賢治の童話の中でも、難解な部類に入る内容です。小学生の時に、この作品で賢治の作品に初めて接して、「賢治=難解」というイメージを植え付けられて、以後、賢治作品を敬遠するようになった、という方も、多いのではないでしょうか。

かく言う私も、その口だったので、遠回りをしてようやく一賢治ファンとなった現在の私の意見としては、教科書に載せるのであれば、賢治作品の中でも、もっと分かりやすい内容の童話を、最初に子供たちに紹介してほしいな、と思います。今の教科書は、私が小学生だった時分じぶんとは、掲載された作品や作家が、すでにずいぶん違うでしょうから、もしかしたら、そういう点も、今では改善されているのかもしれないですけどね。)


それで、私が最初に賢治作品に接した時には、地の文の「賢治先生の」声というのは、私が今感じているほどには、感じられていなかったようにも思います。

という事は、この声は、後年になってからだんだん、想像できるようになって行った、という事です。

なぜ、その声が想像できるようになって行ったのか、と考えてみると、それはやっぱり、私が賢治作品を愛読するようになり、賢治の生涯を、年譜や伝記などを通じて知るようになり、彼の人となりを思い描く事ができるようになったことが、大きいと思います。


話者がどんな人物かを想像できるようになったことで、ある程度具体的な声も想像できるようになった、という事です。


さらに決定的だったのは、賢治が農学校に勤めていた頃の生徒や同僚の先生による、賢治にまつわる回顧録かいころくの中で、「賢治は低音の良い声で自分の作品を朗読していた。」という、証言を読んだ事です。

これにより、賢治作品の地の文の声は、私の中でよりはっきりとした個性を伴った声として感じ取る事ができるようになりました。


文芸にせよ、絵画などの芸術作品にせよ、作者の伝記や回顧録を読んで、人となりを知ろうとする愛好者は多いですし、それは作品をより深く楽しむための有効な手段でもあるのですが、文芸に関して言えば、その具体的な効果の一つとして、「作品を書いた人の声が、文章から想像しやすくなる」というメリットが挙げられる、という事は、実体験から得られた効用として、特に愛読する作家の人柄を知ろうとする方々に、注目する事をお勧めしたい点です。



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