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第15回 景色を語る、景色が伝わる 【前篇】

文芸作品、特に小説や童話などの物語は、「」でくくった〝会話文〟と、それ以外の〝ぶん〟で構成されたものが多いです。


たとえばこんな感じです。



ペーターは道の向こうから、ジョアンナが、うつむいて、そろそろ用心しながら歩いて来るのに行き会いました。

ジョアンナは胸の前で合わせた両手で、何かを包むようにして運んでいるようでした。

「なに持ってるの。」

ペーターが声をかけると、ジョアンナは、良いところで会ったと言いたげにペーターにほほえみかけて、

「拾ったの。」

と言いました。

「何をだい。」

「たまごよ。」

ジョアンナがそっと両手を開くと、それは確かに、茶色い斑点はんてんの入った、小さなかわいらしい卵でした。



この卵が、何の卵なのか、気になるところですが、そこが今回のコラムの要点ではないので、残念ですが論考の方に話を戻します。

私は経験上、会話文を考えるのが好き、という書き手が多いのに対して、地の文を考えるのが好き、という書き手は少ない、という認識を持っているのですが、皆さんはいかがでしょう?


かく言う私も、地の文を考えるのが苦手なたちで、その解決策として、まず会話文をある程度書き進めておいて、合い間合い間に差し挟む地の文を、後から考えはじめる、という書き方をする事が多いです。


上記の例文も、まず会話文を、


「なに持ってるの。」


「拾ったの。」


「何をだい。」

「たまごよ。」


という感じで書いておいて、会話から想起した登場人物の動作を、地の文で表現して行く、という手法を取っています。


話が前後しますが、動作を考えるのは、会話を考えるのと同時です。なぜなら、頭の中では、会話を構成している時点で、映像としても登場人物の動作がなんとなく思い浮かんでいるからです。つまり、段取りとしては、会話を文章にしながらその映像を何度も確認し、さらに書き上がった会話文に違和感なくつながるような地の文を考えて書く、という流れになります。


地の文は、登場人物の動作だけでなく、容姿や風景、天候、温度、湿度、匂い、味、音など、あらゆる外的要素についても(それに加えて、例文にはありませんが人物の心理など内的要素も)書く事ができます。ちなみに、そのすべてを、一度に書いてしまうと、こんな感じになります。



金髪で巻き毛のいたずら者ペーターが、ひざに継ぎの当てたいつものオーバーオールを着て、春の暖かい日差しが降り注ぐキャベツ畑の間を通る田舎道を、使用人のジムに教わったばかりの口笛を練習しながら、ぶらぶらと一人っきりで歩いて来ました。固く乾いた土の香りと、道端の土手下からただよってくるほのかな菜の花の香りが、口の中を甘酸っぱくするような、そぞろ歩きにはもってこいの気持ちの良い日和です。すると道の向こうから、栗色の髪を肩に垂らしたジョアンナが、澄んだ青い瞳をうつむかせて、お気に入りの、そでにレース飾りのついたクリーム色のワンピースのスカートをそよ風に揺らしながら、赤い靴を小股こまたに動かして、いかにも足元に気を付けている、という様子で歩いて来るのに行き会いました。

ジョアンナは頬を少し上気させながら、胸の前でやんわりと合わせた両手で、何かを包むようにして運んでいました。

「なに持ってるの。」



最初の会話文の前に、これだけ長い地の文を加える事ができました。

確かに、筆者が思い描いている情景を読者に正確に伝えるという点では、こういう詳細な地の文の方が良い場合もあります。しかし、一方で、では簡素だった最初の例文から、読者が書かれてある情報以上の情景を思い描けなかったのか、というと、それは違うだろうとも思うのです。

最初の例文を読み返してみると、地の文には必要最小限の情報しか書かれていませんが、それがかえって、読み手の想像力を刺激して、また想像の余地を生み出して、読者それぞれが好みに合った情景を思い描く事ができるという、非常に便利な効果をもたらしていたことに気が付きます。


一方、具体的で詳細な情景が書かれた第二の例文からは、作者のイメージを正確に読者が共有するための素材が充実しているという点で、大きなメリットを感じますが、書いてある内容以外の部分への想像を差し挟む余地がない窮屈きゅうくつさや、味気ない説明の羅列られつのような退屈な文章に感じる人もいるかもしれないというデメリットも生じています。


地の文をどこまで充実させるか、というのは、作者の文章力や好みによっても変わって来ますが、長文で書いてあるから万人に満足感を与えられるとは限らないですし、短文だから物足りないと感じるに決まっている、というわけでもないという事が、この二つの例文の対比から分かります。


また、作品を書くという行為は、あくまでも作者の役目なのですが、一方で、書かれた文章を用いて情景を思い描く行程は、すっかり読者に委ねられている、という、『読書』という行為自体が持つ根本の問題もあります。

つまり、作者は(自分以外の読者を想定するのであれば)、自分だけが情景を思い描ける作品を書くのではなく、読者の読解力の範囲と、想像力を妨げない最適な情報量を、常に考えながら作品を書かなければいけない、ということです。

では、作者の思い描く情景を、できるだけ詳しく、かつ無理なく読者に伝えるには、どういう文章が望ましいのでしょう。

それは、次回の第16回のコラムで考察してみたいと思います。



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