第14回 題名には悩む価値がある
『源氏物語』
『ロミオとジュリエット』
『こころ』
『変身』
『羅生門』
『小僧の神様』
『老人と海』
『山椒魚』
『人間失格』
『白雪姫』
『マッチ売りの少女』
『トム・ソーヤーの冒険』
『赤毛のアン』
『はてしない物語』
『銀河鉄道の夜』
『ごんぎつね』
『星の王子さま』
上記は、国内と海外の有名な小説と児童文学の題名の一覧です。
読んだことがある、題名だけは知っている、という方も、けっこういるのではないでしょうか?
では、題名は知っている、という方の中で、その作品の作者の名前も知っている、という方は、どのくらいいるでしょう。
思うに、題名を知っているほどには、作者の名前を知らない、という事が、往々にしてあるのではないでしょうか。
これは、『題名』の方が、『作者の名前』よりも憶えやすい事から来る現象だと思います。
なぜ題名の方が覚えやすいかというと、著名な文芸作品の題名というのが、作品の内容と同じくらい、印象に残るように、作者の手によって、じっくり練られてつけられているからです。
(上記の題名のうち、海外作品の邦題は、翻訳者の創作なのですが、原題にできるだけ似せるにせよ、原題とあまり似ていない題名をつけるにせよ、よく考えられているという点で、日本の作家が付けた自作品の題名と同じです。)
文筆を趣味にしている人で、自作品の題名をつけるときに一度も悩んだことがない、と言う人は、余程の名付けの天才か、余程の自信家か、物事をむつかしく考えない大らかな性格かの、いずれかではないでしょうか。
たいていの人は、題名が思ったように付けられなくて、納まりの良い言葉が見つかるまで、ああしてみたり、こうしてみたり、何度も書き直したり、ひどくなると、それが執筆上の最大の難関であるかのように、真剣に思い悩んで幾日も無為に過ごすことになります。
なぜ、題名というごく短い言葉を決めるために、そこまで悩み抜いて頭をひねらなければならないのでしょう。
それは、文芸作品における題名というのが、人間の身体で言うところの『顔』、に相当する部分だからです。
顔が平凡過ぎて覚えられないよりは、興味を引かれる個性がある、あるいは、本人の内面の魅力が表れている顔立ちの方が良いと思うのは、たいていの人が持っている一般的な美意識です。
それと同様に、文芸作品の題名も、他作品と容易に識別できる個性があり、作品の内容を端的に表す性格や雰囲気を持った題名の方が、書き手も読み手も、より深い愛着や関心を持つことができるようになる、というわけです。
ただし、人の容姿の好みに個人差があるように、題名の好みにも、書き手、読み手、それぞれに、少なからぬ違いがあります。
『ムーンライト・シャドウ』
『新しい太陽の書』
などのカッコいい響きの題名を好む人もいるでしょうし、
『砂の器』
『伊豆の踊子』
といった意味が持つ雰囲気を生かした題名が好きな人。あるいは、
『かわいそうだね?』
『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』
といった、奇をてらった題名が好きな人。
この、奇をてらった感じを押し進めると、むしろ「文芸作品だと識別できない無個性な題名」を好むという傾向への発展もあるかもしれません。そう考えると、何でもありになってしまって、このコラムで熱心に題名を付ける難しさを論じている私の努力自体、無意味になってしまいますが、少なくとも、題名に対する一般的な嗜好の傾向から考えるに、他作品と識別できる(同名の作品が無いか、もしくは少ない題名)、という条件くらいは確保されるのが望ましいのでしょう。
ところが、こうやって題名に関して悩まなくとも、人を惹きつける題名をつける簡単な方法が、一つだけあります。
すでに世間に名の通った名作から、題名をそっくり、頂戴してしまえばいいのです。
「他作品と識別できる事が望ましい」という論旨と矛盾していないかって?矛盾しませんとも。
なぜなら、その有名な作品とは、文芸作品ではないからです。
『ゴールデンスランバー』
『ノルウェイの森』
『見張り塔からずっと』
これらは、日本の作家が書いた作品のタイトルです。
そして、これらは、ビートルズとボブ・ディランという洋楽の世界的アーティストの楽曲のタイトルと邦題を、(中黒や長音記号、送り仮名だけ変えて)ほとんどそのまま拝借したものです。
これは、日本の現代作家の間では大して珍しくないほど一般化して、大手を振ってまかり通っている題名の名付けの手法です。
もちろん、私はこの手法を褒めるために紹介したのではありません。
少なくとも、書き手としてのプライドがあるなら、瓜二つの題名にするのではなく、少しは独自の趣向を加えるくらいの、恥を知ってもらいたいと思って、紹介したのです。
それは、書き手が一生けんめい考えて付けた題名を鑑賞する事を、私が作品の内容を楽しむのと同じくらいに、大切な楽しみにしているからに他なりません。
そんな名づけの尊い苦労を、姑息なやり方で回避されると、それがいかに注目や関心を集めるのに効果的な名付け方であろうとも、私はその不誠実さや他者作品に対する尊重の欠如に対して、不満と憤りを感じ、決して読んでやるものかという、半ば意地に似た決意を固めてしまうのです。
この憤りの強さは、私が創作を趣味にし、常日頃から題名の名づけに悩まされている当事者だからでしょうか。
そうではなく、もっと普遍的な憤りであってほしい、と、私は願ってやまないのです。