ハダル(地面)
玄関を出た瞬間、柑橘系の香りが鼻をかすめた。
爽やかで本来なら大好きな匂いだけど、私は無意識に眉を寄せた。
……左横に気配を感じる。
神崎愛児だ。
チラッとだけ愛児を横目で見ると、彼は僅かにこっちを見て動きを止めた。
それからもう一度、今度は体の向きを変え、マジマジと私を凝視した。
「マジかよ」
「……」
私は無言で愛児の脇をすり抜けるとエレベーターへと進んだ。
今までに無いスピードでエレベーターの『閉』を連打する。
乗ってくるな、乗ってくるなよ、神崎愛児!!
無事に扉が閉まり始めた。
あー、よかった!
私は狭まる隙間を見ながら息をついた。
ついたのにーっ!!
ガツンと音がした途端、閉まりかけた扉があっけなく開いた。
「おー、セーフ、セーフ」
私は内心、舌打ちした。
何がセーフだよ、ちきしょー。
知らん顔をしてそっぽを向く私を、愛児は無遠慮にジロジロと見つめた。
「……なあ」
……無視。
「なあって」
……無視。
1階について、私はまたしても愛児の脇を素早くすり抜け、エレベーターを出た。
「乃愛」
の、の、のあ!!
私はたまらず振り返って愛児の顔を睨んだ。
「下の名前で呼ぶな!しかも呼び捨てすんなっ!」
「いーじゃん、名字おんなじだし。俺の事も愛児でいーからさ」
「で、なに、神崎さん」
「だから、愛児でいーって」
「もうっ、着いてくんなっ」
「出入り口はこっちなんだから、仕方ねーだろ」
くそっ!
私は舌打ちしながら早足でエントランスを出た。
「待てよ」
「何でよっ」
「はい、捕まえたー」
「きゃあっ」
愛児は私の腕を掴み、切れ長の眼を甘く光らせた。
「なあ、どこ行くの?」
悪戯っぽい笑顔で私を見ている。
私は思わずドキッとした。
なんだよ、なんだよ、このかっこよさはーっ!?
「まさか、デートじゃないよな」
私は張り付いたように愛児を見つめた。
……独りで晩御飯がバレたら、
『フッ!独りで晩飯!なんつーつまんねー人生歩んでんだよ!』
とか、
『ダサい女は友達すらいないのかよ、不憫だぜ』
とか言われるに決まってる!
ど、どうしよう。
嘘ついちゃおかな。
固まったままの私を、愛児は黙って見下ろしていたが、いつまでも答えない私の前でその顔から徐々に笑みが消え、次第に真顔になっていった。
「おい、答えろよ」
「…………」
嘘つく度胸が……私には、ないーっ!
「なあ、答えろって。答えないなら……」
掴まれた腕が引き寄せられ、急に愛児の顔が近くなった。
苛立たしげに光る瞳、精悍な頬に通った鼻筋。
「イライラさせんな……」
男らしい口元が僅かに開いた。
……はっ!?
……な、な、なに、なに?!この感覚は……!
私は眼を見開いたまま、愛児の近すぎる顔を見た。
鼻と鼻が触れ合っている。
いや、それどころか、唇が柔らかい。
唇が柔らかいとゆうことは、つまり。
身体だって抱き締められてるし、これは、この状況はつまり……。
そう、愛児は私を引き寄せると、唇にキスをしたのだ。
優しく唇を押し付け、自分のそれで私の唇に何かを描くように、何度も触れ合わせた。
それから少しだけ顔を離して私の瞳を見ると、愛児はもう一度唇を寄せた。
驚きのあまり僅かに開いた私の唇の中に、自分の唇を少しだけ挟むようにした後、愛児はようやくキスをやめた。
な、んで?
心臓がバクバクと煩いのに、私は体が動かせない。
なんで?と尋ねたつもりが、声が出てなかったのか、愛児は私を抱き寄せたまま、何も言わない。
互いの視線が絡む。
しばらくしてようやく、囁くような掠れた愛児の声がした。
「デートなら、行かせない」
「な、んで」
「ムカつくから」
ムカつくから。
……ムカつくから?
ムカつくから?!
つまり、こういう事か。
ダサくて女子力無いくせに、一丁前にデートなんかするんじゃねーよ!と。
外見変えても、中身は変わらねーんだよ!と。
本当に意地悪な男だと思ったけど、私は何だか自分が悪いような気がした。
だって、愛児は完璧な容姿だから。
私は抱き締められたまま、ポツンと呟いた。
「……外見変えても中身はダサいままだから、生意気だと思ってるんでしょ?」
愛児の腕は、解かれない。
「だから私がデートだと、ムカつくんだよね」
私は何だか力が入らなくて、小さな声しか出せなかった。
「……女子力低いのに、デートなんてあつかましいんだよね」
鼻がツーンとした。
視界が歪んで自分が泣いているのに気付いた。
「乃愛」
「けどね、そんなダサい私が目障りなら、関わらなきゃいいじゃん。部屋になんか誘わなきゃいいじゃん。
……昨日、映画の後、私を誘ったよね?
あんたはイケメンなんだから、私なんかと寝なくてもいいじゃん。
……キスだって、なんでするの?」
「乃愛」
「……もう、離してくれないかなあ……」
スルリと愛児の腕が解かれ、私の肌に新しい空気が触れた。
私は少しだけ出た涙を拭うと、愛児から離れた。
「今、私、一瞬嘘つこうかなって思ったんだ。だって、独りで晩御飯食べに行くなんて知られたら、またダサい女だとバカにされると思って」
愛児は息を飲んだ。
私は少し笑った。
「けど嘘なんか、意味無い。私はほんとにダサいから。……じゃあね」
私は踵を返して愛児に背を向けた。
あーあ、せっかくテンションあがってたのになあ。
けど、言いたいことを正直に口に出したら、何だかスッキリした。
仕方がないんだ。
今の私は女子力低すぎる。
愛児はかっこよすぎる。
毛嫌いされるのは、仕方がない。
でも疑問もある。
なんで私と寝ようとしたのか。
どうして、キスしたのか。
意味が分からない。
全然わからない。
私はため息をついてから、街へと歩きだした。