レグルス(小さな王)
お互いの部屋がある八階に着き、玄関の前まで歩いた時、愛児が口を開いた。
「俺、昼間の汗で気持ち悪い。部屋も片付けたいし。三十分後な」
私は素直に頷いた。
私も日中汗だくだったし、この窮屈なスーツを脱ぎたかった。
「寝るなよな。随分酒臭いけど」
「そんなに飲んでないわ。てゆーか、寝たら寝たであんたラッキーじゃん。
独りでゆっくり見れるし」
私がそう言いながら愛児を見上げると、彼はムッとしたように切れ長の眼を光らせた。
「俺がわざわざ誘ってやったのに、寝られたらプライドが許せねーの」
……男前という生物は、絶対的な自信と山のように高いプライドを所持しているらしい。
不細工がこんな事言うと秒殺だ。
やっぱ、イケメンは、得だなあ。
「ふーん」
私は、愛児の精悍な顔立ちを、残念そうに眺めた。
「なんだよ」
性格が悪くて残念ですねとは、まさか言えない。
言えば高級なワインも、イベリコ豚の生ハムも、『ファラオ』も、全てが消えてしまう。
「……じゃ、後でね」
私は無表情で呟くように言った。
部屋に入ってシャワーを浴びると、私はお気に入りの部屋着に着替えた。
……なにか、持っていった方がいいかなあ。
……でも、時間が時間だけに、何を持っていけばイイか分からない。
うーん。
今まで彼氏なんて出来た事ないし、男の部屋へ行った事もない。
……まるで分かんない。
★★★★
三十分後と言われていた私は、三十分が過ぎて暫くの後、隣のインターホンを押した。
「開いてるから、上がってこい」
機械を通しても、イケメンの声はイケメンボイスなんだなー。
私はガチャリと愛児の玄関ドアを開けた。
「お邪魔します」
靴を脱ごうと俯いた時、奥から愛児の声と足音が聞こえた。
「おー、何それ」
「チーズの詰め合わせ。頂き物なんだけど……」
フッと顔を上げた私は、もう少しでチーズの入った袋を取り落とすところだった。
「な、な、な、なんで」
目の前の愛児が、上半身裸だった。
下は、膝下までのパンツだったけど、上は裸で、その裸が大問題だった。
引き締まるどころか、まるで無駄な肉がない愛児の身体は腹筋が割れていて、オマケに、骨盤から脚に繋がるであろう、いわゆる両側の『セクシー筋』が、クッキリと浮き出ていた。
私は瞬きも忘れて、愛児の裸を凝視した。
凄くイイ身体なんだけど、こんなのじかに見たことないし、どうすればイイ訳?!
く、苦しい、空気が無いみたいに、苦しい!
私は身体中の血液が全部顔面に向かって流れてくるような感覚に、目眩がした。
目の前の刺激が強すぎて、私はよろけて玄関ドアに頭をぶつけた。
ガツン!と音が響く。
ダメだ、倒れるっ!
次の瞬間、焦った感じの愛児が、素早く私の体を引き寄せて胸に抱いた。
「おい、大丈夫かよ」
至近距離から顔を覗き込まれて、私は息をするのも忘れて愛児の瞳を見つめた。
筋肉の張った愛児の腕が頬に密着する。
愛児は私を見つめていたけど、やがてクスリと笑った。
「なんだよ」
なんだよって、なんだよって……!
「……もしかして、お前今、俺と密着してドキドキしてんじゃね?」
ドキドキしてるわよ、しない女がいたら、お目にかかりたいわ!
愛児は、少しだけ眼を細めて口角を上げた。
「お前、ダッサイけど、素材は悪くねーな。眼も大きくて二重だし、輪郭も綺麗だし」
愛児は尚も私を見つめた。
「……唇も、ポッテリして可愛いし」
その時、フワリと抱上げられた。
「きゃああっ!」
「……このまま、帰られたらムカつくから、運ぶわ」
なんだ、このエロい……いや、エロくはないか、いや、上裸でお姫様だっこはエロい。
それになんだ、このイチャイチャする感じは。
ダメだ、死にそうだ。
こんな経験はない。
けれど私は、死ぬ前にリビングのソファに下ろされた。
「ちょっと待ってろ、風呂上がりなんだ。シャツ着るわ」
あー、心臓が破裂しそう!
男前は何してもダメよ、ドキドキするから!
私はガチガチに固まったまま、ソファにひたすら座っていた。
キッチンでカチャカチャと音が響く。
暫くすると、
「お待たせ」
わあ……。
パセリを添え、輝くような美しい生ハムと、高級な雰囲気漂うワインボトル。
「綺麗……神崎さん、センスいいね!お皿とか、盛り付けとか!ね、これ、写真に撮ってもいい?!」
私がそう言って見上げると、彼は驚いたように眼を見開いた。
返事はない。
私はスマホを取り出しながら愛児を再び見つめた。
「神崎さん?」
愛児は私を一瞬だけ見たけど、直ぐに決まり悪そうにして眼をそらした。
「アホか!パセリ添えただけじゃねーか。
撮るな」
「えー……」
「その代わり、俺なら撮ってもいーぞ」
……セクシー筋剥き出しのこのイケメンを!?
撮りたい。
けど、ダメ。
「……それはいいよ」
「なんで!?彼氏でも、いんの」
「……」
いないけど、三ヶ月後の菜穂の結婚式の二次会で彼氏をゲットする予定だ。
「なあ、彼氏いんの?」
「今はいないんだけど」
まさか二十九年間いないとは言えない。
「好きなヤツとかは?」
「……今はいないけど、けど……」
口ごもる私を尻目に愛児はシャツを着ながら口を開いた。
「ならいーじゃん、一緒に写真撮ろうぜ」
……なんで、そーなるのか。
私はただ、お洒落な皿に盛り付けられた生ハムが撮りたかっただけなんだけど。
「ねえ、映画みようよ」
私がそう言うと、愛児は我に返ったように瞬きした。
「え?ああ」
★★★★★★
約二時間後。
「はあーー!凄く良かった!」
私は大スペクタクルの歴史映画を見終わり、感嘆のため息を漏らした。
「古代エジプトって、神秘的だよね!」
美味しい生ハムを御馳走になり、その上極上のワインまで戴いて、私はすっかり上機嫌だった。
それに、酔っていた。
あんなに性格が悪いと思っていた愛児が、凄くイイ人に見えたのだ。
ただの素敵なイケメン。
映画が終わる頃、私は神崎愛児を善きイケメン隣人だと思い込んでいた。
「今日は、本当にありがとう」
私はニッコリと愛児に微笑んだ。
「じゃあ、お皿片付けたら帰るね」
私はそう言いながらテーブルの上の皿を手に立ち上がろうとした。
「待てよ」
「ん?あ、まだ飲む?ごめん、注ごうか?」
私が愛児を覗き込むと、彼は息を飲み、私を見つめた。
「マジかよ。お前、ただ厚かましいだけなのか、欲情してんのか、どっちだよ」
「は?」
よ、よ……?
「欲情って?」
欲情なんて言葉を普段使わないし、まさかそんな言葉を投げ掛けられると思っていなかった私は、首をかしげて愛児を見つめた。
「その笑顔。
眼がトロンとして、頬がピンク。
おまけに屈んだ時に胸が見える。
……お前、もしかして俺とヤりたいんじゃねーの?」
「はあ?」
ヤりたいって、ヤりたいって、この意味は分かる。
次第に欲情の意味も、酔った頭の中ではっきりと理解出来た。
「わ、私、そんな気は……」
すぐさま心拍が上がりだし、私は思わず後ずさった。
「なあ」
素早く私の腕を引き、愛児は私の背中に腕を回した。
「さっきの続きだけど、お前、彼氏いないんだろ?だったらさ、今から」
私は思わず愛児の腕の中で硬直し、固い声を上げた。
「や、やだ」
……愛児はマジマジと私を見つめた。
「じゃ、なんで俺の家に来たの」
私は観念した。
「それは……ファラオがどうしても見たかったし、イベリコ豚もワインも、飲みたかったから」
私が正直にそう言うと、愛児は信じられないと言ったように眼を丸くした。
「なんだよ、中身までダサい女なのかよ」
私は背中に冷水をかけられたようにヒヤリとし、酔いもどこかに消え去っていった。
愛児は私を見つめて、低い声でたずねた。
「彼氏いないんだろ?好きなヤツも。
なら、俺はどーなの」
『俺はどーなの』
私は愛児の腕の中でもがいた。
「は、離して」
「ダメ。答えるまで離さない」
耳元で、心臓の音がバクバクと激しく響き、私は愛児の甘い瞳を見つめた。
「私っ!三ヶ月後に友達の結婚式に出て、その二次会で彼氏を作る予定なのっ」
愛児が、驚きの表情で私を見た。
「……あんたにしたら、私なんてダサい女だろうけど……私、真剣に私を好きになってくれる男の人を探そうと思ってるの。
……ちゃんと恋をしてから、段階を踏んで行きたいの。
あんたみたいなイケメンからするとバカみたいかもしれないけど……。
だから、こういう、体だけとか、そういうのは嫌なの」
ああ、何て恥ずかしいんだ!
私、なんで隣のイケメンに、こんな胸のうちを語ってるんだ!
愛児は、右手を口元にあてがい、視線をさ迷わせた。
「乳臭いガキなんだな、年上の割りには」
「は?!あんた、年下?!」
愛児はヘラーッとした笑顔で私を見て続けた。
「そー。俺、二十七。
お前、越してきた三年前に二十六っつってただろ?二歳差だ」
な、な、なんだってー?!
私はアングリと口を開けたまま、愛児の端正な顔を見つめた。
私は今まで、愛児を歳上だと信じていた。
体格がよくて背が高くて、端正な顔立ちだし、いつも落ち着いていて大人っぽかった。
会う度に私を『お前』呼ばわりだし、スーツ姿は実に様になっていたし、連れ込む女は毎回モデルのような八頭身美女で。
愛児は私の受けた衝撃などには素知らぬ顔で溜め息をついた。
「マジないわ。夜に男が部屋に誘って、なんもしない訳ねーだろが。
食いモンと酒につられてノコノコ上がり込むなんざ、女子力低すぎ、おまけにダサすぎ」
私は恥ずかしさと怒り、後悔などを感じ、ワナワナと震えた。
「……殺す」
「え?」
「殺すっ!」
「いてっ!」
私は愛児の顔面に思いっきりグーでパンチをし、立ち上がった。
「あんたって、最低っ!私が恋愛経験のないダサい女だから、ちょっと誘ってヤっちゃおうって魂胆だったのね!
本当に最悪だよ!
悪かったわね、ダサくて!」
愛児は殴られた左の頬に手を添えたまま、眼を見開いてこっちを見ている。
私は続けた。
「さっき、『俺はどーなの』って言ったわよね?!
どーかっつーと、私の好みはお前じゃないっ!」
私は思いきり愛児を睨み据えた。
それからそのまま、テーブルの上の鍵とスマホを掴んで玄関へと急ぐ。
ああ!なんて私はバカなんだろう!バカすぎる!
隣の自分の部屋に戻ると、私は大きく息をしてから、唇を噛んだ。
なんで私、愛児の部屋に行っちゃったんだろう。
バカだ、私は!!
私はベッドに飛び込むと頭から布団をかぶりギュッと眼を閉じた。
今日はもう、寝よう。
何も考えたくなかった。