黒竜と、黒竜と
ウィクトーリアは去った。ノアは全速で戦域を離脱していた。
甲板からも、広がる闇や墜ちていく竜の姿は確認できていた。
「父さんが、竜を殺している……」
「あれも相当の覚悟を持って来たようだな。――ここである程度血に酔った竜を殺してしまえば、後顧の憂いを断つことは出来る。無論、死んだ竜の血は新たな呪いを生むだろうが……あの程度の竜が死んだくらいでは、成熟した竜達を狂わせるほどの呪いには成長しない」
「でもそれは……対処療法ですよね」
「大元を断つことではないわけだからな。しかし、今ある呪いを食らい尽くせば、もっと凶暴性を獲得した竜が野に放たれることになる。立派な処置だ」
「――その間に、わたくし達はネイトに呪いを完全に排除できるだけの力を身に着けていただく。竜達の襲撃を躱しながら……ですわね」
「……ちょっと待って」
ネールが空を見ながら、二人の会話を遮った。
彼方では、時折蒼い光と紅い光がぶつかり合っているのが見える。
ウィクトーリアとダーインスレイヴの戦闘は続いている。
つまり、まだあの騎士は生きているということだ。
「なんだ?」
「ほんとに、これでいいの? トレインとウィクトーリアは、今、あたし達が持ってる唯一の神骸機でしょ? 今はまだ戦ってくれているけど、たぶんきっと……」
「……負けるだろうな」
セドリックも、空に向けた視線を動かさない。
「……千年前と何も変わらん。あいつが色々なものをかなぐり捨てたところで、ウィクトーリアが大幅に強化されたわけではない。いずれ、墜ちる」
「でも、今はあたし達がいる! あたし達とノアが援護してあれば、もしかしたら……」
「勝てませんよ」
冷静な言葉が、その考えを打ち消した。
「この船が如何に強力な力を秘めていて、弱い竜相手であれば圧倒できる代物だとしても、あの神骸機が強大な力を持っていたとしても……閣下には勝てません。一対一はもちろんのこと、二体でかかったとしても、勝てません」
「そんなの、やってみないと……!」
「やってみないとと言ってやってみて、ネイトさまを失いかねないような危険は冒せません。いえ、冒すのは勝手ですが、その時は私としてもそれなりの手段をとらせていただきます」
「アイ……」
「――あなたのお命をお守りするのが私の役目です。むざむざ捨てさせるわけには参りません。それに、モルガナ、ファーレンハルト。あなた達は分かっているのでしょう? 今から戦場に戻るのが、どれだけ愚かなことなのかを」
「死にに行くようなものだ」
「そうですわね。壮大な自殺と変わりませんわ」
「――だったら、トレインさんは自殺しにいったってこと!?」
二人の魔女は答えない。
「……そんなことは、言わないでくれるか」
沈痛な面持ちで、セドリックが言った。
「――そんなことって! セドはこれでいいの!? あの人、友達だったんでしょ!? 友達が死んじゃうんだよ? でも今なら助けられるかもしれない……! それなのに、助けなくていいの!?」
ネールにとって、それはあまりに不条理すぎた。
自分達のために、勝てない戦いにウィクトーリアは身を投じている。
今も、空の彼方には蒼い光が見える。光の主は戦っているのだ。千年前と何も変わらず、ただ一人、援護もなく竜の盟主と結んでいる。
「……あの人は、わたくし達が逃げ果せることを望んでいますわ。助けに来る事なんて望んでいない。あの人はああなった目的を果たしたいだけ。そこに騎士の矜恃も何もない。わたくし達が息をするのと同じ事です。あれは、己の機能を果たすためだけに残った――」
「それはつまり、あたし達を逃がすことに繋がるわけでしょ!? 行動の理由なんてどうでもいい、あたし達にとってその行動はどんな意味があるか……! それが全てじゃないの!?」
「……ネールが助けに行きたいのなら、僕は止めない」
「ネイトさま――?」
血相を変えたアイシャがネイトを見る。
ネイトも、己の父親の力のほどは分かっている。援護は焼け石に水にもならないだろう。
「この船の艦長はネールでしょう? 船の行き先を決めるのは、艦長の仕事だよ」
「ネイト……」
「船員は、君の指示に従い、全力を尽くす。――君がウィクトーリアを助けろというのなら、きっとみんなは協力してくれるよ」
彼女が叫んだ時から、モルガナ以外の者達は分かっていた。
彼女は何があろうと、絶対にウィクトーリアを見捨てないということを。
「――ファーレンハルト、セド、力、貸してくれる?」
「……船の主導権は君にある」
ファーレンハルトは白旗ムードだ。
「――それが命令ならば、全力を尽くそう」
「ありがと。――ノア、転進! あたし達の騎士を援護して!」
「……馬鹿ね」
誰にも聞こえないような囁きと共に、ノアは波を立てて転進する。
目指すは戦場。騎士と黒竜の死闘の場へと、異形の船は進んだ。
おびただしい数の砲撃の雨がウィクトーリアを襲う。
時に剣で砲撃を防ぎながら、その悉くを躱して距離を詰めようとするが、圧倒的な弾幕はそれ以上の距離を詰めさせはしない。
ウィクトーリアはジリ貧だ。既に装甲の各所は溶かされ、鎧の下の竜の素体が剥き出しになっている。
「……人を超えても、お前は我に勝てん」
紋章の砲台を展開しながら、ダーインスレイヴは一本になった手を握り締める。
「そこが人の到達点だ。トレイン・ハートライト。我は、そこに至ったお前を見事と讃え、そして、粉砕しよう。それが盟主たる我が定め。竜の頂点に至った存在としての責務!」
「――ほざけ、まだ終わってねぇ」
白い装甲の破片を散らしながら、ウィクトーリアは蒼翼を広げ、なおも飛ぶ。
正確無比な砲撃はその機影を捉え、離さない。
砲撃を形作るのは、ダーインスレイヴの血であった。彼は己の血を操り、砲撃を放つ紋章を、あらゆるものの侵入を阻む防壁を作り出す。その術は年月を経る毎に進歩し、今や、仮初めの大地を作るにも至った。
その術はまさしく竜の頂点に至った力と言えた。
しかし、竜の真髄を持ってしても、ウィクトーリアを退けるには至らない。千年前、あれほど簡単に葬ることができた騎士は、未だかつてない難敵へと姿を変えていた。
あの時と違い、騎士にはもう、守るべきものはない。その背中には何もない。
失う命――肉体すらもない者の、死をも畏れぬ飛翔を何が止められるというのだろう。
物質的に再起不能にしなければ、ウィクトーリアは止まらない。
「お前ほど上手く飛ぶ竜は、そうはおるまい……!」
憎々しげな言葉と共に、ダーインスレイヴの正面にも紋様が展開される。
四本の砲撃をウィクトーリアは鎖で防いだ。鎖は熱に耐えきれず、繋がれた二本の剣は分かたれ、機体が空で仰け反り、一瞬制止した隙を突き、紋様の砲撃が殺到する。
「クソがッ!」
絶叫と共に、ウィクトーリアは紅い光に包まれた。その四肢を、翼を、頭を穿つ、死の光だ。
剣だけでは全てを受けきれない。
ウィクトーリアは、初めて止まった。葬り去るには、十分すぎる隙だ。
「……槍と変われ。我が忌むべき血よ!」
紋様から放たれるものが、熱を持った砲撃から、紅く鋭い槍へと変わる。
四方八方から打ち込まれる槍の全てを庇うことはできず、事如くをウィクトーリアは受けた。
「……終わったか」
串刺しになったままのウィクトーリアの背に、蒼い翼はもう無い。
力なく伸びきった腕に、剣は握られたままだ。
「人の英雄よ、今度こそ、これでさらばだ。……汝が魂、せめて灰の地平に――」
手向けの言葉が終わる前――四肢に、再び力が漲った。
「甘い!」
串刺しになったままのウィクトーリアが、動いた。
投げ放たれた剣の一本は右肩に。深々と突き刺さった剣に、ダーインスレイヴはたじろぐ。
「こんなもんじゃないだろウィクトーリア……!」
主の怨嗟の声に、彼と共にあり続けた騎士は――いや、鎧の下の竜は、咆哮した。
全身を刺し貫かれ、まだ動くのが不思議なほどの状態であっても、その身に宿る竜殺しの魂は、まだ潰えていない。
蒼翼は機体を運ぶ。主の宿願を果たすために。
その身を数多の竜の返り血と主の妄執で穢されていたとしても、竜殺しは、最後の一瞬まで竜殺しであり続ける。剣は一太刀しかない。柄を両手で握り締め、翼は空を駆けた。
「まだ立ち上がるというならば……!」
ダーインスレイヴの紅い瞳に、砲撃を放つ紋様とは違う、別のものが浮かび上がる。
それは、かつてウィクトーリアを縛った皇竜が皇竜たる証。
全ての竜を平伏させる魔力を持った、強大な魔眼である。
「地に墜ちよ」
「断る!」
ウィクトーリアは縛られない。
竜の肉体がその鎧の下にあったとしても、皇竜の魔眼から竜が逃れられるはずがない。
魔眼が縛ることのできぬ理由がいくつも頭を巡る最中、怪物は得物と共に飛来する。
「消えてなくなれぇぇぇぇぇッ!」
鬼気迫る斬撃がその身に迫る。
「我が身を守れ……!」
ダーインスレイヴの身体の正面に、結界が展開された。島を守っていたのと同じもの。ノアの砲撃すらも受けきる結界は、満身創痍の一撃など通すはずはない――はずだった。
結界に剣が触れ――あまりに容易く、結界は裂けた。
「なっ……!」
魔眼でも、結界でも、ウィクトーリアは止まらない。
その心が折れぬ限り、ウィクトーリアは腕の一本になったとしても、戦い続けるだろう。とすれば、全て、消し飛ばすしかない。
「砲撃紋展開――」
ウィクトーリアを取り囲むように紋様が展開する。
「その四肢、焼き落としてくれる!」
間髪入れずに放たれる砲撃。ウィクトーリアは、もはや避けようともしなかった。
直撃から発生した猛烈な爆風と熱波がダーインスレイヴを襲い――爆風の中から飛来する、黒い影を見た。
「――なんと」
「……まだッ!」
もはや、ウィクトーリアに往時の面影はない。
白銀の鎧は蒸発し、あるのは黒き素体だけ。
剣は溶け、全身から神骸機を動かす赤い動力を噴き出しながらでも――まだ、その意志は折れてはいなかった。
「剣なき貴様に何が出来る!」
「剣は、まだそこにある――!」
空いた左が、右肩に突き刺さった剣の柄を握り込む。その腕を焼き切らんとばかりに、腕の周囲に紋様が展開した。
どちらが速いか――一瞬が、全てを分けた。
翻った剣は、ダーインスレイヴの右肩を斬り落とす。遅れて放たれた砲撃は腕を焼き、剣は手の中から落ち――
「もう一つ!」
刃の溶けた柄を投げ捨て、空になった右手が最後の一本を掴み取る。
腕を庇うダーインスレイヴに、紋様を展開する余裕はない。
「ウィクトーリア――行けぇぇぇぇぇ!」
竜の如き巨大な蒼翼が広がり、黒い竜は魔眼に剣を突き立てた。
「見事――だが……!」
口元は苦悶に歪む。しかし、竜の盟主もこれで堕とされはしない。
「ならば手ずから――貴様のあるべき場所、灰の地平に送ってくれようッ!」
手ずからとは――
「ハアアアアアアアアアアッ!」
残った左腕でもって、
「今度こそ……眠るがよい!」
ウィクトーリアを、殴り飛ばすことだった。
弾丸のような勢いで吹き飛ばされたウィクトーリアは海面にぶち当たり、動かなくなった。
血槍は消え去り、その身体には無数の穴が空いている。それは、明らかな致命傷であった。
動かないウィクトーリアに――白波が、押し寄せた。
紅い砲撃が、ダーインスレイヴの身体を捕らえる。
咄嗟に出現した血の結界は砲撃を弾き返し、弯曲した返す刀の一撃も、後方に展開した結界で防ぎきった。
「探す手間が省けたというべきか……それとも……」
ウィクトーリアを守るように、ノアの船体はダーインスレイヴに立ちはだかる。
竜の盟主にとって、如何に希望の匣船といえども、ノアはウィクトーリアに遠く及ばない、取るに足らない敵であった。
しかし、その甲板にある一人の少年が放つ威圧感は尋常ではない。
「……やはり、剣を抜いたか、ネイト」
諦観の籠もった言葉と共に、竜の盟主は臨戦態勢に移行した。
船との戦いならば、すぐにケリはつく。そして、沈めてからでも時間的猶予はある――彼の息子と忠臣を救うだけの時間はある――その思いが間違いであったことを、すぐにダーインスレイヴは思い知らされた。
「……アイシャ……」
「申し訳ありません、閣下」
一体の蛇が、空に舞い上がる。
「アイシャは、我が責務を果たします」
彼女の責務――かつて、己が命じたただ一つの任務。
ネイトという少年を、ただひたすらに守り、その側にあり続ける。
「……加減はできぬぞ」
「そうでしょうね。だからこそ……こうして参ったのですよ」
竜同士――特に成熟した竜同士の戦いならば、命だけは奪われない。
ならば、彼女は愛しき主の肉壁になろうと――そう思ったのだ。
戦場に向かう道すがら、アイシャは覚悟を決めた表情で言った。
「……ネイトさま、閣下は恐らく、我らも排除しようとするでしょう。この船は、何をどうやっても、閣下に勝つことはできません。戦うだけ無駄です。……しかし、それでも戦うらしいので、ネイトさまをお守りするため、打てる手を打ちましょう」
「……いいのかい?」
「もちろん、イヤです。――だからネイトさま、」
その言葉を遮るように、ウィクトーリアが海面にぶち当たった。
「――うそ」
未だに本当の戦いを知らぬ少女は、どこかで期待していたのだろう。
あの竜殺しは、千年の時を超えて竜の盟主にリベンジを果たすのだと。
しかし、知っていた者達の行動は早かった。
「トレイン!」
呼びかけに応えはない。
「引き上げろ! ネール、武装の指示を!」
「あ――う、うん! アンカー射出! ウィクトーリアを引き寄せて!」
ノアの船底から放たれたワイヤーが、波間に浮かぶウィクトーリアに巻き付き、船体の方へ引き寄せていく。
その様子を見つめながら、アイシャはファーレンハルトの名を呼んだ。
「……なんだ?」
「戻ってきたということは、むざむざネイトさまを無駄死にさせるようなことはないですね? 手は、まだあるのですね?」
誰が見ても、ウィクトーリアに再起は望めそうもない。
それは、ファーレンハルトやモルガナには想像のついていたことのはずだ。
それを承知で、二人は戦場に戻ることを許容した。だとすれば、まだ手はあるはず――いや、ないなどということは許さない――そんな強い意志が、アイシャの問いかけには籠もっていた。
「……ある」
ファーレンハルトは長い沈黙の後、肯定した。
「わかりました。……なにをされるつもりかは分かりませんが、その言葉を信じます」
ネイトの望みを汲み、ネイトの身の安全を絶対に確保する方法を考えた結果、彼女が辿り着いた答えは一つ。
ファーレンハルト達に賭けるしかない。
「ネイトさま。私は、あなた様が赤子の折から仕えさせていただいてきました。千年近く、私が生きた時間の大半を、あなたと共に生きてきました」
「アイ……?」
「全て、閣下の命に従ったからでした。……ですが、こうして今もあなたの側にあるのは、紛れもなく私の意志です。ですから、ネイトさま。あなたが王だというならば、私は臣になりましょう。あなたは主で、私は従。それは今までも、そして、これからも変わらぬ、あなたと私の関係です」
アイシャはスカートの裾を摘み、深々と頭を垂れた。
「我が主よ、我が王よ、ご命じください。私は今、なにをすればよいですか」
今、ノアに乗る彼らにもっとも必要なもの――それは、時間だ。
ウィクトーリアを再起するにせよ、再び撤退するにせよ、時間がなければ何も始まらない。ここまでダーインスレイヴと肉薄している以上、決着は瞬時についても不思議ではない。
「――君が持てる全力で、時間を稼いでくれ。父さんの相手は簡単に勤まるものじゃないのは分かってる。だけど、時間を。僕達が、何かを出来るだけの時間を」
「……かしこまりました。世界竜に連なるもの、蛇竜のアイシャ。我が王の命に従い、その姿をさらしましょう。――ファーレンハルト、ネイトさまのことを頼みます。モルガナは信用できませんが、あなたはまだ、マシです」
「……承知した。すまない」
「いいえ。時間を稼げばよいだけですから……」
「アイシャ」
ネイトの呼びかけに、逆鱗に覆われ始めた顔で、アイシャは振り返った。
「……時が来るまで、君は絶対に死ぬな。これが、僕の王としての命令だ。僕を守ることなんか考えるな。死ぬな」
「――かしこまりました」
優雅な礼と共に、常、共にあった侍女の姿はかき消えた。
金色の逆鱗に覆われた長い身体――蛇竜特有のよくしなる身体をもって、アイシャはダーインスレイヴと同じ所へ昇っていく。
「――それで、僕は何をすればいいですか」
「……神骸機を、もう一度動かす」
引き上げられたウィクトーリアは、無惨な姿を晒していた。
「……動くんですか?」
「あのままでは動かん。……神骸機を再構成する」
「再構成?」
「乗り手を変えるつもりか? しかし……そのような方法、聞いたこともないぞ! だいたい、鎧がない状態で乗り換えるなど……何が起こるか……。しかも、鎧がほとんどなくなったとはいえ、この神骸機はあくまでトレインのものだ。拒絶反応が起こる可能性も……」
「起きないよ」
「なぜ、言い切れる?」
ファーレンハルトはノアの前にただ立ちはだかり続けるアイシャを見上げ、首を横に振る。
「正確に言うと、起きる可能性は限りなく低い。拒絶反応とは、一つの容れ物に規格の全く違う別物をぶち込むから起きるのだ。その規格がある程度合っているならば、問題はない」
「……どういう意味?」
「――トレイン・ハートライトの妻は身籠もっていた」
ただ聞くだけではあまりに意味の通らない言葉に、セドリックとネールは眉をひそめた。
「なに、突然……」
戸惑う二人のことなど構いもせず、ファーレンハルトは言葉を続ける。
「ブリテンが落ちた時、彼の妻の命もまた消えようとして……」
「一体の竜が、気まぐれに助けたのですわ」
後を引き継いだモルガナの言葉に、セドリックの表情が大きく変わる。
「竜には、どうしても人間の身体が必要でした。このノアは人を救済するための匣船。人でなければ見つけることも叶いませんでした。彼女の救済の申し出は渡りに船でしたわ」
「まさか……」
「身体を譲り受けた時、竜は「子」というものが何なのか知りませんでした。子を為すということ、子を産むということを、まるで分かっていなかった。ねえ、ファーレンハルト」
モルガナの言葉は、この場に不釣り合いなほどに楽しげだった。
「――どうにかこうにか産み落として赤子の世話をしながらノアを見つけたものの、この匣船は竜の手に落ちていました。それはファーレンハルトを捕らえるための、罠だったのですわ」
「……しかし、ダーインスレイヴの目的は私の排除だけではなかった。呪いに満ちていく世界を、ヤツはなんとかするための方法を探していたのだ。そして、ヤツは見出した」
「太古の時より生きる、剣の竜に連なる者から生まれ落ちた人の子ならば――竜の呪いを祓い、あわよくば、竜と人が殺し合うことのない世界を生み出せるのではないかと」
「私とヤツは希望を交換したのだ。ま、こっちは命を見逃してもらうために、竜としての肉体を捨てたがね。奴らとしても、竜としてのファーレンハルトが死ぬならば、大した脅威にはならないと思ったのだろう。船は竜の敵ではないしな」
ファーレンハルトはコンコンと、甲板を踵で叩いた。
「……つまらない昔話をしてしまったが、早い話、ネイトはトレインの子だ。紛れもなくな。血が繋がっているならば、神骸機が拒絶反応を起こすこともないんじゃないか」
人ならざるもの二人の言葉に、ネールとセドリックは呆然と聞き入っていた。
そして、話題の中心にあった当事者は――
「……そう、ですか」
「前に、嘘をついたな。すまない」
ファーレンハルトの表情は変わらない。
「……ファーレンハルト、あなた、もう少し言うことがあるんじゃないの?」
モルガナの言葉への反論を遮り、セドリックが吠える。
「待て、じゃあお前は……!」
「……お前の目が、ほとんど見えなくなっていてよかったよ。トレインにも言えるがね。ああそうだ。私の身体は、トレインの妻のものだ」
ファーレンハルトは己の胸に手を起き、瞳を閉じた。
「この身体が子を産んだのは、トレインが墜ちた三ヶ月後。モルガナの手伝いもあって、赤子の状態は心身共に健康だった。が、私がどうにもその、赤子との付き合い方が分からなくてな。モルガナに助けてもらっていた。……ノアが見つかると同時に、モルガナはどこかへ去り――こいつはネイトの中に幻体を潜り込ませていたようだが――私は、ダーインスレイヴにネイトを預けた。それからは、ま、ご承知の通り」
ファーレンハルトはそこで言葉を切り、引き上げられた、ウィクトーリアだったものを見た。
「……お前、まだ!」
「当たり前だろ、俺は、まだ、」
途切れ途切れの声にはノイズが混じっていたが――トレイン・ハートライトとウィクトーリアは、まだ死んでいない。
「やめろ! 関節がほとんど繋がっていない! 今、無理矢理動けば引き千切れるぞ!」
「引き千切れた神骸機はさすがに繋ぎ直せん。諦めて大人しくしていろ」
駆動音は一瞬で止んだ。恐らく、当人も現状を理解したのだろう。
ぐちゃぐちゃの機体は甲板に倒れ込んだ。
「……また、負けたよ」
ノイズが混じったその声は、一同が聞いたことのないくらい穏やかなものだった。
「トレイン!」
「――今度こそって、思ったんだけどな。俺じゃ、勝てないらしい」
「そんなことはいい……! それよりも、」
「セド……それこそ、どうでもいいことだよ。身体はあいつでも、中身は違う」
その言葉を聞いてもなお食い下がろうとするセドリックだったが、トレインは言葉を続ける。
「今やるべき事は、違うんだろ、ファーレンハルト」
「……そうだ。我々には、神骸機が必要だ」
「こんな状態でも、大丈夫なのか?」
「根本を作り替える。お前が生きているならば、問題はないだろう」
そうか、安心した――と、疲れ切った声が響いた。
セドリックも、ネールも、言葉がない。竜殺しは、摩耗しきっていた。
「ごめんな、セド。……俺は、ここが限界だ。でも、そうか。俺は、大事なものは、守れてたんだな。ここまで死に損なってきて、よか――」
声が途絶え――一人の男の闘争は終わった。
後に残された、男の忘れ形見たる少年は、右の拳を握り締め、一歩、前へ出た。
「胸に触れるだけでいい。お前の右手なら、開けられるはずだ」
腕に宿る壊すための力は、千年閉ざされていた扉をも解き放つ。
胸部の装甲は弾け飛び、その内側は露わになった。
内から溢れ出すのは籠もった空気だけではない。
明らかに平常ではない重い空気が、甲板に流れ出した。
「なにこれ……!」
「島の空気と同じだ……! いや、それよりもずっと……濃い……!」
「千年間、神骸機の内部で濃縮された竜の呪いか! まずいな、これほどの濃度の呪い、あっちの竜達が殺到するぞ!」
ファーレンハルトの言葉通り、竜の群れの一部は既にノアの方を向き始めている。
「ネール、セドリック! お前達は船内に戻って、全力で応戦してくれ! 再構成が終わるまで、竜達を寄せ付けるな!」
「りょーかい! 雑魚相手ならまっかせといて!」
胸を張るネールに、ファーレンハルトの表情は和らぐ。
そんな彼女に念を押すように、セドリックは一睨み。
「……やれるんだろうな?」
視線を真っ直ぐ受け止め、ファーレンハルトは大きく頷いた。
「やるさ。――さあ、早く!」
竜達の空をつんざく叫び声に追い立てられるように、ネールとセドリックはノアの艦内に退避する。
「ファーレンハルトは?」
「私は残る。――それと、その、なんだ、ネイトは私に何か言いたいことは、ないのか?」
さすがのファーレンハルトも、気まずそうな顔を見せる。
大して、ネイトは普段通り――ケロッとしていた。
「……正直、よくわかりません。それに今は、そんなことを話している場合ではないでしょう?」
「ネイトの方がよっぽどできておられますわね。ええ、その通り。今はそんなことを話している場合ではありません。話すのは、終わってからでもできますから」
「そ、そうだな……。ネイト、入れるか?」
「たぶん、大丈夫かなと。人の身体にはそんなに悪影響もないんですよね?」
「……ネイトの身体は、正確に言うとハーフですわ。いえ、クォーターかしら……」
「え?」
「ですがまぁ、人の身体しかないわけですから、恐らく大丈夫でしょう。さ、お早く。わたくしもお供いたしますわ」
「いいのか?」
「相手は竜の盟主ですよ、ファーレンハルト。持ち得る手は全て打ちませんと」
「……承知した。ネイトを頼む」
「ええ。もっとも、当たり前の話ですけれど。王の外征に、付き従わないわけにはいきません」
わたくしは、この方の臣ですから、と、モルガナは付け加える。
ネイトはウィクトーリアの中に足を一歩踏み出す直前、振り返った。
「ファーレンハルト、僕は、穏便な解決のためにこれを使うんです。哀しい顔なんて、しなくていいんですよ」
穏便な解決――誰も傷付かない決着を求めて、少年は神骸機を駆ることを選んだ。
己の本当の父親の命が燃え尽きようとしていても、己の臣がその身を賭けて、主のために時間を稼いでいるとしても、彼はまだ、穏やかな決着をもたらせると信じていた。
何の裏打ちもない。彼はただ、それを望んでいるだけなのだ。
「ダーインスレイヴ……きっと、君に預けたのは間違いじゃなかったんだろう」
心優しき王を飲み込み、ウィクトーリアの胸部は閉じた。
◆
ウィクトーリアの中は狭く、すぐに行き当たった。
僕達の前には、人一人がすっぽり収まるほどの大きさの、繭のようなものがある。
「これが、トレインさんの言っていた……スケール……?」
「人の意識を竜の物へと高めるもの、ですわね。これなんかは、神秘の代物ですわ。まあそれはともかく、英雄を解放してあげましょう。いつまでも囚われていては、救済はあり得ませんもの」
「やっぱり、右手?」
「はい。ま、剣で叩き斬ってもいいでしょうが。ネイトには必要ないものですから、壊してしまっても構いませんわ」
なぜ僕には必要ないのか、その理由を問い質す時間はない。
僕は、右手でスケールに触れた。
繭は一瞬で裂け、その中から、何かが倒れ込んできた。
それは、僕とてもよく似た人。
その身体は冷たく、瞳は閉じられていたけれど――僕には、分かった。
黒い髪や肌の色、僕と似たような背格好――ああ、そうか。
「この人が……」
「ウィクトーリアに宿った意志。人の英雄。王にはなれなくとも、人の身で、人の頂点に至った方……。穏やかな死に顔ですわね」
僕の父親は、眠るように死んでいた。
こんな死に顔だった人があれほど苛烈に戦ったのか――いや、こんな死に顔だったからこそ、トレイン・ハートライトという人は、戦い続けることができたんだろう。
自分だけ、こんな穏やかな死を与えられるのはおかしいのだと。
人はみんな、自分のような死に様を与えられるべきだったのだと。
そんな思いが、白銀の騎士を動かしていたのかもしれない。
でももう、その声は聞こえないのだということをようやく僕は理解して――胸に、少し痛みが走った。
「ネイト!」
駆動音が、中で響きだした。
どこからともなく、黒い縄のようなものが伸びてきた。よくみれば、これは――スケールを作っているものと、同じ素材……?
「ネイトのスケールを作ろうとしていますわね。……そんなものは必要ありませんのに。ま、触れてみれば分かるでしょうが」
モルガナの言葉通り――縄のようなものは右手に触れるまでもなく、身体にほんの少し触れるだけで、溶けるように消えていった。
「スケールは、人の心を竜の精神に近付け、竜の肉体足る神骸機をより精密に制御させるためのもの。微睡みの中でなら、人はあらゆる怪物になることができますから――しかし!」
僕は夢を見なくとも、竜のことを理解している。
血や種族は違っていたとしても、彼らは常に側にあった。
僕の肉体は竜と程遠くとも。
きっと心は、竜に限りなく近いと思うから!
「この方の心は竜のものに相違ない! 名も無き竜よ、そなたの力、全て捧げよ! この竜の心はお前を駆るに足る器である!」
機体が揺れる。これは、歓喜の雄叫びだ。
手にとるように、機体の考えていることがわかった。
僕は、この神骸機を僕の物にすることができる!
「しからば見せよ――汝という神骸機の本懐を!」
機体の中に、雷鳴が響いた。
神骸機は――いや、竜は吠える。
再誕の咆哮が海を揺らし、空を揺らし、世界を揺らす。
「すばらしい……! やはり、あなたは本物ですわ……!」
神骸機はもう動く。
一刻の猶予もない。まずは、ノアを守らなくては。
そして、次にアイを守る。
今、握り込んだ手の平に感じる力は、並大抵でないことのはずなのに、驚くほど簡単に思えるほどに、強い。
「行きましょう、ネイト」
僕の右手を握って、モルガナは笑う。
「戦いの時間です」
◆
ネイトを取り込んだウィクトーリアは、ほどなくして立ち上がり、浮き上がった。
ノアからの熾烈な砲火はまとわりつく竜の数を散らしてはいたが、劇的に数を減らすまでには至らない。
「あれで戦うのか……?」
「いや、違う!」
ファーレンハルトの声を、狂った竜達の叫びを掻き消すような、歓喜の咆哮が響き渡った。咆哮と共に、ウィクトーリアであった部分が、紅く輝き、変貌していく。
腕は肥大し、翼は六つに分かれ、肩や足、腰回りも二回りは大きくなり、より凶暴性を感じさせる、刺々しいシルエットを描き出す。
「あれは……竜なの……?」
「神骸機の鎧の下には竜がいる。あれの竜性が具現したのだ。ネイトという器を持って、彼に相応しい姿へと変貌することに他ならない」
トレイン・ハートライトに相応しい姿が白銀の騎士であったように、ネイトという少年にもっとも相応しい姿は、六枚の翼を備えた黒竜なのだ。
「神骸機が、竜の如き姿をとるということ、か……」
「そうだ。――あれが人と竜の希望だよ、セドリック」
六枚に別れた翼から、蒼翼ではなく――燃えるように紅い翼が六つ伸びる。
「再誕おめでとう、名も知らぬ神骸機。さあ、存分に……その力を振るうが良い!」
黒き神骸機は、紅い残像を伴って、消えた。
到底、人の目には追い切れまい。一直線にひび割れた艦橋のガラスを見ながら、一同は起きることをただ、見ていることしかできなかった。
上空をハゲタカのように旋回しながらノアの砲撃に晒されていた竜達は、砲撃の止んだ一瞬で距離を詰めようとし――全て、引き裂かれた。
「愚かな。勝てない相手の区別もつきませんか」
引き裂いたのは神骸機の剛爪だ。
爪に滴る血を振り払い、落とした竜達には目も暮れず、神骸機は空を駆けた。
ブリテンに殺到していた竜達は、神骸機の方へ殺到する。
それはそうだろう。かつて、ウィクトーリアは大戦において凄まじい数の竜を斬り捨ててきた。浴びた血の量も尋常ではない。機体自体が呪いの坩堝であることは再誕を果たしたあとも変わらないどころか、さらに強まっていた。
「……これが、殺すってことか」
己の手足と寸部変わらぬ感覚が流れ込むネイトは、さすがに表情を強張らせている。
竜を引き裂くこと、それは、己の手で行うことと相違ない。
生々しい感覚が手の平には残っている。
「ネイト、恐れないでくださいまし。――そんな時間はありませんわ」
「……分かってる! 今は、僕のできることをする!」
狂った竜を生かしておくことの方が、己の手を汚すことより罪深い。
この神骸機が与えるのは、慈悲なのだと――己に言い聞かせ、ネイトはさらに神骸機を加速させた。
紅い光が竜達を引き裂いていくのを見て――ようやく、ダーインスレイヴは新たな敵の出現を知覚した。
「……なんだ、アレは……?」
竜の群れに紅い光が突撃した瞬間、一帯の空に青が戻った。
何も不思議なことはない。鎧袖一触――群れの竜は壊滅したのだ。
その殲滅速度はもはや、戦闘ではない。一方的な虐殺であった。
「ウィクトーリアより……速い……」
恐らく、狂った竜を殲滅する速度だけを比較するならば、紅いそれの速度は己のものすら上回っていることを、ダーインスレイヴは確信した。
そこより導き出される結論は一つ。新たなる敵は竜を殺すことに特化しているということ。つまり――神骸機であることを意味した。
「ウィクトーリアが生まれ変わったか……!」
出所は一つしかない以上、そう結論付けるのも当然と言えた。そして、誰が作り替えたかも、誰が駆っているかも、薄々想像は付いた。受け容れがたい、否、受け容れざる現実であったが。
竜の群れは、瞬く間に食い破られた。少なくとも、ノアを襲撃することはないだろう。
目下の脅威を排除した彼は――
「アイシャよ……」
ダーインスレイヴはこの後に起こることを理解して、海面に漂う己の臣を見下ろした。
美しい金の逆鱗は血に染まり、口からも血が流れ出ている。致命傷だが、蛇竜たる彼女の生命力ならば、ギリギリ生存が期待できる、そんなスレスレの状態だ。
「――その忠義、大義であった」
血の槍が、降り注ぐ。
もはや声も出せぬアイシャに向かって降り注いだソレは――
「お待たせ、アイ」
巨碗に触れ、砕けて散った。
父の元に、子は舞い戻った。
「……父さん」
紅い翼を六枚備え、もはや竜そのものとしか言いようのない姿で、血塗れの爪を向けながら、ダーインスレイヴがよく知る声は、続ける。
「ただいま、戻りました」
「そうか」
ダーインスレイヴは、その姿を認め、薄く笑みを零す。
「我が何のために来たか、魔女やファーレンハルトが語ったか?」
「はい、聞きました。――僕は、父さんの敵ですか?」
「話が早いな。……お前は自らの行いが何を生み出すか分からぬほど愚かではない。よかれと思って呪いを解き放ち、剣を抜いたのだろう?」
問いかけに、少年の声は淀みなく答える。
「それが、最善の方法だと思いました。――僕は、友達が狂うところを見たくないですから」
「ならば、今、お前が蹴散らしてきた竜達は狂ってよいと? あのような竜は、ここだけではない、世界の各所に現れているだろう。人も大勢死ぬ。その意味が、分かっているか?」
「だったらば、僕は人を守ります。僕が守れるだけの人を全て」
今の少年には、力がある。その大きさはもう思い知った。
「……今の人の世も知らぬというのに、それでも守ると?」
「そうですね、父さん。僕は何も知りませんから……もしかしたら、千年前のことも、神世のことも、父さんが完全に正しいのかもしれません。父さんが教えてくれた歴史を聞く限り、父さんは正しいと、今でも思います。――でも、僕は人間でもありますから。人には人の正しさも、あるんだと思います」
「そこまで考えてなぜ、竜を害するようなことをした?」
「――ここで僕が何もしなければ、もっとたくさんの竜が死にます。人も死にます。呪いは、氾濫するんでしょう?」
「そうだ。つまり、お前は少を切り捨て、大をとったということか」
「……そうですね」
「お前が斬り捨てた少数を――お前はまだ知らぬ。後悔はしないか?」
「ええ、すると思います。……でも、それは僕が背負えばいい」
それは、自分に背負えぬはずがないという自信の裏返しだ。
「人の死も、竜の死も、僕に連なるものは背負えます。――僕の父親は人を背負い、竜を背負った人達ですから。息子の僕ならできるでしょう――ね、父さん」
「そうだな……そこまで言うならば、我も覚悟を決めねばならぬ。我は皇竜。世界の均衡を保つもの。ネイト・ハートライト――お前の力は、この世界には大きすぎる」
対話の果てに、穏便な決着はなかった。
「それは、あなたが支配する世界にとって大きすぎるというだけですわ、ダーインスレイヴ」
楽しげな声が響き渡る。
「わたしたちの世界は、ネイトすらも許容します。――来ますわ!」
最初から、皇竜は全力であった。
四方八方から、血槍が放たれる。ウィクトーリアを串刺しにしたものよりも遙かに多い――全力で、殺しにかかった攻撃だ。
紅い翼を伴って、神骸機は舞い踊る。槍に翼を貫かれても、その速度が衰えることはない。
「なんだ……それは……!」
「この神骸機の素体――いいえ、正確には一つ前の姿――ウィクトーリアは、大戦の英雄です」
勝ち誇ったモルガナの声が響き渡る。
血の槍は、神骸機には届かない。
「これほど手練れの竜達の血を浴び続けた神骸機はありませんわ、ダーインスレイヴ。竜の血は呪いかもしれません。しかしそれは、凄まじい生の力故もたらされたもの」
神骸機の黒い身体に、紅き光が巡る。
それは、生者に血が巡るが如く。
「血は、千年経っても生き――そして、ここに受肉した!」
受肉した神骸機――リユニオンの背に、六枚の翼とは別の、蒼い紋様が展開する。
「いかにあなたが竜の頂点に至った存在だとしても……超えられるかしら? 精鋭の悉くを打ち破り至った、神骸機の到達点を!」
紋様から伸び出た剣の柄を握り締め、リユニオンは、飛んだ。
それが背負う怨念に、ダーインスレイヴは気圧される。
この怨念こそ、人の業にして竜の業に他ならない。
「……否!」
皇竜たる彼が背負ってきた業は、そんなものとは比べものにもなりはしない。
そう信じ、槍と刃、砲撃と熱波、己の血を燃やし、皇竜は攻勢に打って出る。
刃は投げ放たれた蒼剣が、槍と砲撃は、前面に展開した鏡壁が受け止める。熱波すらも受け止めた鏡壁にダーインスレイヴは怪訝な声を漏らし、そして、驚嘆した。
「ここまで精密に竜の業を模倣するか……!」
鏡壁、蒼剣――そして、
炎をまとった爪が生むは、血の熱波すらも蒸発させるほどの業火。
紅き翼が生むは、竜の限界を超えた加速。
あらゆる偏差砲撃を予測し機体は舞い、撃ち放たれた蒼い剣が槍を落とす。
「しかしッ!」
「こんな範囲にも!?」
リユニオンの背後に展開した五つの紋様の一斉射は捉えたかにも見えたが――加速はその上を行った。掃射が掻き消すのは残像だけ、避けざまに爪の熱波が放たれる。
空気すらも焦げ付かせる一撃は肉を妬き、深い跡を刻んだ。
「……まだ!」
小さい紋様と大きな紋様の組み合わせ。絶え間ない乱射は、リユニオンを寄せ付けず、中央の巨大な紋様に血が充足されていく。
「確かに鏡壁は堅固であろうが……」
血の大輪は、大地すらも焼き尽くさんとする、格別の砲花を咲かせた。
塵も残らぬ熱線が、リユニオンを飲み込んだ。
どんな神骸機の装甲も、どんな竜の逆鱗も穿つ、必殺の一撃。
まともに飲まれれば勝負は決する――はずだった。
砲火は、裂ける。
「右腕……! 神骸機はそれほどまでに力を引き出すか!」
「――行くよ、父さん!」
砲を裂き、リユニオンの剛爪が紋を穿つ。
島を守っていた結界を遙かに上回る強度の障壁は、如何にネイトの右腕の力を引き出した一撃であっても、そう簡単には破られない。
だが、それは破られないというだけであり、爪は確実に結界を削り取っていく。
紅翼は一際大きく広がり、紅き光が黒い機体を染め上げる。
リユニオンの頭部――竜を模した顔が、吠え猛る。
血に酔った竜だけでは足りないと。
己の業を満たすには、皇竜でもってもまだ足りぬと。
「――耐えられぬか!」
ダーインスレイヴは結界の脆弱さを知り、結界の展開を中断した。
リユニオンの豪腕はそのままダーインスレイヴ目がけて振りかぶられ、竜の姿は、消えた。
「なっ……!」
空ぶったリユニオンは、空で一つ回転し、すぐに体勢を立て直した。
ダーインスレイヴの姿はない。あれほどの質量を持った存在が、消えうるはずはない。
「これは……?」
「光呑む闇……!」
瞬間、ネイトとモルガナの視界は闇に閉ざされた。
取り込まれた彼らは気付かない。
リユニオン自体が、巨大な闇の球体に囚われたことを。
確かに、ダーインスレイヴという竜の強さは図抜けている。
しかしながら、リユニオンが模倣する竜の業と互角であるように、使いようによっては十分渡り合うことは可能だ。
それでもなお、彼が竜の頂点となったのにはそれなりの理由がある。
――己の血を燃やす竜の肉体が、尋常であるはずがない。
血に耐えうる肉体は、いつしか超常の力を持った。それこそが闇。
ありとあらゆる光を飲み込む、闇の力。
「……これならば、どうだ」
黒い球体の内側に、所狭しと紋様が現れる。びっしりと覆い尽くした紅の光はリユニオンを狙い澄まし、解き放つ。
鏡壁を全面に展開し凌ぐか、それとも何か手を探すか――即座に決断を下し、リユニオンは光の中を飛翔した。
「巧く飛ぶではないか……!」
ダーインスレイヴが血を体外に放出し攻撃するのと、敵を内に取り込み、血の限りを放出するのとでは、手数は明らかに違う。
流れる血の量は無尽。
燃える血の量も無尽。
闇に囚われた敵は、紅の殺劇舞踏を踊り果て、最後は散る定め。
リユニオンも鏡壁を全面に展開するのではなく、部分に展開し直撃を避けることで極力ダメージを減らすことを試みるが、明らかに分は悪い。到底凌げる量ではない。
「うあっ……!」
背中で紅い炎が爆ぜ、ネイトは苦悶の声を漏らした。
神骸機は己の身体と等しい。傷付けば、それだけの打撃を受ける。
「ネイト!」
再びの全方位掃射がリユニオンを包み込む。
咄嗟に展開した鏡壁が悉くを受け流すが、耐えきれる量でもない。
鏡壁にはヒビが入り――潰れた。鏡が砕け散る中で、リユニオンの機体に紅光が満ちる。
「ぬっ――」
リユニオンの装甲は一瞬泡立ち、波が引くように消えてから――爆炎となって、放たれた。
紅蓮に触れた砲火は蒸発し、血の灰が闇の中を舞い踊る。
しかし、これではその場しのぎにしかならない。血が無尽である以上、リユニオンのリソースを用いて行う攻撃は等価交換ですらない。
紅蓮を放ち、ネイトは荒く息を吐いた。
肌には、焦げ付くような感覚が残っている。
「いたいっ……」
「……それが神骸機になるということだ、ネイト」
皇竜は、手を止めない。
「その苦痛を負ってなお、まだお前は人を守るというか! 竜を破るというか!」
正面から放つ一撃は、右腕で以て消え失せる。
「――僕がここで倒れたら、僕がやったことの責任を、誰が負うと言うんです……! だから、斃れるわけにはいかないんです!」
神骸機は己の身体と同じ。
身体は死んでも、心が死ななければ、神骸機は動き続ける。
「なれば、尽きるまで放つのみ!」
再びの紋様が展開する。予備動作はほとんどなく、再びの全方位射撃に、リユニオンは出来うる限りの量の蒼剣を作り出し、飛来する砲火を斬り伏せる。
蒼い剣もまた無尽。リユニオンを駆るネイトが心折れぬ限り、剣は生み出され続ける。
蒼い炎が穿たれ、刀身が消え失せた側から、新たな剣が燃え上がる。
剣で払えぬ砲火は、鏡壁が防ぐ。強度も弱く脆い壁でも、逸らすくらいはまだできる。
砕けた鏡壁の欠片の雨中を、蒼い炎と紅い翼が駆けていく。
終わりなき闇の中を、どこまでも、心折れぬ限り。
「でも、これじゃあジリ貧だ……!」
明らかに、ネイトは摩耗していた。蒼い剣を引き出すこと、鏡壁を生み出すこと、紅翼を維持し続けること――想像を絶する負荷が、幼い身体に襲いかかる。
傍らのモルガナは一つ息を吐き、告げた。
「――ネイト。あなたの父親が残したものが、まだ、手はあります」
「え……?」
「ウィクトーリアの剣……あれはダーインスレイヴに刺さったままのはず……! これは、皇竜の肉体から生まれた闇。状態は先と変わっておりません。であるならば……!」
「でも、どこに……ぐぅっ!」
胸部が砲撃を貰い、ネイトは胸を押さえて蹲る。その隙を見逃さず、大きな紋様が二つ、極大の砲撃を左右から放つ。
一つは、右腕で打ち消す。しかし、後ろへの対処は間に合わない――。
その刹那――闇の中が、揺れた。
「え?」
「匣船か!」
「ネイト! 頭上!」
モルガナの声に、ネイトが頭を上げる。
闇の彼方――その頂点に、突き刺さった剣を見た。
闇を灼く、紅い翼は機体を一瞬でそこまで運ぶ。追いすがる砲撃を寄せ付けず、リユニオンの右腕は、ウィクトーリアの剣を握り取った。
「ぐっ……させぬっ!」
破壊の阻止のため、紋様が瞬く間に展開される。しかし、もう、遅い。
「力を――借ります!」
壊す力が剣を伝播し、死んだ剣は紅光に包まれる。
白銀の騎士が駆った剣は、新たな主の手の中で、生まれ変わった。
「いけええええええええええっ!」
崩壊の力の宿った剣は闇を引き裂いていく。
闇を引き裂かれること、それは肉体を壊されることと同義。
「あっ――ガアアアアアアアアアッ!」
この世のものとは思えぬ叫び声が響き、闇の全てを断つまでもなく、ダーインスレイヴは包囲を解除した。
右にはウィクトーリアの剣を。
左には、蒼い剣を。
六枚の翼は、勝者を誇示するように空に輝く。
「これで……終わりです!」
紅い光が一閃。
紅と蒼の刃が振るわれ、二太刀を刻まれたダーインスレイヴの肉体に満ちる力が、消えた。
「それで、よい」
腕を振り上げ、リユニオンは命を食らう。
「我が血でもって――」
身体を埋めるほど密接し、己の腕を体内へとねじり込む。
「お前という英傑は完成する!」
体内から勢いよく噴き出した黒ずんだ血が、リユニオンの装甲を黒く、赤く、染め上げる。
おおよそ生物が発するものとは思えぬ絶叫が響き渡った。
咆哮は勝ち鬨。浴びる血は勝利の美酒――。
受肉を果たした竜は、ひとときの勝利の喜びを噛み締める。
その内の駆り手を、竜の呪いに侵しながら。
「ネイト! しっかりしてくださいませ! ネイト!」
ただの竜の呪いですら大地を殺し、生けるものにも牙を剥く。
とすれば、この地上で最も長く生き存える竜の頂点に至ったものの血であるならば。
いかに、人には効かぬ呪いといえども――。
「父、さん……!」
リユニオンは、力なく空で静止する。ブリテンを旋回していた竜達は我先にと、戦場へと殺到し始めた。
「まずはアイシャを守る! あの傷で竜共に食らい付かれたらまず保たない!」
「りょーかい! ネイトは?」
「――ある程度はなんとかなると信じよう。砲撃を休めるなよ! ここまで来て誰かに死なれては敵わん!」
ノアから残存火力のありったけを使った砲撃が、空から舞い降りる竜達へ襲いかかる。
竜達は翼を灼かれ落ちていくが、それ以上に数が多い。
「キリがないな、クソが!」
「もっと速く動けないのか!?」
「兵器を全部乗せしているような船に無茶を言うな! これでも全速でやっているというに!」
「――神骸機が動ければいいのだが、このままでは、」
結論の出ない討論を打ち切るような、大きな雷鳴が響いた。
晴れ渡っていた空は瞬く間に雲に覆われる。血に酔った竜の影ではない。
それは紅き雷土を落とす、雷雲。
「おいおい、嘘だろ……?」
それが知らせるのは、新たな竜の到来だ。
ひときわ大きな雷鳴と紅い稲光と共に――断罪の雷蹄が、血に酔った竜を打つ。
アイシャの首筋に食らい付こうとした竜は、雷撃に打たれ、消し炭と消えた。
「やれやれ、あなたも無茶をする」
愛剣と共に舞い降りた竜は、アイシャのぼろぼろの身体に仕方なさそうに笑った。
「……トールダン……?」
「ええ。人の姿に戻りなさい。あなたを連れていても、雑魚に後れを取ることはない。血に酔った竜は止まりません。一刻も早くこの地を離れねば」
「ネイト……さまは……?」
「ご安心を――と言いたいところですが、あっちもあっちで美食家の竜に組み付かれています」
「わかり……ました……たのみます……」
竜の鱗がこぼれ落ち、人の姿をアイシャは取り戻す。
波間にたゆたう姿を拾い上げ、トールダンはすぐさま、さらに多くの竜が殺到する、主とリユニオンの元に飛んだ。
「――我が主に触れないでいただけますか!」
雷光をまとった吶喊が、ダーインスレイヴの身体に食らい付く竜達をなぎ払う。
この手で竜を斬り捨てることも、トールダンは厭わない。
「……そして、閣下が守り通したかったものにも!」
降り注ぐ雷蹄が、リユニオンを組み伏せる竜達を焼き払う。
「閣下――」
ダーインスレイヴの腹は大きく裂け、黒い血がどくどくと海に流れ出している。
「……はっはっは、見事に討たれたわ。アイシャは、無事か?」
「無事です。――ええい、鬱陶しいというに!」
雷土が竜を散らす。竜の数は減る気配を見せない。
「トールダン――我は良い。アイシャとネイトを頼む」
「しかし……!」
「死に行くものに注意を払ってどうなるという!」
渾身の力を振り絞った絶叫に、トールダンは思わず直立不動の姿勢をとった。
「狂える竜共は我に殺到する。……なに、食ってどうなるわけではない。あの程度の呪いで狂う竜ならば、我の血を食らって生きていられるはずはない。そして、我も同じこと。ネイトの右腕に穿たれたのだ、この傷は癒えん」
オズワルトは険しい表情で逡巡し――主の最後の命に、頷いた。
「ご子息をお守りいたします。――我が責務は、今も、これからも変わらず」
「……大義であった」
主の言葉に、雷蹄公は頷いた。
余計な言葉は必要ない。ただ彼は任務を果たし、主は結果を賞賛する。
彼らが初めて出会った時から変わらぬ、二人の主従であった。
「では、閣下」
「うむ――また、灰の地平で」
トールダンは頷き、素早く後退するとリユニオンを担ぎ上げ、再び飛翔した。
もう、雷蹄公が振り返ることはない。雷光の翼は羽ばたき、勝者をノアへと運んでいく。
一瞬散った竜達だったが、再びダーインスレイヴの肉体へと食らいつき始める。
波に抱かれながら、ダーインスレイヴは目を閉じた。トールダンと言葉を交わすのが精一杯であった彼の心に去来するのは、己を破った、六枚の翼の姿であった。
「ああ……お前ならば……必ずや、同胞達をまとめ上げてくれるであろうな……」
竜殺しは墜ち、己という皇竜も墜ちた。
ほとんど彼らを導くことはなかったとはいえ、竜種は皇竜という頂点を失った。それがどんなことを意味するか、ダーインスレイヴにすら想像しえぬことであった。
人に武力を振るうのか。
身内同士で無駄な権力争いを始めるのか。
皇竜はあまりに竜達から離れすぎた。己への戒めを込めながら、自らの血肉を食らい、次々と倒れていく竜達を薄目で眺める。
「我は罰を抱いて逝くぞ――」
リユニオンに抉られた部分から、己の存在が消えていく。
「これが、新たな時代の…………!」
ノアの甲板に、トールダンが降り立った。
「……何のつもりだ?」
ファーレンハルトの剣呑な問いかけに、トールダンは少し疲れた笑みを浮かべる。
「……白銀の騎士に感謝してください。これは、見逃していただいたお礼です」
そう言って、トールダンは背負ったリユニオンと、手の平の上のアイシャを降ろした。
「い、生きてる!?」
「辛うじて。手厚い看護をお願いします。……それと、こちらのご子息の器は私の管轄外です。そちらでなんとかしてください」
「排除しようとは、しないのか?」
「……我が責務はただ一つ。ご子息の命を守ること。王命に背くわけにはいきますまい」
ですが、と、トールダンは言葉を続ける。
「我が心命は、王の命を守ること。しかし、私個人の心命など、王命の前では塵にもなりません。さあ、行きなさい。閣下の血に奴らが気を取られている間に」
「君はどうする?」
「――あの方の肉体全て、食らい尽くされてたまるものですか。せめて首級でも持ち帰らなければ、臣として示しが付きません」
強く言い放ち、トールダンの身体は浮き上がった。
「ご子息にお伝えください。近いうちに、また会いましょうと」
「承知した」
「どうも。――それでは」
雷光が駆け、再び竜の群れを裂いていく。
それを見送り、ファーレンハルトは厳かに宣言した。
「撤退だ。――考え得る最高の戦果をあげた。長居をする必要は全くない」
ネールとセドリックは頷き、船は反対の方向へと出航した。
海域を完全に抜けるまでの間、雷鳴が止むことは無かった。
あまりも激しく鳴り響く雷鳴は、死に行く主君への弔鐘のように、いつまでも吠え猛った。
◆
あまり、穏やかな寝覚めじゃない。
身体全体が焼けてしまったように熱く、痛い。
「辛いか?」
かけられた声に振り返ると、ファーレンハルトがいた。
「……ずっとうなされていて、何かしてやれればよかったんだが。私は、アイシャほど気が効かなくてな。モルガナほど甲斐甲斐しく世話を焼けるわけでもないし……」
「……いいえ。誰かが側にいると、安心しますから」
「そうか……そう言ってもらえると少し……救われるよ」
ファーレンハルトは、儚げに笑う。
「――正直、な。私のことを明かすつもりはなかったんだ」
「なんで……」
「私が、どうしたらいいかわからなかった。……竜は、母親というものを知らない。蛇竜のような例外を除いて、我々は父母という概念を持たないのだ。ダーインスレイヴは大したヤツだよ。ま、隠し子の一人や二人、いたのかもしれないがね……」
「……僕の父さんは、ダーインスレイヴです。それは、これからもずっと変わらない」
「ああ、そうだろうな」
「でも……父親はトレイン・ハートライトで、母親が……あなただってことは、覆しようのない事実です」
ファーレンハルトは、柔らかく笑った。
「……私は、君の父親のようにはなれない。それでも、いいのか?」
「いいも何も――ファーレンハルトは、ファーレンハルトでしょう?」
「ふふっ……そう、だな」
ファーレンハルトは薄く笑い、天井を見上げた。
釣られて見上げてみるけれど、天井には何もない。
「――やはり、君を育てたのが私でなくて、よかった」
「でも……ファーレンハルトと出会えたことは、素直に嬉しいですよ」
「これだけ、君の周りをぐちゃぐちゃにしたのにか?」
「ええ。――あなたと出会わない限り、僕は母親という存在を認識でなかったんですから」
「…………つくづく、君は面白いな」
「母親から言われるのは、なんだかちょっと複雑ですね」
僕の言葉に、ファーレンハルトは笑った。なんだか僕も笑わなきゃいけないような気がして、僕らはひとしきり笑ったのだった。
「……申し訳ありません」
アイは車椅子に乗りながら、沈みきった声で言う。
「一日一回申し訳ありませんを言うキャンペーンでもしてるのか? 謝ったって足の治りが速まるわけではないんだぞ?」
「しかし、この足では食事も作れませんし……」
「食事を作れるのは自分だけ思わないことです。わたくしだって調理の心得はありますのよ? ほら、どうぞ」
「モルガナが作る料理って、見た目まともだけどさ……」
新たに生み出されたジャガイモ料理を口に運びながら、ネールは据わった目で続ける。
「食べられないマズさじゃないから、困るよね」
「は? まずいなら食べなくて結構ですわよ。別にあなたに食べていただけなくったって、わたくしの第二の人生の邪魔にはなりませんし? 栄養失調で鮫の餌になりたいならどうぞ、今からでも命綱なしで甲板から蒼い海に飛び降りなさいな」
「……あたしいなくなったら困るでしょ?」
「なんとでもしますわ」
「…………この人ほんとにやりそうだから怖いよ」
ネールはそうぼやくと、手元にあった塩と胡椒をふんだんに料理にかけ、口に運んだ。
最近毎日、舌の奥が乾きそうな味付けでご飯を食べている気がするよ。
「我々の健全な食生活のためにもさっさと快癒してもらいたいところだな」
「は? ジャガイモは栄養素豊富なんですわよ?」
「ジャガイモ毎日食わされる身にもなってくれないか。……ったく、さっさと陸に上がりたいものだ」
僕達の次の目的地は、ネールの故郷だ。何か目的があって行くわけじゃない。
ただ、故郷が心配だから――ネールの言葉は全くだし、現状目的地のない僕達にとって、そういう単純な感情というのはありがたい道標だった。
あの日から、一週間ほど。
今、リユニオンはノアの船底で新たな出撃の時を待っている。
「俺の理解を超えた神骸機だ」
僕がモルガナに助けられ、神骸機の中から出たのは戦闘から三日後。
体調が回復した僕を呼び出したセドリックさんは、険しい顔で言った。
「ウィクトーリアも大概だが、こいつはもう、頭がおかしい」
「そこまで言いますか。これ、僕の心の具現なんですけど」
「イカれてるよ。竜の血を吸って、その能力を模倣するなんて聞いたこともない。そんな兵器があるか」
「兵器ではない。これは、トレイン・ハートライトが遺した全てだ」
「ファーレンハルト……」
「ウィクトーリアが斬り捨ててきた竜達の怨念の染みついた素体を再構成した結果、こいつは血に飢えた怪物になったのさ。飲み干した血の力を使いこなす、さながら吸血鬼だ」
「……吸血鬼、か」
セドリックは、はあ、と息を吐き、僕に視線を移した。
「ネイト、俺に顔をよく見せてくれないか。そう、鼻がぶつかるくらいの距離まで」
僕は頷いて、セドリックさんの前に屈み込んだ。
「…………喜ぶべきか、悲しむべきか」
僕を大きな目でジッと覗き込んだあと、セドリックさんは曖昧な笑みを漏らした、
「俺はまた、あいつと同じ顔をしたヤツを戦いに送り出すしかないわけか」
「セドリックさん……」
「――俺のことは、セドでいい。君の顔にさん付けで呼ばれるのはどうも居心地が悪い」
「……それよりも、お前はどうするんだ。ついてくるか?」
「おいおい、まさかここで俺を放り出すつもりか? どうやって生きていけと言うんだ。そこら辺で昔話をして金を取れとでも?」
「いや、でも……トレインさん――あの人が……」
「俺の役割は、先の人類を勝たせることだ。――まだ人間は勝っていないだろうが。世界には気が触れた竜が溢れていて、ダーインスレイヴ以外の竜はまだ健在だ。この前の剣を持った竜のようなヤツばかりでもないだろ?」
セドリックさんは――いや、セドは、役割に殉じるのだろう。
僕の、父親達と同じように――。
「俺の知識はきっと、お前達の役に立つはずだ。――これからもせいぜい、上手く使ってくれ」
セドは、リユニオンを見上げたまま動かない。
僕も、こうしてまじまじと見るのは初めてだ。
その黒い、攻撃的で暴力的な姿は、僕から生み出されたものとはどうしても思えない。
でも、これも僕なんだ。この竜の如き姿を持った神骸機は、紛れもなく、僕の心の姿なんだ。
海は、島で見てきた頃と同じように、穏やかだ。
でも、見ている僕は変わってしまった。何より、見ている場所も違う。
「――海は変わりませんわねえ」
僕を見透かしたように、モルガナは言った。
「そうだね。島で見ていたものと、同じだからね、海は」
「……あの島で、わたくしが最後に言ったこと、覚えておられますか?」
「島に触れて……って言ってたね」
「なぜか、お分かりになります?」
「――島も、父さんの血でできていたものだから?」
「ご明察。……あそこでネイトが触れていれば、恐らくダーインスレイヴとの決着は、もっとあっさり付いたことでしょう。とはいえ、今の結果に不満があるわけでもありませんけど」
「……父さんは、倒されたから?」
「ええ。この時代に新たな神骸機も生まれ落ちましたし。それもこれも、あなたの王の器がなせる業でしょう。改めて、生涯の忠誠を誓いますわ」
「……ありがとう、モルガナ。あんな危険な戦いにもついてきてくれて」
「いいえ、それこそ当然のことをしたまでですわ。わたくしは、あなたの臣なのですから」
モルガナは僕の右手を握る。何のことかと戸惑う僕を尻目に、モルガナはその場に膝をつき、手の甲に、唇を触れさせた。
唾液の糸が、モルガナのピンクの唇から伝い、墜ちていく。
「これからも、戦っていきましょう。――我らの世界のために」
まだ、僕はどんなことを為してしまったのかを知らない。これから降りかかってくる現実を思いながら、僕は再び空を見た。
神骸機という翼を手に入れて――僕は、もっと父さんの息子らしくなれただろうか。
その答えもまた、ずっとずっと先のこと……。
◆
世界のどこか、誰も知らぬ小島があった海に、一体の竜が浮かんでいた。
異形の腕を持つ竜は、哄笑する。
額に鈍い痛みを覚えながら、けたたましい笑い声は、いつまでも波間に漂い続ける。
その竜の額には――三本の角が、生え始めていた。
彼が最後に守った大地に、その骸は眠っている。刃を失った柄を墓標に、トレイン・ハートライトは真なる眠りに就いたのだった。
ひとまず、一区切り。
続きは色々な条件が整い次第。




