剣と騎士、そして黒竜
船が止まった。
それは、目的地への到着を意味する。
「今から行く場所、そんなに危険な所なのかい?」
アイが用意してくれた外套を着込みながら、同じく旅支度をするアイに尋ねる。
「成熟していない竜が近付けば、瞬く間に血に酔うほど、呪いの濃度が高い場所です。……人が踏み入れてどうなるかは、正直私にはわかりません。もし何か異常を感じましたら、すぐに私に言ってください」
「アイも来るの? 大丈夫?」
「私は恐らく大丈夫です。……もし、万が一狂気に襲われることがあれば、その時は」
「大丈夫。アイの側には僕がいるよ」
アイの言葉に、僕は首を横に振った。
「ええ。……あなたのお側にいる限り、このアイシャが狂うことはありません。主の御前で、醜態を曝すことはできませんから。ああ、ネイトさま、その外套大変お似合いですね」
「そうかな?」
なんでもこれは千年前の軍人が使っていた軍服だと、セドリックさんから聞いた。
それも、なかなか位の高い人のものだそうで、由緒正しいのだとかなんとか。
これを着ていると、少し身が引き締まる気もする。
「……本当に、とてもよくお似合いです。精錬とした騎士のような、そんな出で立ちですよ」
「いつになくベタ褒めだね」
「それはもう。あなたの今のお姿は、本当に気高く、美しい。――私は、あなたの家臣で幸せでございます。ですから……いつまでも、あなたの臣でいさせてくださいませ」
「――期待は裏切らないようにするよ。アイ、こんなところまで付き合わせて、ありがとうね」
「お礼を言われるようなことではありません。……これが、私の神命なのです。あなたのお側に仕え、剣として、盾として、あなたに尽くす」
アイの強い瞳が、僕を真っ直ぐ見据える。
「……ここから先は、あなたの命を優先いたします。あなたがお命じにならない限り、それ以外の要素の優先順位は極限まで下げます」
「……わかった。肝に銘じておく」
「ええ。……では往きましょう、ネイトさま。かつての人の本拠地、未だ竜の血が深く染み込む呪いの島――ブリテンへ」
僕とアイが甲板に上がると、既に他の皆は準備を整えていた。
「よく似合っているじゃないか」
「アイにも言われましたよ。……ファーレンハルトも、いつもの服じゃないんですね」
いつものボロ切れのような服の上に、ファーレンハルトは僕と揃いの外套を羽織っていた。
「そこそこ長い間船を離れて外を出歩くわけだからな、肌が日焼けするのは嫌だ」
見上げると、確かに殺人的な陽光が降り注いでいる。
島にいた頃の日差しとはまるで違う。だいぶ長い距離を移動したらしい。
「セドリックさんとトレインさんもいくんですか?」
「まさか。船をもぬけの殻にするわけにはいかん。……極論、お前達の命よりも船の安全の方が大事だからな、戦略の上では」
「手厳しいことを仰いますね……」
「何か異常が起きた時は助けに行ってやる」
「ま、我々はバックアップ要員ということだ。せいぜい俺達の出番が来ないように、上手く立ち回ってくれたまえ」
「恐らく君達の手を煩わすことはないだろうが……何が起こるか分からない側面もある。気は緩めないようにしてくれ」
「承知した。――で、ネール、本当に行くつもりか?」
そう、もう一人目に付くのはネールの出で立ちだ。
僕達の外套より少し豪華な黒地の外套――艦長と呼びたくなる、そんな雰囲気だ。
「うん、行く。艦長として、何が起ころうとしているのか、把握しないといけないでしょ。ファーレンハルトは結局旅程のこととか教えてくれなかったしね!」
「そんな理由で付いてこれるような土地ではないと思うのですが……」
全くだ、とセドリックは頷いた。
「――ファーレンハルト、お前達のような超人ならともかく、ネールのような人間が踏み込んでも大丈夫なのか?」
「大丈夫という確約はできん。……何事もないように、こちらで気を使うさ」
「止めるべきでは?」
「と、大人一同は反対のようだが?」
「行くったら行く! 異論は無し! 聞きません! これは艦長命令だから!」
僕でもめちゃくちゃな暴論だと分かる。そんなに気になるのだろうか。
とはいえ、ここまで堂々と付いていくと言われてしまったら、さすがのファーレンハルトやセドリックさんでもどうしようもない。
「……分かった。ネール、艦の装備はオープンにしておいてくれ」
「もうしてあるわ、セド。回復も万全。また全力で戦えるわよ」
「そいつは心強い。……何日で戻る? いや、何日で戻ってこなかったら、こちらで命の心配をすればいい?」
ファーレンハルトは陸地の方を見てから、答える。
「五日。五日戻らなければ、ウィクトーリアを寄越してくれると嬉しいかもしれん」
「承知した。……では、旅の無事を祈る。希望が見つかること、このノアから祈っているよ」
「その祈りに答えられるように努力しよう。……さて、ネイト、アイシャ。君達はいけるか?」
「ええ、僕達はいつでも」
「分かった。……では、聖剣探索を始めようか」
ファーレンハルトの音頭に従い、僕達はノアからブリテン島に伸ばされたタラップを使って、上陸した。
土を踏みしめた瞬間、足の裏に言い知れない違和感を覚えた。
父さんの島の土とまるで違う――この島の土には、何もない。
少し踏みしめたら壊れてしまいそうなほど、スカスカなのだ。
「どうだ、ネイト。生きている土を踏みしめた感想は?」
「……これが生きている土、ですか? 僕にはそんな風にはとても」
「パサパサで、すごい乾いてる……。あたしの島の土とも全然違うよ、これ」
「それだけ、竜の血が深く大地に染み込んでいるということだ。……大地の根幹から、この島は死に果てている」
それほどまでに、竜の血は強いということか。島一つを殺してしまうほどに……。
「目的地は分かっているのですか?」
「朧気には。なに、大船に乗ったつもりでついてくるといい」
「なぜこちらの不安を煽ってくるのでしょうか……」
「まあまあ、ついていくしかないじゃない」
僕がそう宥めると、アイはうんざりした表情を隠しもしなかった。
ブリテン島上陸、一日目。旅は順調だ。予定よりも少し進んだ地点で僕達はキャンプを張り、久しぶりの野宿をすることになった。
全く踏みしめている感覚のない土の上を行くのは思ったよりもずっと楽で、移動した距離の割に、疲労はあまりない。
アイとファーレンハルトの話では、かつてこの島にあった国家は非常に発展しており、国際社会でも他国を牽引する存在だったのだという。
かなり早い段階から神骸機の開発にも取りかかり、トレインさんとウィクトーリアを見出していたらしい。その神骸機開発におけるアドバンテージは、オズワルトさんを捉え、実験台にした成果でもあるそうだ。
つまり、竜と人との全面戦争の引き金を引いた国家でもある。
そんな土地に、竜に敗北した人類の希望が眠っているというのだから、因果なものだ。
「……そして、神世の時代においても、最終決戦の舞台となったのがここだ」
「まだ人が神様のような力を持っていた時代……ですか」
「その通り」
ファーレンハルトは、アイが作ってきてくれたおにぎりを一口かじる。
「もっきゅもっきゅ……神骸機を抜きにしても竜と比肩する化け物が勢揃いしていたわけだが、それでも人は竜に勝てなかった。勝因、敗因は分かりきっている」
「歴然とした力の差……ですね」
「アイシャの言う通り。人も強かったが、竜はそれ以上に強かった。それだけの話だ。人がまた神であるのならば、竜もまた神であった……そういうことだな」
「……そもそも、神世の時代の人はなぜ竜に戦いを挑んだんですか? モルガナは教えてくれなかったので」
「実に単純な話。世界の覇権を欲しがっただけだ。常に竜の翼の影に脅える生活、それを彼らは是としなかった。まあもっとも……かつての騎士王に竜の支配を打ち破れとうそぶいた奴がいるかもしれないがね」
「騎士王って人、凄かったの?」
ネールが、スープの入った器から顔を上げる。
「――文武両道に優れた、王の中の王であったことは否定しない。凄かったかどうかは、難しいところだな。かの時代の人間達がもし今の世に現れ出たならば、彼らは皆特別と言えるだろう。しかし、その時代にあって特別であったかというと……必ずしもそうではない」
「どういうことですか?」
「彼は、王という才覚に特化して秀でていたのだ。力でも、魔術でもなくな」
「王という、才覚……」
「――そして彼を慕い、英雄達が集ったわけだ。ま、昔話だがね……」
ファーレンハルトはゆっくりと咀嚼しながら、遠くを見つめて目を細めた。
「神世以来、人に王はなく、竜には王があり続けた。王個人の力できることなどたかが知れているが――王の真の役割は、臣を率いること。王が束ねる臣達こそ、王の力に他ならん」
「千年前、人間に王の中の王がいたのなら、結果は変わっていたんでしょうか?」
「――さあな。ただ、いなかったという事実は変えようがない。戦の結果も変わらない。変わらないことを議論したところで無意味だ。しかし、我々の行く先は如何様にも変えられる。確定していない未来を喜ぼうじゃないか」
「ここまで来て空振りでしたじゃ困るんだけどー?」
「……願わくば、我々の思い通りにいくことを祈ろうじゃないか」
そう言い直すファーレンハルトの言葉に、一同は苦笑いを浮かべるしかなかった。
内陸にどんどん進んでいくと、僕の背丈の何倍もあるような建物の残骸が目に付くようになった。曰く、これは壁なのだという。
「人類は要地の悉くを失った。……最後にとった作戦は籠城戦だったんだよ。大陸全体を巨大な壁で覆い、その周囲に残った神骸機を配備し、ひたすら耐えることを選んだ。竜の方に手を休める理由はない。壁を守る神骸機と竜は戦い、神骸機の数と壁はすり減っていった」
「そんなの、勝ち目ないでしょ?」
「ああ、その通り。全くもって無謀……いや、そんなものを通り越して、無策としか言いようがない。壁は一箇所が切り崩されればドミノ式に崩壊は広がり、ご覧の通りの結果を生んだ」
「誰が考えても、そんな手は何も生まないと思うんですけど……」
「この城塞の主な役割は壮大な時間稼ぎだ。……実にくだらない兵器があってね、人は最後、それに賭けたのだよ」
「くだらない兵器……?」
「核、と人類は呼んでいた。……完膚無きまでに殺すための兵器だよ。本当にくだらん。ただの殺戮兵器で竜の盟主が斃れるものか。万象を司る竜達にも同じ事。千年前の人類は、最後まで竜を下等生物と侮り続けたわけだ」
僕には兵器の善し悪しなんて分からないけれど、ファーレンハルトの語り口は静かではあったものの、隠しきれない怒りが感じられた。
「……トレイン・ハートライトとウィクトーリアがあと数日粘っていれば、この土地自体が消し飛んでいたかもしれん。その最悪を免れただけでもマシだな、うん」
「でも……消し飛んでるのと変わらないでしょ、こんなの」
ネールの言葉に、ファーレンハルトは悲しげに目を細め、頷いた。
「全くもって。……確かに戦火の端緒を開いたのは竜の鹵獲、そして、鹵獲した竜に対する非人道的な行いが全てだが、竜の真の大敵は人間の文明社会そのものだった。故に、人間が竜に対して狼藉を働かなかったとしても、遅かれ早かれ第二の人と竜の戦争は勃発したのだ。彼らにとっては、文明社会を根絶することこそが真の目的であったのだから……」
竜は調停者だと、モルガナは言っていた。千年前の人達もまた、竜と世界に対して強くなりすぎた――そういうことなのだろう。
「ねえ、ファーレンハルト。ここには戦う人以外の人もいたの?」
「ああ、いたとも」
――生きていた人は皆、この乾いた土の下というわけか。
ファーレンハルトの言葉を信じるならば、この土の下には竜の怨嗟も渦巻いている。
人と竜、双方の呪いに満ちた土地――本当に、哀しいことだ。
「竜だって、大概よ……。ううん、人間よりもずっと酷い。乱暴で、身勝手じゃない……」
僕とアイは何も言えなかった。竜の行いは確かに詰られても仕方のないことだと思う。
でも、それを行使した竜達は僕らと同じ人間であり、きっと――葛藤とかがあったはずだ。
少なくとも、僕が知る竜達は、武器も持たない人達を殺せるほど、冷徹な人達じゃない。
「……ふん、そろそろか」
朝から一歩も止まらなかったファーレンハルトの歩みが止まった。
遠くに、大きな瓦礫が集中しているような地帯が見えた。
「見えるだろう、あの建物群の向こうが我々の目的地にして……最大の難所だ」
「難所……ですか?」
「竜がもっとも多く死んだ地点だ。……人類の最終防衛線とでも言うべきか。呪いの濃度はこれまでの比じゃない。何が出てきても不思議じゃないと思え」
「不思議じゃないと思えって……我々はどうすればいいというのですか」
「心構えをする。簡単だろう?」
からかうような言葉の割に、ファーレンハルトの表情に普段の余裕はあまり見られない。
少し、気を引き締めていった方がいいだろう。
三日目の朝、僕達は建物群の中に足を踏み入れた。
塔のような建物のほとんどが真ん中からへし折られ、乾いた赤い土の中に埋まっている。かつては丁寧に舗装されていたという道も今はあちこちが崩れ、ひび割れている。
しかし、そんな足下の悪さよりも――。
「なにこれ……気持ち悪い……!」
ネールの表情は酷く辛そうで、口を手で覆っている。
僕はというと、身体的にどこかが痛かったり、気分が悪かったりはしない。ただ、まとわりつく周囲の空気は、明らかにこれまで歩いてきた土地とは違う。
空気が、重い。僕達には見えない大気の一つ一つに何か得体の知れないものが流れ込んで、固形になって僕達の身体に食い付いてきているようだ。
「だから言ったろうに……。あまりこの空気を体内に入れるな。アイシャ、お前は?」
「私は大丈夫です。……しかし、同胞の怨念はひしひしと感じますね。彼らはずっと、これだけの強い思いをため込んできたのでしょうか……」
「誰に迷惑をかけるでもなく、ただひたすらに……自らを討った人間を呪うことに、彼らは終始している。嫌な老後の使い方だ」
「そのような罰当たりなことを言って良いんですか?」
「いいも何も――」
ファーレンハルトの四肢に、力が漲るのを感じた。
「向こうは、とうにこちらを殺す気だぞ」
大地が、割れた――いや、違う。足下に刻まれた亀裂が震え、広がっている……!
「生きてる……?」
「呪いは死なない。……死ぬ程度の呪いなら、お前の父親が手こずるはずがない! ネイト、間合いは計れるな? 自分が安全だと思うところまで後退しろ! ネールも連れて行け!」
「了解! ……ネール、行こう」
僕がネールの左手首をとった瞬間、亀裂からどす黒い赤が噴き出した。
血に、黒い情念が染み込んだようなソレは、意志を持つかのように、ファーレンハルトの前に立ちはだかる。
「ファーレンハルト……!」
一瞬、アイは竜へと変わろうとした。しかし、ファーレンハルトがそれを制止する。
「――竜にはなるなよ、アイシャ。呪いの中心地でその身を曝せば、お前が如何に優秀な竜であろうと、精神の木っ端まで食い尽くされるぞ」
「ではどうしろと!」
「……策も無しに、乗り込んだりはしない。私がただの意味深お姉さんでないところ、少し見せてやろう」
血の呪いは、亀裂から伸びたまま動かない。対峙するファーレンハルトは、厳かに右手を掲げた。
白い肌が、にわかに紅く輝く。ノアが放ったものと同じ光だ。
「……あなたは、一体何者なのですか」
アイが尋ねてしまうのも分かる。
ファーレンハルトの手には、無骨な両刃の剣が握られていた。小柄な身体にまるで似合わない巨大な剣を軽々と振るい、切っ先を血の呪いへと突き付ける。
その姿は、人とも、竜とも似つかない。僕達の知らないものが、今、眼前にいる。
血の呪いの集合体だってデタラメだけど、ファーレンハルトは、もっとデタラメだった。
「――道を切り開くための力があるだけだ。我が右腕よ、なまくらになっていては困るのだぞ」
そんな言葉と共に振るわれた魔剣の切れ味は、なまくらなどとは程遠い。
必要なのはたったの一太刀。それで、決着はついてしまった。
「他愛ない」
地面に広がる黒い染みを踏みつけ、ファーレンハルトは吐き捨てた。
「……なんなのですか、それは」
「私の搾りカスのような力だよ。ノアに全て捧げた今、残っているのはこれだけだ」
剣の血を払い、ファーレンハルトは先を見据える。
「急ごう。あの程度の雑魚に遅れはとらないだろうが、何体も相手したくはない」
度々呪いの柱は噴き上がり、ファーレンハルトは迷わず次々と斬り伏せていった。
「……呪いはどうしてこんなに攻撃的なんでしょう?」
「こいつらは生理現象とでも思えばいい。痒いところを掻きたくなる……それと同じ事さ。すくすくと恨み辛みを育てているのに、頭の上で足音を鳴らされるのは我慢ならんのだろう。生理現象にしては少々殺意が強すぎるような気はするがね」
「これ以上反応が苛烈になることもあり得る……と?」
「ま、我々が退去しない限りはな」
それはつまり、さらなる攻撃が加えられるのは時間の問題ということか。
「さっさと済ませたいところですね……」
「それならば朗報だ。……目的地はもうすぐ側だ」
建物群を抜けて、僕達は開けた空間に出た。
まるで、巨大な爆発が起きたようなクレーターの真ん中に、ぽつんと、台座のようなものがあるのが見える。
「ファーレンハルト……あれが?」
「……うむ。このブリテンの礎となったもの。選定の剣だ。本来はもう少し遠いところにあっったのだがね、この島がこんな状態になってしまって、隠す必要もなくなったのだ」
「移動できるようなものなんですか?」
「ま、当人である程度自由に出来るようではあるな。この島の外には出られないようだが」
「と、当人……? どういう意味よ、それ」
「行ってみれば分かる。――ふむ、しかし、最後に見た時よりもだいぶ状況が様変わりしているな。ネール、ネイト、君達の目にもうっすら、紅いものが見えるだろう?」
目を凝らしてみると、確かに、台座のある周囲は全体的に赤みがかっている気がする。
「あれは、竜の血の呪いの具現だ。剣の力にあてられて、一種の結界になっているようだな。ダーインスレイヴが操るものに近いだろう」
「血界……ですか」
「うむ。このような状況になっているとは知らなかった。……あるいは、このような状況にあえてしたのか……」
「え? ファーレンハルト、知らなかったの後……何か、言いました?」
「いいや、なんでもない。ウィクトーリアならば容易く破壊できるだろうが……呼び寄せることはできなさそうだしな」
「我々は遠距離の通信手段はないですからね……。あなたの剣では無理ですか?」
「無理……とは思うが、やってみるか」
紅い光が散って、ファーレンハルトの手に剣が現れる。
そして、何もない空間に切っ先をぶつけると――コツコツと、乾いた音を立てた。
「無理だな」
「諦めるの早くない!?」
「無駄な労力は割かない主義だ」
「そうするのが賢明ですわよ、ファーレンハルト」
聞き慣れた声に、僕は思わず顔を上げた。
「……モルガナ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ! これ、一体どういうこと!? あなた何ッ!? てか誰ッ!?」
見慣れた黒衣をまとった、僕の最初の友達が――僕の前に現れる時と同じように、ファーレンハルトの側に立っていた。
「――ああ、愛しい人。お顔を見るのは久しぶりですわね」
僕を見て、モルガナは破顔する。心の底から嬉しそうな笑顔だ。
「お変わりないようで安心いたしました。この悪女には何もされていませんか」
「黙れ悪女。……お前、これどういう状況だ。結界ができているなんて聞いていないぞ」
「わたくしだって好きで張ったわけじゃないんですわよ? 久方ぶりにブリテンに戻ってきたら、こうなっていて。まあ、千年近く離れていたんですから、何が起きても不思議でもなかったんですけど……」
「その千年離れてたというところから、私にとっては初耳の話なんだけどな」
「……ふふ。ま、それは追々」
「――本当に友達なんですね、二人とも」
モルガナの軽やかな言葉遣いを聞いていると、それだけでも嬉しくなる。
「友達だなんて、とんでもありませんわ、我が主。私とこの人は、ちょっとしたビジネスパートナーというだけです」
「こっちは裏切られっぱなしだがな。……で、どうするつもりだ、私達では手が出せないぞ、お前の本体には」
「本体だなんて、酷いことを言わないでくださる? こっちの見目麗しい妖精としての姿が、わたくしの本当の姿です。あそこに突き刺さってる無骨なアレとは似ても似つかない」
「自称妖精って、なにそれ……うさんくさ……」
ネールはあからさまに怪しんでいる。
モルガナに怪しげな視線を送るのは、もう一人。
「――私のことは覚えておいでですか?」
アイの問いかけは剣呑だ。思えば、父さんと一緒に現れた時も、あからさまに臨戦態勢だった。やはり、敵という印象が抜けていないんだろう。
「……あら、ダーインスレイヴのところにいた。あっちの機械の腕の人にはお世話になりましたわね。全く、幻体とはいえ、一度死ぬのは嫌な気分ですわ」
「幻体……?」
「今こうしてあなた方と対話しているわたくしも、幻体ですわ。ま、本体がかなり近くにあるので、本物と同じようなものですわね、ええ」
「な、何を言っているのですか……?」
「このモルガナという女は、あそこに刺さった選定の剣――王の中の王を判定する神造兵器に宿った意志……あるいは使い魔と呼ぶべき存在だ」
「神造兵器……?」
「ノアと同じようなものとお思いになって、我が主。――あら、今の今まで気付きませんでしたけど、今のノアの駆り手を見つけたのですか。やりますわね、ファーレンハルト。今回のノアは船……原点回帰とでも言ったところですか」
モルガナはネールを見ている。
見ただけで分かるのか。やはり人間離れしているのは間違いない。
「大陸間の繋がりは、現状ほとんど破壊されているからな。空は竜の領域。となれば、海を攻めるのが常道だろう?」
「なるほど、今こうしてあなた達が辿り着けたということは、船の姿は正解だったということですわね。神骸機あたりでなくてよかったと思うべきか……って、ファーレンハルト、あなた、ずいぶんと思い切ったことをしましたのね。大丈夫ですの?」
モルガナの目は、ファーレンハルトの剣の方を向いている。
その言葉はからかうようなものではなく、本当に心配しているように聞こえた。
とはいえ、僕達には何を言っているのかさっぱり分からない。それに、二人も詳細に踏み込むつもりはないようだ。
「……いい、さっさと本題を続けろ」
ファーレンハルトの強い口調にモルガナは肩をすくめ、視線を外す。
「あらあら、つれないこと。……あなたにもお礼を言わなければなりませんね。――我が主をここまで運んでくれたこと、感謝いたします。改めて、救済者に名乗らせていただきましょう。わたくしはモルガナ、剣を守る者にして、剣へと導く者。以後、お見知りおきを」
「ご、ご丁寧にどうも……。あたしは、クライス・ネール・キーリア。ノアの……艦長、です」
「わかりました。ネールさん、よろしくお願いいたしますわね。……さて、怖い白髪女に睨まれているので、」
「銀髪だメクラ」
「はいはい、わかりまーしたー。……現状を説明いたします。わたくしが守る剣が刺さった台座を覆うように展開されたこの結界。これは竜の呪われた血が生み出したものでしょうが、この血界自体が、呪いに対する結界として機能していると思われます」
「ええと……?」
要領を得ない僕達は首をかしげる。
そんな僕達を見かねてか、ファーレンハルトが分かりやすく言い換えてくれた。
「――この紅い結界の中に、竜の呪いが凝縮されているようなもの、か?」
「正解ですわ。言うならば、卵の殻と、卵白と、黄身、ですわね。卵の殻は結界で、卵白は竜の呪い、黄身はわたくしの剣。そういうことです、分かっていただけました?」
「その例えなら分かるけど……この殻、つまり結界を破ったら、卵白である呪いが噴き出すってことになるんじゃ……」
「全くもってその通りですわ、ネイト。さすが、か・し・こ・い♪」
「その、褒めてもらえるのは嬉しいんだけど、卵白である呪いが溢れ出したら、どうなるの?」
「素晴らしい質問です。……簡単な話、これまでとは比べものにならないくらいの呪いが、世界に溢れ出します」
モルガナがけろりと言い放った言葉――僕の聞き間違いでなければ、とんでもないことだ。
呪いは竜達を狂わせているという。もし、今以上にたくさんの呪いが世界に溢れたら……。
「――本当にこの結界、勝手に出来ていたんだろうな?」
「心外ですわ、わたくし、この千年間はネイトのことしか考えておりませんもの」
「……ちょ、ちょっと待って、千年間? 千年間って、どゆこと? だってネイトは……」
「まあだからこそ、ここの異変に気付けなかったのかもしれませんけれど……それはそれとして、ああ、ネールさんのご質問に答えるのはまた後ほど。――この結界は、神骸機や竜の盟主の攻撃すらも通じないでしょう。それほどまでに黒い情念が、この血界には籠もっています」
でも僕は、これを打ち破る術を……知っている。
「――この呪いはもはや、神の御業の域に達している。神世の時代に匹敵する強度の呪いと言えましょう。これを解き放つことは即ち、世界を呪うことに他ありません」
世界を、呪う。
しかし、父さんの目的――いや、父さん達の目的は、この呪いを祓うこと。
それを拡散させることを、父さんやファーレンハルトは望むだろうか?
「……ですが、この血界内に呪いが蓄積され続ければ、今は何もなくともいずれ、呪いは世界を覆うでしょう。遅いか早いか、そして、その量が多いか少ないかの違いでしかありませんわ」
「その違いが大したことだろうに」
「ええ、その通り。事は一刻を争います。このまま血界を放置しても竜は狂い、人を襲い続けるでしょう。血界を破壊し、呪いが拡散すれば、さらに多くの竜が狂い、人は死ぬでしょう。――しかしながら、いずれ世界に迫る呪いの洪水を防ぐことはできますわ」
「血界が抑えきれなくなった時……か。その時は、どんなことが起きるの? 呪いの洪水って、どういうことだい?」
「このブリテンは泉、呪いは水、ですわ。そして、この血界は堰です。呪いという水は止めどなく泉より湧き出ていて、泉の水位は年々上昇し、少量の水が周囲に零れ出ている。――今、血に酔ってしまった竜は、その溢れ出た少量の呪いによって狂っているということですわね」
「水位が上がり続けると、堰はいつか崩壊して、呪いが一気に溢れていく……」
「しかし、呪いが泉の許容量を超えていない今の状況ならば、世界に溢れ出る呪いの量もたかが知れています。もちろん、時折零れ出る水よりは遙かに多量ですけれど。呪いの総量自体は、堰が決壊し、溢れ出るよりも遙かにマシでしょう。ネイトさまのお側におられる竜達が狂うことはない」
傍らの、アイを見る。
アイは唇を真一文字に結んだまま、何も言わない。
「しかし、呪いを放置すれば――」
「やめなさい、神世の手のもの」
アイが、モルガナの言葉を遮った。
「……あなたは、ネイトさまに何をさせようとしているか分かっているのですか」
「ええ、分かっていますとも。――わたくしやファーレンハルトにとって、呪いはさして重要ではありません。わたくし達はその先を見ています。竜が何匹狂おうが、知ったことではありません」
「お前……!」
明らかにアイは怒っている。もう少しのきっかけで、竜の姿を見せかねない。ここが呪いに覆われた地で、竜になるのが危険だと言われたとしても、今のアイは躊躇わない。
だから、僕は左手をその肩に添えた。アイは唇を真一文字に結び、ひとまず、思い留まった。
「手間が省けるとも言えますわ。ねえ、ファーレンハルト」
「……しかし、人が死ぬ」
「ええ。死にますわね」
「そ、そんなのおかしいでしょ! 人間が死んでもいいの――」
「人の犠牲が、後の人の世界を作る礎となるならば、その死は無駄ではありません。望むところでしょう」
それは、おかしい。
「そんなの……あたし達の都合で殺していいわけないでしょ!」
「……あなた方は、優しい救済者なのですわね」
「そこは、お前の目論見を外れたか?」
「いいえ、優しさは美徳ですもの。とても美しいものですわ。……しかし、犠牲無き変革はあり得ません。どこかで、何かを斬り捨てないといけないのですよ、ネールさん」
モルガナの言葉は、恐らく正しい。でも、それを正しいと口に出して肯定してしまうかどうかは全く別の話だ。
「……現段階で血界を破壊するメリットは呪いの総量の軽減。そして、わたくしに真の自由を与えることができる」
「真の、自由……?」
「わたくしの本体、選定の剣は血界の中にあります。――あれが抜かれない限り、わたくしは身体を取り戻し、自由に動くことはできません。あなたのお側で、たくさんの話を聞かせてさしあげることもできません。あなたと寝所を共にして、神世の話を、なんでもない日々の話を、穏やかに交わすこともできません」
「……え、あの、これは?」
「……聞いてて薄ら寒くなってきたぞ私は」
「そして何よりも……ネイト、あなたはあの剣でもって、初めて完成するのです。ファーレンハルトとダーインスレイヴが理想とし、追い求めたあなたが」
「父さんと……ファーレンハルトが?」
「………………」
ファーレンハルトは腕組みしたまま、何も言わない。
「剣とあなた、それが、呪いを祓うための最後にしてはじまりのピース。しかし、残念ながらあの剣をあなたが抜くことができる保証はできません。あの剣は、王を選ぶための剣。あなたが王でないならば、わたくしも剣も、あなたについていくことはできません」
「――だったら、どうしてモルガナはずっと僕の側に……?」
「それは……ファーレンハルト?」
「………………」
「まだ言って欲しくないようなので、わたくしは黙っていますわ。――とはいえ、伝えられることはこれだけですわね。あとは、ネイトに委ねるのみ」
――これは、だいぶ、大事だ。
未だに竜の呪いについてはいまいちピンときていないけれど、ファーレンハルト達の言葉に誇張があるとは思えない。
「……僕に選ばせるために、ファーレンハルトはあんな無茶をして、ここまで来たのかい?」
「そうだ。……だが、思っていたより状況は特異だし、動く事態も大きすぎる。私の見通しが甘かった」
「未来を見通せる目なんて誰も持っていませんわよ、ファーレンハルト」
「励ましのお言葉をどうもありがとう。というかお前、まだ口出しするのか」
「当たり前でしょう。ファーレンハルト、わたくし達の目的を忘れたの? 剣が抜かれなければ、我々は何も始められない。となれば、ネイトに望むことはただ一つ――」
「――ネイトさま、いけません」
アイが、久しぶりに口を開いた。
ずっと押し黙っていた間、彼女は何を考えていたんだろう。
「……まあ、竜の側からすれば、抜かれたら困りますわよね」
「そういう問題ではありません。……ネイトさま、あの剣はかつて、神世の時代に人の王が振るった剣。竜に仇なす者の剣です。あれを抜いてしまえば……決定的に、竜と敵対することになってしまいます。そうなれば、私はネイトさまの味方ではいられなくなってしまう」
「果たしてそうでしょうか……?」
モルガナは口の端を歪めて笑う。邪悪な笑みだ。
「わたくしはあなたのことを知っていますわ、蛇竜の末裔の娘よ。あなたはネイトのことを溺愛している。……溺愛という単純な言葉では生やさしいですわね。過剰な、という言葉で修飾した方がよいですわね」
「だからなんだと言うのです」
「あなたの溺愛は、ネイトが剣を抜いたところで翻意するものでしょうか?」
モルガナはずっと僕の側にいた。
きっと……僕が知らない僕のことも、モルガナは知っている。
モルガナが振るう言葉は、僕が振るう僕の言葉よりも、僕の口から発せられているような気がした。
「……違いますわよね?」
「……ッ! 私だけではない、トールダン卿や閣下を敵に回すということでもあると、」
「ダーインスレイヴは……こうなることは、ある程度折り込んでいるでしょう。ねえ、ファーレンハルト」
「…………お前、最悪なタイミングで同意を求めてくるな」
「最悪なタイミングを見計らっていますから」
「だ、だいたい、閣下が本当にあなた達と目的を一にしているならば……私やトールダン卿には打ち明けていたはず!」
「あの男は、君が思っているよりずっと冷徹だ。――君が今の役割を遂行する上で、呪いがどうの、世界がどうのという話は実にどうでもいい、不要なものだ」
「……なに?」
「君の前には、ただ愛らしい赤子がいればよかったんだ。世界竜が眠りに落ち、蛇竜の一族は散り散りになり、一人きりになった君にとって、君がいなければ生きられない赤子と、隠居する竜の盟主に必要とされることは、何よりの救いだった。世界にはまだ、自分の居場所があるのだという……」
「…………なんで」
アイの掠れた声が、なんとも言えず、哀しい。
モルガナとファーレンハルトは、アイしか知り得ないことにためらいなく踏み込んでいる。
「そして、愛らしい赤子は優しい男の子になり、いつしか、凛々しい少年に成長した。それは紛れもなく、あなたのお陰ですわ。モルガナという女よりもずっと、あなたはネイトに大きな影響を与えている。……あなたも、同じくらいネイトに影響されている」
……僕は、昔のことをほとんど覚えていない。
ただ、物心ついた時、アイが側にいることは僕にとって当たり前のことだった。
頭ではなく本能で、この人はずっと僕の側にいてくれたんだと、僕は分かっていたんだろう。それは、これからも変わらない。
「……アイ、大丈夫だよ」
膝を突き丸くなった、子供の頃の僕をおぶってくれたであろうアイの背中に、左手を置く。
「僕は何も変わらない。どんなことがあっても」
「……ネイトさま……」
「だから、僕に選ばせてくれないかな?」
「ですが――」
「色々なことを、覚悟しなきゃいけないのは分かってる……いや、分かってないのかな……。わからないなりに考えて……いや、考えるのも違うか……。うーん……」
「……ネイトさまのしたいことを」
「え?」
「ネイトさまのしたいことを、なさってください。……私は、どんな結果でも受け容れます。私の責務は――ネイトさまのお側に居続けること。それ以上も、それ以下もありません」
「アイ……」
「閣下に拾われ、その任を命ぜられたこと……お恥ずかしながら、少し失念しておりました。出過ぎた真似を。申し訳ありません」
「謝ることなんかないよ、アイ。こうして側にいてくれるだけでも、僕は凄く助かってる」
僕は、アイから二人の魔女に視線をゆっくり移した。
「もし、僕が剣を抜けたら……どうすればいい?」
「……あなたが思うことを為していただきたい、と言いたいところですが、あなたが王たり得るならば、王として為さなければならないことを、為していただきますわ」
「王として、為さなければならないこと?」
「あの剣を抜いたならば――かの竜の盟主は、王を排除しようとするでしょう。そこに感情が挟まる余地はありません。その行いは、竜としての機能なのですわ」
「機能……」
「アイシャの言葉は、全くもって正しい。剣を抜くことが、竜との決定的対立を生み出すことは間違いない。しかし、それは竜の側の論理だ。人の側の論理はまた違う。ネイト、君にもし竜を根絶やしにできる力があったとしても、振るおうなどとは思いもしないだろう?」
「――ええ、それは間違いなく」
「それが、全人類を救済する最善策だとしても?」
「ええ、振るいません」
全人類が、僕に何かしてくれたようなことはない。
僕の側に常にいてくれた人達を斬り捨ててまで人類を救いたいと思うほど、僕は人じゃない。
「呪いはいずれ、僕によくしてくれた竜達にも降りかかる。そんなもの、僕は見たくない。今、呪いを解き放つことで、アイや父さん達を守ることになるのなら、」
薄く光る赤の向こう、微かに見える台座を見据え、僕はゆっくり言葉を続ける。
「……そして、呪いを祓うのに剣が必要だというのなら、僕は抜きます。ファーレンハルトやモルガナの言葉を、完全に信じ切れるわけじゃないですけど……でも、ファーレンハルトは約束を守ってくれました。モルガナのことと右腕のことに、ある程度の答えをくれた。だったらば、僕も求められた役割を果たしたいと思います」
「――ネイト! でも、その呪いを開けちゃったら、人間が死んじゃうんだよ?」
「確かに、そうかもしれないけど……」
見ず知らずの人の生死を背負う、なんてことが言えるほど、僕は強くないし、責任感もない。
今の僕に力はなくて、できることがあるというだけ。
でも、ネールには力がある。僕には持ち得ない力が――。
「僕のせいで、きっと傷付く人がいる。僕はその人達全部は守れない。……だけど、ネール、君にはノアがあるでしょう?」
「――うん」
「僕がこれからすることは、きっとたくさんの人を傷付けてしまう。――だから、ネール、傷付けてしまう人達を、ノアの力で守って欲しい。僕も必ずネールの力になるから。……お願い」
「成体ならばともかく、狂った竜が相手ならばノアが後れをとることはない。ウィクトーリアもいる、易々と人を喰らわせはしない。希望を見つけ出した次は――ノアが、希望となる番だ。できるな、ネール」
ネールはハッと目を見開いて、それから、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「――うん!」
ずっと黙って見つめていたモルガナが、始まりを、告げた。
「それじゃあ、始めましょうか」
右の拳を、ぎゅっと握り締める。
何も考えることはない、ただ僕は右で血界に触れればいいだけなのだ。
一歩一歩、薄く張られた結界へと近付いていく。
近付いて行くにつれ、据えた匂いが漂ってくる。血の臭いだ。
アイやファーレンハルトは後ろから僕のことを見守っている。みんなの視線を受けながら、僕は右の指先を、ゆっくりと、血界に触れさせた。
触れてしまえば、なんということはない。
薄い赤は、一瞬で消え失せた。崩壊した赤の欠片は砕け散るのではなく――まるで、解き放たれたかのように、四方へ飛び散っていった。
――呪いは解き放たれたのだ。
もう、僕の行く手を阻むものはない。深く抉れたクレーターの中を、ゆっくり降りていく。
足の裏に感じる土の感触は、やはり生気を感じられないくらいに乾いている。
僕が歩を進める度、砂や土はぱらぱらと音を立てて、緩く曲がった斜面に沿って、下方の台座へと落ちていった。
「……ネイト」
いつの間にか、僕の隣にはモルガナがいた。
「いよいよ……あなたが救世主となる時が来ましたわ」
「そうなると決まったワケじゃないでしょう?」
「ええ、そうですわね。万が一はあるかもしれませんわ」
その万が一は、僕が抜けないということか。
「……でも、万が一にしか起こらないことだから、万が一というのですわ。ネイト、大丈夫。あなたは、きっと為してくださいますわ。だって……わたくしが、ずっと側にいたのですから」
僕は、促されるまま、銀色の台座の前に立つ。
台座には、剣が深々と突き刺さっている。すごく重そうな剣だ。
「さ、右手で触れて」
「右手でいいの?」
「えぇ、大丈夫。その右腕は、なんでも壊すというわけではないのです」
モルガナの細い手が、僕の右手に添えられる。
モルガナはゆっくりと、右手を剣の柄へと運んでいった。
僕はモルガナに委ねかけて、その右手に意志を籠めた。
「……ネイト?」
「これは、僕が選ぶことだから」
「分かりましたわ。では、一緒に……」
僕の右手は、促されることなく――柄を、握った。
剣は壊れない。僕は握り締めたまま、ゆっくりと剣を動かしていく。
持ってみると、剣は意外と軽かった。台座は拒むことなく、僕に剣を解き放たせた。
「――やはりあなたは、わたくしの主でございます」
陽光を反射して、刀身は輝いた。
傅くモルガナに、僕はどんな顔をすればいいかわからなくて――曖昧な笑みを、向けた。
モルガナが差し出した手をとって、僕はゆっくりと皆の元へと戻った。
「……はあ。本当の身体で触れるネイトの肌触りは最高ですわね」
「心の底から気持ち悪いぞ、お前」
「あら、褒めてらっしゃる?」
「……隣のネイトの顔も引いてるぞ」
「――引いてます?」
「割と」
「……あら。じゃあべたべた触るのはやめますわね。じゃあ、こう昔の恋人同士のように密着する感じでいかがでしょう?」
「……あの、特に何事もなく抜けてしまったんですけど、いいんですか?」
「構わん。その剣は選ぶ機能しかない。ファンファーレでもついていればよかったんだがな。鞘を用意しよう。剥き身の剣では危なすぎる」
「それは確かに」
台座に突き刺さっていただけあって、鞘なんて気の効いたものはついていない。
「ま、ひとまず目的は達した。さっさとノアに戻ると……」
そこで言葉を切って、ファーレンハルトは空を見上げた。
僕も、ネールも、つられて空を見る。
「……なんですか、これ?」
空に、無数の影が羽ばたいていた。
島に一時期やってくる渡り鳥の群れ――一つ一つの影は巨大だけど――のような黒点が、僕達の頭の上で、ぐるぐると回っている。
「呪いの封印が解けて、竜が集まってきていますわね。既に彼らは狂っていますわ。言葉が通じる相手ではありません。さっさと走り抜けてしまいましょう」
「封印が解けて集まってくるって、どういうこと?」
「――最後の枷が外れてしまうということです。既に呪いをある程度浴びていた彼らは、先ほどネイトが解き放った呪いで、無事に最後の一線を越えました。……今、我らの頭上にいるのは、知性を持った竜という存在ではありません。純然たる人類の脅威ですわ」
「人類の……脅威」
「我々が彼らに狙いを付けられる前に、船へ戻りましょう。ここは、危険ですわ」
狂った竜達のけたたましい叫び声は、地上の僕達にも聞こえている。
その叫びに知性はない。
僕が一度も聞いたことのない……そう、怪物としか形容の出来ない、何か別の物の声だった。
竜は、僕達目がけて飛来する。
「チィッ!」
ファーレンハルトが追い払おうとしても、竜は簡単には止まらない。
竜達の目は血走り、黄色く濁っている。
こんな悲惨な姿を、僕は見たことがない。
「……あ、あたし達、このままっ……!」
竜は何体も何体も降ってくる。僕達を餌だと思っているんだろう。
次々と落ちていく影が、僕達の頭の上に竜達が集まっていることを教えてくれる。こんなの、どうしようもない。僕の手の中にある剣では、この現状は変えられない。
「くそっ……!」
「まずいですわね、この数は……」
モルガナのまずいですわねという言葉は、絶望感が三割増だ。
「モルガナ、なんかないのか!」
「ありません!」
「……こうなったら、」
「だから、ここで竜の姿になるなと言っただろう! お前にまで狂われたらどうしようも、」
一瞬、空の影が晴れた。
遅れて、何か湿ったものが降ってくる。
竜の叫び声が何度も響いて、その度に、ぐちゃ、という落下音が鳴った。
「……ウィクトーリア!」
竜を斬り捨て、空に騎士が立つ。
竜にとっては絶望であろう蒼い翼は――僕達にとって、希望だった。
◆
その瞬間、世界は揺れた。伝播した呪いと、太古より封じられてきた物が解き放たれたのを感じ取って、竜の盟主は行動を開始した。
――いや、それは正しくない。
既に、竜は行動を開始していた。
統制を忘れ、けたたましく空へ叫び散らす竜の声を聞きながら、オズワルトは顔をしかめた。
「……狂っている!」
無数の竜が連なり、一筋の黒雲のように飛ぶ竜達が目指す先は、その下を往くダーインスレイヴとオズワルトと同一であった。
「――呪いが解き放たれたか」
六枚の翼――そして、傍らのオズワルトの1・5倍はあろうかという漆黒の巨体に、二つの紅い瞳を光らせて、竜の盟主は忌々しげにつぶやいた。
「……それは、どういう……?」
「方法はわからないが、ブリテンに収まっていた呪いが一気に拡散したのだ。……いや、どうやって解放したかは分かりきっているか。問題は、なぜ、解き放ったかだ」
「閣下のお子様を利用しているのでしょうか?」
「……それはわかりきっていることだ。奴らがどのようにネイトに力を使わせたのか、それが問題なのだ!」
ダーインスレイヴは吠え、空気が震える。
頭上の黒雲は一瞬激しく乱れ――再び、ブリテンへと直行する集団へと戻った。
「――急ぐぞオズワルト。狂った竜達は加減を知らぬ。動くもの全て食い尽くしかねん!」
「はっ!」
突如差した黒い影に、セドリックは頭を上げ――目を凝らし、見開いた。
「なんだ……あれは……」
朧気な視界でも、その異変はすぐに分かった。
竜が、それも、到底数え切れない数の竜が、この島に殺到している。
「……藪を突いて竜を出したか」
駆動音が響き、ウィクトーリアが立ち上がった。
「――狂った竜は人間を狙うんだったな?」
「……ネール達が!」
「ノアで陽動してくれ。俺は皆を迎えに行く。可能な限り、すぐ動けるように準備してろよ。できるかはわかんないけど」
「出来る限りの準備はしよう。……頼むぞ、トレイン」
「任せろ」
ウィクトーリアの背に蒼い光が灯り、翼を形作るや否や、猛烈な疾風を伴って、ブリテン島の内陸の方へと消えていった。
その間も、水平線を覆い尽くす黒い影は増え続けている。
「さながら……黙示録だな」
セドリックは物憂げにつぶやき、ノアの戦備を起動させた。
「――傷は治っているだろう。行くぞ、お前の馬火力を見せてやれ」
ノアから放たれた砲撃は黒い群れへと直撃し――群れの一部が、ノアに向かって殺到した。
ウィクトーリアの加速は頂点に達し――空から地面に急降下する黒い影を千々に刻んだ。
「無事か!?」
地に降り立ち、白銀の騎士は剣を構える。
騎士の足下には、少年と少女達がいた。
「……礼を言う。二度も助けられたな」
「目的は果たせたのか?」
「万事、滞りなく」
「そいつはいい。――撤退でいいんだろ?」
「構わん」
ウィクトーリアは剣を枯れた大地に突き刺し、膝を折った。
その広げた手の平に皆は飛び乗り、ウィクトーリアは再び翼に点火する。
「……一人増えたな。人間?」
「いいや」
「はじめまして、わたくし――」
「あーはいはい、わかったわかった。化生の類の方の自己紹介は結構」
「あら、酷い。あなただって似たようなものでしょうに。――っと、お喋りしている暇はなさそうですわね」
ノアに殺到した竜達が、次々砲撃で撃墜されていく。
しかし、落ちる側から新たな竜が襲いかかり、手勢が収まる気配はない。
「雑魚共が……ハエかてめらは! 振り落とされるなよ!」
蒼翼が噴出し、ウィクトーリアはさらに加速した。
手の平の上のネイト達は必死に捕まることしかできない。
ウィクトーリアは黒い群れの中に突撃し、情け容赦なく、次々と斬り、堕とした。
銀色の鎧は瞬く間に竜の返り血で真っ赤に染まる。しかし、そんな程度で、希代の竜殺しは止まらない。そこにある限り、白銀の騎士は、敵を喰らい続ける。
鎖が何体もの竜の首をまとめて縛り上げ、飛来する番の剣は竜達の腹を割き、次々と海面へ叩き落としていく。
鎖はからめとった竜の首を絞め、捻り、切る。
ウィクトーリアが手に持った剣で空を舞い、竜達を斬り伏せる間も鎖は次々と竜達の首をネジ切っていった。その戦い方は、凄惨の一言に尽きる。
ウィクトーリアに、竜達に向ける礼儀はない。彼の敵はただ単なる畜生だ。
畜生に払う礼節はない。故に、騎士はどこまでも墜ちることができた。
「――すごい」
その圧倒的な戦い方に、ネイトは感嘆の声を漏らした。
斬り伏せた竜の数は、百を下らないだろう。
ウィクトーリアはただの一度も被弾することなく、手の平の上の者達に血の一滴もかけることなく、ノアに殺到する竜を一掃した。
「まがい物でも、ここまでくれば本物ですわね」
蒼翼の噴出は収まり、ウィクトーリアは甲板に着地した。
「撤退! ……で、いいのよね?」
少しだけ覇気の戻った表情のネールの言葉に、、セドリックの表情は少し緩む。
「火器は無限だ、ここで相手をしても……」
「やめておけ。長居は無用だ。――全世界の血に酔った竜が殺到するんだぞ。いずれは物量で押し切られる。それに、こんな大事になって……アレが、黙っているはずがない」
「新たな王が現れましたしね。彼が、わたくし達を見過ごしてくれるとは思えません」
「何の話をしてる、魑魅魍魎共」
「魑魅魍魎って、こんなうら若き乙女を捕まえて……酷いことを言いますのね」
「お前は正真正銘魑魅魍魎だろうに。――ネール、船を出せ。討論は船旅をしながらでもできる。狂った竜達は私達に用はない。用があるのは、一層の呪いだけだ」
ファーレンハルトは、憐れみの瞳を向けて言った。
「そ、それで……これからどうするの?」
「モルガナ、連中はいつまでブリテンに集まると思う?」
「……難しい質問ですわね。それ以前に、あそこまで畜生に墜ちてしまったのなら、ダーインスレイヴ達も私刑に躊躇いはしないでしょう……と思うのですが、竜の方のご意見は?」
「――私は……できません。あそこまで醜い姿をさらしても、竜は竜ですから」
「……なるほど、ご意見の一つとして賜っておきましょう。狂っていない竜が、ブリテンに近付くのも一つのリスク。精神的にそこまで強くない竜であれば、あそこに残った呪いに当てられてしまうこともあり得ますわね」
「……ブリテンが竜の巣になると」
「巣、良い言葉ですわね。ええ、まさしく巣でしょう。人間としては複雑ですか?」
「……ファーレンハルト、この無性にイラつく女はなんだ、説明しろ。というかお前、俺の姿にツッコミはないのか!?」
「特に興味は。そういうのもあるかなってくらいですわね」
「……なんだと?」
「――クレイジーな女とでも思っていてくれ。自称私の友人らしいが、自称だから気にするな。あとネイト、お前はモルガナを黙らせることができる。一言でいい、黙れと言ってくれ」
「モルガナ、もう少し全体的に柔らかく喋ってあげて」
「わかりましたわ。こうしてネイトと触れ合っていられると、勝手にテンションが上がってしまって……!」
ネイトに恥も外聞もなく抱き付き、頬を擦りつける姿を見て、セドリックは目を剥いた。
「…………これに友人を名乗られるのは同情するよ」
「そうだろう。――まあとにかく、狂った竜達を現状なんとかすることはできん。差し迫って、もっとも危険な脅威を迫っている以上、ここで無駄な時間を使うわけにはいかない」
「……その脅威ってなんだ、何が来る?」
ウィクトーリアの問いに、弛緩した空気は一瞬で引き締まった。
「――竜の盟主ダーインスレイヴ。いや、この場合は皇竜ダーインスレイヴと言うべきか」
「皇竜……?」
「とても古い、閣下の呼び名の一つです。……あなた一体、いつから生きているのですか?」
「――さあな。神様にでも聞いてくれ。皇竜というのは、厳密には竜ではない。竜を超えた存在だ。竜だけではない、地上を管理するものに与えられる称号のようなものかな」
「管理……ね……」
「皇竜が出張る条件はただ一つ。世界の均衡が激しく乱れる可能性が出現した時のみ。人の王が現れた時や、人の文明が世界の覇権を握ろうとした時……そして、竜を蝕む呪いが伝播し、人の王が再び現れた時――ヤツが出張る理由は揃っている」
「……皇竜ってのは、何様なんだよ」
「――人からしてみれば、神と呼んでも過言ではないですわね」
「俺は……俺達はそんなものを信じた覚えはない」
「ええ、そうでしょうとも。……誰も知らぬところで定められた誓約に縛られ続けるだなんて、いい迷惑でしょうものね……」
「本当にその通り、いい迷惑だ。……いい加減、望んでもいない神様にはご退場いただきたいもんだ」
ウィクトーリアは空を睨む。潰れたカメラアイではなく、機体の全身が何かの気配を感じ取っているかのようだ。
空気が、次第に重くなっている。それは、ただの人のネールですらも感じ取れるほどの異変であった。
ファーレンハルトの紅い瞳は空を睨み、その到来を告げた。
「主は来ませり……か」
狂った竜達の影ではない別種の闇が、空を覆おうとしていた。
空を飲み干す、深く暗い闇。まさしくそれは竜の力の具現であり、闇を操る竜などは、この地上にただの一体しか存在しない。
「閣下……」
「父さん……」
その闇が何を意味するか、ネイトとアイシャはすぐに理解した。
竜の盟主、ダーインスレイヴは既に臨戦態勢になっている。その目標物はネイトの持つ剣、あるいはノア――もしくは、その両方か。
「ファーレンハルト、ノアの最高速ならダーインスレイヴから逃げ切れるか?」
その問いかけの答えを、騎士は誰よりも知っている。
この場――いや、この世界で、かの竜と刃を交えたことがあるのはただ一人。
「……ある程度距離をとることができれば、逃げ果せるのは可能だろう。以前と同じように隠匿状態になれば、ヤツの目もある程度はくらませることができる」
「了解した。時間があればいいんだな」
その時間を捻出するための策は、ただ一つ。
今の彼らが取り得る、最良の策だ。
「戦いに、行くんですか」
ネイトの問いかけに、ウィクトーリアの頭部は縦に動いた。
「願ってもみないリベンジのチャンスだからな。お前らが逃げる時間も稼げる。一石二鳥っていうんだぜ、こういうの。知ってたか?」
「ええ、知っています。――勝てるんですか?」
「心配するなよ。一人で戦うのは慣れてる。……ダーインスレイヴが来る前にさっさと行け。お前らを守りながらじゃ勝てるもんにも勝てやしない」
「……分かった。武運を」
「……すまんな、トレイン」
「謝るなよ、一人で戦うのには慣れてる」
鎖で繋がった二本の剣を両手で握り、白銀の騎士は空を睨み続ける。
「トレインさん」
その背中に、ネイトが問いかける。
「……どうして、そこまで竜と戦うんですか」
「――大切なものは全部、奴らが奪っていった。幼馴染みも恋人も子供も、友達も。だから、奴らからも全てを奪う。連中全ての命は、俺の大切なものに釣り合いやしないが……何かの、慰みにはなるだろう」
振り返らないまま、ウィクトーリアは切っ先をネイトに真っ直ぐ突き付けた。
「――俺は竜を殺せりゃそれでいい。世界を救うだとかは全部、お前達に任せるよ」
蒼い翼が薄く噴出し、ウィクトーリアはふわりと浮き上がった。
「じゃあな」
短い別れの言葉と共に、騎士は闇の彼方へと消えた。
血に酔った竜達は、動くウィクトーリアを見つけるや否や、上空から飛びかかった。
「邪魔だ――」
雑兵が何体も降りかかったところで、ウィクトーリアは止まらない。
剣は竜達の肉体を深々と裂き、闇の発生源に至ろうとする前に立ちはだかってしまった哀れな竜は、次々と深く冷たい深海へ叩き落とされていく。
「見つけたぞ!」
竜達を引き裂き、急降下するウィクトーリアの先には――六枚の翼があった。
「やはり、お前は我を殺しに来るか……」
諦観の籠もった言葉と共に、ダーインスレイヴの紅い瞳は、降下するウィクトーリアを捉えた。
「――ならば、降りかかる火の粉は払わねばなるまい!」
ダーインスレイヴの絶叫と共に闇は球体となって、ウィクトーリアと上空の狂った竜達を取り込んだ。
闇の帷に取り込まれたウィクトーリアだったが、動じることはない。
既に、この能力は千年前に知っている。
「同じ手を二度食うほど俺も馬鹿じゃねぇんだよ!」
闇の帷の中から突如伸びた腕を避け、ウィクトーリアは剣を突き刺す。
しかし切っ先に手応えはなく、腕は闇に溶けた。
ウィクトーリアの頭上からは、恐らく腕によって引き裂かれた、狂った竜の残骸が次々と降り注いでくる。臓物と血に汚されながらも、ウィクトーリアは闇の中で剣を振るう。
「俺はてめえの幻影と戦うために来たんじゃねぇんだよ!」
闇の空間に剣を突き刺し、勢いよく振り上げる。
空間に入った亀裂と共に、くぐもったうめき声が響いた。
鎖の先の剣を振り回し、空間はウィクトーリアの剣で切り裂かれる。傷が与えるのは痛みだ。
この闇は、作り出されたものではない――ダーインスレイヴ自身だ。
「……しかし、これで邪魔者は入らぬぞ」
その声と共に、闇は晴れた。
バラバラになった竜の死体がいくつもいくつも水飛沫を立てて、海中に没していく。
血と肉の雨を浴びながら、ウィクトーリアは振り返ることもせず、眼前の仇敵を見据えた。
「同胞殺しは大罪じゃなかったか?」
「……ここまで畜生に墜ちてしまえば、生きていくこと自体が苦痛であろう」
ダーインスレイヴの腕は、血に染まっていた。
「彼らを救えるのであれば、この手を汚すことは厭わぬ」
「そうかい。……ま、邪魔者を殺してくれたのには礼を言う。これでゆっくり殺し合える」
ダーインスレイヴの闇に大量の竜が飲まれても、まだまだ四方から湧いて出てくる。
竜の盟主は血に酔った竜達を睨み、嘆息した。
「我らは増えすぎたのやもしれぬ……。呪いは淘汰ということか」
「――そして、あんたは長く生きすぎだ」
一瞬で、ウィクトーリアが肉薄する。
剣の一撃は闇の空間に阻まれていたが、剣が届きうる距離を一瞬で詰めることはできる。
ウィクトーリアは離脱し、鎖に繋がれた剣を放った。
ダーインスレイヴの肉体は崩れ去るかのように一瞬で闇に溶け、切っ先は空を突き刺した。鎖を手繰り、臨戦態勢へと戻る寸前、ダーインスレイヴの巨躯はウィクトーリアの背後に現れ、その右腕を振り上げる。
ウィクトーリア――いや、トレイン・ハートライトは、視界に全てを頼らない。
今の彼の知覚の全ては、己と一体化したウィクトーリアが感じる空気と気配。
故に、その行動は読めていた。
「ほう」
「捉えたぞ、ダーインスレイヴ」
「……貴様、一線を越えたな」
上空に退避したウィクトーリアの剣から伸びた鎖は、複雑にその右腕を絡みとっていた。
「締め落とす!」
鎖は巨腕を引き千切らんとばかりに皮膚に食い込んでいく。
如何に逆鱗で守られていたとしても、その腕ごともいでしまえば防御力は意味を成さない。
「果たして、そう上手くいくかな――竜殺しよ!」
腕に、紅い光が満ちる。逆鱗の下、竜の皮膚が発光しているかのような異変に、ウィクトーリアは退くか、ねじ切るのを続行するか、迷った。
その逡巡は大きなミスだ。
紅い光は紋様を形作り、三つが腕に連なる。
一連の現象は、数多の竜を狩ってきたウィクトーリアにとっても全く未知の現象であり、判断材料は直感しかなかった。
「――まずい」
腕に絡みついた鎖はそう簡単には離せない。簡単にねじ切ることも出来ない。
故に、ウィクトーリアは――紅い紋様に吶喊した。
「焼き尽くせ!」
再び紋様は発光し、飛来するウィクトーリアに向かって砲撃を放った。
剣を自らの正面に携え、ウィクトーリアは真っ向から突き進む。
蒼翼は一際大きく空に広がり、騎士に推進力を与える。
砲撃は一際太くなり、放つ熱波は白い鎧を爛れさせていく。
「その右腕――貰い受けるッ!」
蒼翼は主に応えた。
紅き紋様ごと、竜の盟主の腕は絶たれた。
噴出した蒼翼と共にウィクトーリアは軽やかに舞い、鎖で繋がれた剣と共に間合いを開ける。
「……よもや、人に我が身を引き裂かれるとは。いや、貴様はもう人ではないな」
「そうかもなあ」
鎧の下で、騎士はどんな顔をしているのだろう。
「認めよう、神骸機。竜に鎧を纏わせたまがい物よ」
六枚の翼の背後に浮かぶは、右腕に現れたものと同じ紋様。
その数は到底数えきれるものではない。
「汝は紛れもなく竜である。その名を名乗れ、竜の騎士よ」
「俺は――」




