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竜ノ心   作者: 風見どり
3/5

少年と闖入者達

 出された食事は驚くほどまずかった。

 いや、まずいとかそういう次元じゃない。

 こんな食べ物が食べ物であっていいはずがない。そう、魂に訴えかけてくるような、凄まじい食べ物だった。

「……ネイトさま」

 食事もほどほどに、アイは立ち上がる。

「私の目が黒い間は、あなたにこのようなものを口にさせるわけには参りません」

 ドロドロの流動食を、なんだかみみっちいスプーンで掬い上げるのを手で制止、アイは向かいで蒼い顔をして食事を続ける二人を見やった。

「あなた達、こんなものばかり食べて、頭がおかしいんじゃありませんか?」

「いやだって、それしかないし……」

「最初はまずいと思ったんだが、食べ慣れてくると何も感じなくなるんだ」

「味覚が麻痺しただけじゃないかなあ……」

「……あなた達も食べるのをやめなさい。ものはついでです。あと、こんなもの食べ続けたら死にますよ。誇張なく、ほんとに。厨房に案内してください。調理をします」

 と、一気にまくし立てるアイを、二人はあんぐり口を開けて見上げた。

「早く! キリキリ動く!」

「はっ、はい!」

 アイに追い立てられて、この船の艦長だというネールさんは食堂を出て行ってしまった。

「……アレは、なんなんだ」

「アイは僕のことを最優先に考えてくれているだけです。……ずっと昔から。今も、思うところはあると思うんですけど、僕の意志を尊重してくれています」

「ダーインスレイヴの言う責務がそれということか。……まあ、正直言って竜がこの船の中にいるのはあまり歓迎できない状況だが、君が我々に友好的な間は、寝首を掻かれる心配はなさそうだ」

「さっきのライオンさん……セドリックさんの言葉を借りるわけじゃないですが、僕は信用も信頼もしていますよ」

「ほう?」

「あなたは、僕の右腕のことも知っている。モルガナのことも知っている。僕しか知らないことを知っていて、かつ、僕の知らないことを知っているという人は、信頼した方がいいと思うんです」

「情報を引き出すためか?」

「そんなに打算的じゃないですよ。……なんとなく、ファーレンハルトさんからは信頼できる雰囲気のようなものを感じるんです。自分でもよくわからないんですが。モルガナに雰囲気が似ているからかな……?」

「あまり嬉しくない比較対象だな」

「モルガナとは友達じゃないんですか?」

「友人ではある。……しかし、似ていると言われると若干心外な友人というのはいるだろう?」

「うーん……」

 アイシャやトールダンに似ているって言われたら、結構嬉しい……かな。

 それ以外の人となると……。

「……僕は、あまり友人がいないので。そういうのはイメージできませんね」

「そうか……ダーインスレイヴのところには、アイシャくらいしかいなかったのか?」

「ええ。父さんとアイ、それに、時々島にトールダンや父さんの昔の友達がやってくるくらいでしょうか。トールダン以外は、僕と話してもくれなかったですし……」

「……モルガナは、いい話し相手になったか?」

「ええ。とても。楽しかったですよ」

「あれの出来ることなど戯れ言を操るだけ。立派に責務を果たせたようだな」

「――ファーレンハルトさんは、モルガナとはどういうお知り合いなんですか?」

「……私のことはファーレンハルトと。呼び捨てでいい。さんなど付けられたらくすぐったい」

「でも……目上の方、ですよね? それも、父さんの古馴染みだというのなら……」

 そんな長命な存在を、僕は一つしか知らない。

 恐らく――この人も、竜なのだろう。

「……その想像は、少し外れている」

「何を考えていたか、わかるんですか?」

「ああ。――私が竜だと思ったのだろう? 確かに、ああいう肉体を持っていた時期はあった。しかし、今は竜の姿にはなれない。もし仮に、当代の竜達と同じように人と竜を自由に行き来できるなら、島ではもう少しスマートに立ち回れたろう?」

「……確かに」

「私は出来損ないになってしまってね。……モルガナも似たようなものだ。出来損ない同士、惹かれ合ったとでもいうのかな。かれこれ千年来の付き合いになる」

「千年来の付き合いということは……」

「私と彼女は戦乱の終結後に出会い、ある約束をしたんだ。……それ以来の腐れ縁だ。もっとも、最後に顔を合わせたのは、その約束をした時だがね」

「どんな約束をされたんですか?」

「竜の手に落ちた世界を救う――そんなところだ」

 竜の手に「落ちた」と形容するファーレンハルトは、竜よりは人間の側に近いように思う。

 いや、そもそも人間の側でなければ、こんな大それたことはしないだろう。

「……その為に、私は匣船を探し出し、あいつは君という希望を守る。どう守るかの具体的な方法はつい先日知ったわけだが」

「じゃあ、モルガナは僕を守ってくれていた……?」

「ああ。……何から守っていたかは正直推測の域を出ないが、恐らくその難儀な右腕だろう」

 ファーレンハルトが、だらりと垂れた僕の右腕に視線をやる。

「その右腕は、意志を持って触れたものをすべからく崩壊させる……のではないか?」

「……正直、使ったことが少なすぎて、どんな力なのか分かっていません。今だって、この机や椅子に触れたら壊してしまうかもしれない。島で食事をする時とかは大丈夫だったんですが」

「……ふむ。触れない方が良いだろうな。幼い頃から常に側にあったものは、君は特段意識することなく触れることができたのだろう。裏返せば、意識して触れるものは全て壊すことはできる。……あの熱波のように」

「あの炎は……壊せましたね。あれはなんだったんでしょう」

「ウィクトーリアが仕留めた竜の置き土産……ではないな。恐らく死んでいない。あれほどの力を発露できる竜が死に体なものか」

「オズワルトさん……でも、あの怪我は……」

 とても無事で済むとは思えない。

「無論、しばらくは動けないだろう。……動ければ、あの竜は間違いなくこの船を追撃する。あれが快復しない内に、こちらもサクサク旅程を消化しなければ。戦備も回復しないと、次の戦闘に耐えられない」

「……回復、ですか? 船が回復するって、それはどういう……」

「船についてまで私が話しては、ネールがヘソを曲げそうだ。皆を交えて一度話をしよう。これからの指針も共有せねばならないからな……」

 なるほど、確かにこの人は、モルガナと気が合いそうだ。

 物憂げな表情を浮かべ考え込む姿――そんなファーレンハルトをモルガナがからかっている姿が目に浮かぶ。

 あれ、これはモルガナが一方的に仲良くしているだけ……?

「……時に。ダーインスレイヴの元は快適だったか?」

「え? ええ、まあ……不自由することはなかったです。たくさんのことを教わりましたし。戦い方も、歴史も、様々な知識も。島ものんびりできましたしねえ」

「……そうか。気に入っていたなら、悪いことをしたな」

「謝ることなんですか? ファーレンハルトはもっと、なんていうか、気にせずふんぞり返るべきことだとばかり」

「ふんぞり返っていた方がいいか?」

「微妙なところですね。……僕はどっちでも気にしません。最後に選んだのは僕ですから」

「なぜ島に帰してもいいという申し出を断ったんだ? 気に入っていたんだろう? そこまで、初対面の私を信用できたのはなぜだ?」

「……たぶん、僕はモルガナのことが好きだったんだと思います。自分で思っているよりも」

「――ハアッ!?」

 僕に食ってかからん勢いで、ファーレンハルトは目を見開く。

 やっぱり、この人とモルガナの相性は良さそうだ。

「モルガナは父さん達に消されてしまいました。その時は、自分でもよく分からないことが続いて、正直少しパニックになっていたのかもしれません。――時間が経って、思いの外、あの人は僕にとって大事だったんだなって。あれでお別れなんて寂しいって、思うんですよ。もちろん、知りたいから……それが一番強いと、思いますけど」

「……そうか」

 ファーレンハルトは頷いて、目を閉じた。

 ゆらゆらと揺れながら、何かに思いを馳せる表情は、どこか楽しげだ。

「君は面白いな」

「……そう、でしょうか?」

「ああ、すごく面白い」


 あのクソマズイ食事は、千年前の軍人達が食べていた栄養食だったそうだ。

 栄養食以外に、食料も積んであったものの、この船に調理できる人はおらず、ずっと食料庫で眠っていたらしい。それを掘り出したアイは、島にいた時よりも心なし機嫌良く、食事を作ってくれるようになった。

 状況に忸怩たる思いもあるだろうけど、僕のためといって尽くしてくれるのはありがたい。

 僕とアイは用意してもらった部屋に、二人で暮らしている。意外と不自由はない。

 アイが洗濯物を丁寧に畳みながら、嬉しそうに笑った。

「ネイトさま、きっちんというものは素晴らしいですね!」

「そうなの?」

「スイッチ一つで火加減が制御できるのです! 人間もたまには役に立つものを作るのですね。薪で火加減を調整しなくていいのがこんなに楽だなんて……。閣下もきっちんの設備を整えてくださればよかったのに……。使える技術は使えばいいと思うんです」

「……アイはさ、千年前は何してたんだい? そういえば、一回も聞いたことなかったけど」

「私ですか? ……私の竜の姿のことは、ネイトさまもご存知ですよね?」

 アイの竜としての姿――それは巨大な蛇のような長い胴体を持つ、「蛇竜」と呼ばれる種族だ。

 オズワルトさんやトールダン、それに父さんのような、二枚の翼を持ち、二つの手足を備える竜は、「精竜」と呼ばれている。蛇竜と精竜は全く違って、より戦闘性に特化したのが精竜と聞いている。

 彼らは精霊の声を聞き、様々な異能を操る――らしい。

「我ら蛇竜……というか、我らの父……ですか」

「お父さん? アイの?」

「はい。我ら蛇竜は両性具有の世界竜ヨルムンガンドより、命を分けられ産まれたもの。千年前の戦争を前にして、我らの父は眠りにつくことを選んだのです。閣下の応援要請も拒絶し……今は、海溝の底におられます」

「初耳だ……」

「……ええ。これは本当に限られた竜しか知らないことです。蛇竜は数も少ないですからね。我々の意志は父たるヨルムンガンドの意志。父が戦うことを是としなかったならば、我々も閣下達に協力し、人と戦うことはできなかったのです」

「戦わない間はなにしてたんだい?」

「色々ですね。私はたまたま閣下と出会って側付きとして仕えさせていただきましたが……他の蛇竜の中には、人を守ろうとするものや、父に従って眠りにつくものもいました。それから、閣下に連れられてあの島に入り、今日こうしてネイトさまに付き従っているわけです」

「へえ……全然知らなかった……」

「このようなこと、ネイトさまが知らなくてもよいことでしたし。しかし、今は状況が変わりました……いえ、変わろうとしているのだと思います。であるならば……私はその選択を尊重し、あなたをお助けしなければならない」

「ありがとうね、アイ」

「いえ、当然のことをしているまでです。……ネイトさま、何か不自由していることはありませんか? 島の外で、このような慣れない環境です。何か問題がありましたら、気兼ねなく私に仰ってください。それと……島に、お戻りになりたい時も」

「うん、ありがと。でも、僕は大丈夫。食事事情も改善されたしねえ」

「それはよかった。……おや?」

 アイが、洗濯物を畳む手を止める。

 アイの視線を追いかけると、部屋の独りでに開くドアがちょうど開いたところだった。

「こ、こんにちは! ちょっとその……用事があって……」

 そう言って頭を掻くのは、この船の艦長、ネールさんだった。

「用事ですか? それは、私でしょうか。それともネイトさまですか?」

「ええと、ネイトくんの方で……」

「僕に? なんですか、用事って」

「えーと……喋るライオンと、あなたも見たと思うけど、神骸機……の人がね、ネイトと話したいんだって。だからちょっと付き合って欲しいんだけど……どう、かな?」

「――私はお供して良いので?」

「遠慮して欲しいかなあ……」

 アイが、僕にアイコンタクトを送ってくる。

 僕は少し視線を落としてそれに応える。アイは一つ嘆息し、わかりました、とつぶやいた。

「それじゃ、僕一人で。あの人達とはあまり話したことがなかったから、少し楽しみかな」

「ネイトさま、私はお帰りをお待ちしております」

「うん。じゃあ、ちょっといってくるね」


 部屋を出て、ネールさんと連れ立って歩く。

 正直、この子ともあまり話したことがない。だいたい、この船に乗ってからはアイかファーレンハルトが常に側にいたなあ。

「……ね、ネイトくんってさ」

「ん?」

「ちゃんと、しゃべれるんだね」

「…………は?」

「ご、ごめんごめん! いやその、ずっと竜の元で暮らしてたってファーレンハルトから聞いたから、がお……的な?」

「……………………は?」

「……ごめんなさい」

 島の外の人達は竜をなんだと思ってるんだろう。

「もしかして、外の人は竜のこととか……あまり知らないのかな?」

「そう……だね。竜を見たことのある人なんてほとんどいないと思う。いることは知ってるんだけどね……神様、みたいな感じかな」

「神様…………」

 確かに竜の操る力は神と呼ばれても不思議ではないだろう。

 トールダンやオズワルトさん、父さんの力を知っているから、尚のことそう思う。

 でも、彼らが神ではないことも、僕は知っている。

「あたしは小さな漁村で生まれたから、そんなに実感なかったんだけど……他の所だと、竜に生け贄を捧げたり、竜が無差別に襲いかかってきて、村や街一個が滅んだりしてるんだって」

「生け贄……?」

「うん。ファーレンハルトが言ってた。……あたし達もね、ずっと命がけで海に出てたの。木船に帆を張って、村からずっと遠く離れた遠洋にね。あたしのお父さんとお母さんは、漁に出たまま帰ってこなくなっちゃった……」

 父親と母親が帰ってこなくなる――あまりに現実味のない言葉だった。

 まあ、母親は元からいなかったけど。

「でも、ノアに乗って……千年前はこんな簡単に海を渡れてたんだなって思うとね……」

 竜は人の文明を破壊した。でもそれは、人の文明が世界を壊していたからに他ならない。

 しかし――。

「……それじゃあ、ネールさんは復讐するためにこうして活動しているの?」

「うーん……復讐とかは考えたこと、ないかな。あたしはファーレンハルトに望まれたから、こうしてノアを動かしてるだけ。そりゃまあ、色々納得できないとは思ってるけど……」

「だったら、どうして竜と戦えるんですか?」

「あたしが……戦えるから」

 強く口元を引き締めて、ネールさんは言った。

 戦えるからという理由自体が間違っているとは思えない。今、この船に乗っている人達にとって、この船が動くということはとても重要なことだ。

 それを動かせるネールさんは、戦わなければならないのだろう。

 船を動かすことと戦うことは、そんなにイコールではないと思う。

「戦えるからというだけで……命の奪い合いができるんですか」

「……命の……うん、そうだよね……」

 ネールさんは俯いて、なにやら考え込んでしまった。

「ああいやその……えっと、責めるつもりとかは全くないんです。単純に、知りたいだけで。……僕は、竜の存在を悪い方には捉えられませんから。父さんやアイ、トールダンに他の竜達も、悪い人じゃないですから」

「その事、これから会う人には言わない方がいいよ」

「あの神骸機に乗っている人……ですか」

「乗っている……とは、ちょっと違うかな。ま、会ってみたらわかると思うけど」

「……?」

「それとさ、あたしのことはさん付けなんかしなくていいよ! ネイトくんとあたし、そんなに年変わらないでしょ?」

 ネールさんのくりくりの目が、僕を上から下まで見つめている。

「……恥ずかしながら、僕はいくつなのかとか、わからないんです。というか、考えたこともなかったというか……。今の今まで」

「今まで!? 誕生日とかどうしてたの?」

「そういうものがあるらしいとしか……」

「はえー……竜って何千年も生きてたりするから、そういうところルーズなのかな? ファーレンハルトに聞いてみよ……。あ、でもでも、それでも呼び捨てでいいから。いやー、ほら、あたしずっと一人で、周りみんな年上だったからさ、呼び捨てじゃないとなんか、しっくりこないんだよねえ」

「へー……わかりました。それじゃあ、ネール、と……」

「うん、よろしくね! あ、右手は危ないんだっけ……」

 ネールは握手で差し出した右手を引っ込めようとする。

 僕は、咄嗟に左手でネールの甲を握った。

「左手の握手はよろしくないと、父さんに教わりました。だから、これで」

「……う、うん。でも、意外と手はおっきいんだね。それに、ごつごつしてる?」

「あー、鍛錬のために木の棒やらを毎日振り回していましたからね。そのせいだと思います」

「へえ……あたしも一年中潮水につけてたようなものだから、手は負けず劣らずぼろぼろかな。だから、こうした方がよかったかも。手がぼろぼろの女の子なんて嫌だもんね」

「そうとも思いませんけれど……ネールがこの方がいいというのなら、これで」

「うん。……よろしくね、ネイト」

「――僕は君付けでもいいですけど?」

「あたしも呼び捨ての方が慣れてるから。だめ?」

「だめなんてことは。ちょっと新鮮ですね、父さん以外から呼び捨てで呼ばれるのは」

「あ、なんだっけ、だーいんすれいぶ……? だっけか。ファーレンハルトの敵……って、あ、ごめん。お父さんなんだもんね」

「……父さんの敵が多いのは、それこそ、この船と出会ってからの話じゃないですから」

「ほえ? そうなの?」

「……アイやトールダンは積極的に僕に話そうとはしませんでしたが、父さんが僕と暮らすことを選んでくれたのは、反目している人達と必要以上に関わらないようにしたからなんです。竜の政治の中身までは分かりませんが……」

「竜の政治……人間みたいだね、竜って……」

「人の姿をとっているんです。ネールの言葉通り……人間みたい、ですよ」


 ネールに連れられ、やって来たのは船の最下層。今は海水に浸かっているそうだ。

 つまり、僕らは海面の下にいるわけで……千年前の技術というのは凄い。

「セド、連れてきたよー!」

「……すまないな、手間をとらせて」

 ネールの呼びかけに応えて、闇の中から獅子がぬっと顔を出す。

「こちらの頼みに応じてくれて感謝する。だが正直、俺が話すことは特になくてな……」

 セドリックさんは、僕の顔を見上げて言う。

 目上のたぶんから見上げられるのは、なんだか変な気分だ。

「ま、こっちに来てくれ。君を呼び出した張本人が待っている」

「……あの」

 のっしのっしと歩く背中に声をかける。

「なんだ?」

「……なんで、ライオンなんですか」

「――千年前の技術だ。人の意志を別の存在へ移植する。この肉体は長時間、それこそ数千年単位で保つようカスタマイズされた特注ボディなのさ」

「正確に言うと、そのカスタマイズができたのがライオンの身体だけ……だったんでしょ」

「……その通り。人間の身体をカスタマイズする技術も検討されていたんだが、倫理観とかその辺でややこしいことになってな、まずは動物実験として、鼠、犬、猫、猿、そして、ライオンの身体が選ばれた。さすがに小動物では役に立たん可能性が高いだろうということで、大型動物を選んだのさ」

「へえ……どうしてまた、そこまでして……」

「……俺がこの身体に乗り換えることを選んだのは、戦争が終わってから、竜の文明破壊が本格化してからでね。千年前の技術や知識を後世に残すために、なりふり構ってはいられなかったんだ。倫理観など糞食らえだ。人間の勝つ可能性を1パーセントでも上げられるのなら、神の領域だって侵してやろう……そんな意気込みでな」

「じゃあ、セドリックさんはこの船に……?」

「いいや。この船と出会ったのは最近だ。……俺がこの肉体を得たのは、今となっては不毛の土地でな。よその土地に移ることもろくにできず、千年前の残飯で食いつないでいたんだ。そこを、ファーレンハルトとネールに拾われた。――あいつも同じだよ」

 セドリックさんは歩みを止めて、視線を上にやった。

 それに釣られて僕も見上げたそこには――オズワルトさんを圧倒した、白い神骸機がいた。

 見る限り深手を負っていそうだったけど、今はその傷も治っている。

 まるで、生きているようだ。

「……海の底にいたのを、本当にたまたま、助けられたのさ。ツイてただけだ」

 神骸機が、声を発する。

 なんとなく、違和感があった。その声には抑揚がなく、人が発しているようには聞こえない。

 けど、声には意志を感じられた。矛盾だ。

 いや、それよりももっと、大きな矛盾を感じてしまう。これは竜を狩る兵器だという。

 それにしては、あまりにも――。

「さて……自己紹介が必要かな。セド、解説を頼む」

「……自分でやれよ」

「めんどくさい」

「――この神骸機はウィクトーリア。君が知っているかどうかは分からないが、千年前の大戦時、人類最強の神骸機として君臨していた機体だ」

「父さんも知っているようなことは言っていました」

「父さん、ね。君の父親と最後に戦ったのは俺だ。残念ながら、呆気なくやられちまったけど」

「ウィクトーリアが墜ちた時点で、勝敗は完全に決した。……あるいはもっと前に決していたのかもしれん。人が城塞に籠もった時点でな」

「何の話……?」

「人類最後の拠点さ。……ま、そいつはどうでもいい、俺が聞きたいのは――」

「神骸機という兵器は……竜そのもの……」

「なに?」

「竜の身体に鎧を貼り付けたのか……神骸機だってよほど禁忌だ」

 鎧の隙間から覗く黒い部分は、間違いなく竜の肉体のそれだ。

 以前、受けていた傷も治癒している。恐らく、竜の身体の力だろう。

「……竜の肉体だろうとなんだろうと、戦うために必要なものだから、使うまでだ。手段なんて選んでいられなかったんだよ、俺達は。そういうものをかなぐり捨てても、竜には勝てなかった哀れな連中でもある。……俺は何も守れなかった。だけど、次はそうならないために、最後の一線もかなぐり捨てた。――だから、俺は知りたい。ファーレンハルトがお前を希望だと言った理由を」

「……僕にはわかりませんよ。ただ僕は、知りたいことがあるから、ファーレンハルトに付いていくことを選んだだけです」

「知らないなんてことはないはずだ。お前には何か、必ず、異常と言える力がなくてはならない。俺に教えてくれ、今世の希望がどんなものかを」

「あなたが僕にどんなことを期待しているのかわかりませんが……僕は竜の盟主に育てられた人間というだけです。強いて言うならば、僕の右腕は物だろうと命だろうと壊せるくらいで」

「その右腕で竜に触れてくれれば話が早くて助かるんだがな」

「……そんなことはできません」

「――なぜ?」

「物を壊すことは、許容できます。でも、僕は命を壊したくはない。いえ、命を壊すつもりはない。試そうとも思いません」

 ウィクトーリアは、沈黙する。

「……聞きたいことは、それだけですか」

 僕の問いに、静かな声が答えた。

「そうだな……それだけ聞ければ十分だ」

「……トレイン?」

「――元々、ファーレンハルトに全てを託した身だ。あいつの決めたこと、見定めたことに従おう。あいつが、君を信じるというのなら、俺は信じる他ない。その結果がなんであろうと、結局、俺のやることは変わらないんだ」

「……俺?」

 僕のつぶやきに、セドリックさんとネールは同時に頷く。

「ウィクトーリア……いや、神骸機には乗り手がいる。神骸機の素体……君が言う竜の身体のことだが、素体はそれぞれ形を求めた。正しい形でなければ、神骸機は力を発揮しなかったのだ。故に、素体の形を縛る鎧が生まれた。そして、その鎧をもっとも上手く動かせる人間を募り、神骸機の乗り手としたんだ。……この竜の素体は、銀色の騎士であることを望んだ。その姿を駆るにもっとも適した人間が、千年前の人の英雄――トレイン・ハートライト。俺の、ただ一人の親友だった」

「千年前の人間……ということ、ですか……? 今、喋っているのは……」

「……肉体はとうに死んでいる。ウィクトーリアの中に生きているのは、トレイン・ハートライトという人間の意志だ。……セドリック・アーカントーチという人間の意志が獅子の身体に生きているように、な」

「機械の身体になることを選んだ……どうして……?」

「選んだわけじゃない。……取り込まれたってのが正しい」

「神骸機の搭乗者は、スケールと呼ばれる特殊なコクピットに収容される。表層の意識を閉ざし、新装の意識を極限まで鋭敏にし、神骸機を己の身体のように動かすためだ。詳しい技術的解説は省くが……いわば、搭乗者は神骸機に乗る間、眠っているようなものだ」

「……ウィクトーリアが墜ちた時、つまり、神骸機が墜ちる時、通常はスケール内にダメージがダイレクトに伝わり、中の人間はショック死する。……だが、俺はしなかった。できなかったというのが正しいかもしれない。……気が付いた時、俺は海の中にいたんだ」

 竜の肉体だったものに鎧を被せ、その中に意志が残って、こうして僕達と対話している。

 それは――竜になったということじゃないだろうか、なんて、思った。

「中の様子ってまだわからないの?」

「分からん。なんといってもコクピットが開かないからな……中の様子が分かれば、何かできることがあるかもしれないが……」

「別に不自由してるわけじゃない。それに、気が遠くなるほど長い時間、俺はダーインスレイヴを殺すことだけを考え続けることができたし、そのお陰で狂わずにいられた。しかも、ウィクトーリアが救難信号を送っていたお陰で俺は拾われた。……ファーレンハルトは俺に、竜を狩るための希望を示してくれた。あいつやネールは俺の恩人だ。だから俺は、この船を守る。船に牙剥く奴は、全て叩き斬る」

 竜殺しの本質は、今もまるで変わっていないのだろう。

 この人がやることは変わらない。ウィクトーリアという神骸機は、竜殺しという概念といっても過言ではないかもしれない――。

「……だから、ダーインスレイヴがお前の親父だろうがなんだろうが、次に出会った時――この船に奴が血の刃を向けた時は、問答無用であいつを殺す。今度こそ殺して……守ってみせる」

「それを僕に言いたかったんですか?」

「……ああ、そうだ。ファーレンハルトの言葉の意味も確かめたかった。あいつの言葉の意味は分からず終いだが、ま、いいだろう」

 ファーレンハルトのことを語る時、トレイン・ハートライトの言葉は少し楽しげに聞こえる。

「それともう一つ聞きたいんだけどな――」

「なんですか?」

「竜が人間の子供を育てるってのは……よくあることなのか?」

 その問いかけに何か深い意図はあるのだろうか。

 顔色も何も分からないから、その真意を読み取ることはできない。

 ただ、気になったから問いかけているのか……僕が、あまり考えようとしてこなかったことに、意図的に踏み込んできているのか。

「……きっと、あまりないと思いますよ」

「――そうか。そうだろうな」

 僕の答えに満足したかも分からないが――ウィクトーリアは沈黙した。

 竜殺しは、鎖に繋がれた剣を突き立て、再び闘争の時を待つ。

 この人が生きていたのなら――もっと、人間味のある対話ができたのかもしれないと思うと、なんだか少し、寂しいなと思った。きっと、海底で過ごした千年が、この人を竜殺しとして完成させてしまったのだ(・・・・・・・・・)。


 僕は竜という存在からはほど遠い、ただの人間だ。

 そんな僕を父さんが息子と呼んで育ててくれることについて、深く考えたことはない。

 僕と父さんの間で親子関係というものは間違いなく成立していたから。

 僕の周りには竜しかいなかった。父さんは竜の中でももっとも強い竜――そんな人に、面と向かって僕との親子関係の委細を質せるものはいなかっただろう。

「……あの、あんまり、気にしないでね。あの人、あたしとかにもああだから。別に、深い意味はなくて、単純に気になったから聞いただけだと……」

 僕の隣を歩くネールは、優しい声で言った。

「気にしない……というか、気にしてこなかったというか」

「ん?」

「指摘されることがありませんでしたけど、普通なら気になりますよねえ」

「……その、ネイトがダーインスレイヴに育てられたってこと?」

「ええ。僕は基本的には人間です。でも僕は父さんに育てられた。……僕が父さんに選ばれた理由はなんなんでしょうね」

「か、かっこよかったから……?」

「は?」

「い、いや……ごめん、なんでもない……」

「僕は理由を知りたいだけで、父さんとの関係が変わることはありませんけどね。僕の父親という存在は、父さんただ一人だけです」

「お父さんの話は結構してくれるけど、じゃあさ、お母さんはいたの?」

「母のことは、聞いたことがありません。父さんが話そうとしたこともない。僕にとっても、父さんにとっても、話さない方がいいこと……だったんでしょう」

「それじゃ、アイシャさんがお母さん代わり、かな?」

「僕の中の母親像という点では、アイは確かにすごく近い……と思ってます。僕に母親がいるとしたら、あんな感じなんだろうなって。でも、アイは母親じゃない。僕の中では……姉、ですね」

「姉……」

「家族のように大切な人――いいえ、大切な家族なのは、間違いないです」

「そうなんだ。なんだか……そういうの、羨ましいな」

「ネールは……」

「両親もいないし、兄弟もいなかったよ。まぁでも、あたしは友達がいたからなー。寂しいとか、辛いとか、そこまで過剰に感じることはなかったな、うん。それに、今はこの船があるしね! あたしにしか動かせないんだから……頑張らなくっちゃ!」

「友達、ですか……」

 僕には、縁遠い言葉だ。

 モルガナは友達と呼ぶとあからさまに不機嫌になったし、島にやってくる竜達も、僕と友達になってくれるような、フレンドリーな感じじゃなかった。

 如何に父さんが僕を子供だと言っていたとしても、彼らにとってはやはり、僕は憎い人間でしかなかったのだ。

「……僕には、友達がいませんでした。ああ、友達って呼ばれるのは好きじゃない、友達のような人はいましたけど」

「なにそれ?」

「モルガナという人です。ファーレンハルトから聞いていませんか?」

「あ、その人が……ファーレンハルトの友達って聞くと身構えちゃう」

「色々と人聞きの悪いことを言うな」

 突然降って湧いた声に、僕達はぎょっとして振り返る。

 腕組みをしながらムッとしているファーレンハルトが、僕達の真後ろにいた。

 ……本当に、いつの間に現れたんだろう。

 それなりに鍛えてきた身だから、こんなぶつかるような距離に来られれば気付けないはずがない。

「モルガナと私は確かに友人だが、君達が思っているほどウェットなものじゃないぞ。ビジネスパートナーのようなものを、便宜上友人と呼んでいるだけだ」

「びじねすぱーとなー……?」

「……仕事仲間ということだ。さらに言うと、私の友達だから身構えるというのはどういうことだ。モルガナの友人であることに同情されるなら理解もできるが、その逆とは。全く分からん」

「いやあの、それ以前にどこから降って湧いたんですか? さっきまでいませんでしたよね?」

「この船の指揮系統を握っているのはネールだが、元々の所有者は私だ。それくらい、好きに出来て当然だろう?」

「いや、それにも限度があるような……」

「あたしもそう思う。……ていうか、何しに来たの?」

「竜殺し共に今後の旅程を伝えておいた。で、聞けばお前達を呼びつけて大人げなく上から目線でものを言ったというから、アフターケアのために追いかけてきたわけだ」

「……お礼を言えばいいんでしょうか」

「追い打ちかけにきたのかもよ?」

「だーかーらー……まぁいい、お前が私のことをどう思っているかはよーくわかった。それなりの態度をとらせてもらうから覚悟しておけ」

「あー、こわいこわい。……で、旅程ってどういうこと?」

「さあな。せいぜい自分の失言を呪うがいい」

「あ、こら! 大人げないぞ!」

「……昼食をとったら、艦橋に集まってくれ。アイシャも連れてくるといい。今後の方針――いいや、我らの指針を改めて、君達に説明しよう」


 ファーレンハルトの残した言葉に従って、僕とアイシャは艦橋にやって来た。

 ネールの姿はない。

「ネールには本当に話さないつもりなんですか?」

「……時と相手を選ぶ、デリケートな話ということさ。さて、まずはこのノアが向かっている我々の目的地から説明しよう。我々が向かっているのは、かつて城塞に覆われた人類軍本拠地――ブリテン島だ」

「……ブリテン島、ですか……?」

「アイ、知っているの?」

「……忌むべき地です。我ら竜にとっては、特に」

「そうだ。その中心に、ネイトと私の共通の友人――モルガナが、人類救済の鍵と共に眠っている」

「モルガナが……?」

「あそこは人間が生きられるような土地ではありません!」

「全くもって。どこぞの呪われた種族のお陰で土地は汚染されきっている。」

「……アイ、ファーレンハルトは何を言っているの?」

「……我ら竜の血は、毒にもなります。その血の量は多ければ多いほど、より強く、深い呪いを生み出すのです。それは、精竜も蛇竜も変わりません……」

「その口振り……竜の盟主はやはり現状を理解していたか」

「なにを、言っているんですか?」

「――千年前、世界でたくさんの竜が死にました。それはつまり、多量の竜の血が流れたことに他ありません。閣下は、あることを危惧しました。竜の血と呪いが……先の世で、呪いとして竜や世界に降りかかるのではないかと」

「その懸念は正しく、血に酔った竜が現れ始めている。人をみだりに喰らい、襲い、生け贄を要求するものまで……。だが、ダーインスレイヴは呪いに対処する術を持たなかった。如何に彼の竜の力が神に比肩する領域にまで達していたとしても、形のない呪いが相手ではどうも分が悪いわけだ」

「なぜ……あなたは、そこまで閣下の情報を持っているのですか」

「ふふっ……初めて会った時言わなかったか? あいつとは有史以来の腐れ縁であると。……千年前、私とダーインスレイヴの目的は一致した。世界を救うという、その一点でな」

「馬鹿な、それでは……!」

「この前のは、なんだったんですか?」

「私にも分からん。……話を進める」

 ファーレンハルトの言葉には、少し怒気が含まれているように感じた。

「私とダーインスレイヴは、竜の血の呪いを振り払うための方策として、二つのものを用意した。一つは、この希望の匣船だ。ノアと呼ばれたこれは、神世の時代、世界を救うためというあまりに抽象的な目的で作られた神造兵器だ。ノアは、世界を救うためにもっとも適切な姿をとる。世界を覆い尽くすような洪水から逃れるために、全ての種の番を収納するための巨大な方舟となり、ある時は、立ちはだかる障害全てを振り払う戦闘艦に……という具合でな」

「では、この船の存在を閣下は知っていて……!」

「ああ、知っていたとも。この船が、誰を所有者に選んだかも知っていたぞ。奴は……それを見ていたのだからな」

「そんな……」

「――世界の呪いを祓うためだ。私とダーインスレイヴは、この希望の匣船に浄化の術の一つを求めた。そして、奴が握った浄化のカード、それが……」

 紅い瞳が、僕の方を向いて、止まる。

「僕ですか」

「……私とモルガナは、たまたま君のことを戦火の中から拾い上げた。君の右腕は竜の血で染まり、その一点のみ……竜のそれに変質していた。今の君の右腕の力はそれが原因だ」

「竜の血が……僕の右腕を……」

 ということは、これも呪われた――忌むべき力ということか。

「君の右腕に、ダーインスレイヴは希望を見出した。君の身柄を奴は引き取り、育てたのだ。己の息子として……竜の力を持つ人の子に、竜の心を教え込み、その偉大な力を御するため」

「――ちょっと、待ってください。それも千年前の出来事だっていうんですか? でも、僕は、」

「そこのところは……モルガナか、アイシャが答えてくれるのではないかな?」

 僕は、傍らのアイを見た。

 アイは唇を真一文字に結び、俯いている。

「……私もネイトも答えを無理に聞き出そうとはしないよ」

「あなたはともかく――」

「僕も、いいよ、言わなくて」

「……ネイトさま」

「聞いて、何かが変わることはないじゃないか。僕にとって、父さんは父さんで、アイはアイだよ。……確かに、僕は僕自身のことを、あまり覚えてないけどね。でも、それを取り戻したいとは思わない。なくても別に構わないものだから、僕は覚えていないんだもの」

「――――ッ!」

 アイは、僕の身体を掻き抱いた。

 こんなに近くでアイの匂いを嗅ぐのは、なんだか久しぶりな気がする。

「……アイと僕がここにいること、それが全てだ」

「アイシャ、私の言葉を頭ごなしに否定しなかったこと、感謝する」

「……ネイトさまのことに関して、私はこの目で見てきましたから」

「主について嘘はつけないか。……さて、ここからが本題だ」

 アイが、僕から身体を離した。

 その立ち位置はまるで、僕のことを庇ってくれているようで――見慣れた、アイの立ち姿だ。

「……ブリテン島に眠る人類救済の鍵には、特殊な封印が施されている。その封印を君の右腕の力で破り、鍵を手中に収めたい」

「選定の剣……!」

 アイのつぶやきに、ファーレンハルトは大きく頷いた。

「歴史のお勉強をしているな。……そう。千年前の人の時代には、王様の剣だの、岩の剣だの言われて伝わっていた武器。世界の救済者たる証だ。鍵がなければ……箱は開かない。世界は救えないのだ」

「父さんは、全て承知の上なんですよね?」

 うむ、と、ファーレンハルトはまた頷く。

「奴の願いは世界の永遠の存続。その為の人との戦争だ。今回は、竜が撒いた種を刈り取ることで、世界を守ろうとしている」

「でも、ネイトさま。閣下は、ネイトさまのことを本当に愛しておられます。そのことは、」

「疑う理由がないよ。……何があろうと、父さんは父さんだ」

「……きっと、閣下も喜ばれることでしょう。ちゃんと、閣下に伝えてくださいね?」

「うん。――ファーレンハルト、モルガナとはそこでまた会えるんだね?」

「それは約束する」

「わかりました。……僕は、その時まで待っていればいいですか?」

「そうしてくれ。……到着はもうすぐだ。凄惨な土地だ、覚悟しておけ」

 ファーレンハルトはそう言って振り返り、艦橋から見える空に視線を向けた。

 悠然とした背中なのに――なんだか、震えているように見えた。

「……ネイトさま、戻りましょう」

「うん……。ファーレンハルト、ありがとうございました」

「……礼を言われることはしていない」

 僕とアイは、その言葉に送られて、艦橋を出た。



 ノアの格納庫――ファーレンハルトが去ったあと、セドリックの重いため息が響き渡った。

「無茶苦茶な話だ」

「……ほとんど最初から無茶苦茶だったろうが。だいたい、無茶苦茶って言ったら、俺達はどうなる? 少しは我が身を振り返ってみようぜ」

「――ま、ティナあたりが聞いたら、ナンセンスだとか無茶苦茶言いそうだな」

 ティナという名を聞いて、セドリックの表情が陰る。

「ブリテン……あいつは確か、最後まで基地に残っていたか……」

「よくよく考えれば、優秀な人間だからって、妊娠中なのに駆り出すのはどうかしてる。竜に滅ぼされるのも、さもありなんだな」

「……トレイン」

「――変に気を使うなよ。千年も気持ちを整理する時間があったんだぜ? ちゃんと切り替えられてる」

「お前がそう言うなら……何も言わん。――で、俺達はどうする?」

 ファーレンハルトはあくまで、彼らに今後の説明をしに来ただけだった。

 指示もなければ相談もない。あくまで事務的な連絡であった。

「せいぜい良いように使われようじゃないか。他に行くアテがあるわけでもないだろ?」

「……それでいいのか? ブリテンだぞ? 昔の痕跡を探すだとか――」

「千年も経てば、骨なんか残っちゃいないよ。それに、この船がなくなったら、連中と戦うための手段が一つ減る。俺は船を守る。お前はどうする? あいつらに付いていくか?」

「……お前が残るなら、俺も残る。呪いだとか選定の剣だとか救済者だとか、とてもじゃないが付き合い切れん」

「おー、さすがスーパー軍人。オカルトには毅然とした態度で臨むね~」

「……神骸機に乗ろうなどと思う奴とは、頭の構造が違うんだよ。とはいえ、神骸機やら剣やら、救済者やら……そんなあやふやなものに縋るしかないのだから、情けない」

「そのあやふやなものを信じるあの女は、確固たる意志を持っている。……だから、こうして付き合ってやってるんだろ、セド」

「……それもあるが」

「が?」

「……お前を海底から助けてもらった恩もある。それに、ネールが心配でな。あの子は、普通の子だ。とても、戦場には似付かわしくない。俺達の時代でも、最終盤は神骸機に乗れるというだけで子供を実戦に放り込んだが……皆、覚悟ができていた。殺して、死ぬ覚悟だ」

「嫌な話だ」

「全くもって。――ネールは、それに輪をかけて悲惨だ。この時代は……俺達の時代よりも、ずっと平和で、豊かなのに……こんな役回りを押し付けられて」

「――竜がいなきゃ、俺達だって平和で豊かだったさ」

「だが、竜の介入がなかったとすれば、どこもかしこも生体実験や国家間で腹を探り合う。神骸機をどこかの国が見つけでもしたら……今、支配しているのが竜ではなく、神骸機を発掘した国家になっていたとしても不思議ではない」

「竜の言い分が正しいってか? 俺達は世界を壊す悪党ってのが」

「……少なくとも、世界自体はマシになっていると思うぞ。俺達の文明がそのまま、地続きで来るよりは遙かにな。海が干からびていないだけでも十分じゃないか」

「――だとしても、竜の支配も結局は行き詰まっているわけだ。挙げ句、連中自身が呪いで自滅しようとしてる。自滅するならまだいいが、人間を巻き込んでるんだから始末が悪い。世界を巻き込んだ壮大な自殺をされるんじゃ、救いがないじゃないか。だから、俺のやることは変わらない。立ちはだかる竜は全て斬る。……俺達がし切れなかったツケだ。今の人間に払わせるわけにはいかない」

「――すまんな、トレイン」

「気にすんなよ。一人で戦うのには慣れてる」

 ただ一人で人類を背負ってきた英雄の言葉に、セドリックは目を伏せる。

 それを背負わせたのは、無力な自分達であることを、彼はよく分かっていた。

 そして、背負わせたものは千年もの間、一人の青年を殺し合いに縛り続けている。

「……となれば、ひとまず俺達はネールと船を守るとしよう」

「ファーレンハルトの方は、こっちの管轄外だからな。連中には連中で頑張ってもらおう。希望と救世主が本物であればよし。偽物だった時は、それはそれで考えよう。……あと一応、オカルトじゃないことを祈っておくか」

「違いない。安易に縋りたくはないが、縋るしかない状況なのは今も変わらないからな」

「……ファーレンハルトが賭けているネイトとかいう子供、一体何者なのやら」

 トレインの疑問に、セドリックは唸るばかりだ。

 あの少年こそ、彼らにとってはまさしく究極のオカルトであった。

 対話を経た今も、それは変わらない。

「……声を聞いた限りは、悪い奴じゃなさそうだけどな」

「判断材料が声しかないのがなんとも残念だな」

 千年前の勇士達の身体は、時に蝕まれている。

 ウィクトーリアのカメラアイは劣化しほとんど意味をなさず、セドリックの両目は、本当におぼろげにしか対象を視認できない。色と大きさぐらいしか視覚から入ってくる情報はなく、聴覚と嗅覚に依るところが大きい。

 戦闘時はそこに加えて戦時の勘というのも働いてくるが、日常生活においては全く役に立たないため、生活は不便を極めていた。

「――ま、ファーレンハルトのお手並み拝見といこうじゃないか」

「だな。ここまで引きずり回されたんだ、少しくらい俺達にも夢を見せて欲しいものだ」


 竜の盟主は嘆息する。

 浜辺には、魚が何匹も打ち上がっていた。

「……我らもまた、世界の毒か」

 戦いが終わって、一週間ほど。オズワルトの傷はまだ癒えず、療養の日々が続いていた。

「閣下……」

「……我は、外の事象に目を向けなさすぎたのかもしれぬ。もう少し早く、手を打つことが必要であった」

「あの船のこと……では、ありませんね」

「……血に酔った同胞達のことだ。お前はどれだけ知っている?」

「私も、そこまで詳しくは……。まだ若い、末端の竜達が呪いに当てられ、狂っているというくらいで。宿老の方々も、各地の執政に任せているのが現状です」

 竜の側にとって、呪いで狂うような竜は竜ではない――そんな論調が強かった。

 自らの血によって狂うなど、軟弱である――。竜はその言葉に一様に頷き、己の身には呪いが降りかからないだろうと思いこむ。

「……それでは遅すぎるのだ。初めはそれで十分であったとしても、世界にかかった我らの呪いが減少することはない。それどころか、微量ながらも増え続ける。呪いは竜を蝕み、いずれは、オズワルト、お前のような竜でさえ、狂気に囚われることがあるやもしれぬ。その時、他の竜はどうすればよい?」

「……しかし、同胞殺しは罪でしょう?」

 そして、血に酔った竜は無差別に人に襲いかかる。しかし、竜達はそれに手を出さない。

 彼らにとって同胞殺しは共食いに等しい、卑しく、野蛮で、下等な行いであった。無論、血に酔った竜が愚かにも他の竜に手を上げた時は、先に身を窶したのは血に酔った竜の方であり、私刑をするに足る。

 しかしながら、血に酔った竜が人の街を一つ焼き払おうとも、竜達は気にも留めない。大々的にそのような行いをすることは推奨されてこそいなかったが、過去の彼らにおいては「よくあること」であったからだ。

 さらに言えば、そこまで理性を失った竜は、手を下すまでもなく、絶命する。

 呪いに、己の身体が耐えられなくなるのだ。

 ――故に、積極的に同胞の命を奪う必要はなかった。

「然り。竜が竜を殺めるなど、本来あってはならぬこと。一方で、竜が人を喰らう竜は悪食ではある……ではあるが、私刑にかける理由として弱いのもまた事実であった。……竜が狂うことを抑制することもできぬ。人にとっては、地獄のような世界よな……。このような世界になることを、望みはしなかったのだが」

「あの戦を悔いておられるのですか? このような世界になるべくしてなったのは、人の責任であると、私は考えますが」

「戦の大義は間違いではなかった。しかし、戦自体の是非は別の話よ」

 ダーインスレイヴは海の水を掬い、強く握り込んだ。

「……オズワルト。我は同胞達が狂うところなど見たくないのだ。この血の呪いを祓えるならば、どのような手段も使おうと思っている」

 勘の良いオズワルトは、すぐに「手段」の一つに思い当たった。

「人間すらも……利用すると」

「その通りだ。もう少し時間があれば、あるいはとも思ったが……。同胞をこれ以上失うわけにもいかない。――お前の傷が癒え次第、我らはブリテンへと向かう。呪いの行く末を見届け……かの船をどうすべきか、決めようではないか」

「はっ……! しかし、なぜあのような禁忌の土地へ……? 既に、あの地は血に塗れた廃墟と聞いておりますが……」

「古馴染みだからな。あの女が求めるものは分かっている。――竜を打倒するための鍵を手に入れるためならば、彼女は呪いに満ちた島にも踏み込んでいくだろう。そして、我らも呪いを祓うため、大元を断たねばならぬ」

「大元……?」

「――今は傷を休めよ、オズワルト。万全でない者を連れて行くほど、我は愚かではないぞ」

 これ以上の詮索は無用という念押しに、オズワルトは頷くしかない。

「……はっ」

「次は我も出る。同胞が傷付くところも、我は見たくはない」

重い足取りで、オズワルトは家の方へ戻っていった。

 ウィクトーリアから与えられた傷は深い。今後の快癒は望めないレベルの負傷だ。

 この短期間でそのような状態から歩けるくらいに回復したのが奇跡と言える。

「……あやつらが重用するのも分かる。人に手を加えられていなければ、あるいはトールダンも超える逸物になったかもしれぬ」

 呪いが世界に満ちた原因――その一端は、オズワルトにもある。

 彼が人の世に迷い出なければ、人の文明は今も発展し続けていたかもしれない。

竜と人が良き隣人であり続けた可能性もあるかもしれない。

 しかし、遅かれ早かれ、人と竜の道は交差し、よき隣人ではいられなくなっただろう。

 竜は世界の安寧を守るために生み出されたもの。

 人が魔術文明や機械文明で世界に毒を振りまくならば、毒の根幹である人を絶つ。その行いに感情が挟まる余地はなく、ある種機械的に、竜は己の天秤でもって人を計り、断じてきた。

 それは、これまでも、今も、これからも、変わらない。

「……我らも指を咥えて見ているわけにはいかないのだぞ、ファーレンハルト」

 竜の盟主は牙を研ぐ。

 世界の安寧が乱れるならば――己の六枚の翼でもって、その根源を摘むまでのこと。

「せめて――我らの誓約は果たしてくれよ」

 去っていった旧友にはなむけの言葉を向けて、ダーインスレイヴもまた海に背を向けた。


 一度たりとも忘れたことはない。

 誰も知らぬ入り江で、赤子を抱えた盟友と出会った日を。

「罠ということかな?」

 片手で赤子を抱きかかえたまま、ファーレンハルトは問いかけた。

「いかにも……と言いたいところだが、ここにいるのは我一人だ。お前の目的はこれであろう?」

 ダーインスレイヴは、己の後ろにある、白い箱を指差した。

 箱は巨大だった。ダーインスレイヴの竜の姿と比較しても、遙かに巨大だ。

 箱の表面にはびっしりと象形文字が刻まれている。その意味を知るものは、恐らく地上にはいないであろう。

 しかめ面を見せるファーレンハルトに、ダーインスレイヴは嗤った。

「見つけるのに苦労したぞ。世界の果てとはよく言ったものだ」

「……なぜ、壊そうともしなかった?」

 先に見つけたのが自分ではなくダーインスレイヴであった時点で、救済の望みは半ば絶たれたも同然と思っていたファーレンハルトにとって、今日の彼の行動は不可解だった。

 ダーインスレイヴは箱に触れながら嘆息する。

「試してはみた。が、この状態のノアを壊すことはできぬ。これは形のない、いわば希望の概念のようなもの。いかに我らが力を付けても、希望を完膚無きまでに砕くことはできぬよ」

「なるほど。……ならば、己の手に納めようと、」

 ファーレンハルトの言葉を遮るように、抱えた赤子は泣き出した。

「ぎゃあっ、あっ、おぎゃああああっ……!」

「――な、泣きやまないか! 私は今、大事な話を……」

 ファーレンハルトは戸惑いの顔を浮かべたまま、赤子を揺さぶって宥めようとする。

 しかし、その乱暴な扱いに赤子はさらに泣き出し、ファーレンハルトは困惑の表情を浮かべるばかりだ。

「とても、子供をあやしているようには見えないな」

 ダーインスレイヴは呆れるのを隠しもせずに言い、ファーレンハルトに歩み寄る。

「う、うるさい! 私が人間の赤子のあやし方など知っているわけがないだろう!」

 開き直りとも言える言葉に、ダーインスレイヴの開いた口は塞がらない。

「あやし方も知らずに、なぜ……」

「……哀れに、思っただけだ」

 少し落ち着いた様子の赤子にホッと胸をなで下ろしつつ、ファーレンハルトは再びダーインスレイヴに視線を移した。

「で、壊そうとするでもなく、私を殺そうとするでもない――だったらば、何のためにここにいる?」

「同じ竜として、お前に頼みたいことがある。此度の戦で、我が同胞は死にすぎた。これが意味することは、呪いの一層の深化を意味する」

「こと、ブリテンの汚染は深刻だろうな。人は無論のこと、竜が近寄れる土地でもなくなるだろう。神世の時代の竜の呪いも染み込んだ土地だ。どんな人外魔鏡になるか、想像もできん」

「そうだ。……そして、それほどの呪いの坩堝を放置せざるを得ないということは、島が呪いのわき出す泉になることに他ならぬ」

「強すぎる生命というのも困りものだな。……私にはもう関係のない話だが」

「やはり、竜を捨てたか」

「――この入り江にたどり着くためだ。それに、完全に捨てたわけではない。匣船に捧げる供物として、古代から生きる竜の肉体ほど相応しいものはないだろう?」

「つまり、墜ちた剣翼という竜はいなくなると」

「そういうことだな」

 再びファーレンハルトが会話に夢中になってしまったからか、赤子がぐずりだした。

「んぎゃっ、おぎゃっ……おぎゃああああっ!」

「うぅ…………」

「――母親がそのような顔をするものではない」

 ダーインスレイヴのもっともな指摘に、ファーレンハルトはバツの悪そうな顔をした。

「だから、母親ではないと言っているだろうに!」

「そうして赤子を抱える姿だけは、母親のそれよ。……あまりぐずらせるのも可哀想だな。ファーレンハルトよ、取引をしないか」

「取引……?」

「我はノアをお前に託す。お前の命も見逃そう。……代わりに、赤子を我に渡せ」

「なに?」

「その赤子の力……我が気付かぬとでも思ったか?」

 ファーレンハルトが唇を噛む。

 柔らかい布でくるまれた赤子の右腕は、その小さな身体に不釣り合いな、筒のようなものに覆われていた。

「その右腕……」

「壊すことしか知らぬ力だ。どこぞの竜と同じくな」

「なるほど。だが、壊すことしか知らぬといえども、その是非は何を壊すか次第ではないか」

「何が言いたい?」

「我がよく知るものと同じ力ならば、その右腕が壊せぬものはない。……そうだろう?」

「……まさか、呪いを壊すつもりか?」

「その通りだ」

「しかし、実体もないものをどうやって……!」

「呪いが実体を持ち猛威を振るい出すまで、その力を鍛え上げる。――時間はかかるだろうが、仕方あるまい。あるいは、呪いが顕在化する方が早いかもしれぬ。そうなれば最悪だ。加速度的に呪いに羅漢する竜は増え、この地上に生きるものを食らい尽くすだろう。此度の戦で無双した勇士達が狂わないとも限らぬ……。そのような事態にも、その子の力は間違いなく我らと、世界の助けになるだろう」

「抑止力として、この子を育てると」

「そうだ。――我らはまだ、人の子との付き合い方を知っている。悪い話ではないと思うぞ、その子にとっても、お前にとっても」

 ファーレンハルトは赤子に視線を落とす。

 その表情には、誰から見ても明らかな迷いがあった。

「どうした?」

「――わからん。お前に預けるのが道理だと思うのだがな、なぜか、素直に渡す気にはなれん」

 ファーレンハルトは己の感情の整理がつかないようで、戸惑いきっていた。

「……この子には力がある。私が見ても驚くべき力が。お前に預ければ、間違いなく呪いに対する抑止力になるだろう。しかし、それはこの子のためになるのだろうか……」

 そうつぶやいてから、ファーレンハルトは首を横に振った。

 愁いを帯びた紅い瞳がダーインスレイヴの方を向き、仕方なさそうに笑った。

「私の元にいる方が、この子のためにならないか……」

「我の元で、その子を不幸にはせん」

 ファーレンハルトはその言葉に目を閉じ――小さく、頷いた。

「分かった。この子を頼む。……その代わり、ノアは託してもらうぞ」

「構わぬ。元より、竜たる我らには過ぎたるもの。これは、人の世にある方がふさわしい。しかし、この船でお前は何を為すつもりだ?」

「……お前と同じ事だよ、ダーインスレイヴ。私は私のやり方で世界を救う。お前達が何もかも壊していった世界を、このままにしておくわけにはいかない。ノアならば、この世界を救うための手立てを示してくれるはずだ。人のため、世界を救う手立てをな」

「人のため、世界を救う……か。我らからしてみれば、世界は既に救われたというのに」

「寝言は寝て言え。世界が救われているならば、この子は私に抱かれていない。救うという言葉をそのまま受け取るならばな。人も世界の一部だろうに。お前達の裁量で大量虐殺されていい理由などあるものか」

「……そうだな。我らの身に呪いが降りかかるのも道理か……」

「全くだ。せいぜい我が身を振り返れ」

 情け容赦のない、かつてと変わらぬ物言いに、ダーインスレイヴは笑った。

 しかし、笑みは一瞬。竜の盟主の顔となり、交渉の終わりを告げる。

「肝に銘じておこう。――ノアが人の希望となった時、我の元をまた尋ねよ。その日が来るまでに、我もその子を一人前に育ててみせよう」

「……正直、力がある以外は泣くばかりだぞ? それで希望になれるのか?」

 ファーレンハルトは歩み寄り、片手で赤子を差し出した。

 やはりその所作はぎこちない。

しかし、手が震えている理由は、そればかりでないように思えた。

「泣くのが赤子の仕事だ。この子供の名前は?」

「……いや、特には聞いていない」

「そうか。ならば、ここで名を決めよう」

 ダーインスレイヴの腕の中に移った子供は、一転してきゃいきゃいと笑った。

「なぜお前が抱いたら笑うのだ」

「抱き方がなっていないのだよ、お前は。――なるほど、紅い瞳か」

 ニコニコと微笑む赤子の瞳は、ダーインスレイヴやファーレンハルトのものと同じく、眩く紅く輝いていた。

「黒と紅、竜としてはこの上ない組み合わせだが……お前には翼がないな。よし、ならば……」

 ダーインスレイヴの大きな手が赤子の頭を優しく撫で――

「今日から、お前の名は紅翼(ネイト)だ。我の息子となるのだから、名前だけでも翼は備えてもらわなくてはな」

「ネイト……」

「ファーレンハルト、ネイトに何か伝えることはないか? 分別が付くようになった時、恩人の言葉として伝えよう」

「私に……その子に何かを残す資格はないよ、ダーインスレイヴ」

「後悔しないか?」

「今生の別れでもあるまい。生きていれば、また会えるさ」

 ノアに飛び乗ろうとするファーレンハルトの背中を、強い言葉が制した。

「この子は母親を知らぬ! それがどれほど辛いことか、貴様も肝に銘じろよ!」

「……ああ」

 重い相槌に、ダーインスレイヴは瞳を閉じ、背を向けた。

「では――世界に希望が芽吹いた時に、また会おう」

「さらばだ」

 そうして、彼らは別れた。

 ノアが異形の船の姿をとり、ネイトが少年となるまでおよそ千年――二人の道が交わることはなく、静かに、竜の呪いは世界に牙を剥いていった。


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