騎士と雷鳴
前回あげていたものより大幅に改変しています、というか改変しないと面白くならないと思ったので手を入れて、上げ直しました。
既に一本分自体は書き上がっているので、このお話に関しては最後まで投稿します。
事情の変化がない限りは……ですが。よしなに。
ずっとずっと昔のこと。
まだ、人が竜と共にあった頃。
人は魔導と剣に生き、神に比肩するほどの力を持っていた。
そんな神秘の時代――地上最後の人の王は、六枚の翼を持つ竜の前に膝を折っていた。
「なぜ、その剣をとったのだ」
竜の言葉には計り知れぬ嘆きがあった。
「……あなたには分かりませんよ」
剣を突き立て、金髪の青年は微笑む。
彼を守る鎧はほとんど砕け、その隙間からは血が伝っている。
「――私が王になったのは、友が王を求めたからです。ヴォーティガーン、生まれながらの王たるあなたには絶対に理解できないでしょう」
彼の友は皆斃れた。
人の王は今、彼らの亡骸の上に立っている。
「率いる臣も友も、もういない。……人の王よ、終わりにしよう」
冷ややかに見下ろす紅い瞳に、再び王は微笑んだ。
「ええ、人の叛乱は終わりです。結局私はあなたに届かなかった。……あなたは正義の味方になり、僕は悪辣の限りを尽くす王として、世界に語り継がれるでしょう。もしかしたら、私がヴォーティガーンと呼ばれるかもしれない」
しかし、その言葉に後悔や憎しみの類はなく。
「真実を知るのはあなた方だけだとしても、今、私と友がここにいた事実は消えやしない。我々の意志は、この世界に生き続ける。歴史を改竄することはできても、我らの意志は変えられやしない」
「……新たな王が現れるならば、完膚無きまで砕くのみ。何より、神秘の時代は終わりだ。お前達の力が、先に繋がることはない」
「力なんて、どうでもいいのですよ。竜を克することのできなかった力、継いだところで意味はない。先の人は、きっと、あなた達を打ち破る力を見つけ出す。私達はその礎となったに過ぎません。人を、あまり侮らない方がいい……」
「……それほどまでに、人は我らが憎いのか?」
「私個人は、あなた方を根絶やしにしたいとは思いませんよ。どちらかを滅ぼし尽くすなら、結局、人が怪物になってしまう。しかし、我々が一方的に虐げられていい訳ではない……!」
「そう、か」
王の周囲に、紅い紋様が浮かび上がる。
「ならば、我らも怪物にならぬよう――ゆめゆめ、忘れぬようにしよう」
その言葉と共に、紅い閃光が周囲を覆い尽くし――王は、跡形無く消え去った。
ずっと昔のこと。
まだ人が空と海を我が物としていた頃。
まだ、世界に作り物の光が満ち溢れていた頃。
空は黒翼に覆い尽くされようとしていた。
「墜ちろぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」
作り物の蒼翼を広げた騎士が、空に佇む竜に二本の剣を突き立てる。
ゆうに50メートルを超えようかという巨躯と翼は、20メートル近くある人型を完全に圧倒していた。しかし、それでも騎士は引かない。
伸縮自在の鎖に繋がれたつがいの剣は、竜の眼前でその刃先をせき止められていた。
「――それほどまでに我らが憎いか!」
竜は人語を解した。正対する白銀の騎士――人が内より駆る、竜達に唯一抗する術たるそれは、神骸機と呼ばれていた。
この白銀の神骸機こそ、最強の竜殺し「ウィクトーリア」
ただ二本の剣で数多の竜を屠り、ただ一人で戦線を支え続けている。
そして、最強の竜殺しを駆る人類の英雄の名は、トレイン・ハートライト。もはや一切の救援を望めない戦況になってもなお、彼はただ一人愛機と共に空に立ち続けた。
「お前は俺が憎くないのか――そういうこったよッ!」
つがいの片割れが、竜へと飛来する。やはり切っ先はせき止められるが、ウィクトーリアが手元で鎖を手繰ると、刃が鈍く光り、竜を守る壁を食い破らんと、じりじりと進み始めた。
「憎くはない」
「――!」
竜の返答に、一瞬、ウィクトーリアの手繰る刃が止まった。
「我ら竜種が人を憎むことがあろうものか。我らはただの装置。世界に備え付けられた、一種の自浄作用でしかない。我らが責務は世界の安寧を守ることでしか、ないのだから――」
膨れあがる殺気を察知し、ウィクトーリアはその場を飛び退いた。
先刻までいた空間は瞬く間に膨張し、強烈な発光を持って爆ぜた。
「人の英雄よ」
直撃は免れた。
しかし、ウィクトーリアの脚部は猛烈な熱に当てられ、溶け出している。
醜く爛れた白い装甲が、眼下の海へと伝い墜ちていった。
「いかに貴様が我らに憎しみを抱こうと」
竜は、静かに、だが確実に――臨戦態勢へと、移行した。
「いかに、鎧で我らの血肉を覆うとも」
人は、六枚の黒翼を持つ三本角の竜を盟主と呼び、畏れた。
「いかに、微睡みの世界で我らを模倣しようとも」
竜の盟主は、自らに刃を向ける人全てを食らう。
それは、当代最強の人が相手であっても変わりはない。
「貴様らでは、我らには届かない。こと、この我が血の結界には!」
自らの血を操り、数多の奇跡――いや、数多の暴虐を為す、人智の及ばぬ魔竜――この時代、彼はダーインスレイヴと呼ばれていた。
「ハッ、御託はたくさんだ。あんたを落とせば、全部終わる――。竜に人間が滅ぼされるなんてのは、おとぎ話の中だけで十分なんだよ!」
鎖が巻かれ、双刃の長物へと得物が変わる。
両者の間にもはや搦め手の類は意味をなさない。それほどまでにトレイン・ハートライトとウィクトーリアは熟練した竜殺しであり、ダーインスレイヴは最強の名を恣にする、竜の盟主であった。
ダーインスレイヴの身体から、再び紅い結晶と衝撃波が放たれる。いずれも当たれば灼熱をもって装甲を融解させる危険な一撃だ。
激しい爆発の合間をウィクトーリアは猛烈な機動性を持って飛翔する。ウィクトーリアはもはやトレインの手足に等しく、足先の微妙な角度までも意のままに操れた。
しかし、絶え間なく破裂する熱波は掠っただけでもウィクトーリアの装甲を削ぎ落とし、その力を奪っていく。
蒼翼が爆風に煽られ、その形が大きく乱れる。
それでもウィクトーリアが墜ちることはなく、自らを駆る主を竜の眼前へ届けるため――その刃をもって戦争という名の一方的な虐殺を終わらせるため、飛んだ。
「――見事」
知らずのうち、ダーインスレイヴは讃えていた。
ウィクトーリアの刃は届いていない。
やはり、彼を守る血の結界を穿つには、決定的な何かが足りなかった。
「こんなもんじゃ――こんなもんじゃないだろ、ウィクトーリア!」
檄の声に応え、蒼翼が力を振り絞り、機体を前進させる。
「そこが、人間の限界だ。――散るがよい。勇敢なる竜殺し」
ダーインスレイヴの眼が、ウィクトーリアを捉えた。
「――ッ」
ウィクトーリアの内のトレインは、胸の辺りに猛烈な圧迫感を覚えた。
身体の内の臓物を直に潰されるような、おぞましき不快感。昂ぶる意志は瞬く間に萎び、ウィクトーリアの動きを縛る。
「なに――を……!」
「白銀の騎士よ。汝は所詮、自らを超えるには至らなかったということだ」
全てが、墜落する。
つがいの剣と共に、ウィクトーリアは無惨に海中へと墜ちていった。
「――さらばだ、人の最後の戦士よ」
そうして、空から竜以外の存在は消え去った。
これが、長きにわたる竜の時代――その始まりにして、人の時代の終わりであった。
約束をして欲しいんです。
一つ目。この子に無償の愛を注ぐこと。
二つ目。この子が道を違えそうになった時、引きずってでも正しい道に導くこと。
三つ目。いつ、いかなる時も、この子の母親であり続けること。
最後に――この子が逝く時、世界を呪って逝くことのないように。私みたいに、なんだかんだ、人生楽しかったなーって笑えるような一生を、この子に与えてください。
これが、私の願いです。
あなたは――こんな願いでも叶えることができるんですか?
――そう、それを聞いて安心しました。それなら私も、あなたの願いを叶えます。
あぁ、そうそう。この願いはあなたが思っているほど楽なものじゃないですよ?
でもきっと、あなたも私の願いを叶えてよかったと思う日がくるはずです。
そうじゃなければ……私は、無駄死にじゃないですか。
人が築いた城塞が崩れ去る中で、銀髪の女が一人立っていた。
戦乱は竜の勝利で終わった。死の匂いに包まれる中で、女は弔いの言葉を投げる。
「……礼を言う」
その言葉に答えるものはない――ないはずだった。
「あらあら、ずいぶんとねじくれた因果だこと。遙か昔の騎士王のようね」
踊るような声色に、女はゆっくりと振り返る。
黒衣をまとった艶やかな少女が微笑んでいた。廃墟になった街に吹く寂しい風が、少女のスカートをはためかせる。
その姿は――異様であった。あまりにも、場違いすぎる妖艶さだ。
竜と人の血が流れた街の中心で向かい合う二人の乙女は、双方が人外であることを理解する。
「――人間、ではなさそうだな」
「ええ、人間じゃないわ。でもそれは、こっちのセリフでもあるわね」
「ふっ……私は、一応人間だよ」
「よく言いますわ。ああでも……なるほど、確かに一応人間ですわね。笑ったことをお詫びいたしますわ。先ほどの言葉は中身に向けたものとでもお思いになって」
「……貴様が見ているものは、なんだ?」
「あなたとはまた違ったものを。でもご安心なさって。わたくしは、あなたの同志ですわ」
「同志……?」
「世界はもう竜の手に落ちました。――しかし、わたくしは竜種の支配を是とはしません」
少女は空を指差す。空に竜が無数に舞っている。
「神世の時代と同じように、再び世界は竜のものになる。世界は作り直され、人の営みはゼロから始まる。そしてこれから先も、人の生は竜に阻まれ続ける。しかし、竜の不死性は永遠ではない。斃れた竜の血は世界を汚し、竜以外の生を許さない世界を作り出し、いずれ世界は行き詰まる。それは、わたくし達の望む世界ではない」
「君の望む世界が私の望む世界とは限らない」
「だけど、あなた一人ではこの世界を変えることはできないでしょう? そうなれば、わたくしと組むしかないのよ、墜ちた剣翼」
誰一人として呼ぶことのなかった自らの名に――ファーレンハルトは反射的に頷いた。
そして、刹那に思考を巡らせ――決断した。
「……いいだろう。墜ちた剣で恐縮だが、申し出を受けさせてもらおう」
「よかった。わたくし、あまりお友達がいないものだから――」
歩み寄り、右手を差し出す少女に、ファーレンハルトが応じる。
「君の名前は?」
「剣の魔女――モルガナとでも呼んで、ファーレンハルト」
「……ああ、モルガナ。これから、よろしく頼む」
「ええ。……とりあえず、その身体じゃ辛いでしょう? あなたが休めるところを探しましょ。わたくし達は、気が遠くなるような長い時間をかけなければならないのだから」
異形の船が、さざ波一つ立てずに洋上を往く。
ありとあらゆる艤装の全てを寄せ集めたかのようなゴテゴテした外見であったが、航海は静かに、着実に進んでいる……かのように見えた。
「まーた見つかったの? 見えないんじゃないわけ!?」
金の装飾を施された白い帽を目深に被ってはいるものの、その凜とした視線が空に向いているのは窺えた。
「不可視化の能力は人の目に触れないようにしているだけだ。まぁ、騙くらかせる竜もいないわけではないだろうが……大多数には筒抜けだ。しかも、行く先々で同胞をブチ殺されてるんだ。野放しにしてもらえる道理がない」
少女の下に立つ、船の中にはおおよそ似付かわしくない、そこら辺にあったボロ布を被っただけのような出で立ちの女が、少女に負けず劣らず整った顔から恐ろしく汚い言葉を吐く。
「で、どうする、無用な交戦は避けるか? 振り切れなくもないだろうが」
「――そういうの、あたし一番嫌いなのよね。ただ逃げるだけって、臆病者がすることでしょ」
「いやはや、あまりにも想像通りのセリフを吐いてくれて嬉しいよ、私は」
女はぼさぼさの銀髪を揺らして笑った。
そんなどす黒い感情剥き出しの二人に、努めて冷静な声がかけられる。
「嫌うのは結構なことだが、もう少し冷静な判断をしてくれるようになってはくれないかね」
気難しそうな顔をした「獅子」は、巨大な瞳をぎらりと光らせ、言った。
「それは副艦長としての上申かしら? セド」
獅子の名はセドリック・アーカントーチといった。
彼は千年前の軍人であり――竜達を滅ぼすため、その知識や経験を後の世に伝える使命を帯び、人の身体を捨てた男だ。
当代の人間にとってはオーパーツといっても過言ではないノアの技術の管轄を一手に引き受けている。故に、彼はこの艦の副艦長を名乗っていた。
「いや、独り言だ。……少なくとも、今戦うことは間違っていないさ」
「そう。それならいいの」
「……海の藻屑にされては構わん」
やれやれと言わんばかりの表情でつぶやいてから、無言のまま、視線を少女へと注ぐ。
「ノアを戦闘態勢に移行する。目標は竜種と推定。主砲展開、対空迎撃用意。……ま、いずれにせよやるしかなかったか」
少女は外套を翻して立ち上がり、声高に宣戦を告げた。
「偽装解除! 対空迎撃で雲の上からあぶり出せ! 命知らずの哀れな竜に、世界の支配者は飛び蜥蜴ではないということを存分に教えてあげなさい!」
金の瞳に意志と野心を満たし、
その背には計り知れぬ重荷を背負い、
少女は希望の地へ向かうための障害をなぎ払う。
その名は、クライス・ネール・キーリア。
寂れた漁村から旅立った――まだ誰もその名を知らぬ、当代の希望である。
海に、陽炎が立った。
水が割れ、激しく波を立てながら、その陽炎はすぐさまに実体となって出現する。
一面の青の中に現れた白銀の艦影――その船の名はおろか、存在すらも知り得る人間はいないだろう。
船の名は、ノア。
「……来るぞ!」
艦橋に木霊した警告の声と共に、雲が裂かれる。
ノアの直上、真っ逆さまに飛来するのは――対の翼。
「主砲直上!」
ネールの甲高い声が木霊するが、すぐに野太い声がそれを遮る。
「可動域には限界があるに決まっているだろうが! ――右に回頭、対空迎撃そのまま! 艦尾対空ミサイル発射! とにかく近接戦に持ち込ませるな! 密着されたら終わりだ!」
セドリックの咆哮に、艦は忠実に動いて見せた。
甲板上に配備された16機の細かい光弾をばらまく対空砲架と、艦尾から射出されたミサイルが竜めがけて飛来する。
竜は艦に密着する瞬間、瞬時に切り返し空で急制動をかけた。
艦自体が移動していたため対空砲架の絨毯爆撃からは脱したとはいえ、未だミサイルの脅威は残っている。
「……これはこれは、これまでとはずいぶんと格が違うようだ」
銀髪の女が目を細めながらつぶやいた瞬間、竜の眼前でミサイルは爆発四散した。
「なっ……不発!?」
「この艦に限ってそれはあり得ん。……破壊した、そうだな?」
「恐らく」
「なるほどね。だから格が違うってワケ……。でも、倒せない相手じゃない、そうでしょ?」
「ま、今まで消し炭にしてきた飛び蜥蜴に、少々毛が生えた程度に思っていればいい。何にせよ、ノアの敵ではないさ」
女はそれだけ言うと踵を返し、艦橋の外へと続く扉の前へ歩いていった。
「どこにいく?」
「空を見てくる。あるいは顔なじみかもしれないからな。死に顔ぐらい拝んでやらないと可哀想だろう」
「死に顔なんて、残さないけどね」
「……はっはっは。人間の傲慢もここに極まれり。しかし、傲慢であることを許された人間なのだから、君はその権利を存分に享受するがいい」
女は艦橋の扉を開け、艦内の闇に消えていく最中、振り返って笑った。
「驕る権利すらも有さない人間が、竜に勝てる道理はないのだから。ふんぞり返っているがいいぞ、クライス・ネール・キーリア」
女の姿が消え、艦橋にしばしの無音が満ちる。
――が、すぐにガツンという横揺れが襲った。
「ファーレンハルトの気まぐれに付き合ってる場合じゃなかった! セド、ここからは私がやる!」
「……おおせのままに」
ネールは大きく身を乗り出し、声高に再び指示を出す。
「照準そのまま! どの類の力を使っているか知らないけど、ミサイルを撃ち落とすなら、撃ち落とせないものを撃つまでよ! 二番主砲展開! 三番、一番も発射準備! 一撃でケリを付けるわよ!」
強い海風に、女は咄嗟に銀色の髪を庇った。
紅い瞳は空を見上げながら、二つの翼を追いかけている。
「やはり、狂っているか。せめて身内で処理してもらえないものかね」
侮蔑や畏敬――様々な感情の入り交じったつぶやきを漏らす女の名は、ファーレンハルト。このノアにネールやセドリックを導いた、張本人である。
光弾の雨の中を、竜は悠然と飛び続けている。艦上を旋回しているようにも見えるその姿は、獲物の隙を窺う猛禽のそれであった。
「狂って知性を失っていたとしても、本能で最適な行動をとるか。本当に厄介な種族だよ、お前達は」
ノアの三門の主砲が唸りを上げ、稼働を始める。
三門それぞれが竜の方向を向いているが、いずれの砲塔も少しずつズレていた。
対空砲火に追い立てられていることも知らず、竜は旋回を続けている。
いや、それすらも理解しているのかもしれない。
空で行われているかもしれない腹の探り合いを、ファーレンハルトが伺い知る由はなかった。とすればなぜ、彼女が戦場の最中にその生身を晒すのか。
『二番主砲――ってぇー!』
甲板に、甲高い声が木霊する。
瞬間、空気を震わし、ノアの艦首下に備えられた砲門の二段目の砲火から、紅い烈光が放たれた。
竜は緩やかな旋回を一転、強烈な加速と共にその一撃を置き去りにして飛んだ。
自動追尾の対空迎撃が追いかけるが、音速を超える加速を捕まえきることはできない。
そのまま竜は艦上を回り込み、逆方向から飛来する。
『――馬鹿ね。あんた達の速度もろくに把握しないで、仕掛けるとでもお思い?』
海上、空を切った二番主砲の砲火が彼方で爆ぜていた。
青い空を紅い霧が染め上げる。
陽光でより鈍く、蠢くように光るそれには、
『一番、三番主砲――照準そのまま。なぎ払えぇぇぇぇぇっ!』
二度、三度、続けざまに空気が震え、灼熱の衝撃破が艦上を駆け抜ける。
紅い霧へと放たれた六本の烈光は霧を薙ぎ、円を描くように、拡散した。
反転した砲火の雨は、回り込んだ竜へと迫る。竜は空に地面があるかのように空を蹴り、急上昇での脱出を試みる。
『竜殺しの炎、その程度で逃げられるわけないでしょ!』
六本の焔は、情け容赦なく、空を逃げ惑う竜を追い立てる。
船を統べる少女の声は、あまりに冷徹で、無慈悲で、絶対の意志を感じさせるたおやかな言葉で、勝利宣言を告げた。
『詰みよ』
狩猟者の閃光は、空に広がる翼に食らい付く。
竜の断末魔の絶叫が、凪の海に響き渡った。
「汝が魂、せめて灰の地平に届くように」
ファーレンハルトは焼け落ちた翼に静かな言葉を投げかけ、背を向けた。
「ネール、旅路を続けようか」
『前から気になってたんだけど……灰の地平って、なに?』
「さてな」
『さてなって……』
「余計なことをしている暇があったら船を動かせ。雑魚相手でも、逐一時間をとられてはたまらん。これでは先が思いやられるよ」
『なによ、それ』
「さっさと旅の最初の目的を果たそうと言っているだけさ。いい加減、私は人間らしく地に足ついた場所で眠りたいぞ」
『あたしだって一緒よ。……それに、予定じゃもうすぐでしょ?』
「……あぁ、もうすぐだ」
未だ見えぬ海の彼方に目を凝らした後、ファーレンハルトの姿は艦内へと消えていった。
夕陽が沈むと共に、ノアは再び陽炎に溶けた。
昼間の戦闘から打って変わって、夜の行軍は静かなものだった。
艦内の食堂で、ノアに備蓄されている千年前の保存食を平らげたネールは、食堂の椅子に足を投げ出し、ぼーっと壁を眺めていた。
「浮かない顔だな」
不意にかけられた言葉に、ネールはハッと目を見開いた。
「い、いきなり話しかけないでよね! 食後にリラックスしてたのに……」
「悩ましげなため息を吐くのがリラックスなのか。お前のいた漁村は寂れた外見に違わず珍妙な風俗が根付いているようだな」
「かーっ……ほんっと、いらつく物言いするわよね、ファーレンハルトは」
「いやあ、これはすまない。もっとも直すつもりはないんだがね」
「……うん、知ってる」
呆れた顔をしているネールを見て、ファーレンハルトは楽しそうに微笑む。
その笑顔にネールの表情はさらに渋いものへとなっていった。
「で、一体どうして我らが艦長はそのようなアンニュイな表情を浮かべているのだ? 昼は見事な勝利を掴んだではないか」
「……あんたさ、まぁ知ってたけど、性格悪い」
「どの辺が?」
「何言ってるんだお前みたいな顔して聞き返すのやめてくれない? そういう顔したいのはこっちよ、全く……」
むくれるネールに、ファーレンハルトはさすがに少しバツが悪そうに肩をすくめた。
「いやあ、すまないすまない。少々やり過ぎたな。……で、なんだ?」
どうやら真面目に話を聞くつもりがあるらしいと見て、ネールはようやく不満そうな表情を引っ込める。
「ちょうどいいから、単刀直入に聞くけど――あんたの言う希望って、なに?」
ネールがこの船に乗ることを決めた日――彼女の故郷である、寂れた漁村と決別した日、今、目の前に立っているファーレンハルトという女は、今と寸部違わぬ姿でネールを誘った。
『私はこの船で、世界を変えられる希望を探しに行かなければならない。しかし、この船が真価を発揮するためには、相応の乗り手が必要なのだ。君には、間違いなくその資格がある。もし、この世界に欠片でも疑問を持っているのなら――私と共に、世界を変えに行かないか?』
あの日、ネールは迷わずその手を取った。
ファーレンハルトの言葉全てを信じたわけではなかった。というか、信じようがなかった。
思い返せば、頭のおかしな人間がほざく戯れ言の類にしか聞こえない。
しかし、ノアを背に、自らへと手を差し出すその姿は――ネールにとって、神の到来にも等しかったのだ。頭のおかしな人間がほざく戯れ言は、あの瞬間だけ、神からの託宣になった。
神託を信じ続けてもよいのか、ネールは揺れていた。
「あたしは……その、もしかしたら笑われるかもしれないけど……戦ってきたよ? 指示を出すだけだけど……あたしなりに」
「――命のやり取りをしてきたんだ。誰も笑いはしない。感謝もしている」
「だったら……いい加減、教えてくれない? あんたがあの日言ってた希望って……あたしやセドをここまで連れ回してきた希望って――なに?」
ネールが、畳みかけるようにまくしたてた。
「もっともっと強い力? 戦う武器とかじゃなくて、ずっと抽象的なもの? 今まではノアがあったからあなたを信じてこれたけど……正直、もうすぐだって言われても、あたし達は、その希望とやらの輪郭だってわかってない! 本当に……世界を変えられるの!?」
ファーレンハルトは紅い瞳で真っ直ぐ、ネールの金の瞳を見返す。
しかし、言葉は語らない。ネールはさらに畳みかける。
「もし力だっていうのなら……この船とあたしは、たっくさん竜を倒してきた! ノアだけじゃない、あたし達にはまだ力も残ってる……! これじゃ足りないの?」
ファーレンハルトは、ゆっくり首を横に振る。
「ネール、君はノアの旅で何を見てきた?」
「え?」
「街を、人を襲う竜達がいる。……奴らは好きで襲っているんじゃない。己の衝動に身を任せ、餌である人を喰らっているに過ぎん。今日襲ってきた竜も言葉を忘れ、怪物に成り果てていた。同じような竜が、世界には何万匹もいるだろう」
「…………そうだったの? 群れをやっつけてはい終わり、とかじゃ、ないの?」
「残念ながらそうではない。唯一の救いは、より強い力を持った成体――ようは、千年前の大戦でも主力となり、神骸機とやり合った連中は狂っていないことだ」
「神骸機とやり合った竜……。今もいるってことは、生き延びたってことだよね」
「そう。神骸機は竜と戦うことに特化した兵器だ。そんな兵器と戦っても生き残った手練れ、と言えば、どれほどの脅威かは分かるだろう?」
「……うん」
「船で成体の竜を退けるのは極めて難しい。それはノアでも変わらないだろう。兵器の強弱ではなく、相性の問題だ。……これが、第一の問題」
「第二の問題は?」
「狂った竜はまだ与し易い。だが、何万体も相手をするのは不可能だ。狂った竜を落とす間に、ノアが落ちる。よしんば落ちなかったとしても、何万体もの竜を退治しているうちに、竜の狂気が成体に及ばないとも限らない。――これが、第二の問題だ」
「それって、割と詰んでない?」
「詰んでなければ、あやふやな希望に縋ろうなどとは思わない。違うか?」
「確かに……。で、その問題を希望は解決できるわけ?」
「少なくとも、第二の問題の解答にはなり得るはずだ。……竜の狂気をどうにかして祓う。その為に、私達の探し物は必要なのだよ」
「どうにか祓うったって……そもそも、なんで竜がおかしくなっちゃってるの?」
「千年前の大戦で、多くの竜の血が流れたことが原因だ。竜という生き物の生命力は尋常じゃない。悠久の時を生き長らえさせる血は、竜以外の生き物には強すぎるのだ。そして、その血が何百、何千という竜の肉体から溢れ出したのならば……」
「竜も狂っちゃうくらいの、とんでもない量になってるってことか……でも、なんであたし達は大丈夫なの?」
「……人間が無事な理由は分からん。ある意味、竜より強いということなのかもしれんな」
要領を得ないファーレンハルトの答えに渋い顔をしつつも、ネールは一応の納得がいったようで、大きく頷いた。
「とりあえず、希望については分かったよ。どういうものなのかはわかんないけど、どういうことをするものなのかは分かったから、前進だよね」
「そう言ってもらえるとありがたい。――すまないな、あやふやで」
「ううん。あたしとファーレンハルトが初めて会った時から、なんかあやふやだったじゃない。何をしようとしてるか教えてもらえてるだけマシじゃないかなって」
「思い返せば、よくついてきたものだな」
「ファーレンハルトがあたしを必要してくれてるのは、分かったから。力になってあげなきゃいけないって思ったの。誰かを助けてあげなさいって、村のみんなが言ってたし」
「……ありがとうな」
「あたしこそ、だよ。――命を賭けて戦うのは怖いけど、ノアで旅をするのは楽しいもん。乗ったことは後悔してないし、ファーレンハルトのことも信じる。だから、ファーレンハルトはオオブネニノッタツモリ……でね! ちゃーんと、あたしが希望のところまで連れて行ってあげるから! ……あ、言葉の使い方、合ってる?」
「ああ、合っているとも。これからも頼らせてもらうよ、ネール」
うん、と笑顔で微笑み、ネールは晴れやかな表情で部屋の外に出て行った。
それを見送り、ファーレンハルトは嘆息する。
「これで本当に正しいのかな、モルガナ……」
島は常夏だ。常に少し汗ばむくらいのほどよい気候に、青い海、白い砂浜――少し内陸に行けば、綺麗な緑の原っぱが広がっている。鳥や獣がたくさん暮らす原生林だけは、正直あってもなくてもいいんだけど。
「何をしているのかしら?」
原っぱに寝転がって空を見ていると、視界の端で黒いものがひらひらしているのが見えた。
「……うーん、ぼーっとしてる、かな」
「あら、それはとてもよいことですわ。人間、いつも張り詰めてばかりでは疲れますもの」
鈴の音のような声は、耳にとても心地良い。
僕にしか見えない、聞こえない、黒衣をまとった優しい人。
彼女は、僕にモルガナと名乗った。
「そうそう。鍛錬も勉強も、そればかりじゃ息が詰まるよ」
「ええ、そうですわね。でもね、ネイト。鍛錬も勉強もあなたには必要なことですわ。あなたは誰よりも賢く、強くならなければならないのですから」
「……そうかなあ。実際、誰よりも賢く、強くなんて、不可能じゃない? 僕はモルガナより物事を知らないし、父さんほど強くもない。僕は人間だからね」
「いいえ、ネイト。わたくしは確かに少し物事を知ってはいますけれど、聡いわけではありませんわ。知識量と聡明さは相関関係にありません。わたくしだって愚かなことはします」
「モルガナが愚かなこと? たとえば?」
「……こうして、あなたの前に足繁く現れることとか」
「僕と会うのは愚かなことなの? なんだか僕も馬鹿にされてるような気がするなあ」
「馬鹿にするだなんて、とんでもありませんわ。恋をするのが愚かということです」
「恋て……」
相変わらずの物言いに、我ながら呆れかえった声を漏らしてしまう。
「ネイトはつれないことを仰いますけれど、わたくしは本気ですよ? そうですね……では、言い方を変えましょう。このような戯れ言をあなたと交わす時間がわたくしは何よりも好きですが、見方によっては愚かなことと言えますわ」
「こうしてモルガナと話すのは、僕、すごく好きだけど?」
「あら、嬉しいことを仰ってくださる。だったらもっとお話をしましょうか。愚かではない、わたくしの知識を語って差し上げます」
彼女が語るのは、まるで聞いたことのないおとぎ話の数々だ。
万能の願望機を探す騎士達の物語、死の国で修行を積んだ勇士の物語、世界最古の英雄と、一人の友の物語――そのいずれも、僕の心は躍った。
「今日はどんな話?」
「……あなたのお父上が語らないであろう、神世の時代の話など、いかかです?」
「神世の時代……?」
「――ご存じないようですわね。でしたら、語りましょう。人と竜がもっとも近しかった頃の物語を」
モルガナという人がどんな人なのか、僕は未だによく分かっていない。
彼女は気付いたら、僕の側にいる。そしていつの間にか、僕の側から消えてしまう。
子供の頃からずっと――そう、僕の頭の中に住んでいるんじゃないかと思ったこともある。
「人と竜が近しかった頃……それはつまり、人の力と竜の力が拮抗していたことに他ありません。神世の時代というのは神依の時代であったと」
「神が依る時代……ってことかい?」
「その通りですわ。人を依代とした神……あるいは、あの代の人そのものが神であったのかもしれませんが……人は、神骸機などというまがい物によらずとも、竜を殺めることができた」
神骸機――千年前の大戦で、人間が振るった兵器。
竜の死骸に鎧を被して束縛することで、人に竜の力を操れるようにしたもの。
「神依の人は、聖剣と共に、竜へ戦争をしかけました。彼らの願いは実に単純なもの。人の世を作りたいというものでした。竜にもまた、それに応える理由がありました。人は魔術でもって、竜に比肩するほどに強くなりすぎた。世界の調停者――天秤たる竜達は、そのような蛮行を許すわけにはいかなかったのです。……人の願いは叶いませんでした。悪竜ヴォーティガーンの前に聖剣と共に立った騎士は散り、神世の時代は終わりを告げました」
「でもモルガナ、今の人に神のような力はないよね?」
「その通りですわ。それと、今の、というのは間違いですわね。千年前の彼らが認識していた歴史の中にすら、神世の時代の存在は認識されていませんでした。いわゆる伝説、神話の類として伝わるのみですわ。今は、神話も伝説も失われました。……神世は世界の歴史という地層の遙か下方に追いやられています」
「その失われた伝説や神話を、モルガナは知っているわけだ」
「はい。それが、ネイトに対するわたくしの存在理由ですわ。わたくしはあなたに神世を伝える。あなたの父は、竜の世界をあなたに伝える。――ネイト、あなたにはもっともっと、強くなってもらわなけれなりません」
モルガナの細い手が、僕の頭をなでる。
原っぱには風が吹いているのに、モルガナの長い黒髪は揺るがない。
「ああ、愛しい子……」
「ねえ、モルガナ」
「なんでしょう?」
「モルガナは僕の……何なのかな? 友達? ……お母さん?」
モルガナの優しい顔が、一瞬、困惑したように見えた。
「恋をしていると言っているのに、その辺りは酷い方ですわね」
「僕にはよくわからないから……でも、モルガナのことは嫌いじゃないよ? 大切に思ってる」
「あまり年上をからかうものではありませんわ。……ふふ、そろそろ起きなければなりませんね。ネイト、またその内逢いましょう。今度はたっぷりと、神世に伝わる神話をお教えします」
モルガナは僕の額から手を退けて、右肩から右手の人差し指の先まで、細い指でなぞっていき――ごきげんようと言葉を残し、消えた。
「ネイトさま! ネイトさま!」
大きく身体を揺さぶられて、僕はハッとした。
「どうされたのですか? 急に黙り込まれて……」
僕の左手には、訓練用の木剣が握られている。
目の前には、見慣れた赤い髪の女の人――物心付いてから、ずっと僕の側にいてくれる女性。名前をアイシャという。
モルガナの姿はない。だけど、僕は鮮烈に彼女の姿を覚えている。意識が連続していたと言い切ることも出来る。
「……ちょっと、ぼーっとしてたみたいだ。ごめん」
「いえ……少し、お休みになられますか?」
「ううん、大丈夫。もう一本、よろしくお願いします!」
「――かしこまりました。無理をしておられるなら、ちゃんと言ってくださいね?」
「僕が無理をしてるかどうかは、アイならすぐにわかるでしょう?」
「もちろんです」
アイは右手に持った棒をくるりと回し、ゆっくり構えた。
「先手はどうぞ。得物は私の方が有利ですからね」
「……わかった。いくよ!」
一歩踏み込み、左手で握った木剣を振り上げる。
棒を握る手を握った攻撃に対し、アイは棒の片側で剣を弾いた。
返す刀で、棒の上半分が僕の頭目がけて振り下ろされる。
僕の手首を狙った一撃だ。武器を落とした時点で勝負あり――実際の殺し合いならば、武器を失うことは命を失うことと同義だ。
判断を下すために与えられる時間は一瞬。間違えれば僕は「死ぬ」
となれば最善の行動はどれか――
振り下ろされる棒に対して、僕は右手で左を庇った。すべすべとした木の棒を右手で握り込んだ瞬間、アイは右手に力を込め、棒を真ん中の部分で砕いた。
僕の右手に残った棒の切れ端は――さらさらと、砂のように崩壊していく。
「まだ終わっていませんよ!」
右の握り拳を解く間にも、アイは棒の切れ端で連撃を叩き込んでくる。
木剣でそれを捌きながら、反撃の機会を窺う。
しかし、その速さは尋常じゃない。僕に右手を使う隙を与えず、徹底的に手首が狙われる。
「――手だけに注意を向けてはいけません!」
アイのロングスカートの隙間から、白い肌が一瞬見えて――その場でくるりと回ったと思えば、僕の木剣は左手の中から吹き飛んでいった。
手首の辺りには焼けるような痛みが残っている。明日は酷く腫れそうだ。
「いやー、蹴りはずるいよ。右手使えないじゃん」
「……申し訳ありません。いえ、というか、棒を右手で防御するのは反則だからやめてくださいと、これまでも何度も……」
「だってー、痛いの嫌だしー」
「痛いのを嫌がった結果が今の左手です。全く……」
「ごめんごめん。……また、一本ダメにしちゃったね」
「いいのです。棒くらいは代わりが効きますから。……左手の方には軟膏を塗って、寝る前には湿布を貼って差し上げましょう」
「ありがと、アイ」
「……ああ、もう腫れてきていますね。ネイトさま、痛みは……?」
「いや、不思議と全然痛くないんだよね……。ほら、こんなにぷらんぷらんして……」
「きゃああああああああああっ!?」
ぐにゃりと曲がっちゃいけない方向に曲がる左手を見るや否や、アイは絶叫して、その場に倒れ込んでしまった。
目を見開いたまま気絶している。
「……いや、折ったのそっちじゃない……」
ま、骨折くらいなら一日二日で治るからいいんだけど。
しかし困るなあ。その一日二日の間はこの不自由な右手しか使えないじゃないか……。
いつからだろうか。
僕の右手がとても不自由なものだと気付いたのは。
「全く、アイは困るなあ」
左腕でアイを担ぎ上げ、僕は我が家へと戻る。
右手は近付けもしない。
僕の右手は壊してしまう。モノも、命も。
――僕は右手で何かに触れることができない。僕が触れたものは最後、形を保つことができなくなり、崩壊してしまう。無機物も有機物も関係ない。僕の右手は全てのものに平等に滅びを与えるのだ。
なぜかは分からない。――最初から「そう」だったから、僕という存在が「そう」いうモノなのかもしれない。
アイも父さんも、僕の右手には首をかしげる。
モルガナも、答えてくれたことはない。でも、白昼夢に現れる彼女だけは、僕の右手に触れることが出来る。だからきっと――彼女は、現世のものではないのかもしれない。
現世のものではないとしたら、僕はモルガナの語ることを、頭のどこかで知っているということになる。でも、モルガナが教えてくれることは僕が知るはずのないことばかりで、僕のほとんどいない知り合いの中にも、モルガナのような見た目の人はいない。
僕の頭が作り出したものでないのなら、彼女はやっぱり現世のものなのだろうか。
だったらば、なぜ僕の右手は彼女を壊さないんだろうか。
考えたって仕方のないことばかり、考えてしまうのは悪い癖だ。
答えが出ないということは、それだけ余地があるということだから。
◆
「……捨て置けと言っておいたはずだが?」
浅黒い肌に黒い髪を短く切り揃えた壮年の男が、向かい合って座る二人に、紅い瞳を向ける。その言葉に威圧するような意図は恐らくないのであろうが、問いかけるだけですら、二人は身を固くする。
二人の片割れ、背に巨大な剣を背負った金髪の青年が応えた。
「その方針に真っ向から反発しているつもりはないでしょう。が、やられっぱなしというわけにもいかない――というのが言い分ですね」
「所詮は隠居の身か。ま、重んじられるよりは気は楽だが」
「閣下、我々が今日参ったのは……」
渋い顔でため息を吐く男に、金髪の青年よりもさらに若い――蒼髪の少年がくってかかる。
「まぁまぁ、そう急くなよオズワルト。早く伝えてどうなるというものでも……」
「雷蹄公におかれましては、この後もお時間が余っているのでしょうが、私はそれほど暇ではありませんので」
「……これは失礼。閣下、では用件を手短にお伝えさせていただきましょう」
雷蹄公――そう呼ばれた青年は一旦襟を正し、男を見据える。
「断片的な情報のみしかない現状ですが、件の艦船との交戦状況を見るに、この島に近付いてきているのは明白かと思います」
「ふむ」
短い相槌で、男は続きを促す。
「閣下のお力をもってすればいかなる艦船であっても敵ではないと思いますが……そもそも閣下のお手を煩わせるというのが、こちらとしてはよろしくない。望むところでもないでしょう?」
「話が早くて助かる」
「まあ、それなりに長い付き合いですから。そこら辺は以心伝心というやつでして。本来であればそのような間柄である私がお守りできればよかったのですが……」
「トールダン卿は閣下にも劣らぬ実力者。別の要地を守護していただく方が有益であると」
「と、丸め込まれてしまいましてね。……その言い分にも一理あるということで、今回は涙を呑んで、護衛を外れることと相成りました」
「……ふむ、では君が?」
「はい。私、オズワルトがダーインスレイヴ閣下をお守りさせていただきます」
椅子から立ち上がり、オズワルトは恭しく礼をした。
「委細承知した。オズワルト、しばらくの間世話になる」
「いえっ……! こちらこそ、偉大なる閣下をお守りできる役目、大変光栄に思っております!」
「……所詮、我は隠居の身よ。盟主などという大層な二つ名はおおよそ似付かわしくない」
「そのようなことは……!」
「よい、いずれも過ぎた言葉だ。――トールダン」
ダーインスレイヴに呼びかけられ、雷蹄公トールダンもまた姿勢を正す。
「はっ」
「オズワルトの案内、大義であった。お前は、お前の義務を果たせ」
「……御意に」
身体を折り曲げ礼をして、トールダンは身を翻す。
「では閣下、お元気で」
「うむ。またいずれな、我が剣よ」
トールダンは振り返ることなく、部屋から去って行った。
「――閣下、トールダン卿には及ばないかもしれませんが、私も厳しい研鑽を積んできたつもりです。必ずや責を果たして見せましょう」
「期待している。我ら竜のほとんどは老いていくのみ。お前のようにまだ若く、力を持った竜の存在は貴重だ」
「ありがたきお言葉……!」
かつて竜の盟主と呼ばれた男――いや、竜と呼ぶべきか――ダーインスレイヴは、トールダンの去って行ったドアの向こうを見据えていた。
ダーインスレイヴは今、四方を海に囲まれた、小さな島に暮らしている。
竜達の会談が行われたのは荘厳な神殿などではなく、粗末な家屋であった。
島に家屋以外の建造物はなく、あるのはひたすらに豊かな緑と青。
緩やかな時と穏やかな風に包まれ、島の時間は流れている。
ダーインスレイヴとの会談を終え、外に出たトールダンは、その爽やかな顔を破顔させた。
「これはご子息。お変わりないようで」
笑顔の先には、オズワルトよりもさらに小さな背丈の、黒髪に紅い瞳を持った少年がいた。
「……ご子息、アイシャはどうしてこうなっているのですか?」
「いやあ、組み手をしているときに、不幸な事故が折り重なって」
右手で手招きされ、トールダンは左手の状態を認識した。
「おやまあ。骨が真っ二つですな」
「そんな綺麗にポッキリいっちゃってる?」
「いっちゃってますねぇ。いかにご子息といえども、これは時間がかかるかもしれませんな」
「うーん、でも、なんとかなるよ、たぶん。いつ頃だっけか、トールダンが持ってきてくれた食料の中に毒きのこが紛れててさ、僕が食べちゃって……。アイ達はなんともなかったけど、僕は血とか吐いて大変だったんでしょ? でもほら、今はこうしてピンピンしてるし」
「……そんなこともありましたねえ。あの時は、さすがに我々一同肝を冷やしましたが」
「それに比べれば全然でしょ?」
「ですが、毒と怪我は違いますよ、ご子息。アイシャを置いたら、手首を固定してくださいね。お世話ができればよいのですが……私も、これから行くところがありますゆえ」
「行くところ? 今日は遊びに来たんじゃないの?」
「……私が遊びで飛び回れるくらい穏やかな世界だとよいのですが」
「何か問題があるわけ……か」
「……そんなところです。まあ、ご子息は知らなくてもよいことですよ」
トールダンは視線を外し、なんとも言えぬ表情を見せた。
知らなくてもよいこと、ならば、そんな顔をする必要はない。が、そこまで深く突っ込むほど、少年も野暮ではない。
「僕が知らなきゃいけない時が来たら、父さんが教えてくれると思うし、いいよ、トールダン」
「……面目ない」
「謝られるようなことじゃないよ。トールダン、すぐに発つの?」
「ええ。閣下から義務を果たせと言われてしまいましたからね。あぁ、そうそう。一人、神経質な若いものを置いていきます。ご子息とはそりが合わないでしょうから、あまりお近づきにならないことをおすすめしますよ」
「わざわざありがとう。じゃあね、また近いうちに」
「ええ。ご子息も、ご健勝を」
トールダンはまた柔和な微笑みを少年に向け――一瞬、赤い雷土を迸らせた。
少年の顔に、影が落ちる。
紅い雷土をまとった金色の翼は力強く広がり、太陽の光を覆い隠した。
右腕には人の身であった時と同じ両刃の剣が握られる。逆鱗に覆われた緑の瞳は少年を見据え一つ頷いてから、巨大な翼を羽ばたかせ、瞬く間に空へと昇っていった。
少年は、ダーインスレイヴの息子である。
しかし、その身体は純粋な人の身であり、翼も逆鱗も持っていない。
彼の名はネイト。竜の言葉で「紅翼」を意味する、誉れある名であった。
ノアは洋上で静止していた。
「ふぁーれんはーるーとー、まだ見つからないのー?」
「うるさいな。簡単に見つかるなら苦労しない」
「だって、もうかれこれ三日も同じところで停まってるのよ? もしかして、最初から方角とか間違えてたんじゃないの?」
「そんなことは……ない、はずだ」
「なんでそこで口ごもって不安にさせるかなー……」
ファーレンハルトは鬱陶しそうに一睨みしたあと、大きなため息をついた。
「連中の島は、この船以上に厳重に隠されている。竜ですら認識できないレベルでな。原始的な人避けだよ。そこに存在しているという知識がなければ、この辺りを片っ端から掃海しても見つかることはない」
「竜ですら認識できないというのは驚きだな」
セドリックは艦橋にできた日だまりの中で大あくびをした。
空気は緩みきっている。竜からの襲撃も、ここ数日は絶えていた。
「それほどまでにかの盟主は人と竜、双方の目から逃れたいということだ。……ま、気持ちはわからなくもないがね。戦争なんてひっきりなしにするものではないだろ?」
「見てきたような口をきくな。……俺は負けた側の論理しか持たないが、勝った側もそう思うのだとしたら、やはりろくなものじゃない」
「……でも、セドは戦うんだよね?」
「――当たり前だ。俺は軍人だからな。仕事を嫌とは言ってられんよ」
「ライオンになっても仕事から逃れられないとは、災難だな。……しかし、よくもまぁここまで完全に隠匿したものだ。少々甘く見ていたよ」
「認識を改めるのも結構だが、俺達としては明確な指針が欲しい」
「一つ目、哨戒を出す。二つ目、このまま私を信用して、捕捉するのを待ってもらう。三つ目は、目的地に当たるまでひたすらノアを動かし続ける」
「一つ目は賛成できん。……というか、あまりにも非現実的すぎることを言うな」
「非現実? まさか。私は本気だよこの辺りに竜は寄りつかん。竜達は恐らく、盟主の寝所を別の場所と認識している。……あるいは、影武者を本物と認識しているか。ま、だからこそ、少々目立ったところで、それは些細な問題だ。非現実的どころか、一番妥当な策である――私はそう思うけどね」
「副艦長として、賛成できん。リスクが勝りすぎる」
「だそうだ。艦長?」
「うーん……セドの言うことに賛成。だいたい、哨戒に出したのを攻撃って勘違いされることだってあるかもしれないし……そういうのは、後からやり直したりできないでしょ?」
「……わかった。引き下がろう」
「当て所なくさまよいながら、お前が索敵する。それがいいのではないか?」
「折衷案という奴だな。ネールも同じ意見だな?」
「うん」
「わかった。船を動かしてくれ。私は甲板に出る」
ファーレンハルトが甲板に出ると同時に、ノアはゆっくりと動き始めた。
強い浜風が吹く中で、ファーレンハルトは目を閉じ、意識を集中する。
「……やれやれ、面倒なことをさせ、」
ファーレンハルトの頬のあたりに、静電気のようなものが走った。
ピリッ、と乾いた音がして、反射的に頬を覆う。
「――なんだ?」
その問いに答えるように、頬から血が滲み出した。この傷は、狙って付けられたものだ。
「……何のつもりだ、ええ?」
にわかに立ちこめる雷雲を見上げながら、ファーレンハルトは毒づく。
索敵するまでもない。存在を誇示するように雷雲は蒼い空を瞬く間に覆い尽くし、暗闇の帷が落ちる。
『ファーレンハルト! なんだこれはッ!?』
拡声されたセドリックの声が響く。
「どうやら、敵も哨戒中だったようだ。――来るぞ、こいつは……」
海面を、紅い雷が撃つ。
「やれやれ……ようやく見つけましたよ」
剣を伴い、暗雲から舞い降りる姿は悪魔のそれに近しい。
「――こんにちは、竜の支配を是としない、勇気ある者達よ。私は雷蹄公トールダン。我が主、ダーインスレイヴの一の剣とでも申しましょうか」
穏やかな語り口――しかし、身に纏う殺気は到底穏やかなものではない。
『――どうする』
「どうしたものかね……」
『……戦う……んじゃないの?』
ノアに、重い沈黙が満ちる。
「――お嬢さん、やめておいた方がいい。私は、幼いものの命を奪いたくはない」
『なっ、なによ! あんたなんか、ノアの主砲でイチコロなんだからっ!』
「……確かに、当たればただでは済みますまい」
『主砲撃てぇぇぇぇぇぇぇっ!』
「馬鹿ッ!」
ファーレンハルトが甲板にいるのもお構いなしに、ノアの異形の砲塔から砲撃が放たれる。
「当たれば、ね」
紅い雷光が迸り、砲撃の真上に直撃する。
まるで雷光にへし折られたかのように、砲撃は途中でねじ曲がり、海中へと没した。
「一度目です、見逃しましょう。しかし、二度目はない」
『甘いっ!』
「ほう――」
ノアの砲撃は一度では終わらない。海中で屈折した砲撃は海面から飛び出し、トールダンの身体へと迫った。
「なるほど、ここまで来たのは伊達ではないと」
一際強烈な雷光が走り――トールダンは、その姿を雷土に変えた。
『んなっ――!?』
砲撃は空振り、暗雲の彼方へ消えていく。
三度目の屈折はない。
「確かに、二段構えの砲撃は千年前にはなかったものだ」
ノアの鼻先に、トールダンは再び姿を現した。
「しかし、そのような手を食うのは若い竜のみでしょう。曲がる砲撃程度であれば、いくらでも私達は知っている」
「……だから言ったろう、ネール」
ファーレンハルトはトールダンと対峙し、一睨みしながら続けた。
「これが、我々が倒すべき障害だ。本物の竜というやつだよ」
ファーレンハルトの最大限の賛辞に、黒竜の右腕は笑んで答える。
「……そして、あなた達では超えられない障害でもある。では、交渉をしましょうか。あなた方人間がどうしようもない障害を越えうるために編み出した術、使うなら今でしょう?」
「交渉……ね。さて、それが平等なものになるかどうか」
「平等な交渉をするメリットが私にないでしょう?」
「違いない。……で?」
「――あなたが交渉の前に立つので?」
「不満があれば、先走った小うるさいのが勝手に口を挟んでくるだろうさ」
「なるほど。……私の要求は我が主の望みと思っていただいて構いません。その船を渡すか、放棄していただきたい。それは、この時代にあってはならないものだ。千年前、いや、神世において葬られていなければならないもの。このような時代に、亡霊が形を得ては困るのです」
「ふん、亡霊とは酷い言われようだ」
「……陽炎のように大気に溶け、密やかな侵攻を続ける船は亡霊のそれでしょう。それが、千年前の艦船を模しているのであれば尚更です」
「つまり、千年前の遺物風情が我が物顔で海を渡るなと」
「……その遺物が、千年できけばいいのですが。匣船をそのような異形に改装して、一体何をしでかすつもりなのやら」
「違うな、雷蹄公よ。匣船は自らその姿を選ぶ。――今、この世界にとってノアが希望の匣船になるためには、この姿をとるのが最善なのだ」
「……世界の希望となるために必要な姿がこれ、ですか。戦わなければ希望はないと」
「それだけじゃあない。ノアが船となったということは、希望は海上にある」
「――なるほど」
トールダンはその問答で、彼らの言わんとすることを理解した。
理解したからこそ――この場で終わらせなければならないと、そう思った。
「だとしたら、なおのこと、あなた方にはここで航海を終えてもらわなければならない。……無論、あなた方が船を放棄してくださるのなら、命は保証いたしましょう。我らも、無為に人の命を奪いたくはない。すぐにとは言いません。少し時間を差し上げましょう」
トールダンは剣をくるりと回し、宙に突き立てる。
ノアの進路を塞ぐように仁王立ちし、トールダンは目を閉じた。
ファーレンハルトは空を一睨みし、船内へと戻っていく。
その背中に、目を閉じたまま、トールダンの声が投げかけられる。
「――なぜ、そのような姿をとっておられるので? いや、なぜ、その姿であり続けるのです?」
「何の対価もなしに、世界を変えられるような希望を手にできると思うか?」
「然り。……その希望を押し通すのなら、相手になりましょう。とはいえ、人を殺めるのはやはり気が進みませんので、賢明な判断を期待します」
「……判断はもうとっくに下っているよ。私達が相手になる? そいつは、少し間違っているぞ、雷蹄公」
「ほう?」
「船では竜の相手にならないこと、その程度もわからない私達ではない」
だったらば――と、ファーレンハルトは振り返り、嗤った。
「竜には竜を――神骸機をぶつけるのが道理であろう?」
トールダンが振り返る――が、遅い。
海面から突如飛び出した白影。その背には眩いばかりの蒼翼が輝き、両手には鈍く光る剣が握られている。
「……まさか、この時代に白騎士と見えることができるとは!」
トールダンはすぐさま空を蹴り、上方へと跳んだ。もはや彼の眼中にノアはない。
否、ノアを気にしていれば――自分が死ぬことを、すぐさま理解したのだ。
「見ない顔だが……」
鎖に繋がれた剣を突き付け、白銀の神骸機は言葉を続ける。
「その紅い雷土をまとった翼は知っている。……俺の仲間が世話になったな」
言葉に抑揚はなく――しかし、怒りは隠し通せぬほどに満ち溢れていた。
「その言葉、そっくりそのまま返しましょう。千年前は、我らの同胞が数多、あなたの剣に狩られました」
「戦争っつーのはそういうもんだろ。まさか、お前らそんなことも分からなかったか?」
「いえいえ、まさか。分かっておりましたよ。人を殺すということは竜を殺されるということです。――しかし、あなたは死んだはずだ。ウィクトーリア」
白い騎士は切っ先を下ろし、自らの姿を誇示するようにトールダンへと示した。
「見て分からないか? これが答えだ」
「……ええ、そうですね。とても分かりやすい」
トールダンの握る剣に、雷光がまとわりつく。
「亡霊が現世に迷い出てきたというのなら」
一際激しく発光し、雷剣が唸りをあげた。
「もう一度黄泉路へ送ってさしあげましょう!」
「手を抜く余裕があるかどうか――」
紅と蒼が、空にぶつかる。
一瞬、暗雲は吹き飛び強い日差しが差し込んで――またすぐに、帷が落ちた。
ファーレンハルトは艦橋に駆け足で戻ってきた。
「いい判断だ。さすがだな、セドリック」
「あんなものの相手はしたくない。勝てるわけがないからな」
既に手出しが全くできない速度で幾度となく空で交わる二つの光を見上げながら、セドリックはぼやいた。
「……ここで俺達はジョーカーを切ったわけだが」
「仕方がない。切らねば負ける局面だ。――船を出せ、ネール」
「え? な、なんで? ああやって戦ってくれてるのに……」
「竜と神骸機の異種格闘技戦を見たい気持ちは分かるが、生憎そんな時間はない。……我々が巻き添えを食わない保証もない。あの竜はダーインスレイヴの懐刀。奴は近いぞ」
「ネール、奴はそう簡単には落ちん。俺達がいては足手まといだ。――あとは、わかるな?」
ネールは唇を真一文字に結んで、頷いた。
「……わかった。セドの言う通りにする」
「よし」
ノアはウィクトーリアから遠ざかるように、ゆっくりと移動を開始する。
「……本当に、助けられないの?」
「余計なお世話、というやつだな。あれだけ高速で戦っている両者のうちの片方だけを狙って攻撃することなど、どの時代の人間が射手をやっても不可能だ。味方を誤射する可能性だってある」
「理屈はわかるけど……その、人としてさ、自分達を守ってくれる人を置いていくのは……!」
「そう考えることは立派だが」
セドリックは空を見上げ、渋い表情を見せる。
「ただ一人の力で多数を守ることができるなら、その力に限界まで依存するに越したことはない。彼らはそうあるべきものとして、この世に生まれ出たのだろうから」
「……それが、あの人ってこと?」
「そうだ。――ああなってもなお、トレイン・ハートライトの生き方は変わらんのだよ」
ウィクトーリアのあり方も、変わらない。
かの白銀の騎士は、今日も竜殺しであり続ける。
ノアが移動を始めたのを確認し、ウィクトーリアは思い切り振りかぶった一撃でトールダンの身体を吹き飛ばし、ノアを庇うように、双方の間に立った。
「……安心なさい。私はあの船を沈めるつもりはないですよ」
「虚仮威しだったわけか?」
「そういうわけではありません。……投降していただきたかったのが本音ですが、彼女らが我らに刃を向けてくるならば、その心意気を買うつもりでした」
「どういう意味だ?」
「さて、どういう意味でしょうね……」
トールダンは不敵に微笑み、剣の柄を握り込む。
「……ま、なんだっていいさ。俺の前に立ちはだかる竜は踏みつぶす。お前が人間を踏みつぶしてきたように」
「いかにも、竜殺しらしいお言葉だ。――ええ、彼らは見逃しますが、あなたを我が盟主にお目通しさせるわけには参りません。せいぜい、長くお付き合いいただきますよ」
「ほざけ」
ウィクトーリアの背から、蒼翼が噴出する。
鎖と共に剣が舞い、往時と変わらぬ臨戦態勢をとった。
「……では」
水平線にノアが消え、暗雲の下には二騎が残る。
「始めましょうか」
雷鳴が、一つ。
トールダンの必殺の吶喊が、ウィクトーリアの左肩を穿った。
何をされたかを認識するほんの少し前に、機体は回避運動をとっていた。
その動きはもはや、第六感の働きとしか言えないほどの偶発的なもの――しかし、なければ勝負は決していた。
「まだまだ……!」
雷光の翼の猛攻は止まらない。
頭上の暗雲はにわかに紅く輝き始め、遠くで雷鳴が轟く。
竜はただ翼と知恵を持つだけの生き物ではない。彼らには、人に理解できぬ超常の力がある。
海を割り、嵐を起こし、空より雷土を降り注がせる。
「雷蹄の由縁、味わっていただきましょうか」
空から一本の雷撃が、ウィクトーリア目がけて降り注ぐ。
それを皮切りに、一気に落雷が発生し始めた。蒼翼は一瞬強烈に噴出し、その場から機体を飛び退かせる。ウィクトーリアがいた地点には強烈な雷蹄が着弾し、海面に蹄の跡を刻んだ。
「文字通りじゃねぇか!」
「地面ならちゃんと蹄の後が残るんですよ? これは、いわば天馬の足跡ですかね――」
「物騒な天馬もいたもんだ!」
海を蒸発させる勢いで、雷土は何度も何度も降り注ぐ。
海面からは雷蹄の衝撃で激しく飛沫が上がり、ウィクトーリアとトールダンを濡らす。飛沫の中をウィクトーリアは蒼翼を広げ巧みに飛翔し、雷蹄を躱し続けていた。
さしものウィクトーリアも攻め手には移れない。しかし、雷蹄で仕留めることは恐らく不可能だろうとトールダンは察した。
「凄まじい技量だ。あなたほど巧く飛ぶ竜は世界にそうはおりますまい」
剣を構え、トールダンが再び狙いを定める。
「我が剣技と雷蹄――これならばいかがですか、千年前の竜殺し!」
一瞬激しく光が瞬き、トールダンが一瞬でウィクトーリアとの距離を詰める。雷光は瞬発力を高め、常人では反応しきれぬ速度で敵に襲いかかる。
強烈な一撃を真っ向から受け止める間も、トールダンの雷蹄は止まらない。
空で身をよじりながら雷蹄を躱す様は、もはやウィクトーリア自体が生きているかのように錯覚させるほど自然な動作であった。その間も二本の剣と鎖は振るわれる剣を払いのけ、決定的な一撃を当てさせない。
「音に聞こえた双剣士、やはり相当な腕前だ!」
トールダンの剣技は大胆で大振り――しかし、ウィクトーリアの隙を絶え間なく狙う強かさも兼ね備えている。空から降り注ぐ重い一撃を気にしながらの対処を要求されるウィクトーリアは、防戦一方の様相だ。
「しかしこのままでは――いずれあなたは敗北する!」
トールダンの体重の乗った一撃が、剣越しにウィクトーリアの機体を揺らした。今までのものとは桁違いの一撃に、さしものウィクトーリアもただ受けるだけでは済まない。
海上で大きく仰け反り、体勢を崩したところへ、一際太い雷蹄が一直線に落雷する。
「ったく――」
忌々しげな舌打ちを遮るように、雷蹄の直撃の轟音が響き渡り――白い欠片が散った。




