私の罪、彼女の罪、与えられる罰。
一切の身動ぎもせず、衣擦れの音すらさせないマリアンヌは、ただ穏やかな微笑みを浮かべていた。
体面の席に座り、口元の穏やかな微笑みに反してその瞳に映る感情は読み取れない。
私が苦手としていたマリアンヌがそこにいた。
コレッティアとの対峙の後、促されるままに王城まで戻ってきていた。
今は私の私室で、扉の前に人を待機させているとはいえ、お茶を運んできた侍女も下がらせて、今はマリアンヌと二人きり。
テーブルを挟んだ二人の間の距離は、けして近くはない。
常ならば早々に席を立つところだが、今日ばかりはそうもいかない。
あれほどの愚を犯した直後に、碌な詫びもせずに追い帰せるほどには腐っていないつもりだ。
「・・・今日は、その、すまなかった」
なんとか絞り出した謝罪の言葉に、マリアンヌは軽く首を傾げた。
「それは、何に対しての謝罪でございますの?」
その口調は責める風でも問いただす風でもなく、純粋に分からないことを問うているようでいて、その実そうではないのだろう。
ほんの一瞬揺れた瞳が、すっと細められ、私の出方を伺っている。そんな風に感じた。
色々と、と喉元までせり上がった言葉を辛うじて飲み込む。
そんな言葉では、納得も、納得したふりすらも、してはくれないだろう。
「まずは・・・婚約してからこれまでの、私の不実な態度と行動を詫びたい。特にコレッティアと出会ってからの私は愚かの一言以外、表す言葉もないだろう」
寸分たりとも変わらぬ表情に慌てて、もちろん、と付け加える。
「ティアの・・・いや、コレッティア嬢の使っていた魅了の魔法、あれは言い訳にもならない。ただ私が愚かだった。あの指輪を・・・魔法具を、正しく使っていれば、それまでの私が愚かであったことに変わりはないが、現状はもう少しマシなものになっていただろう」
やたらと口の中が乾く。
マリアンヌの表情は、まだ変わらない。
無言のまま紅茶のカップに手を伸ばすマリアンヌに合わせて、私もそれに手を伸ばし、一息に飲んでしまった。
紅茶はとうに冷めてしまっているが、侍女達は下がらせているため、替えを淹れる者もいない。
「思い返すに背筋が凍る思いだ。王族の身に降りかかる可能性のある危険を軽視していた。マリアンヌにも、迷惑かけたと思っている」
まだ何も、応えてはくれない。
無言のまま、じっとこちらを見据えていた。
握った拳の中がやたらと熱くて、自分が焦っていることを嫌でも自覚させられた。先ほどからずっと汗が滲んで気持ち悪い。
「貴女との関係も、コレッティア嬢との関係も、私が王太子である以上、もっと真剣に考えるべきだったし、誠実に対応すべきだった。・・・本当に、すまなかった」
頭を下げても、マリアンヌは反応を見せない。
だが、これ以上、何を伝えるべきなのか分からない私は、ひたすら頭を下げたまま、マリアンヌの応えを待つしかなかった。
どれくらいの時間が経ったのか。
それはとても長い時間に感じたが、きっと数瞬のことなのだろう。
不意に深い溜息を吐く音が聞こえてきて、思わず肩が震えた。
まだ何も言われていないのに、幼い頃、叱られる直前につかれた王妃である母上の溜息よりも、ずっと恐ろしく感じる。
その溜息の意味は、なんなのか。
お顔をあげてくださいませ、と涼やかな、いっそ冷たい程の声音で言われて恐々と顔を上げると、変わらない感情の読めない瞳と視線が合う。
「私、今回の件でも、これまでの件でも、殿下を責めるつもりはこれっぽっちもありませんのよ」
ですから、そう怖がらないでよろしいのに。
そう続けるマリアンヌの言葉を素直に受け入れられるほどには、私は堕ちてはいない。
マリアンヌは何一つ、私を許してなどいないだろう。その瞳の色の無さは、許した者のそれではない。
きっと、そう簡単に許されることではないのだろう。
もしも自分がマリアンヌのような扱いを受けていたら・・・馬鹿にしているのかとかなんとか、怒り狂って文句をつけている姿は想像に難くない。私ならば、私のような行いをした者を許すことなど到底ないだろう。
「殿下、私は本当に怒ってなどいませんのよ。思うところが何もないとは、さすがに申し上げられませんけど。殿下は十分に反省されているご様子ですから」
くすりと、マリアンヌが笑いを零した。
もしかして本当に許された、いや、最初から怒っていなかった・・・?
救われた気持ちで思わず立ち上がってしまった私に、マリアンヌも立ち上がり歩み寄ってくる。
ゆっくりと近付いて私を見上げると、そっと頬に手を添えられた。
「そんなことよりも、今後の話を致しましょう?」
にっこりと、目を細めて微笑むマリアンヌは、やはりそんな甘い女ではなかった。
「こん、ご・・・?」
「ええ、今後の話です。過去のことをいつまでも悔いていても仕方ありませんもの」
言葉を流暢に発音できない幼子にでもなってしまったかのように、頭に浮かぶ言葉を口にするのが難しい。
何一つ考えていなかった、今後という未来に繋がる話をしようと、マリアンヌが言っている。
それはとても恐ろしいことのように思えた。
そんな私の戸惑いなど全て分かっているとでもいうように、マリアンヌは優しい手つきで私の頬をゆるゆると撫でた後、そっと私の身体を押し戻して椅子に座らせた。
「お茶をもらいましょうか。侍女を呼んで参りますわ。その間に、ゆっくりと考えていらして。コレッティア様への処罰を」
マリアンヌが、侍女を呼びに歩いていく。
その動きがやたらと遅く見えて、それだけの時間、私に考える猶予を与えているのだと分かった。
コレッティアへの処罰。
頭の片隅には、あった。
だが、それはどこか現実味を帯びない遠い世界の話のように感じていて、私にそれが委ねられる可能性を微塵も感じていなかった。
つくづく、私に王太子という大役は荷が勝ち過ぎていると思った。
だからと言って、血が物をいう王城でそんなことを思ったところで、所詮は現実逃避でしかないのだが。
コレッティアの処罰をどうするか。
それは、あれほどの愚を犯した私が口を出していいものなのか。
コレッティアは確かに魔法を行使して、私の心を操った。
だが、それは私の罪でもある。
今ならばハッキリと分かる。
私は逃げ出したかったのだ。
王太子という、いずれ国を背負って立つことを決められた重たすぎる立場から。
戯れに放った言葉を真に受けて完璧な令嬢となってしまった婚約者の視線から。
それから逃れることができる唯一の場所がコレッティアの隣だと、思いたかった。
そう思い込むことは甘い香りのするぬるま湯に浸かっているかのようで、とても心地よかった。
与えられる言葉が、向けられる思慕の視線が偽物だと、どこかで気づいていた。
気づいていながら、騙された。
騙させた、とでもいうべきか。
コレッティアに罪を負わせたのは私で、ならば全ての罪は私にあるのではないか。
・・・と、言えたなら楽なものだ。
現実はそうもいかないだろう。
どんなに愚かでも、私は王太子。
そして王族に魔法を行使することは、国家反逆罪。何よりも重い罪だ。
なんと重い罪を負わせてしまったのだろうか。
そんな私がコレッティアの処罰を決めることが、私に与えられた罰なのだろうかーー
ぼんやりと考えていると、いつの間にか目の前のカップは温かい紅茶で満たされていて、じっと私を見つめるマリアンヌもそこにいた。
「・・・コレッティアの処罰、だが。魔力封じの術を施した上で、二度と貴族社会に出られないよう市井で暮らしてもらうのが妥当だと考える」
やたらと乾いて張り付くような口を動かしてなんとか言葉を絞り出すと、マリアンヌの眉が僅かに寄せられた。
何かを考えるように頬に手をあてた彼女は、そのままゆっくりと首を傾げる。
「まあ・・・、王族に魔法を行使していた者への処罰としてはお優し過ぎるのではありませんか?」
「だが、元は私の心の弱さが招いたことだ。これ以上は酷だろう」
私の言葉を聞いて、マリアンヌは数度瞬いた後、子を諭す母のような表情で緩く首を振った。
「それでは殿下、もしも再びご自身の心の綻びにつけこんで魔法を行使してまでその行動や言動を操り支配しようというものが現れたとしても、同じような処罰しかお与えにならないのですね?」
「それ、は・・・」
言い淀む私に、マリアンヌは尚も続ける。
「過去、王族の者にああいった魔法を行使しようとした者は、魔力剥奪の上で生涯幽閉か、その企みの程度や身分によっては処刑されています。コレッティア嬢への処罰だけ例外的に甘くすれば、方々から非難の声が上がるでしょう。その時にどのように対処するのか、そこまでお考えになった上でのご決断ですか?」
ぐうの音も出ない、というのはこういうことなのだろうか。
正論としかいいようのない言葉に黙り込むしかない私に、マリアンヌはクスリと笑みをこぼした。
「殿下はお目覚めになられたばかりですから仕方がないかもしれませんけれど、そろそろ王族が背負うモノの大きさを正しく認識してくださいませ。大丈夫ですわ。殿下の背負う重荷は私のモノでもまありますのよ。一緒に背負ってまいりましょう?」
それはとても簡単なことなのだとでもいうように、笑ってそんなことを言う。
「私は殿下に、ご自身で正しい道を選んで歩いて頂きたいのです。もしも間違った道を選んでしまわれたら私がお助けすれば良いだけなのですから、恐れず正しいと思う道を選んでくださいませ」
話は終わったとばかりに立ち上がり背を向けるマリアンヌに、私は思わず声をかけていた。
「マリアンヌは、」
振り返ったマリアンヌが微笑む。
久しぶりにその存在が暖かく感じる。
「怖くない、のか・・・?」
それは問いかけというよりも、呟きに近いものだった。
それにマリアンヌはほんのりと頬を染め、一層その笑みを深くした。
何も言葉を返すことなく、今度こそ振り返らずに歩き出したマリアンヌが残したその表情は、いつか見せた、私が好ましいと感じたそれだった。