決別
父上と母上ではなく、それぞれ国王陛下と王妃殿下として二人に呼び出されたのは私が十の誕生日を迎えた日。
マリアンヌとの茶会を終えた後だった。
マリアンヌと共に二人の前に並び立ち、婚約成立を改めて祝う言葉から始まるやたらと長い話に内心で飽き飽きしながら揃いの指輪を受け取った。
曰く、この指輪には左手の薬指に嵌めることで効果を発揮する魔法具になっているのだとか。
他の指や鎖に通して首から下げて身につけていても効果は薄く、必ず左手の薬指でなければならないそうだ。
理由も説明されたはずだが、既に話の長さに辟易として真面目に聞き入っている風を装うのに精一杯だったので正直覚えていない。
何やら感じ入っている様子のマリアンヌに受け取った指輪を嵌めてやり、彼女からも私の指に指輪を嵌めてもらうと、父上も母上も、それから同席していた彼女の両親も二人ともそれは喜んで、しきりに頷いていたものだ。
そう、確かに指輪は左手の薬指で輝いていた。毎日、外すことなく、そこにあった。
いつから首から下げるようになったのだったかーー
「殿下は、マリアンヌ様と愛し合っているんですね」
私の左手の薬指にある指輪を弄びながらのコレッティアの言葉に、しばし考える。
他の誰かから問われたなら、そうだと即答するところだが、私の心を晴れやかにしてくれたコレッティアからの問いである。
嘘偽りない事実を、誠実に答えたい。
「・・・いや、これを身につけるのは王家の仕来りなんだ。婚約したら揃いの指輪を身につけるんだと、両親から渡された」
私の言葉を聞いて、さっとコレッティアの表情が曇る。
ぎゅっと私の体に縋り付く様子が愛らしくて、肩に腕を回せば、潤んだ瞳で見上げてきた。
この愛らしく弱い存在を、いかなる不安からも守らなければいけない。
一瞬頭をよぎったマリアンヌの姿とは正反対の弱々しく揺れる姿に、強くそう感じる。
「目に見えるところにマリアンヌ様と揃いの指輪が輝いていると、なんだか二人が愛し合って結ばれることが決まっているのだと、私なんかには立ち入る隙はないんだと言われているようで・・・仕方ないことだと分かってはいても、少し辛いです」
そう言ったコレッティアの瞳から涙が溢れ、重量のままに顎へと伝い落ちる。
この弱く愛らしい存在を泣かせてしまうくらいなら、こんなものいらない。
慌てて指輪を引き抜きポケットにしまい込むと、涙に濡れた瞳のままでコレッティアが微笑む。
たまらなくなって抱き締めると、愛してます、と囁かれ、その言葉の心地良さに目眩がするほどだった。
甘い香りが立ち込めて心臓がうるさいほどに早鐘を打つと同時に、私はこの感情こそが愛なのだと、この弱く脆い女性を守ることこそが私の使命なのだと、そう思った。
だから指輪は捨ててしまいたかったが、さすがに国王陛下、王妃殿下である父上と母上から渡されたものを勝手に捨てるわけにもいかない。
それくらいの理性は働いて、妥協案で鎖を通して首から下げていた。
服の下に隠していればコレッティアを不安にさせることもないだろうし、左手の薬指でなければ揃いの指輪であるとはいえ私にマリアンヌの存在を強く認識させるようなこともない。
正直に言って、私は国王の息子でありながら、王家に伝わる仕来りと魔道具の存在を軽視していた。
わざわざ国王陛下、王妃殿下揃って、効果を最も発揮する左手の薬指に必ず身につけるように命じたのだから、王太子である私と婚約者のマリアンヌにはそうしなければ防げないような事態が起こり得るのだと、回避するためにはそうすることが重要なのだと、考えるまでもなく散々言われていたというのに。
コレッティアを愛している故だと思っていた胸の鼓動が、指輪を再び正しくあるべき場所に嵌めた途端、消えていく。
そして気付いてしまった。
彼女と一緒にいる間に感じていた感情は愛ではなく、ただ自分の小ささを感じさせない気楽さと自尊心が満たされることへの安心感であったことに。
その感情を愛だと錯覚するほどに増幅させていた魔法の正体にも。
「コレッティア・・・私に、魅了の魔法を使っていたな」
疑問形ですらない私の問いに、コレッティアの肩がビクリと揺れた。小さく震えてみせる姿に、少し前の私なら慌てて抱き締めて何も怯えることはないのだと宥め口付けていただろう。
そんな自分の姿がありありと浮かんで、思わず苦笑する。
それはなんと滑稽な姿だろう。
ルーベンスが剣を捧げたくなくなるのも頷ける。
王太子にあるまじき醜態。愚かの一言で、他に言葉もない。
「ちが、ちがいます! 私がそんなこと、愛する殿下にするはずがないじゃないですかっ!」
はらはらと溢れる涙と同時に、一層強くなる匂い。
紛れもなく、コレッティアが私に対して魔法が行使した証拠だった。
魅了ーー異性の関心を自分に向け、夢中にさせる魔法だ。
コレッティアは体質的に、魅了との相性がいいのだろう。人から愛される娘であるように、神から授けられた能力。
魔力を持って生まれたものならば稀に、生まれつき意識することなく常に魅了という魔法を展開してしまうことがある。
無意識下での使用なら、ただ人より他人から愛され易いというだけの、特に気に止めることのないものだが、それを意識的に使うことは禁忌とされている。
人の意思を奪い、自分に隷属させることさえもできる魔法だからだ。
コレッティアに魅了を使われていたことに気付いてから、ふつふつと湧き上がる感情がある。
これは怒りなのか、悲しみなのか。
あるいは両方か。
初めは意識的に魔法を使われていたりはしていなかっただろう。
無意識的なものに惹きつけられてはいたが。
コレッティアの言葉の耳障りの良さに酔い始めた辺りから、今にして思うと意識してその力を使い始めたんだと思う。
さすがに最初から意識して強い魔法を使われていたら違和感を感じただろうが、耳障りのいい甘い言葉に酔う内に疑うということを忘れてしまっていた。
彼女を愛していると、何をおいても彼女を守らなければいけないと強く思い始めた頃には、魔法に侵された虚しい紛い物の感情に操られていたということか。
霧が晴れるように自分がいま置かれた状況が見えてくる。
「ようやく指輪の力を受け入れてくださいましたのね」
「・・・すまなかった」
指輪は、それを受け入れる気持ちがなければ正しい場所に置いていても意味が薄い。
左手薬指という正しい場所にあって初めて、その意味を理解せず受け入れようともしない私でさえも魔法に囚われ操られるほどの愚を犯さずに済んでいたものを、正しい場所から外してしまったばかりに抵抗する術さえもなくしてしまっていた。
マリアンヌがいなければ、もしくは既に私を見限ってしまっていたなら、もうとっくに私の未来は絶たれていただろう。
マリアンヌは優秀だ。
愚かな男一人を切り捨てたところで、その評判には欠片の傷もつくことはない。
「さあ、殿下。参りましょう。今後のことは・・・後ほどゆっくり考えればよろしいわ」
優しく背中に回された腕に促されコレッティアに背を向けると、哀れを誘う悲痛なまでの声が追い縋ってくる。
思わず足を止めてしまいそうになるのを、マリアンヌが私の腕に手をかけることで制した。
「一国の王太子殿下に魔法を行使し、その心を、行動を操った罪。輝かしい未来を手折ろうとした罪。・・・私は決して許しません。沙汰は追って伝えます。黙してお待ちなさい」
振り返ることすらせず、マリアンヌは背後にいるコレッティアに声をかける。
その声の冷たさに思わずぞっとした。