可愛らしい恋人
「よっ、アル。溜息なんかついてどうしたー?」
無駄に明るい声で声をかけてきた友人の姿に溜息を安堵の息に変えて、ゆっくりと吐き出す。
「どうしたもこうしたも、お前ならとっくに全て知ってるんだろう?」
私の言葉にニヤリと笑う姿が微妙に疎ましい。全て承知の上でからかいにきただろう友人、ルーベンスはニヤニヤと肩に腕を回してぐっと顔を寄せてきた。
「ま、そりゃ知ってるさ。マリアンヌ嬢の手前、派手に会話のタネにゃできないけど、人の口に戸は立たないっていうだろ?」
それに、とルーベンスは神妙な顔で僅かに声まで低くして続けた。
「コレッティア嬢には気をつけろと散々言ってきたのに聞く耳持たないお前の為に、情報収集はバッチリだ」
「・・・そうか。すまないな」
ルーベンスに導かれてゆっくりと廊下を移動すると、中庭を正面に捉えることができる位置で歩みが止まる。
あれを見ろと指で示された場所を見れば、木の陰に寄り添う男女の姿が見える。
遠目にも仲睦まじい様子の二人に目を凝らしてみれば、それはよく見知った二人だった。
「ラルフローレンと・・・コレッティア、か?」
私が二人の存在に気付くとニヤついた笑みを深くして、ルーベンスは指をパチリとならした。
瞬間、廊下には私とルーベンスの二人きりのはずなのに、様々な音が、人の声が聞こえてくる。
ルーベンスが最も得意とする風魔法の一つだった。
その意図が分からなくて視線を向けると、良いからあいつらだけ見てろと顎をしゃくってそちらを示された。
「二人にだけ集中してろ。そしたら余計なもんは聞こえなくなる。宰相の息子とコレッティア嬢の会話が、あの女の真実が見えてくるぞ」
その視線に滲む怒りの感情に思わず気圧されて、逃げるように視線を二人に移すと、聞こえていたたくさんの声や音が消えて二人のものだけに絞られる。
気のせいに違いないが、視界まではっきりしたように、二人の仕草を鮮明に捉えることができて自分でも眉が寄るのがわかった。
肩を寄せ合い並んで座っている二人。
コレッティアの腰を抱き寄せたラルフローレンが愛を囁き、それをコレッティアは熱っぽい視線で見つめている。
そして二人の唇がそっと重なって・・・もう、それ以上見ていられなかった。
二人の会話も聞いていたくない。
「ルーベンス、頼む。これ以上は辛い」
立っていることすら難しいくらい、困惑とも怒りともつかない感情で足が震える。
あまりに情けない私の姿に、ルーベンスは苦笑して魔法を解いた。
静寂が廊下に訪れ、座り込む私が発する衣擦れの音がやたらと大きく聞こえ、自身の愚かさを嘲笑っているようにすら聞こえる。
コレッティアに口付けを拒む様子はなかった。むしろ喜んで受け入れているかのように頬を染めて、しっかりとラルフローレンの背中に腕を回していた。
どこからどう見ても、合意の上での甘い関係に違いない。
何故だ。何故だ、何故、コレッティアはラルフローレンと口付けを交わしていた?
私と一緒になると約束し、失敗に終わったとはいえ二人でマリアンヌに婚約破棄を申し出たのが、つい三日前だ。
失敗してしまったがすぐに説き伏せてみせると、マリアンヌが承知しなくとも父に、国王陛下に気持ちを告げてなんとかすると誓った私に、いつまで掛かっても待っていると、本当に愛しているのは私だけなのだと、彼女はそう言った。
言ってくれた、はずだったのに。
肩を叩くルーベンスの殊の外強い力に促され、気付けば私はポツポツとコレッティアのことを話し始めていた。
「私、マリアンヌ様は殿下に厳しすぎると思うんですっ」
コレッティアとは、出会ってすぐに打ち解けた。可愛らしい容姿で暖かい雰囲気を持った彼女は、いつも私に優しかった。
「私だったら好きな人には優しくしたいわ。いつもいつも、マリアンヌ様は厳しいことばかり。殿下だって言われなくても分かっているのに」
ぷっくりと頬を膨らませて言うコレッティアは可愛かった。私のためを思って憤っていると思うと、とても愛おしい。
マリアンヌには、一度も感じたことのない感情だ。
マリアンヌは私の生活態度や交友関係にまで、口煩く小言を挟んでくる。
誰それはお忍びでの夜遊びが激しいだの、誰それは女遊びが激しいだのと、注意するように言いつけては、一度友人とお忍びでの夜遊びに付き合った時など、それは煩かった。
友人は選べ、殿下の評価にも関わるから、などと。
言っていることは分からないでもない。
評判の悪い奴と親しくしていれば、私も同じ人種だと判断される。
だが、お高くとまった貴族の子息連中よりも、遊びを知っている連中の方が一緒にいて楽しかった。腹を割って本音で話もできた。
それが驚くほど楽だった。
だからマリアンヌとは最近では距離を置くようになり、そんな頃に出会ったのがコレッティアだ。
コレッティアは煩いことは言わない。
私を常に立ててくれる。
私を愛しているから、と、恥ずかしがりながらも口付けを強請った。
マリアンヌと一緒にいると常に立派な王太子殿下でいなければならない。彼女は王太子妃になる女性としてあまりに完璧だったから。
かつて自分がそうあるように言いつけたことなど忘れて、マリアンヌが完璧になればなるほど苦しくて辛かった。
しかしコレッティアならそれを癒してくれる。
コレッティアと共にある時だけは、私はただ一人の男として存在できた。
「・・・ありがとう、コレッティア。君は本当に優しいな」
「可哀想な殿下・・・。きっと、マリアンヌ様は殿下のことを本当には愛していないのよ。だから殿下が王太子として立派であることだけを望むんだわ。殿下がこんなに苦しんでいるのに気付きもしないで」
その時、思わずハッとした。
マリアンヌは私を、愛していない?
「きっとマリアンヌ様は殿下を愛しているから結ばれたいのではなく、正妃の座を愛しているのね。地位と権力だけが欲しくて、だから殿下の悩みなんてどうでもいいと思っているのよ。殿下を愛してなどいないんだわっ」
マリアンヌが欲しいのは、地位と権力。
マリアンヌが愛しているのは、正妃の座だけ。
マリアンヌは、マリアンヌは・・・私を愛してなど、いない。
頭が真っ白に染まったかと思ったら、それはすぐに赤く変わった。チカチカと明滅する赤い視界に思わず拳を握れば、小さく温かい手のひらが包んでくれた。
怒りのような感情が溶けて消えていき、代わりにコレッティアへの愛しさが募る。
「私は、マリアンヌ様とは違います。今までのことを考えると信じてはもらえないかもしれませんが、今は、殿下だけを愛しているんです」
熱のこもった視線に射抜かれ、一瞬呼吸すらも忘れてしまった。
そうだ。
私にはコレッティアがいる。
私の可愛い人。
私を愛していない女など、正妃の座だけを狙う強欲な女など、いらない。
私を愛してくれる可愛いコレッティアがいるのだから。
ーーそう、思っていたんだ。
私の語るコレッティアの話を、そしてそれを受けて変わったマリアンヌへの想いを聞いて、ルーベンスはあからさまに険しい顔をした。
わざとらしい深い溜息の後、ぐっと正面から両肩を掴まれ、睨みつけるような鋭い視線を向けられる。
「お前は、ほんっとーに、大馬鹿野郎だな! いいか、よく聞けよ」
友人からの初めて受ける鋭い視線に、暴言に、言葉も出ない。
そんな私の肩を突き放したルーベンスは腰に手を当てて仁王立ちになって、言い含めるように話し始める。
「あのマリアンヌ嬢が正妃の座に固執する小さい女に見えるならお前の目はとんだ節穴だ。彼女はお前の友人達程度の悪い遊びなんざ貴族男の甲斐性の範囲だ。マリアンヌ嬢だって貴族の娘、そこら辺はよく分かってるだろうよ」
だったら何故。
そう思ったのが顔に出ていたのだろう。ルーベンスは呆れたように首を振って、溜息と共に吐き出した。
「問題は、手広く遊んでおいてそれをうまく隠すこともできない馬鹿野郎だってことだよ。交友関係を注意するのは、あいつらがお前を連れ出すことで甘い蜜を吸おうって考えだからだ。実際、お前を連れ出して夜遊びした時なんざ、王太子のお忍びだって店側に便宜を計らせてんだ。あいつらだけじゃ提供されない楽しみを提供させたって、笑って話してたよ」
呆然とする私に構わず、ルーベンスは窓の外に視線をやるとますます眉を寄せた。
「あそこにいる、ラルフローレンもな。そうでなくてもコレッティア嬢はお前の女だと、婚約破棄の下りで周知の事実。それに手を出すなんて、どれだけお前が見くびられてんのか、いい加減に気付け」
そこまで言われても未だに動けずにいる私に舌打ちすると、ルーベンスは私の足元にさっと跪いた。
頭を垂れて両手を頭上まで持ち上げると、剣を捧げ持つような体制になる。実際には何も手にしていないが、堂に行ったその行動にないはずの剣が見えるようだった。
「俺は卒業したら騎士になる男だ。殿下、あなたに剣を捧げるつもりでいる。今は、まだ。だが、ここまで聞いて、自分の目で見て、それでもまだ真実から目を背けるなら、俺はあなたに剣を捧げることはできない。・・・入学前のあなたは立派な王太子だったよ。あの頃に戻ってくれることを、願っている」
ゆっくりと立ち上がったルーベンスは、もはや私には視線一つ向けずに去っていった。
私の目は、自分では気付かぬ内に相当曇っていたようだ。
忠実なる騎士を目指す友人に、いずれ主人になる私にそこまで言わせるほど、私は愚かだったのだろう。
ようやくその程度のことに気付いた私は、今、どれほど情けない顔をしているのだろう・・・。
マリアンヌ嬢はたまの夜遊びにぐだぐだ言う小さいお方ではないのです。