高潔な婚約者
正妃教育に社交に茶会にと忙しくしていたマリアンヌとは夜会やパーティーで顔を合わせる程度で、十の生誕以来、しばらく振りに会話をできたのは学院に入学して最初の日だった。
入学式を終えたらすぐに各自帰宅となる。それぞれ親と合流するため雑然としている玄関ホールを眺め、少し離れたところから迎えを待っていると、マリアンヌが隣にやってきた。
「お久しぶりでございます、殿下。代表のご挨拶、大変立派でございました」
「・・・どうした。何を泣いている」
ハンカチで目頭を押さえて流れるものを拭う姿に首を傾げれば、マリアンヌは照れたように頬を染めて笑う。
いつも遠目から挨拶する程度であった彼女はそれはそれで美しかったが、同じ制服を纏い並び立つ姿を至近距離から見つめるのは新鮮で悪くない。
「感極まってしまいました。お久しぶりに間近でお会いする殿下があまりにもご立派になられているものですから」
「そうか。では、心ゆくまで堪能するといい。お前は私の婚約者なのだから」
肩を抱いてそう言ってやれば、面白いくらいに肩を跳ねさせて顔を真っ赤に染め上げる。
マリアンヌの白い肌が首まで赤く染まる様がなかなか唆る。
頬を撫で、滑らかで形の良い頤を持ち上げて瞳を覗き込むと、忙しなく揺れる視線はなかなか絡まない。
ぐっと体を寄せ、額を合わせると逃げ場を失くした視線がようやく弱々しく合わせられる。
「知っているか、マリアンヌ」
「な、何を・・・?」
「私とお前には不仲説があるらしいぞ」
驚きのためか大きく見開かれた瞳いっぱいに私の姿が映っていてどうしてか満足感が込み上げるが、他意はない。
なかった、はずだ。
「お前は随分と忙しくしていて見せつける時間もなかったからな。ここらで不仲説を払拭しておくのも大事な務めとは思わぬか?」
ゆっくりと唇を近づけていくのを、首を振って避けられる。そのまま首筋に顔を埋められ、乱れた呼吸が耳元に掛かりこそばゆい。
ぴったりと身体を合わせて背中に回された腕が力を込めて私を抱きしめると、柔らかな胸が形を変え押し付けられるような格好になる。
押し付けられた胸からは、衣服越しでもはっきりと分かるほどに早まった鼓動が伝わってきていた。
「こ、これで、十分にそのような噂は払拭されますでしょう? 貴族の子女たるものが人前でっ、それも学舎で唇をあわせるなど、はしたないことでございますので・・・」
「それは人前でなければ良いと誘っているのか?」
口付けを拒絶された溜飲を一頻り慌てふためく姿を堪能して下げていると、タイミング良くマリアンヌの方に迎えがやってきた。
あからさまにほっとした様子で迎えに礼を言う様子に、再び胸の内に不快な何かが込み上げてきて、慌てて首を振った。
すぐに王家からの迎えもやってきて、馬車に揺られながら考える。
初めて腕に抱いたマリアンヌの身体の柔らかさが、甘い香りが、頭から離れない。
「最近、随分とマリアンヌ様と親しくなさっておいでなんですってね」
テキパキと茶の用意をしながら、サニアがにこにこと話しかけてきた。
先ほどなどは鼻歌まで漏れ聞こえていて、いかに上機嫌かがありありと分かる。
「学院でも大変に仲睦まじいご様子だと報告を受けていると、陛下もお喜びでいらっしゃいましたよ」
婚約の発表ができて初めて王太子として一人前の風潮のある我が国の王家の習わしに従い、彼女はマリアンヌとの婚約を発表した頃から正しく私を王太子殿下と扱い、幼い頃には親しげに雑談のようなものもしてくれていたが、ここ数年はこんな会話もほとんどなかった。
職務に忠実な彼女にしては珍しい行動に驚きつつも、内心ではとても嬉しく思っていた。
つい意識せずとも口元に笑みが浮かぶ。
「ああ。あれは打算なく私を慕っている様子が見て取れるから、悪い気はしない」
数年前の婚約発表があるまで、近寄ってくる令嬢という令嬢は、己の野心か家の意向か、殆どが穏やかな笑みと華やかな装いの下に腹黒い打算的な考えを秘めていた。
それを感じさせないマリアンヌの様子には好感を持てる。
「本格的な正妃教育も、歴代の正妃が受けた時よりも数年前倒しで終えていただろう? 学院入学前に終わらせるなど異例のことだ。あれは早く私の隣に並び立つに相応しくありたかったというのだ。なかなかに可愛げがある」
「私も何度か王宮でお励みのご様子を拝見しましたが、在りし日の王妃陛下にも勝る、とてもご立派な励み振りございました」
一瞬、過去を懐かしむように遠くを見つめたサニアは、次いで私に視線を向けて相好を崩した。
長らく父にも母にも重用されている、今は私付きの侍女として仕える彼女の目尻にはシワが目立ち始め、その勤めの長さを示している。その瞳は国を、王家を、主人である国王、正妃、そして王太子である私への親愛に満ちている。
些か頑固で前しか向けぬ私も、昔から彼女の言葉だけは素直に聞けたものだ。
「殿下は、マリアンヌ様のことを好いておられるのですね」
「さて、どうだろうな。正妃とするには申し訳ない、尊敬できる女だと思うが」
私の言葉に苦笑して、サニアはゆっくりと私の前にやってきて跪く。
長い侍女勤めで手入れが追い付かずにカサついた手でそっと私の手を取ると、真っ直ぐに私を見つめてきた。
「殿下。国の王となる方が、好いたお方を正妃に据えることはままなりません。歴代の国王陛下達は、正妃となる女性と婚姻を結んでから信頼関係を結び御子を産み、育てながら互いへの愛情を育んでいかれることが多いのです」
穏やかな声音に、自らの父と母の姿を浮かべながら頷くと、優しく握られた手に僅かに力が入る。
「互いの意思などなく決められることですから仕方がないことです。ですが、稀に好いたお方が偶然にも選ばれることや、婚約中に相思相愛となることもあるのです。・・・幸い、マリアンヌ様は殿下をお慕いしているご様子。殿下さえお気持ちに素直になって目を曇らせることなくお過ごしになれば、きっと殿下の未来は幸福に満ち溢れることでしょう」
うっすらと、サニアの瞳には涙が滲んでいた。
慌てて立ち上がり目元を拭うと、茶を私の前に整えて退室の礼をした。
「どうか、ご自分の気持ちに素直になってくださいませ。・・・殿下は時々、ご自分の気持ちから目を背けてしまわれますから。くれぐれも」
最後にそれだけ言い残して、サニアは今度こそ退室した。
彼女の出ていった扉を眺めながら用意された茶に口をつけると、ほんのりとした甘みがじわじわと身体に広がる。
まるでサニアの愛情のようだ。
ゆっくりと彼女の言葉を噛み砕きながら、私はマリアンヌのことを考える。
学院に入学してから、もうすぐ二年目が始まろうとしていた。