恋人と婚約者
「殿下、昨日からお顔の色が優れませんよ。どうなさいましたか?」
「なんでもない。もう下がって構わない」
長年仕えてくれている年嵩の侍女は、どうやら自分が思っていた以上に鋭いらしい。
顔色の悪さが体調不良からではないことなどお見通しだと言わんばかりに眉根を寄せる侍女に、なんでもないと告げて退室を促してからふと思い立って顔を上げた。
まさに退室しようと入口で一礼した侍女が立ち止まって首を傾げるのを、なんとなく面映ゆい気持ちで見つめる。
どうやら、相当に心配させてしまっているようだ。
その証拠に、いつもなら顔を上げた頃にはとっくに部屋を出ているだろう。侍女の朝は忙しい。
「その・・・すまない。サニアに聞きたいことがあるなんだ」
「はい、なんなりと」
にっこりと笑っていうサニアは、長く王宮に勤めているだけあって情報通だ。分を弁えている彼女は差し出がましく口を出したりはしないが、聞けば大抵のことが返ってくる。それもかなりの精度で、だ。
「お前はコレッティアのことを知っているか」
「ランベール男爵家のご令嬢のコレッティア様のことでしょうか」
「ああ、そのコレッティアだ。何か知っていることがあれば教えてほしい」
昨日から、一人の女の言葉が頭から離れないでいる。彼女曰く、私はコレッティアに盲目になり過ぎて真実を見る目が曇ってしまっているとか。
他にも色々と言われたが、要点はそこだろう。
公正な目で感情に振り回されずに正しく物事を判断しろ、と一国の王太子殿下たる自分にそこまでハッキリと物申す人間はなかなかいない。それが市井の者となれば尚更だ。
自分が感情に突っ走っている自覚は僅かながらにあった。だからこそ、親しくもない者の遠回しな言葉では受け入れることができず切り捨てるだろう自分の様子をありありと想像できる。
信頼できる者の言葉なら心情の上ではともかく、理性の上でならまだ納得することもできるだろう。
「お噂は色々と聞いてますけど、面識はありませんからなんとも。ただコレッティア嬢のなさっていることを客観的に申し上げるなら、優しくない方でしょうか。不誠実な方とも言えますねぇ」
「・・・なんだと? 優しくないとはどういうことだ。私はあれほど優しい女性を他に知らない」
コレッティアを馬鹿にされたように感じて思わず込み上げる怒りを押し殺しながら言えば、サニアはきつく口許を引き結んで僅かに眉尻を下げた。
昔から仕えているとはいえ、乳母でも教育係でもない彼女は王太子たる私にキツく言い含めるということができない立場にあった。
それが分からなかった幼少時代に何度かさせてしまったその表情が、悲しみと哀れみを湛えたその瞳が、ひどく罪悪感を駆り立てる。
私はなにも間違ったことを言っていないはずなのに。
「す、すまない、サニア。もう余計なことは言わない。だからどうか本音で話してほしい。私は知らなければならないんだ」
微かに頷いて、再び話し出すサニアをじっと見つめる。今度こそ正しく彼女の伝えたいことを汲むために。
「事実として、コレッティア嬢は婚約者のある複数の方から好意を持たれていました。その皆様に、婚約を解消してくれないと仲良くできないと告げています。婚約解消の席には例外なく同席し、二人で未来を考えていると仰っておきながら、この度は殿下とのご縁を望まれました。しかし、未だにそれまでに婚約解消の席にまで同席し未来を誓いあったはずの方達とは大変親しくされているご様子でいらっしゃる。これは婚約解消の席が王宮にて国王陛下立会いの元で行われており、その中でお話されている嘘偽りのない事実でございます」
サニアの言葉を聞いて驚きが襲い、視界が黒く染まる。
確かにコレッティアは他の男に言い寄られてはいた。婚約まで進みかけた話もあったが、それは全て私達がコレッティアを奪いあった結果、その時々にその心を勝ち取った男がいるというだけの話なのに、優しいから相手を振った後も変わらず付き合ってくれているだけなのに。
それを私達はよくわかっている。なのに、サニアの話す客観的な話だとコレッティアがまるで・・・。
「私見ではございますが、本当にお優しい方は将来を考えていない、それも一度は恋仲にあった方と親密にはなさりません。人間ですもの、期待してしまうでしょう? まだチャンスがあるかもしれない、と」
「それは、そうかもしれないが。でも! コレッティアは私達を傷つけつくない一心でっ」
「でしたら尚更、他の男と一緒になる様を見せつけるようなことはなさいますでしょうか。他の女性に目を向ける機会を奪って、心を繋ぎ止めようとなさる理由なんでしょうねぇ」
少し間延びしたようなサニアの声に焦燥が募る。
そんなはずがないと思おうとして、それでも一度芽生えてしまった疑惑は無視できるようなものでもなくて、落ち着かない。
俯いて強く拳を握りしめて落ち着けと自らの内側に懸命に唱えていると、拳をそっと温かなものが包んだ。
手入れはしているようだがカサついて荒れた様子の隠しきれない掌が優しくて、ゆっくりと顔をあげると、皺を刻んだ目尻に薄っすらと光るものを滲ませたサニアが跪いていた。
それはそれは嬉しそうで、彼女のそんな表情を見るのは何年振りになるだろうと思考を巡らせる。
あれは私が十の年を数えた日の夕方のことだったーー
王位継承第一位たる私の誕生日は、その年もいつものように午前中から盛大に行われた。
この世に生を受けたその瞬間から集った大勢の近い年に産まれた婚約者候補の娘の中でも、マリアンヌは特に家柄が優れていて、年に数えるほどしか顔を合わせない彼女はいつの間にか容姿、教養共に未来の国母は彼女といわれるほどの成長を遂げていた。
数えるほどの対面の間にも、それほど会話をした記憶もない。ぼんやりと同い年とは思えないほど整った容貌の頭の回転の早い娘だと、その程度の感想があるだけで。
だからマリアンヌを正式に婚約者とする、と父である国王陛下に告げられた時も特になんの感慨も抱かなかった。
王族の結婚など、その程度のものだろう。
そんな彼女とは、その十を数えた私の誕生日に正式に婚約を発表した。
会話らしい会話も殆どないままただ隣り合って一頻り挨拶を終えて昼過ぎにお開きとなったパーティーの後、親睦を深めよとの父の意向で二人きりでの茶会が始まり、そこで初めて会話らしい会話をした。
「こうしてお茶をご一緒させていただくのは初めてのことでございますね」
由緒ある名家の娘に相応しい優雅な手つきでカップを手に取るマリアンヌは、穏やかに微笑んでいる。
「この度、無事に婚約が成りまして、夢のようですわ。・・・実は私、幼い頃から殿下をお慕いしておりましたの」
穏やかに微笑むその頬をほんのりと赤く染めている姿は、容姿と相俟って美しい。
「五年ほど前、初めて母に伴われて王宮で開かれた茶会に出向いた時のことでございます。やんちゃな他家のご令息が私の髪に飾っていた生花を奪ってしまったのです。そのまま走り去ってしまわれて、呆然と涙を浮かべる私に、殿下がお目を留めてくださったのです」
言われて不明瞭な記憶を辿るが、そんなことがあったような気がしないこともないが、やはりハッキリとは思い出せない。
「近くの薔薇園までお連れくださり、赤い薔薇を一輪手折って私の髪に挿して、殿下は先程までの物より似合っているから笑っていろ、と仰ったのですよ」
それ以来お慕いして参りました、と懐かしさにか目を細めて語るマリアンヌ。
きっと当時の私にとっては大したことではない気紛れな行動だったのだろう。記憶も曖昧なままだが、その程度のことで純粋に私を慕っていると告げる姿は悪くないと思った。
時間を告げる侍女に促されて立ち上がり退室の礼をとったマリアンヌの手を取って、指先に軽く口付ける。
「私はいずれ父の跡を継いで国王となることが決まっている。そんな私の隣に、正妃として並び立つに相応しい存在であり続けろ。そうあり続けることができたのであれば、私は貴女を愛し続けよう」
一瞬で真っ赤に顔を染めた彼女に声をかけたのは、ただの気紛れだった。親交を深めてくるように命じられていたのもある。
だから深い意味はない。
けれど彼女、マリアンヌにとっては重い言葉だったのだろう。
すぐに始まった正妃教育も軽々とこなし、彼女以外に正妃はあり得ないとまで言われる令嬢に成長して、それから五年後の春、王立魔法学院に入学してきた。