#7
―市場を通り抜け、調度品や生活用品、鍛冶屋のある区画を通り抜けて、“タウン”の北東、民家の途切れる場所へ出る。
(道中、梔子は研ぎ石と予備の矢1ダースを、クロは酸っぱそうな見た目の黄色い木の実を3つ買う。彼らは、私にも緑色の毒々しい色をした粘性の強そうなジュースを奢ってくれる―見た目があまりにも凶悪なので、未だに口を付ける勇気が持てない)
砂丘を上る。砂岩に手を触れ、暫し立ち止まる。熱い。手の中の緑色のジュースを、意味も無く何度も振る。遠くにボロボロの、球状ドームの崩れ残りみたいな天蓋が見える。「ほら、あいつが見えるか?」私の肩の上でクロが心なしか、自慢げに言う。梔子は下を向いて、荷物の整理をしながら私に付いて来ている。
「あれが言ってたとこだよ」
「…“鰯の養殖場”?」
「そうだ。あそこによ、お前に会わせたい人がいるんだ」
「鰯?」
「…なんでだよ。魚が喋る訳ねえだろ、馬鹿。人っつったろ、人間だよ、人間!」
(―と、喋る猫が申しております)
「今度は変態じゃないと良いけど」
「変態―か、どうかは分からんけどな。生憎、性癖談義は交わした事無いからなぁ。あ、でも、仮に変態だったとしても、あんま失礼な事は言うんじゃねえぞ。一応、ここら辺の顔役なんだからな」
(鰯の養殖場の人が…?)
「おら、返事は?」
「アイアイ、キャプテン」
緑のジュースに口を付ける。思ったよりも爽やかな味がする。悪く無い飲み物だ、と思う。この噎せ返る様な甘ったるい匂いを我慢できれば、だが。
(冷し瓜みたいな味に、メロンと林檎とバナナを混ぜ合わせたみたいな臭いの組み合わせが強烈だ。キャッチフレーズは、“息を止めて飲もう!”…ってとこかな)
のろのろと砂丘の残りを上る。球状ドームの全容が見えてくる。
私は息を呑む。
(…これは…)
―ドームの下には水がある。大きな湖が。(…いや、海…?)近付くに連れて、微かに潮の香りが漂って来る。私は、鰯は海水魚だったろうか、淡水魚だったろうかと、必死に記憶を探る。(…知らないなぁ。魚の事なんて、興味無いし。鮭は川で生まれた気がする。鯨は哺乳類。ししゃもはどっちだったっけ…?)海には、ドームの天蓋の外に流れ出て、またドームの内側に戻って来る様に、幾つもの水路が作られている。寄せては返す波なんかは無いが、一応、水流はある様だ。時折海面が波打っているのが見える。
砂漠の赤い砂に抵抗する様に、その小さな海は、とても暗くて、深い青色をしている。
「―どうだ、驚いたか?」
左肩の上でにやにやと笑いながら、クロが私にそう尋ね掛けてくる。何だか素直にはい、と頷きたくなく無くて、素っ気ない口調が思わず口を突いて出る。
「…別に。私だって、海くらい見た事あるわ。しかも、あれよりもずっと大きなやつをね」
「またまたァ、見え透いた見栄を張るなよ、小娘。ああでも悔しがる事は無いぞ、“海”がある街は、世界広しと言えども、多分ここだけだろうからな―海が無いのは、なにもお前さんのド田舎だけじゃない」
「ド田舎じゃない」
「じゃあ、小田舎か?なぁ小娘、この生臭い様な、しょっぱい匂いが何だか分かるか―?」
私の無愛想な口調にも、クロの上機嫌は留まる所を知らない。私は呆れた笑いを浮かべてクロを見る。クロはその、金色の瞳を細めて、にっと笑って見せる。
「―“シオ”の香り、っつうんだとよ―!」
それだけ言うと、クロは私の左肩から飛び降り、走って“海”の方へと向かって行ってしまう。私は梔子の方を振り返る。梔子は私の視線に気づくと、頬を掻きながら困った様な顔をして、ぺこり、と私に向かって、軽く頭を下げる。
(…許してやって、ってことかな?)
私は苦笑して首を振る。「別に怒ってないよ」そう言うと、梔子は少しホッとした様な表情になる。私は歩調を遅らせて、梔子の隣に並ぶ。梔子は何度も瞬きして私を見る。「ねえ、クロの話じゃ全然分かんなかったんだけど。あそこは鰯の養殖場なんだよね?あそこには誰が居るの?」梔子は暫く考え込む様な顔をすると、手にしていた荷物を全部鞄に仕舞い、手の中でくるくると丸い輪を回転させるような仕草をする。
「…。ハンドル?」
梔子は頷き、宙に半円形を書いて、目の前を指差す。
私はその指先を追う。
そこには、半壊したドームの海辺には、陸に乗り上げて座礁した一隻の船がある。潮風によるものなのか、それともカラーリングなのか判別し辛い、赤錆色をした一隻の船。その船の傍で壮年の男が一人、安楽椅子に座っている。(…50代前半。60代手前?)白いものが混じる髭を顎に蓄え、船乗り帽を目深に被って、男はこちらを睨みつけている。男の膝の上でゴロゴロと咽を鳴らしながら、リラックスした様子でクロは私達を待っている。
男はパイプを咥え、黒々と日焼けしたその腕で、クロの背を撫でるともなく撫でている。
安楽椅子に座る男は、左膝から下を失っている。
(…丸い輪、船、“海”。もしかして、ハンドルじゃなくて、操舵輪?)
男の目の前に辿り着く。男は私に突き刺す様な視線を向ける。男の膝の上で、緊張感の欠片も無い声で、クロは言う。
「―紹介するぜ、カナエ。この人は、“船長”だ」
(灰色の眼をしている)
と、私は思う。
(緑掛かった、灰色の眼だ。髪は白に、黒の斑。何人なんだろう。日本語は通じるんだろうか)
「船長、こいつぁカナエだ。“シェルター”で拾った。中々度胸のある奴さ。嘘吐きで、少し世間知らずだがよ」
能天気な声で、クロの紹介が続く。
(―『嘘吐き』は余計だ、馬鹿)
“船長”の膝の上のクロを睨みつける。クロが私の視線に気づく様子はない。“船長”の上体がのそり、と動く。私は素早く彼に目の焦点を合わせる。
“船長”が私に向かって右手を差し出す。
「…どうも、船長だ。ここらへんじゃ、そう呼ばれている」
何を求められているか分からず、一瞬戸惑う―が、私は直ぐに、緑のジュースを左手に持ち替え、右手をコートの裾で拭って(効果があったかは分からないが―必要な措置だったとは思う、特に、正体不明のべとべとのジュースを持っている場合には)彼の握手に応える。
「あ―どうも、ご丁寧に…その、カナエです」
「カナエか。良い名だな。名前らしい名だ。由来は?」
「えー、その…どんな困難にも負けず、自分の夢を真直ぐに叶えられるようにと―両親が」
「成程な。両親は御存命なのか?」
「ああ、はい…別れてはいますが、一応、両方、生きています」
船長は咽の奥で低く唸ると(熊の唸り声みたいな音がした)、パイプを咥え直して言葉を続けた。
「…まぁ、こんな時代だからな。生きているだけでも喜ぶべきだ」
「はぁ…」
(…離婚、多いんだろうか。こっちの世界も)
―モーターの音がする。海の向こう側から、2、3台のモーターボートが、こちらの岸へ向かって近づいて来る。一口煙を吐くと、パイプから立ち昇る煙を見上げながら、船長がクロと梔子に向かってこう声を掛ける。
「…おい、小僧、野良猫」
「なんだ、船長?」
「船が返って来る。やつらの水揚げを手伝ってこい」
「ええ!?やだよ、俺ら客だぜ?何で俺達が―」
「―一部を手間賃として持って帰れ。痛まない内に喰い切れる量なら、好きなだけな」
「―任しとけ船長。いや、丁度俺らも体力が有り余ってた所だったんだよ、体中が働きたい、働きたいと喚いて仕方なくてさ―さぁ、行くぞ、梔子、カナエ!」
クロは船長の膝の上から飛び降り、陽気なステップで浜辺の船着き場へと向かう。梔子もその後へと続く。私もその背中へ続こうとして。
「…待て、カナエ。お前はここに残れ」
―船長に呼び止められる。
制止の声に気付かなかったふりして、クロと梔子を追い掛けるかどうか迷うが、結局私は船長の傍に残る事にする。コートのポケットに手を突っ込む。鉄の感触を確かめる。万一の為に。(…16発)船長を見る。船長は無言でパイプを吹かしている。時折、クラゲみたいな形の煙を吐き出す。船長は何も話そうとはしない。痺れを切らして、私は自分から口火を切る事にする。
「…どうして、私は行っちゃ駄目なんですか?」
「水揚げは、レディのする仕事じゃないからだ」
(…レディ、と来たか)
私は溜息を吐く。船長は相変わらず黙り込んで、安楽椅子に揺られている。無言に耐えられずに、私はまた口を開く。
「…ここって、鰯の養殖場なんですよね?」
「違う」
「は?」
賑やかな声が聞こえてくる。梔子と、モーターボートに乗っていた人達が、協力して、網に掛かった魚を浜辺付近の生簀に移している。クロは…彼らの足元を飛び回って、まるで邪魔しているみたいだ。私は笑う。
船長は口を開く。
「…ここは、海だ」
「はぁ」
「小さな海だ。とても小さい。小さ過ぎる…」
返答に困って、私は船長の顔を見る。船長は真直ぐに海を見ている。海の色を反射して、船長の灰色の瞳が青黒い色に変わる。不思議な目だ、と私は思う。
「小さな海だ」
「はい」
「魚が増え過ぎると困るんだ」
「はい」
(ああ)
漸く話の行き先を察する。
「誰かが管理をしないといけない。ここは最後の海だ、多分。とても小さいが。海草を植え、水流を作り、魚を捕る。奴らが自分達の体積で行き場を失くさない様に、死体の油分で窒息しない様にな。…鰯が一番増えるんだ。だから皆、ここを鰯の養殖場だと言う。だがまぁ、他の魚だって、たまには捕る。鮪は喰った事あるか?」
「ああ、はい、ええ、まぁ」
「そうか。多少油っぽいが、悪く無い魚だ」
「ええ…」
―会話が途切れる。浜辺の賑やかな会話が途切れ途切れにこちらまで聞こえてくる。「…あ!おい、化け猫、よこせ、そいつを…こら、止めろ、抓み食いすんじゃねえ!」「…うるへぇ、ほちとら…船長に許可を…ああうめえ、やっぱり魚は、新鮮なのが…」「…だから、鰯は止めとけって…また骨が喉に刺さっても知らんぞ?おら、こっちにしとけ、野良公…こっちなら…」
「あいつらが」
と、船長が言う。
「?」
「あいつらが、誰かをここに連れて来るのは初めてだ」
「ああ…」
私は曖昧に頷く。肯定していいか、否定していいものか、分からなくて。(あいつら、友達居なさそうだもんなぁ…)(人の事言えた義理じゃないが)(信頼されてる、ってことか?)(発言の意図が読めない)(も少し表情があると、会話がし易いんだけどな。髭剃ってくれないかな?)
「…あいつらは、5年程前に、ここいらに流れてきた」
「はい」
「直ぐに野垂れ死ぬと思った」
「はぁ」
「痩せ細った案山子みたいな餓鬼と、口を聞く気色の悪い猫だ。特にあの黒猫は、街で袋叩きに会う事も多かった。変異体のスパイだなんだと騒がれてな。肋骨を折られたり、尻尾の先をちょん切られたり。命に関わる怪我も多かった」
「…」
「あいつの口が悪いのはその所為だ」
「…はぁ」
「所詮他人の餓鬼だ。縁もゆかりもない。子供は好きでも無い。子育ても、死んだ妻に任せっきりだった。あいつらがどうなろうと知った事じゃ無い、が…」
(この人…)
私は。
(…この人がどういう人か、やっと分かった気がする。何というか、不器用な人なんだな。それに、恐ろしく話すのが下手糞な人でもある)(あいつらがどうなろうと、知ったこっちゃない、ね…)
―笑う。
「あいつらは、お前の事を、少しは信用している様だから―なんだ?何故笑う?」
「―いえ、お気に為さらず。ところで、一つ聞いても良いですか?」
「…?一体、何を―」
「船長さんて、昔、ディガーをやっていましたか?」
「ああ、それが、何か―?」
「彼のボウガン、もしかして、あなたのものだったんじゃないですか?」
私は梔子を指差して、船長に尋ねる。船長は目を大きく見開いて、私の顔を見る。私は笑顔を取り繕う事が出来ず、破顔して船長の髭面を眺める。彼は帽子を更に目深に引き下ろし、私の視界を遮る様に大量の煙を吐き出す。
「…どうしてそう思う?」
「ただの勘です」
「答える必要はない」
「分かりました」
「何が分かった?要らなくなったから、くれてやっただけだ。片足を失くして―」
「安心して下さい。私は別に、彼らに悪さを働く積りはありませんよ。それに、変異体でもありません。何なら試してみます?」
船長は帽子を僅かに持ち上げ、灰色の眼で私をじろりと一瞥する。私は笑う。
「…成程、あんたは嫌な女だな、カナエ」
「良く言われます」
「可愛げも無い」
「残念ながら、それも」