#6
車が減速する。車体ががくん、と揺れる。私は顔を上げる。すっかり機嫌を直した様子で、クロが言う。
「ほら、見えるか、小娘?あれが目的地だ」
ビルからも、市場からも離れた場所。“タウン”の南西に位置する所だ。お世辞にも、治安の良いとは思えない一角。ピンクのネオンで着飾った建物(建物上部には“Honey trap”の文字)、刺激色が店内から漏れる小さな小屋(店外に置かれた電光掲示板には、“最高の死をあなたの敵に!”)、毒々しい色の煙が漏れる建物や、中には道端の軒先で、刀剣の類を風呂敷の上に広げて、大っぴらに売っている者まで居る。私は顔を顰め、クロの前足が示す先を見る。
私は目を見開く。
(…うわ)
そこには、一際目を引く巨大な建物がある。多分、最初にそこにあったのは、小さな酒場だけだったのだろう。そこに、隣にガレージを併設し、上に宿屋を乗っけてと、無計画な増築・改築を繰り返した結果、今では元が何の為の建物だったのか、良く分からなくなっている。まるで建物のだ、と私は思う。不思議な外観だ。今にも潰れそうな見た目をしていて、何処が入り口かも良く分からなくて、そして活気に満ちている。
「…これは、一体何の建物なの?」
「言わなかったか?“車屋”だ」
心なしか、嬉しそうな調子でクロは言う。(?)梔子までもが、控えめにその喉を鳴らす。(バックミラーに映る彼の眼は、楽しそうに微笑んでいる)仲間外れにされているようで、何だか気に入らない。私が黙り込むと、クロと梔子は我慢出来ない、といった感じに一斉に噴き出した。
「―いや、悪かった!許せ小娘、先輩ディガーの特権ってヤツさ―ここに来る新米は、大抵同じ様なリアクションをするもんだからよ―“ここは何?”“ここは何の建物ですか?”“ここは何の店だクソッタレ?”ひひ、いや小娘、お前にも普通の感情ってのがあって良かったよ!じゃないと、ここに連れて来る甲斐が無いからなぁ―?」
「…私だって、驚く時は驚くわよ。私を何だと思ってるの?」
「“神の柱”も知らない世間知らず」
「私の居た所からは見えなかったのよ……その、あんなにハッキリとは」
「あんなデカブツが見えねえだって?世界の果てにでも住んでたってのかよ、お前は?」
反論しようとして、私は慌ててその口を閉じる。例え軽口だろうと、この話題には軽々に口を開かない方が良いだろう。(何が自分の首を絞めるか分からない)急に無言になった私に、クロが不思議そうな視線を向ける。(私の第一は、向こうへの“扉”の隠蔽)
(不必要な嘘は、吐かない方が良い―)
「―まあ、お前の田舎にゃ、お前の田舎なりの良さがあるって、なぁ、梔子?」
不自然に優しい声で、クロが唐突にそう言う。運転席で梔子もこくこくと頷く。私は苦笑いを浮かべて、助手席のクロの首筋を引っ張りながら言う。
「…見当違いの優しさ、どうもありがとう」
「なんだよ、怒ってんのか?あてて、別に田舎を馬鹿にしてる訳じゃねえんだぜ―ところでお前の田舎はよ、一体どんな芋が旨いんだ?」
「何故芋が特産品だと決めつける?」
“車屋”のガレージの前に着く。(ガレージの外観も、“車屋”の主の計画性の無さを示している―酒場の北東側に並ぶ、一つ、二つ、三つ目までのガレージは、町の自動車修理工場程度の、一台入るのが関の山の間口の広さに対し、その隣の四番、五番ガレージは10tトラックが横に一台入りそうな程の、大雑把な拡張を受けている)ガレージの閉じたシャッターの前で、梔子は一度、二度、喧ましくクラクションを叩き鳴らす。私は反射的に耳を塞ぎ、周囲をきょろきょろと見回す。(…なんか、良いイメージ無いんだよな、車のクラクションには)梔子が腕を振り上げ、三度目を鳴らそうとした途端、のろのろと内側からシャッターが開いて、中から機械油まみれの痩せた男が姿を現した。
(―うわぁ)
―反射的に今度は、鼻を塞ぐ。男は、一日、二日どころじゃない、一週間以上風呂に入らなかった様な、独特な臭気をしている。(鼻が捥げそう)失礼にならない様に、浅く呼吸を繰り返す。必死に鼻を慣らす。ぼさぼさの髪、首に掛けている煤けたゴーグル、薄汚れて、所々油でテカッている、節くれ立った指、馬の様に、左右に飛び出した目。左右に張り出した目で、男は私達をぐるりと一瞥する。
「……なんでぇ、から来た化け猫に、その腰巾着の小僧じゃねえか。帰った帰った、こちとら人間相手の商売で忙しいんだよ。バケモンは緑の光で腹ァ膨らませてな。それとも人間様の小銭でも拾ってきたか?」
男の物言いに流石にムッと来て、私はそのぼさぼさ男の蟷螂面を即座に強く、睨みつける、が―。
「―煩ぇよ、鳥の巣頭の全身反射板のラード野郎、たまにはテメエの身体を洗車してやったらどうだ?1km先でもテメエが来たってわかる臭いしてやがる、ああ酷え臭いだ。とっとと査定を済ませやがれ。鼻が取れちまいそうだ」
クロは慣れた調子で、男にそう悪態を返す。それも、何処か親し気に。(…?)私はクロと、梔子の背中を見る。梔子は男が目の前にいるにも拘らず、軽くアクセルを踏み込む。男は肩を竦め、慌てた様子も無く後退りする。ジープがガレージの中に車体を突っ込む。男が壁に付いている、何かのボタンに拳を叩き付ける。途端にガレージのシャッターが閉まり、代わりにガレージ内に煌々と明かりが点る。
(…眩しい)
ガレージ内は男の性格を顕すかの様に、散らかり放題だ。床に転がった給油用らしきチューブ、デッキブラシ、洗車用のホース、車用洗剤、ワックス、開きっ放しの工具箱。工具は更にいろんな所に散らばっている。さっき男がシャッターを閉めたスイッチの下、洗車用のホースに絡まったレンチ、男のポケットに一本、二本、耳の上に、プラスドライバーとマイナスドライバー。
(…あんまり片付けは好きな方じゃないけど、この部屋だけは私も無理だな。見ているだけで、イライラして来る…)
男が節くれ立った手に黒ずんだ軍手を嵌める。フロントボードに前足を架け、クロが男に声を掛ける。
「―今日は給油だけだ、スパ公。幾らくらいかかる?」
“スパ公”と呼ばれた男は汚れた軍手で鼻の下を掻き、(鼻の下に付け髭みたいな黒い帯が出来る)運転席側から計器類を覗き込む。
「あー…そうだな、これなら80ってところだ」
「冗談だろ?そんなに使っちゃいねえ。前までこのくらいなら、悪くても65ぐらいだった筈だぜ」
「前まではな。ガソリンの値段が上がったんだよ。最近じゃ、ガソリン見つけて来るディガーも減って来ちまった。見つけても、見つけた時のドンチャン騒ぎで、ガソリンに煙草を投げ入れたり、自分家の倉庫に隠したりしてよ。ガソリンだけタンマリ持ってても意味無いと思うんだがなぁ、ウチの親父、金払いだけは良いんだから…」
「同感だ」
「…まぁ、最近は腕の良いディガー自体が減って来た、ってのもあるが。この前も、東で名のあるチームが壊滅してなぁ。ありゃなんてったっけ…」
「―そいつも同感だね。ところで、順番待ちは?」
「8番目だ。そういや、親父さんがお前らを恋しがってたぜ。帰ってきたら顔を出してくれ、ってよ」
「オーケー、気が向いたら行くよ、親父さんにはそう伝えといてくれ。―そうだな、10上乗せする」
「じゃあ、7番目だな。それで良いか?」
「おいおい、頼むぜ。俺ら、お得意様だろ?」
「他の奴もな。給油が終わったら使いをやるよ。家に帰るか?それとも、パブで一杯やってるか?」
「…クソッタレ、25出す。それでどうだ?」
「―それなら、4番目ってとこだな。どうした、急ぎの様でもあるのか?」
「ああ、まあ、今日中に、こいつを家に送り届けなきゃならんからな―」
―クロが私を振り返る。“スパ公”も私を見る。話の矛先が自分に向くと思っていなかった私は、彼らの視線にギョッとする。“スパ公”の眼が、好奇に輝くのを私は見る。背筋がぞわり、とする。
(ああ、人を見た目で差別しちゃいけないんだろうけど―)
(…生理的に駄目って、こういうのを言うのかな)
(うう、せめてこの臭いが無けりゃ…)
「―良い女だな。肉付きはちと薄いが。何処の館の娘だ?」
私は頭の中で念仏を唱える。(摩訶般若波羅蜜多心経―)(無心だ。無心になるのじゃ)(頼む、クロ、梔子。私は一刻も早くここから出たい)
「ああ、その、なんだ、こいつは娼婦じゃねえよ」
「なんだ。その小僧っ子も、とうとう大人になる覚悟を決めたのかと思ったよ。どうだ?何時までも新品のままじゃ格好つかねえだろう、今晩、俺と一緒に“ハニー・トラップ”にでも繰り出すか?」
梔子は、首から上を真っ赤にして、“スパ公”の申し出に、勢い良くブンブンと首を横に振る。(…なんだろう、見てるこっちが恥ずかしくなる)(3.1415926535―)(何も考えないようにしよう。何か考えたら負けな気がする。それか何か、どうでも良い事を)(…“スパ公”の“スパ”って何?)(スパゲッティ)(スパナ)(スパルタ)(スパ、スパ、ええと…)
「―おい、話を戻すぞ。4番目なら何分待ちくらいだ?」
「そうだな、2時間半、ってとこだな」
「ゲ、おいおい、そりゃ流石に嘘だろ?」
「嘘じゃないさ。生憎今日は、重たいメンテが重なっててな。整備、整備、洗車に整備、整備、整備さ」
「ううむむ…じゃあ、7番目なら?」
「5時間半、ってとこかな?」
「ご―…!?」
クロは絶句する。未だ顔の赤味が引かない梔子は、俯いて自分の膝を眺め続けている。(誰か助けて)(スパ、スパ、スパ…)(スパイ)(スッパイ)(スパイス)
「―まぁ、ゆっくり考えてくれ。25積むのが嫌だってんなら、ウチからレンタルするってのもアリだと思うぜ」
「…ああ、因みに、そいつは幾らだ?」
「走行距離+125だ」
「ぼったくりじゃねえか!!!!!」
「俺に言うなよ、親父さんが決めたんだから。危険保障+盗難予防だ、妥当な値段だと思うぜ。無事に帰ってきたら、125のうち半分くらいは返してくれるらしいし」
「嘘だ、絶対難癖付ける積りじゃねえか、あのジジイ…」
「まぁそうだろうなぁ。で、その女、娼婦じゃねえってんなら、どうしてお前さん達と一緒に居るんだ?」
“スパ公”がその黒ずんだ軍手の指先で私を指し示す。
(スパ、スパ、スパ…)
(スーパー)
(止めて。私を話題にしないで)
クロが私を振り返る。流石に言い難そうに、少し口籠る。(よし、良い子だ、クロ。そのまま口を閉じて―)
「…拾ったんだ。“シェルター”でな」
―が、私の願いも虚しく、クロはあっさりとそう口にする。
(…この、駄目猫め)
「へぇ…?」
顎を擦りながら、改めて“スパ公”は私をまじまじと眺める。(顎にも煤けた髭模様が出来る)“スパ公”の目付きが異性を値踏みする目から、純粋に研究対象を眺める好奇的なものに変わる。それはそれで、不快に感じる。私は“スパ公”の視線を遣り過ごすのを諦め、その視線を正面から強く睨み返す。
「あの“シェルター”に、人が?確か、あそこに最後に人が入ったのは、7年前とかそこらじゃなかったか?まあ、今でも新米ディガーの何人かは、内緒であそこに寄ってるみたいだがね―あれだけ近いと、安全だと錯覚するんだろうなぁ。それにしても、へぇぇ、あんな所に人が。いや、俄かには信じられんな。ひょっとすると、変異体じゃないのか?お譲ちゃん、ちょいとこの質問に答えてくれるかい?パンはパンでも―」
「フライパン。私は変異体じゃないわ」
つっけんどんに私は言う。“スパ公”は取り繕う様子も無く、驚きに目を見開いて私を見る。ざまあみろ、と私は心の中で思う。
「…驚いた」
「ああ、まあ、この女は―」
「口無しの連れは、口無し女かと思ってた。喋れたんだな、あんた」
(この男―)
「喋れるわ。喋る必要もないし、喋りたくもないから、黙ってただけ」
「おまけに気も強い。俺好みだ。女ってのは、気が強くないといけない。あんたもそう思わないか?」
「あんたの性癖哲学なんて聞きたくもないわ」
「俺を殴ってくれないか?」
私は―。
固まる。
文字通り、硬直する。男を見る目、男を見る姿勢、男を見る表情ごと。(?)何を言われたのか、分からない。一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと、疑う。男を見る。男は満面の笑みを浮かべ、(少し頬を染めて)私を見ている。私の表情が、ゆっくりと溶解する。下顎が微かに震えているのが分かる。梔子とクロを見る。梔子は申し訳無さそうな顔で、クロは困った様な目で、それぞれ私を見ている。「何処でも良いんだ。頬でも、額でも、鼻でもさ。思いっきり米神をやられるのも良い、歯を折られるのも最高だ、勿論、アレをふんづけてくれても良い、ああ勿論君が望むならね。平手でも拳でも良い、ああ直接触るのが嫌だってんなら手を覆う布を貸し出すよ。踏む場合はヒールが良いな、ああヒールは俺のコレクションから好きなのを使うと良い、今日は赤ヒールの気分だな、ああ赤ヒールを履くなら合わせて網タイツも履いてくれると最高なんだけど、勿論俺は強制しないよ―飽くまでもそれは、女性の主体性に任されるべきだからね―」
「わ…た、し…」
クロを見る。クロの口元が動く。(『な』…?)(『な』、『う』、『え』?)(いや違う、ありゃ『ぐ』だな。『な』、『ぐ』、『れ』、『殴れ』だ)(この野郎)(人事だと思って―)
「勿論只でとは言わない。他人に労働を求められた時、それに見合う対価を請求するのは至極全うな事だと思うからね。それは当然の摂理だ。20、いや30払う、いや、45払うから、赤ヒールを履いてくれないか、ピカピカの赤ヒールで、全体重を俺に掛けて―」
「良し、45だな?そいつの25を上乗せ代にして、20をガソリン代に回してくれ。2時間半後に取りに来るからよ、それで4番目にガソリンを補充しといてくれ。それで良いな?」
“スパ公”は笑顔で頷き、ガレージの奥へ繋がる扉を開けて、中へ消えていく。
「おい、クロ―」
「頼むよ、俺達を助ける為だと思って。上乗せが必要なのは誰の為だ?“シェルター”にもう一度向かわにゃならんのは誰だ?“相互尊重”だよ、カナエ、俺たちゃ“シェルター”の一件でタダ働きだ、再び稼ぎに出ようにも、先立つ足が必要なんだ―なぁ?そいつは安けりゃ安いほど良い。軽ーくヒールで踏んでやるだけじゃねえか、なぁ、梔子?」
梔子は耳の先まで真っ赤に染めて、両の掌で顔を覆っている。
「…………………ああ、まぁ、知り合いの、ディープな性癖を見せつけられると、なんかそうなるよな。あいつがドMだとは聞いてたけど、まさかここまでとは…」
「―おい、私はその性癖に巻き込まれてるんだが、あ?」
「悪かったって―」
「覚えてろよ。いつかブチ殺してやる」
「なんだよ、そんな怒るなって。穏やかじゃねえな―?」
「―なぁ、おおい、化け猫、それとお譲ちゃんよ、」
ガレージの奥から、ひょっこりと“スパ公”が顔を出す。上気した笑顔で、彼はガレージの奥から網タイツを持った右手を出す。
「こいつを履いてくれたら、倍の90出すぞ。考えてみちゃくれんか?」
「そりゃ、も―」
クロが言葉を止める。彼は頭上を見上げる。頭上の私を。私はクロの真上から彼の頭を見下ろす。「なんだよ、こ―?」私はコートのポケットから拳銃を取り出す。「か―こ、も、ももも」両手の親指で、撃鉄を引き下ろす。
「もも―ももも、」
「16発ある」
―自分で思ってたよりも、冷えた声が出る。
「私は射撃が下手だ。自分で言うのも何だけどな。何発目で死ぬか、今から試してみるか?」
「も―なんだって、化け猫?もう一回言ってくれ―!」
「も―ももも、もも、腿がい、痛いんだと!だからタイツ、網タイツは無しだ―!」
「―お前は鬼だ、カナエ」
「そっちこそ。あんな変態に引き合わされるって知ってりゃ、こんなとこに来なかったわ」
「んだよ、ハイヒールでちょこっと踏むだけじゃねえか。それで45だぞ?」
「あなたがやれば良かったでしょう。そこまで言うなら。私は二度とご免だわ」
「何処の世界に、ハイヒールを履く猫が居るんだよ…」
「良いじゃない、ハイヒールを履いたって。長靴を履く猫も居るんだし」
「?長靴なんて履く猫も居るのか、お前の田舎にはよ?」
「居るっていうか、居た、かしらね。昔話というか、おとぎ話というか」
「ふーん…」
「―ねぇ、一つ聞いても良い?」
「?なんだ?」
「ほら、あの人、あの変態の、“スパ公”って呼んでたでしょ。“スパ公”の“スパ”って、何の略?」
「ああ、そりゃ“スパーク”だな、ほら、髪型が、ビリビリーッてなって、爆発したみたいだろ?」
「…死ぬほど下らないわね」
「渾名なんてそんなもんだろ。ほら、屋台で何か買ってやるから、いい加減機嫌直せって…」