表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

#4

10月18日、日曜日、朝11時。

私は“扉”の前に立っている。

流石に三度目ともなると、大した感慨も無い。さっさと真鍮製のドアノブを捻ると、私は乗ってきた自転車ごと、“扉”の向こう側へと突っ込む。(ヤバい)彼らとの待ち合わせ時間は“午前中”とアバウトにしか決めてはいなかったけれども、朝も11時を過ぎたら、午前中、という一言では括れなくなる気がする。(彼ら、もう待ってる気がする。クソ、なんでジップロックはコンビニに売ってないんだ?)(サランラップは売ってるのに)(もうサランラップで良かったかも)(いや、『繰り返し使える』ってのが今回の命題だった筈だ。多分、昨日の別れる際の様子からして、もう怒ってはいないと思うけど)(向こうは武器を持ってる。私は丸腰)(…命の危険は少ない方が良い)(24時間営業のデパートがありゃ良かったのに。それか、24時間営業のデパートみたいなコンビニ)

後ろ手に“扉”を閉める。私は“扉”の向こう側、シェルターのB2階、あの最初の部屋へと出る。部屋の中には電気が点いている。(やっぱり。朝何時くらいに点くんだろう?)私は左腕の腕時計を見る。自宅の机の引き出しで、埃をかぶっていた物だ。(11時2分)(しかしこれ、いつ買って貰ったものだろ?全然記憶に無いんだけれど)(電池の予備があって良かった)(暗い所で光る、時計の針。ピンクのベルト。ベルトの調節を最大にしたって、手首が痛い)(多分、小学生の頃?)(秒針が壊れてる)

自転車をゆったりと旋回させながら、“扉”の後ろへと回り込む。(…出来るだけ、瓦礫を踏まない様に)(パンクしたりしたら、面倒だ)(これからも使う予定だから)(これからも、こっち側で)(向こうじゃ、そんなに使わないし)(ここの廊下が長すぎるのが悪いんだよ)B2の廊下へと連なる、開いたままの鉄扉から、私は勢いよく自転車で飛び出していく。

(…あの扉、一日経っても開いたままだ)

(リセットとか、されないんだな)(なるほど)(開いた扉は、開いたままか)(そりゃそうか。自動ドアなら兎も角、あんだけ重そうな扉が、勝手に閉まったりしたら危ないもんなぁ)(施設の様子からすると、子供も居たんだろうし)(じゃあ、どうやって閉めるんだろう?)(パスワードをもう一回打ち込む?)(後で試してみるか)(試す時間なんてあるか?彼ら、彼らの目当ては『動力源』だって言ってた。この施設の『動力源』。それってつまり、ここの、『電力』―って、事でしょ?)(ある意味、開いたままで良かったのかも)(勝手に閉まったりしないなら、帰れなくなる心配も無い)(でも、彼らにこれを見られたら―)

「―やめ、やめ」

私はその辺で不毛な思考を打ち切り、自転車のペダルを回す事に専念する。あの“扉”の部屋の正面の壁に書いた、(めじるし)マジックの円形が見る見る内に後ろに遠ざかっていく。ただそれだけの事に、私は少なからず感動を覚える。

(…速い)

(自転車って、凄いな。偉大な発明だ)

前を向く。私は笑う。ナップサックの肩紐を引っ張り上げる。ジップロックのついでに色々買足して来た所為で、(メモ帳、水筒、駄菓子のオマケの方位磁石)昨日よりも背中が重いが、それすらも今の私には気にならない。前日の疲労も残って無い、様に思える、まぁ今の所は。

(…どうかな、筋肉痛、遅れて来る様になっただけだったり)

(だとしたら、月曜日は地獄だな)

(まあ、月曜日の事は月曜日、火曜日の事は火曜日、だ)

(はは、ああ、速え。昨日は一往復と半分で、二時間弱かかった廊下を―)

(―ほら、もうエレベーターが見える)


「遅ぇ」

黒猫は不機嫌な顔をしている。

B1、エレベーターから出て直ぐの所で、少年と黒猫は私を待っていた。

(自転車は念の為、B2のエレベーター前に置いてきた。機構的には単純だし、自転車一つでどうにかなるという事は無いとは思うけど―彼ら、ビニール袋にはああいう反応だったし、まぁ、念の為)

少年は壁に背中を預け、地面に胡坐を掻いていて、黒猫はその胡坐の中で丸まって私を睨み上げている。私は反射的に時計を確認し(11:06)、咄嗟に反論しそうになる。(あなた達が早すぎるのよ。11時6分なんて未だ午前中―)済んでの所で言葉を飲み込む。やれやれ、仲直りする為の品をわざわざ買って来たってのに、新しい火種を作ってどうすんだ、私。

(…大人になれ、叶。相手は子供と、猫だぞ?)

「―ご免ね、こっちにもいろいろ事情があって。でも、その代わり、ちゃんと約束の品は持って来たわ」

ほら、この通り、と私は鞄からジップロックを取り出して、彼らに見せる。少年は数回パチパチと瞬きを繰り返して私とジップロックを見比べ、黒猫は猜疑心の塊みたいな顔をして少年の胡坐の中から身を乗り出し、ジップロックに鼻先を近づけて、何故か臭いを嗅いでいる。

(…あれ、何か、微妙な反応)

「―あの、猫さん?ほら、あなたが欲しがってたものだけど―…」

黒猫は目を細め、胡散臭そうな顔をして私の方を見上げる。

「ぺったんこだ」

「?」

私は反射的に自分の胸元を撫でる。

(…他意は無い)

「―昨日の奴は膨らんでた。こっちはぺったんこだ。これ、ホントに物が入るのか?」

「昨日のは最初から物が入ってたからよ。ほら、パンを中から取り出したら、あれだって畳めるくらいに薄くなったでしょう?それと同じ」

「昨日の奴より分厚いぞ」

「繰り返し使える様によ。丈夫に作ってあるの。用途が根本的に違うのよ。あっちは使い捨て、簡単に開けられるように薄く作ってあるの。開ける時まで保てば良いんだから。こっちは何度も使うから―」

「―袋の端っこに、なんか変なのが付いてる」

「…これは、ジッパーよ。袋の口を密閉するのに使うの。ほら、繰り返し使う為に…」

黒猫は、納得のいかない、という顔で私の手の中のジップロックを前足で叩いている。(何だ?)私は助けを求めて少年の方を見る。私の目線に気付くと少年は肩を竦め、(唸る様に喉奥を鳴らして、少し考え込む様に鼻先を掻く)黒猫を指差し、自分の臍を指差し、目の前にピン、と人差し指を立てた後、それを徐々に曲げて行って―。

(………あ、もしかして、『臍を曲げる』?)

「…大体、待ち合わせ時間を決めたのはお前だろ。なのになんで、お前の方が遅刻するんだよ?」

「あんた達が早すぎるだけよ。11時6分なんて未だ午前中でしょ」


(―ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ)

入力パネルを押して、パスワードを入力していく。

B1の廊下。昨日怪物と遣り合った円形の部屋よりも、血のべったり付いていた、青色の動線が指し示していたエレベーターよりも、手前の位置。廊下の左右に六部屋ずつ、計12部屋が壁際に均等に並んでいる。

「なぁ、俺達にもパスワードを教えてくれねぇか?そしたら手分けして探索できるし、もっと合理的に―」

「嫌よ」

「…ちぇ。冷血女め。昨日命を互いに預けて共に戦った、俺達の事を信頼出来ねぇってのか?寂しい奴だなお前は」

「信頼はしてるわ。でもそれとこれとは話が別。良いからその部屋から調べて頂戴。私は全部の部屋を先に開けて行くから」

(…床の動線の色は、地下に通ずるエレベーターの方を背にして、左側の手前三つが薄緑、奥の三つが赤。右手側の六つは全部紫)(紫の動線の扉はB2にもあった)(…サッカーボール)(半分がジムで、半分が託児所みたいな―)(ここもそうなのか?)(でも、大きさが)(扉の間隔は均等)(B2の紫部屋は、あの“扉”のあった部屋の様な、黄色の動線の部屋くらいのサイズがあった)(体育館大)(天井も高くて―)(でも、ここの部屋は)(部屋の間隔は)(とても体育館大の部屋を並べる事なんて出来そうにない。精々教室程度の間隔だ。それに、高さも)(少年くん達は、崩落した天井からこの施設に侵入してきた)(心なしか、B1の廊下の天井は、B2よりも少し低く見える。“怪物”と遣り合った丸部屋はそれほどでも無かったが、他の部屋はもしかしたら少し造りが違うのかもしれない。例えば、頭上に大量の砂があるから、それに耐える為に、B1の天井だけを少し分厚く―)

「ケチ。嘘吐き。遅刻魔。腹黒。恩知らず。乳無し―」

「あ?」

「―さあ、まずはこの部屋から調べて行く事にするか、小僧!忙しくなるぞ、なんせ使ったC4の分の元を取らんとならんからな、張り切っていこう、一日の尊い労働の始まりってヤツだ―」

黒猫と少年はそそくさと最初に開けた扉に入る。右手側の一番手前、紫の動線が示す部屋だ。私は溜息と共に彼らの背中を見送る。(…全く、調子の良い野郎だ)他の部屋の扉も、同じ様に開けていく。(…赤と薄緑の部屋は、どうやら何かの倉庫だったみたいだ。まぁ詳しく調べてみないと分からないけど、入口からざっと見る限り、空のラック棚が大量に並んでる―)(―紫の部屋は―うん。何だろう。ロッカーがいっぱいあったり、シャワールームだったり、椅子がいっぱいあったり。何て言うか、統一感が無い)(そりゃ、最初に見つけた紫の部屋も、統一感は無かったけど―)

(…もしかして、決まった用途のある部屋じゃないのか?)

(それとも、元は紫の部屋だったものを、後で他の用途の部屋に変えた―?)

最初の部屋に戻る。少年と黒猫が入って行った、一番手前の紫の部屋だ。入口から中を覗き込む。ガランとした様子の部屋の中には、幾つものパイプ椅子が整然と並べられている。(10×8、ってとこかな。部屋のサイズは、ちょっとした教室くらいだ)(天井の高さも)(この位の方が、私は落ち着くね。高過ぎても碌な事が無い)(電球を交換するのも大変だしね)(…しかし、よくよく考えてみると、この教室の中にだって、例の“怪物”の仲間が潜んでる可能性もあったんだな)(“変異体”)(まあ、こいつらは―というか、少年くんは、出くわしたって大丈夫だろうけど)(あの“怪物”からも、結局一人で逃げ果せていたし)(この場合の問題は、寧ろ私の方だ)(一人で扉のパスワードを解除して―)(幾ら彼らに、パスワードを知られたくないからといって…)

(…気が緩んでるぞ。慎重に。出来るだけ、慎重に)

少年と黒猫は、パイプ椅子の列を崩しながら前進したみたいだ。モーゼの伝説宜しく、彼らの通った後に、パイプ椅子の列が割れて道が出来ている。私はその道を辿って、彼らの背後に近付く。彼らは部屋の中央に立って、何かを見下ろしている。私は少年の、黒猫が乗っていない方の肩越しに、それを覗き込む。そこには機械がある。横は肩幅大の大きさで、縦は大人の腕が二本分くらい。後方は格子状になっていて、前方からは円筒形の筒が飛び出している。筒の先には凸型の分厚いレンズが付いている。後方の格子の下辺りからコードが尻尾の様に伸び、壁際にあるコンセントに(―…コンセント、ね)それが接続されている。機械の後方には幾つかのボタンがある。その中から馴染のある形を、私は選んで押していく。

(林檎のようなマークと、右向きに頂点を置く、真っ黒な三角形のマーク)

(余りにも見なれたマーク)

(これは多分電源のマークで、こっちの方は、多分―)

―パッ、と前方の壁が明るくなる。釣られる様に私はそちらを見る。前方の壁に淡い映像が投射されている。壁には幼い女の子が映っている。桃色の頬を必死に膨らまし、短い指を一杯に広げてよたよたと懸命に歩いている。画面外から腕が伸びて来る。太い、男の腕が。腕が女の子を手招きする。女の子は男の腕を捕まえようと必死に追い掛ける。画面外から男の笑い声が聞こえた様な気がする。

幸せそうな男の笑い声が。

私はもう一度電源ボタンを押す。ブツン、と映像が途切れる。

「―な?なんだぁ、今のは!?おい小僧、見たか?映像が飛び出て来やがった!なあカナエ、今のはどうやったんだ?あの餓鬼は誰だ?ハハ、こいつぁ魔法の箱だ、きっと高く売れるぞ―小娘、他の映像は映せねぇのか?ちょいと試してみて―」

(私は駅で彼女を待っているんだ)

私は暫くの間壁を見つめている。

「―カナエ?」

そうだったかも知れないし、そうじゃないのかもしれない。それに、もしそうだったとしても、私に出来る事なんて何も無い。この扉はパスワードでロックされていた。あの“怪物”はこの部屋に入れなかった。でも、その前は人間だった、筈だ。だから、パスワードさえ知っていればこの部屋に入る事は出来たし、ここでこの映像を眺める事も出来ただろう。

(今でも彼女を駅で待っている)

「ここが駅?」

「は?」

「なんでもない。ここでの収穫はこれくらいね。それじゃ、次に行きましょうか」


「そういえば―」

「あ?」

次の部屋で。

最初に入った紫の部屋と廊下を挟んで反対側、薄緑の動線が示す部屋だ。幾つもの空のラック棚が並んでいる。“並んでいる”というのは、まぁ、何と言うか、便宜上の言い方ってヤツだ。この部屋は随分昔に荒らされたらしい。ラックは手前や奥に派手に倒れ、床には乱暴に破いた段ボールやビニールが散乱している。(私はビニールの切れ端を手に取る。製造年月日が記載されて無いか、確認する為だ)2、3のラックは分解され、ネジやスチール板を盗まれている。天井の電灯も割られていたり、若しくは盗まれていたりしているらしく、この部屋の中には灯りが付いていない。(…まぁ、それが困るのは私だけなんだけど。彼らは両方とも夜目が効く)(はぁ、目がショボショボする)

(ビニールには何の記載も無し―段ボールの方にも、意味のある数字の羅列は見つけられず、と)

「―あなた達の名前を考えたんだけどさ、私」

「んぁ!?」

黒猫が急に大声を出す。気持ち良く微睡んでいた所を、鼻っ面を殴り付けられて無理矢理起こされたみたいな声。私は手にしていたビニールを床に落とし、彼らを見る。黒猫は白と緑の小さな小包に爪を立てて、ポカンと口を開けて私を見ている。少年くんでさえも、乳白色の容器を片手に一つずつ持ったまま、戸惑った様に私の方を見つめていた。(ラベルには、『消毒用アルコール』、の文字)

「…どうしたの?そんな馬鹿みたいな声出して。私に名前を付けさせてくれる、そう約束したでしょ?」

「―それは―昨日は―そうだったけどよ、」

「一日経ったら、約束は反故?」

「違う!―そうだ、先に約束を破ったのはテメエだろ、だから俺達が、その約束に従う理由も―」

「―破ってないし。勝手に勘違いしたのはあなた達だったと思うけど。それに、新しい条件に合う約束の品も今日ちゃんと用意して来たんだ」

私は黒猫を指差して続ける。(ジップロック)

「―今度はあなた達が約束を守るのが道理だと思うな。ね、そう思わない?」

私は少年の方を向いて、そう話しかける。電灯の無い薄闇の中で、彼の金色の目が頻りに瞬きを繰り返す。私は笑う。少年くんは黒猫の方を縋る様に見つめて居た後、覚悟を決めた様に、手に持っていたアルコールの小瓶を床に置き、私の方に向き直った。

「お、おい、小僧―!?」

「お、良い度胸ね。任せてよ、昨日夜遅くまで考えた自信作なんだ。きっと気に入ると思うよ―」

「待て小僧、早まるな―!」

「少年くん、君の名前は」


「『梔子』だ」


…。

………。

あれ?

薄暗い部屋の中に、何とも言い難い沈黙が訪れる。少年は金色の視線を宙に泳がせ、黒猫は非難する様な眼を私に向けている。(うん?)暗がりの中に居ても、彼らがあまり良い顔をしていないのが分かる。居心地の悪い空気が部屋の中に漂う。やがて、沈黙を破る様に、黒猫がぼそりと言う。

「…なんか、安易じゃねえか?」

「あれ!?」

(渾身の出来、だったんだけれど…)

「―こいつが喋れねぇから『口無し』か?まぁ名前なんて分かり易い方が良いけどよ、それでも他人の短所を論ってそれを名前にするなんてどうかと思うな。そりゃ名前じゃなくて、蔑称ってんだ―」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って、違う、違う―」

私はパタパタと目の前で両手を振る。黒猫はどうだかな、と言った感じに鼻を鳴らし、(この野郎)前足で小包を少年の方に弾く。少年はそれを拾い上げ、麻色のショルダーバッグの中に入れる。(さっきの部屋にあったプロジェクターを入れてあるので、鞄はもう既にパンパンだ)

「―や、完全に違わなくはないけど―どうしてもイメージはしちゃうし、名前なんだから分かり易い方が良いと思って。でも、私が言ってるのは、花の方の『梔子』よ」

「花ァ―?」

黒猫が素っ頓狂な声を上げる。少年が更にパチパチと、戸惑いが増した様に瞬きを繰り返す。

「そう。梔子、って花。ちっちゃくて可愛い、白い花で、少年くんにピッタリだと思って。ほら、少年くんの髪も、丁度白いしさ―」

私は少年の頭を指差して言う。後に続く言葉は慌てて飲み込む。(それに、『ちっちゃくて可愛い』、って部分も、彼にピッタリだから―)

「―それに、花言葉」

「花言葉ぁ…?」

「そう。まあ、花言葉なんて、一つの花にいっぱいあったりするけどね。でも、ひとつ、とっても良いのがあって。それを君の名前の由来にしたいんだ」

私は少年を見る。

「『喜びを運ぶ』…っていうの」

少年が、目を―金色の目を伏せる。少し、気恥ずかしそうに。ギクシャクとした動きで、床に置いたアルコールの小瓶を掴む。私は笑う。

「昨日は君に命を救われた。感謝してるよ。最初に会った時はそりゃ、とんでもない奴らにあったと思ったけどね」

いきなり殺されそうになるし―と私はぼやく。黒猫が反論したそうに口を開いて、何かに気付いた様に唇を止める。少年はアルコールの瓶に手を触れたまま動きを止めている。

私は言葉を続ける。

「でも、君がいなけりゃ、私は昨日で死んでいた。君は私にとっちゃ“幸運の徴”だ。だからそういう名前を付けたいと思ってね。そういう…あー…、なんていうのか」

頭を掻き、頬を掻く。上手く言葉にならない。(幸福)(幸運)(幸の多い)(幸せな?)(良い名前)私は言葉を仕舞い込んで、彼を見る。何かが地面に零れる音がする。(?)(何だ…?)少年はアルコールの瓶を拾い上げ、それを素早く鞄の中に入れる。薄暗がりの中で、少年の表情は良く分からない。少年の足元の辺りが濡れている気がする。少年の頬が濡れている気がする。けどまあ、暗がりの中なので、本当の所は良く分からないままだ。

「まぁ…これが、昨日考えた君の名前。自分で言うのもなんだけど、君にピッタリだと思う…んだけど、」

私は唾を飲み込む。

「………受け取ってくれる?」

少年は頷く。

頬が緩む。私はホッ、と一息吐く。どうやら、知らない間に息を止めてしまってたらしい。(どんだけ緊張してたんだ)(仕方ないじゃないか。他人に名前を付けるなんて、初めてだったんだから―)私は両手を腰の辺りで組んで、微笑みながら、『彼』に言う。

『梔子』に。

「―じゃ、これからよろしくね、梔子」

梔子が小さく頷く。

薄暗がりの中なので、梔子の表情は良く分からない。

(…今まで一体、どんな人生を歩んで来たのだろう、このひとは)

頬を拭っている理由も。鼻を啜っている理由も。私は気付かないふりをする。


「―ふん。さぁて、それじゃ、俺様の名前は?小娘」

「そうね―あんたの名前は、『クロ』」

「ほう。…で、由来は?」

「黒いから」

「…なんか俺の方だけ、雑じゃねえか………?」

「そんな事無いわ。とっても素敵な名前よ」

「そ―そうか?そうか、そうか…そうか?そうかな、そうなのか―?」

「即席にしちゃ」

「―あ!テメエ、今何つった、今ぼそっとコラ、テメエ―!!」


残りの部屋の探索を続ける。

薄緑の動線が示す部屋はどうやら生活用品や医療用品の保管庫だったらしい。(封の開けられてない無地の下着シャツ、消毒用アルコール二瓶、ガーゼ、注射器、それに、何かの種が入った小袋を一つ見つける)三つの薄緑の部屋はどれもが例外無く荒らされていた。部屋の中に並ぶスチールのラックはどれも倒されたり、分解されたり、叩き割られたりしている。おまけに、胸に消防斧を突き立てられた白骨死体まで見つける始末だ。(何かがあった)(パニックが)(シェルターの中で)(何が?)(まあ、何があったにせよ、そこから物資の奪い合いが始まったらしい。挙句の果てに殺し合いだ。自殺者まで出る始末。この施設は相当な末期状態だったみたいだ)(あの変異体の仕業?)(違うと思う。確かにあの変異体は強力だったけれども、でも、この施設には銃があった。銃があるって事は、この施設には銃を扱える人間が少なからず居た筈だ。銃の方だって、一丁だけしか無い、って事はないだろう)(何人かで集中砲火すれば、犠牲は幾らか出たとしても、あの変異体一匹くらい無力化するのは簡単だった筈だ)

(何があった?)

(何かが)

赤色の動線の部屋は、武器庫だったみたいだ。(映画でしか見たことが無いから確信は持てないけど、多分、ショットガンの弾2箱。白骨死体達から取り上げたあの拳銃と、口径が合うかは分からないけど―多分、拳銃の弾が3箱。それと、拳銃のものよりずっと大きいマガジンが二つ。多分、マシンガンとか、アサルトライフル用?)黒猫は―クロは、赤色の部屋に大はしゃぎだった。梔子の肩から飛び降りて、床の上を跳ねまわり―「おい!見ろよ、小僧!弾だ!弾があるぞ、ああ、こいつはいい、拳銃の売値も釣り上がる―小娘、何ぼさっとしてやがる?おら動け、其処らを良く探せよ―もしかしたら、新品の銃の一つや二つ、落ちてるかもしれねえぜ?」

(…全く、こいつは。床の上は汚れるから嫌だ、なんて言ってた癖に)

(まるで子供だ)

(それにしても―こっちの部屋は、あんまり荒らされて無いんだな。ラックも殆ど倒れてないし、バラされたり、足を折られたりしてるのも無い)(物資の奪い合いになったんなら、武器庫なんて真っ先に狙われそうなもんなのに)(より多く奪う為に)(…こっちは開けられなかった?)(パスワードの改変前?もしかして、その時は未だ、施設はギリギリ機能していたんだろうか?何かがあった。皆パニックになり、物資の奪い合いに。でも武器庫が開けられないから、原始的な方法で―)(斧で)(殺して、奪って、逃げた。鎮圧の為に、兵士は来られなかったのか?既に全滅していたのか、全滅したからパニックになったのか。それとも、何か―)

(何か)

(―何かが、起きて)

紫の部屋は…改めてみても、統合性が何処にも無い。(建てられた時からこうだったのか、建てられてからこうなったのか)手前側から、椅子の一杯並んだ部屋二つ、事務机とパソコンの部屋が一つ、それに、ロッカールームがふたつと、シャワールームがひとつだ。

(何か、ね。兵士が全滅する様な何か?)

(考えたくも無いな)

紫の動線の部屋の、手前から二つ目の部屋は、プロジェクターがあったあの部屋と、内観はほぼ同じだった―ガランとしていて、身を寄せ合う様にパイプ椅子が並んでいて、部屋の中心にプロジェクターが置いてあって。違う部分と言えば、プロジェクターが拳銃で滅多打ちにしてあって、3体の白骨死体が壁際に転がっているくらいだ。死体の内、2人は部屋の入り口から向かって奥側の壁の傍に居る。片方は足から下が無く、もう片方は上半身の骨を綺麗に粉々に砕かれている。(…変異体、かな、これは?)残りの一人は入り口側の壁際に居る。最後の力を振り絞って扉を閉めて、そして事切れた。そんな感じに見える。

「―お、こいつ、良いもん持ってんじゃねえか―」

クロが口笛を吹く。そちらを見る。クロと梔子は奥の壁際、足の無い白骨死体の傍に立っている。足の無い骨はその手に拳銃を握っている。この前手に入れた拳銃よりも、なんというか、一回り大きく、無骨な奴だ。(…ハリウッド映画なんかで、ああいう拳銃を良く見る気がする。主役級じゃない刑事とか軍人が、ああいうのをパッと構えて―)梔子はしゃがんで、骨の手からその拳銃を引き剥がす。バラバラと骨が零れ落ちる。「―いやあ、大量、大量。こりゃ、ホントにお釣りが出るかもしんねえな、小僧―」

手前から三つ目の部屋は、パソコンと事務机の部屋。大方のPCは、鈍器や銃弾でディスプレイや本体を破壊されている―残っているものも、スイッチを付けた所で、パスワードに阻まれてログインする事は出来ない。(勿論、パスワードは000000000000じゃない…なかった)せめて、紙媒体の記録が無いかと机の引き出しを荒らし回ってみたけれど、出てきたのはどれも、家族写真や何かの曲が入ったMD、覚書の雑多なメモの束、それに、黒革の財布に大事そうに入れられている何かの鍵と、一見何の役にも立ちそうにない物や、誰かの私物ばかりだった。(でも、鍵とMDは一応持っていく事にする―一応だ、もしかしたら何かの役に立つかもしれない…と思う…と、良い)

「おい、早く行こうぜ、カナエ―この部屋はハズレだ。ここには金になりそうなもんがロクにねぇ」

(確かに、ハズレだった。パソコンを見た時は、期待したんだけれど―)

残りの部屋からも、大したものは発見できなかった。二つのロッカールームから出てきたものと言えば、恋人や家族のものであろう写真、名前も知らないグラビアアイドルのポスター、茶色く変色した替えの下着、ハンガーに掛けられた虫食いだらけの服、それに、パンパンに膨張した、恐らく腐っているだろうビール缶1ダースに、自然分解の始まった安煙草の欠片、って所だ。

「―ああ、せめてこのビールが飲める状態の奴ならなぁ。しかし、どうしてこっちの部屋はこんなに汚いし、臭ぇんだ?同じ様なロッカールームなのによ、さっきの部屋とは随分毛色が違うぞ―」

―ビールの缶を前足の爪先で突きながら、クロはそうぼやく。

シャワールームも同じ様なものだ。シャワールームで見つけたのは、一番奥のコーナーで、多分首を掻っ切って死んだのだろう、錆びた刃物を持って倒れている白骨死体だけだった。黄色く黄ばんだその骨には、僅かに腐肉がこびり付いている。(酷い臭い)私は顔を顰め、喉の奥から込み上げる吐き気を懸命に飲み込む。血や黴で、床や壁が一面赤黒く染まっている。袖口で口元を押さえて私は傍に寄ると、シャワーの蛇口に手を触れる。蛇口の栓は開いているが、シャワーヘッドからは水は出ていない。(…シャワーを出しっ放しで死んだんだな)(勿体ないこって)(でも、血が流れ切ってない。赤色が壁や床に沁みついてしまっている。と、いうことは、流れ切る前にシャワーが止まったって事だ。資源節制の為の、施設の機能に依るものか、施設の水源が枯れてしまったのか、それとも…)(水道管の破裂?そういえば、何処かで雨漏りみたいな音がしていた。それで水が来なくなった?)(―ま、どちらにしろ、あまり関係のない事か。こいつはもう死んでるし、ここでシャワーを浴びる予定は私にゃ無い)

「―ち、すっかり錆びちまってる。おおい小僧、こいつ研ぎ直したら使えそうかぁ?」

死体が握る刃物を睨んで黒猫が言う。梔子は首を振る。「だよなぁ…」溜息を吐きながら、クロは梔子の肩の上で縮こまり、自分の尾っぽで鼻先を覆い隠す。

「ああクソ、酷ぇ臭いだ。この馬鹿、どうして水気の無い所で死ななかったんだ?そうすりゃ、少しは俺達の足しになったかもしれねえのに」

遠慮がちに喉を鳴らし、梔子は苦笑する。私は笑う。(何か)一番入り口から遠い場所で死んでいるそいつを、私は臭いの届かない場所まで下がり、目を細めて眺める。(何かに追われて、ここに逃げ込み、扉にロックを掛けて、そして首を切った)

(これで武器を持った人間は3人)

(たった3人の筈がない。武器庫は三つ。もしかしたら、もっといっぱいあるのかも。下の方の階は未だ見ていない。下の階に、もしかしたら他の赤い動線の部屋が)

(他の奴は何処に行った?)

(ここで何があった?)

「―さ、もう行くぞ、小僧、カナエ。まだB1ですら全部回ってねえんだからな。全く、誰かさんが遅刻した所為で、時間が幾らあっても足りやしねえ―」

「…だから、遅刻じゃないって言ってんでしょ」

「11時は午前中とは言わねえ」

「なんでよ。一日を午前と午後に分けたら、11時は午前でしょ?」

「―世間にはなぁ、ええ?良く聞きやがれ小娘、『昼』って区分があるんだよ―!!」


B1の途中にある、あの下半分に血のべっとりと付いた、二基目のエレベーター前を通り過ぎる。

「…なぁ、この小部屋は調べねえのか?」

「ああ、これはエレベーターだから」

「?この前も言ってたな、それ。エレ―」

「『お宝が無い』って意味よ」

「なるほど」

前方に明かりが見える。“怪物”と遣り合った、あの円形のホールから漏れる光だ。私は少し歩を速める。首筋が強張っているのを感じる。昨日考えていた事を、何故だか思い出す。(―明日になったら、“こいつ”、元に戻ってたりして)そんな訳ない、と何度も自分に言い聞かせる。それでも足と、心臓の鼓動が自然に早くなっていくのを私は止められない。「おい、小娘」クロの声が遥か後ろに聞こえる。私は殆ど駆け足みたいな速度でホールの入り口を潜る。

割れた天井から差し込む日差しの強さに顔を顰める。(…今度からは、帽子も持って来ないとな…)私はぼんやりとそう考えながら歩を進める。今日の空は青色が強い。と、いう事は、今日はあまり風が吹いてないんだろうか。そう言えば、今日はあの煩いくらいの風の音をあまり聞いていない。(赤色の砂が、空の色に混じらないから―)考える。考えながら歩き続ける。ホールの割れた天井から侵入して来た、赤色の砂山の裾野に立つ。頂点を見上げて、ぞわり、とする。

“怪物”の死体が消えている。

(落ち着け)

冷や汗が吹き出る。浅く呼吸を繰り返す。あの、砂山の山頂で、石像みたいに直立して動かなくなっていた、“怪物”の死体が鮮やかに消えている。まるで最初からそこに無かったかのように。どこかの業者が持っていってしまったみたいに。私は掌で汗を拭い、前髪を掻き分ける。

「小娘、はしゃぐな、落ち着けって。急いだって、分け前は変わらんぞ―?」

後ろからクロの声が聞こえる。

私は太股を軽く叩き、鉛が入った様に動かない足を急かして、一歩前に踏み出す。

―シャラン、と背後で素早く鉄の擦れる音がする。梔子がナイフを抜く音だ、と振り返らなくても分かる。(…全く、ホントに出来る男だよ)一拍遅れて、クロの声が聞こえてくる。

クロの間抜けな声が。

「…あー、こ―カナエ?一つ聞きたいんだがよ…あの、変異体のクソ野郎はどこに消えた?でっけえ岩みたいにその天辺に昨日は座ってたよな?昨日俺達が帰る前はよ。待ち合わせ場所の目印みてえにな。な?小僧、あのバケモンは何処行きやがった?あのバケモンの―あのバケモンの死体は、」

軽やかな足音が、一瞬で砂山を上る私に追い付く。肩を突かれ、私は振り返る。梔子と目が合う。梔子の金色の目と。梔子は一声唸る様に声を漏らし、先程拾った拳銃を私の手の中に押し付けてくる。(…重い。昨日の奴より、ずっと)けれども、まぁ、文句は言っていられない。私は拳銃を受け取ると、スライドを引き、マガジンを取り出して、中身を覗き込む。(空だ)梔子の肘を突く。梔子は無言で私の腕の中に、赤色の部屋で拾った予備の銃弾の箱を一箱落とす。(…どうすりゃいいんだ―とは、今は聞けないな)(箱の中にはバラで銃弾が入ってる。マガジンに一発ずつ詰めりゃいいのか?)(どっち向きに?)(そりゃ、弾が飛び出る方向に向かってに決まってるだろ、馬鹿―)梔子は背中からクロスボウを降ろし、私の左手と、後方広範囲を見張る様に、後ろ向きに歩いている。クロは前方と、私の右手側を見張ってくれているみたいだ。クロの柔らかい肉球が時折、私の頭を叩く。

「おい、早くしろ小娘、早くだ早く、早く早く早く、弾丸よりも早く―!」

(…煩ぇな、今やってるよ、今―!)

私は震える指でマガジンに弾を詰める。(マガジンに入る量よりも、一発多く弾を詰めるんだっけ―?)(分からない)(薬室にも弾が入るから―装弾数は9+1発とか、12+1発とか、そんな風に書かれてた気がする)(昨日、寝る前に調べた時には)(分からない、知らない、知らないよ!)(クソ、適当で良い、適当で、弾さえ入ってりゃ―!)マガジンを銃に押し込む。(入らない、入らない、どうして―)(落ち着け)(スライドを引いてないからだ、だから薬室に弾が入らずに―)(落ち着け、落ち着くんだ)スライドを引く。マガジンが銃倉に収まる。安全装置を―(―?何だ、この銃)(安全装置が無い)(薬室に弾は込めちゃったぞ、このままじゃ、私―)(―脹脛の傷は、慎重さの欠如の証)(…?銃の左側面に、小さなレバーが、ある)私はそれに触れる。そのレバーを、左手でゆっくりと下に降ろす。その動きに合わせる様に、撃鉄もゆっくりと上に移行する。

(…成程。この銃はこういう仕組みなわけか)

(このレバーを降ろすと、撃鉄が上がって、引き金を引いても弾が出なくなる)(撃つ時にまた、撃鉄を降ろしてから使う、と)

(…めんどくさい銃だな)

私は拳銃を構え、漸く上を向く。クロと梔子が安堵した様に、同時に溜息を吐く。(…悪かったね、心配掛けて)私達は一塊になって、無言で砂山を上る。梔子の規則的な呼吸が耳の奥に響く。私は拳銃の撃鉄に両手の親指を掛ける。砂山の山頂に辿り着く。

私は拳銃を降ろす。

「…なんだ、こりゃ?」

クロが言う。(さあね。私だって、そう言いたいよ)そこには白い塊が横たわっている。大きな白い塊が。大きな、と言ってもあの怪物程のサイズじゃない、もっと小さな―(…なんだろう、これ。塩?じゃ、ないよな、もう少し黒っぽい白。石灰岩?それよりかは白い。カルシウム?化石?)―まるで、人間を固めた様なサイズの。

(…死体?)

(変異体の?)

梔子が躊躇なく歩み寄り、「あ、ちょっと―」ナイフの先端を白い塊に無造作に突き刺す。それだけで呆気無く、その白い塊は自壊する。そうなる事が最初から決まっていたみたいに。刺された部分から真っ二つに割れて、そこから四つに、八つに、ボロボロと勝手に崩れていく。赤い砂の上に、白い粉だけが残る。私はそれを、奇妙な気分で眺める。

(…なんか、こうしてみると、チョークの粉に似てるな、これ)

「ま―なんだ、一件落着、ってことで、いいのか?あれ、あの変異体…だよな、小僧?あいつは死んだんだよな?ああ、頭痛がして来やがった、なんなんだ、あいつら?死んだらこうなるなんて、聞いたことあるか?まあ、変異体が死ぬ所なんて見るの初めてだけどよ…というか、あの変異体、なんだよな?卵とか、脱皮した後の皮だとか、流した血が固まったのとか、そういうんじゃないよな?」

(―チョークって、何で出来てるんだっけ。確か、炭酸カルシウムとか、なんたらカルシウムとか)

「ああ、さっさと先に行くぞ、小僧、小娘。こんなとこに長居するのはもうご免だ、いつまた二匹目の変異体に出くわしたり、変異体の幼虫に出くわしたりするか分かったもんじゃねえ、とっとと依頼の品を見つけて、街に戻って一杯やるとしようぜ―」

(…まぁ、何かのカルシウムだ)

「おら、小娘?」

「分かってる、今行くわ」


ホールを抜ける。

その先には、さっきまでと同じ様な廊下が続いている。薄汚れて煤けた壁、罅割れたコンクリート、天井には白色灯。

違う部分は一つだけだ。床の動線。床には茶色の動線が、一本だけ廊下の奥へと続いている。それ一つだけ。他の色は、全てホールの出入り口で堰き止められている。

(…茶色)

(赤は武器庫。薄緑は生活用品や、衣料品なんかの倉庫。黄色は居住区、生活区画、まあ生活に直結する場所だ。紫は―良く分からない。青は―)

(青)

(エレベーター)

(空の色)

(…残りの色は何だっけ、ええと、確か、緑と、オレンジと、茶色だ)

(緑は薄緑と、オレンジは黄色と似た色だ。もしかしたら関連性のある場所かもしれない)(茶)(茶色)

(…茶色は)

「どうした、小娘?」

後ろからクロに声を掛けられる。私は彼らを見る。梔子が心配そうに私を見ている。彼の二本の指先が、思わずといった感じに、ナイフの柄に触れる。私は躊躇う。(何を?)根拠のない不安だけが胸の内にある。(下らない)廊下には茶色の動線だけが真直ぐに続いている。(考えるな。理由のない事は考えても仕方のない事だ)私はそれが不安なのだろうか?廊下には茶色の線が一つだけ。廊下は真直ぐに奥へと続いている。

(廊下の閉塞感が問題なのだろうか?さっき空を見たばかりだから)

(空)(青)

(真直ぐに続く廊下)

(窓のない廊下)(茶色の線)

(シェルター)(シェルターに必要なもの)(必要なものは、他に何がある?幾つかの部屋を見て来た。幾つもの部屋を)(倉庫、居住区、紫の部屋)(用途の分からない部屋)(…ホール、“怪物”)

(パスワード)

(この線の先には、多分―)

「…なんでもないわ」

「そうか?顔色が悪いぞ。一旦ここで休憩にでもするか?誰かさんが遅刻して来た所為で、もうそろそろお昼だしな。ああ誰とは言わねえけどよ、なぁ?別に誰の所為だとは―」

「ケツの穴の小さい猫ね。そんなんだからモテないのよ」

「バッ―!!そんな事無いですー、モテますー、モテてモテて困りますー、老若男女に大人気ですー」

「男も含めるんだ」

「………老若女?」

「語呂が悪いわね」

私は笑う。クロの気遣いに感謝する。廊下の奥へ歩き出す。茶色の動線を追って。

「―ほら、何してんの、置いてくわよ?」

「…ああ、へいへい。今付いて行きますぜ女王様よ、っと」


廊下が唐突に終わりを迎える。

廊下の突き当たりには扉がある。塵と埃で薄汚れた鉄扉が。扉の足元で茶色の動線は途切れている。(ここが目的地?)私は扉を見る。その扉は、今まで見て来たこの施設の扉とは大きく違っている。先ず、色が違う。それまで見掛けていた他の扉とは違って、この扉は着色されている。

―黒と、黄色の縞模様に。

(…ここは、異世界。私達の世界のルールは当てはまらないかもだけど)

(黒と黄色)(意味は、子供だって知ってる)(踏切の車留め、駅のホームの縁、工事現場のフェンス―)

(警告色)

(“危険、立ち入り禁止”)

扉の左脇にパスワードパネルが設置されている。そのパネルも、今までのものと比べて一回り大きい。そのパネルの下部には、何か薄い形状の物を差し込む細いスリットが開いている。

(…まぁ、ここには、多分)

私はナップサックを開ける。中から昨日拾って置いた、【区分・研究員】のネームカードの束を取り出す。その内から一つを適当に選んで、クリアケースからカードを抜き出す。(Ryosuke Tokita。トキタ・リョウスケ。時田、十北、或いは鴇多?)私はそれを左手の中で弄びながら、扉に近付く。扉を見る。その扉は、今まで見て来たこの施設の扉とは大きく違っている。

扉の表面には傷がある。

扉の表面には無数の傷が。

銃弾の痕、何か巨大なによって残された爪痕、体当たりによって扉が拉げた跡。(変異体?)刃物の痕、人のサイズの爪痕、拳の跡、そして、掌の跡。(…よっぽど、この中に入りたかったらしい)銃弾と刃物の痕は執拗に刻まれ、拳と爪と、掌の跡は血に塗れている。皆、骨になってしまう程に時間の経ったこの施設で、未だ色濃く残る血の跡に執念を感じる。私はそれに触れる。血は完全に扉に染み付いていて、私が触れた所で掠れる事も無い。私は笑う。掌の跡に、自分の手を重ねる。

(…大きい。大人の手形だ。多分私よりも、ずっと大人の人の)

(このひとはどうなっただろうか。上手く逃げ延びただろうか。それともここで死んだのか)

(…どっちにしろ、この辺りに骨は無い)

「―小娘?」

クロの促す様な声に、私は振り返って肩を竦めてみせる。パスワードパネルに近寄る。左手のカードをパネル下部のスリットに差し込んで、それから、暫くの間考える。

(…さて、パスワードは)

(0*12じゃないかも)(可能性は大いにある。この扉はどうやら特別だ。茶色の動線、警告色の扉、個人用に配布されたカードを必要とする、パスワードパネル)(別個にパスワードを用意されている可能性は十分にある)(だとしたらどうだっていうんだ?どうせ他のパスワードなんて分かりっこない。一から調べて行くのも不可能だ。0を含む12桁のパスワードは何通りあるんだっけ?)(4桁で、10の4乗で10000だから―)

(1000000000000)

(…ってことだ。出来る選択肢は他にない。パスワードを変えてくれた要因が、こいつにも作用してる事を祈るんだね)

(“幸運を信じろ”…って訳だ)

人差し指を持ち上げる。私は数字を入れていく。背後で梔子が、落ち着かないのだろうか、何度も足を踏み変える音が聞こえる。クロが口を開く。心なしか、不安そうな声をしている。

「―な、カナエ、ホントにここに入んのか?」

「何だ、怖くなった?」

「違ぇよ、ただ、この扉―さっきまでのと大分違うな、と思ってよ」

「うん」

「なんか、嫌な色してるし」

「うん」

「傷だらけだしよ」

「うん」

「なぁ、おい、小娘小娘、聞いてんのか?こっちは真面目な話をだなぁ―!」

「聞いてるよ。でも、だからってどうすんのさ?この先に、あんた達の依頼の品があったら?扉の色が嫌な色だから帰る?扉の表面が傷だらけだから、帰る?それで、依頼主にはなんて報告するの?」

「そ―!…う、は言ってねェだろうがよ、ただ、俺はよぉ、もう少し、何て言うかさぁ………」

【************】

(おっけー)

エンターキーを押す。途端にぷしゅう、と気の抜ける音がして、大扉がガッチャガッチャと喧しく動き出す。思わず口笛を吹く。カードキーをパネルに突っ込んだまま、私は左手を、上着のポケットに入れていた拳銃へと持っていく。

(重い)

拳銃をぶら提げ、私は笑う。拳銃を軽く両手で握り、扉の正面から数歩下がって、梔子の隣に並ぶ。彼らの方を見る。彼らと目が合う。梔子は困った様な目をして、クロは呆れた様な、驚いた様な、諦めた様な、泣きたい様な顔をして私を見ている。私は微笑む。扉を見る。忙しない音を立てて、扉は少しずつ開いていく。

―ギイ、ガシャ、ガッコ、ガッコ、ガッコ、…。

「………何て言うか、もう少し慎重にというか、安全にやってもいいんじゃねえかと思ってよ。命を大切に、っつうかさぁ。俺はまだ死ぬのは御免だ。この奥に、変異体がウジャウジャいたらどうすんだ?」

「頼りにしてるよ」

「お前、馬鹿なの?昨日、どんな目にあったのか、もう忘れたのか?こんなあからさまな、ええ?怪しい扉、行かずに済むなら、それに越した事は無ぇって―」

「“虎穴に入らずんば虎児を得ず”よ」

「ああ?コ…ケツがどうしたって?」

「リターンが欲しけりゃリスクを認めなさい、ってこと」

「…ああ。そりゃまた胸糞悪い言葉だな。俺が好きな言葉、教えてやろうか?」

「別に良いわ」

「“タダ”、“一攫千金”、それから、“新鮮な養殖鰯”、だ。よおおく覚えとけ、小娘―」

―ギイ、ガシャ、ガッチャ、ガッコ、ガッコ…ガチャ。        

扉が開く。電子音声が囁く。

『扉が開きました』

私は笑う。

「さあ、開いたわ。行きましょう」

「ちょっと待て、なあ、ホントに行くのか、小娘、小僧―?な、おい、今からでも止めにしないか、今からでも“タウン”に帰ってよ、そうだ、カナエ、お前にタウンの案内をしてやるからよ。お前この辺にゃ最近来たんだもんな、きっと田舎モンのお前には珍しいもんが沢山あると思うぜ―先ずは鰯の養殖場をだな」

「デートスポットとしては最悪ね」

「何がだよ、お前、鰯を馬鹿にしてんのか?」

「…鰯じゃないよ、あんたを馬鹿にしてんの」


扉の向こうには少し薄暗い空間が広がっている。

床には濃いブルーの絨毯、壁際や部屋の中央には良く分からない機械がごちゃごちゃと積み上げられ、入口から左手の壁には、ぼんやりと発光するディスプレイが所狭しと並んでいる。(…なんだか、虫の複眼みたい)暗がりで光るディスプレイのバックライトが目に痛い。部屋の入り口、直ぐ右手の壁には、階下の他の部屋同様、パスワードパネルが設置されている。ここのパネルには、部屋の外の物と同様、下部にカードを差し込むスリットがある。私は天井に目を向ける。部屋の中の明りは全て、暗紫色で統一されている。(…?どうして、ここだけ?)ナップサックから懐中電灯を取り出す。梔子とクロは、それを見て顔を顰める。私は苦笑する。

(そんな顔すんなよ。私はあんたらと違って、夜目が利かないんだからさ)

部屋に半歩踏み込む。

途端に、微かな腐臭が私の鼻を突く。(…こりゃ)私は入り口で立ち止まり、暫くの間、その場で呼吸を繰り返す。口、口から鼻、鼻から口、鼻。(―この部屋で何かがあった事は、間違いなさそうだ)

懐中電灯のスイッチを入れる。

(…前に電池を入れ替えたの、何時だったっけ、これ。帰ったら、予備を買いに行かないと)

―麻痺した鼻が、腐臭を感じなくなる。私は鼻先を擦ってから、部屋の中に入る。懐中電灯で部屋の中をざっと照らし出す。直ぐに部屋の中に、の痕跡を見つける。

(骨)

白い骨。この施設に来てから幾つ見つけただろう。今更それを見掛けたからと言って、どうこう言う程のものでもない。(…そっちの方も、ちょっと、麻痺してきたかな)(まあ、あんだけ見掛けてりゃ)(すっかり荒んじゃって)(昔はそんな子じゃなかったのに)ただ今回は、その量が問題だ。部屋の中央、機械が沢山並んでいる辺りに、段ボールやペットボトル、缶詰なんかの空き缶と混じって、白骨が山と積み上げられている。(…骨には詳しい方じゃない、なんせ実物を見たのは昨日が初めてだ、けど)腕の骨だか足の骨だかは分からないが、白い真直ぐな骨だけで、40本以上ある。思わず口元を覆う。

「おい、ありゃ…」

クロがそう言葉を漏らす。正直嫌な予感しかしなかったが、私はそちらの方向へと懐中電灯を向ける。部屋の一番奥、天井と壁の交わる部分に、何かを突き刺した様な穴が無数にある。その場所の中心に、一本の鉄の棒が刺さっている。鉄の棒は真ん中の辺りで、天井の方へ向かって折れている。鉄の棒には縄が結わえてある。縄は地面へ向かって垂れている。

縄はその先端の部分、鉄の棒に括りつけられているのとは逆の部分を、円形に結ばれている。

(首吊りロープ)

さしものクロも絶句している。(…死体は見慣れてる風だったのにな)(でも、私だって、これはキツい)(そういうものなのかもな。何だって、いつかは慣れる)(骨も血痕も、只の記号に過ぎない。本物を見た訳じゃないんだ。実感が無い。大丈夫)(だけど、これは…)(誰かの死体を見せつけられるより、ある種生々しい気さえする。誰かが自分を殺す為に作った装置。壁の辺りに苦心の跡。鉄の棒に工夫の跡)(あれで誰かが死んだ)

ロープの下に目をやる。ロープの下には骨が転がっている。私達より先にこの部屋に入った人が他にいないのなら、多分、このひとが装置の製作者だろう。私は懐中電灯で頭蓋骨を照らし出す。頭蓋骨が絨毯の上で白く輝く。頭蓋骨は向こうを向いている。

(…どんな状況だったのか。沢山の骨と、ロープ)

(分からない)

骨の山の傍に歩み寄る。私はそれを無視して、段ボールと、機械の山の調査に取り掛かる。段ボールの中身は、どうやら食料品と、飲料水が殆どだったみたいだ。空き缶や、水か何かが入っていたペットボトル、乾パンが入ってたらしい袋、それと、一組だけトランプを見つける。トランプは箱の底で全てバラバラに引き裂かれている。バラバラになったトランプに、一枚だけ別のカードが紛れこんでいる事に私は気付く。それを拾い上げ、懐中電灯で照らして見る。六つに分かれた切れ端の一つだが、妙に見覚えのある形状をしている。カードの切れ端には文字が記載されている。私はそれを目で追う。

【―分・研究員―】

「―収穫はどうだ、小娘?」

私は首を振る。機械の山の方を見る。機械の方はどうやらPCだ。その大半が拳や、鉄の棒で叩き割られ、何度も執拗に踏み砕かれている。(…ここの人間は、パソコンにどんな恨みがあったってんだ?)(AIの反乱?機械文明との戦争?)生きているPCを一台見つける。ディスプレイの右半分に二発の拳で大穴を開けられ、本体部分にも2発の銃弾の痕があるが、辛うじてそのPCは生きている。(…全く、耐久試験でも、多分ここまでやらないだろうに)ディスプレイは点滅するし、時折ブラックアウトもするが、マウスもしっかりと認識しているみたいだ。(キーボードは、見当たらないけど…)私は画面の中を覗き込む。明滅する画面の中には、幾つものメッセージが乱立している。

(?)

マウスを動かし、メッセージをひとつ、クリックする。そこにはこう書いてある。

【この施設全体のパスワードを“000000000000”に変更します。宜しいですか?】

私はマウスを動かし、次のメッセージを見る。次を。その次を。

【施設全体のパスワードを“000000000000”に変更しました】

【この施設全体のパスワードを“000000000000”に変更します。宜しいですか?】

【施設全体のパスワードを“000000000000”に変更しました】

【この施設全体のパスワードを“000000000000”に変更します。宜しいですか?】

【施設全体のパスワードを“000000000000”に変更しました】

【この施設全体のパスワードを“000000000000”に変更します。宜しいですか?】

【施設全体のパスワードを“000000000000”に変更しました】

【この施設全体のパスワードを“000000000000”に変更します。宜しいですか?】

【施設全体のパスワードを“000000000000”に変更しました】

【この施設全体のパスワードを―】

(…気が、)

(狂いそうだ)

途中で読むのをやめる。私は眉間を揉み解しながら、PCの前を離れる。(…良く分からない)私は懐中電灯の明かりを消し、また付けては、考える。(ここで全施設のパスワードを変えた。パスワードはゼロ12桁)(何故?)(分からない。おかしくなりかけてたみたいだし。既におかしくなっていたのかも)(トランプを破り、骨を山と積み上げ、PCを壊す。銃を撃つ)(首吊り用のロープは一本)(何だって良かったのかも。1の12桁でも、2の12桁でも。たまたま連打していたボタンが0だっただけで)(私にとっては、運が良かった事に)(ロープは一本。彼は最後の一人)(違う、問題はそこじゃない、問題は―)(問題)(―問題は、どうしてパスワードを変えたのか)

(破れたカード)

(昨日の変異体。白衣を着ていた。白衣には沢山のカード)

(…カードを集めていた?)(変異体の習性?)(自分のみたいなのが残ってて、生前の行動をなぞりながら、より狡猾に人を―)

(外では何かが。パニックになる何かが。何かが起こって―)

ふと、クロと梔子の方を見る。彼らは入り口から向かって左手、壁際に複眼の様に敷き詰められているディスプレイの前に立っている。私は彼らの傍により、彼の背後からディスプレイを見る。

(…?映像?)

ディスプレイには掠れた色の付いた映像が映っている。薄汚れて罅割れたアスファルト、8色の動線が並ぶ廊下。扉の下半分が赤く汚れているエレベーター、砂で半分以上埋まった円形のホール、それに、壁に黒いマジックで書かれた、大きな円形の印。

(監視カメラ)

冷や汗が流れる。(どういう基準でカメラの位置を設定している?居住区は?居住区の映像は?)(“扉”は?)(彼らは“扉”を見たか?向こうの世界への“扉”を?“扉”は映ってるか?)(ああ畜生、もし、もし彼らが“扉”を見ていたら―)(心配は後だ。映像を確認しろ。彼らより早く。もし、映ってる画面を見つけたら―)(壊す。破壊する。破壊するんだ)私は彼らを押し退けて、一歩踏み出そうとする。

途端。

「ああ、クソ、畜生、最悪だ―」

―クロがそう喚き出す。

私は悲鳴を上げそうになるのを堪えて、クロの方を振り返る。クロは私の事など気にも留めずに、悔しそうな、苦しそうな、吐きそうな顔をして、映像のただ一点を見上げている。梔子も同じ方向を見上げている。クロのものよりももっと険しい、厳しい表情を浮かべて。私は彼らの視線の先を追う。複眼の左上辺りに、私はその映像を見つける。

「―こんな依頼引き受けるんじゃなかった。ああ最悪だ、爆弾8個も使って、変異体と鬼ごっこした挙句、これかよ―笑えねえ、全く笑えねえ。最悪だ。足が出るどころの騒ぎじゃねえぞ、畜生。『発見から10年以上経った今でも衰える事無く稼働し続ける夢の動力炉?』それを『“タウン”の未来の為に持ってきてくれたまえ?』冗談じゃねえ、そりゃ、衰える訳がねえぜ―あんなもん、持って帰れるわけがねえだろうが、馬鹿野郎―!」

私はそれを見る。

監視カメラの映像は軒並み薄い色をしていたが、その映像だけは一目で他と違うと分かる、鮮やかな緑色の光を放っている。映像の中心には五月の新緑の様に濃い緑色の炎がある。(…いや、火、じゃないな。光?)短い光の束が、床に開いた直径15メートル程の穴の中から絶えず、立ち昇っている。(なんだろう、あれ)(強い光)(綺麗。でも、不安になる…)穴の底は見えない。穴の中に向かって、14、5のケーブルの先端が無造作に垂らされている。

(…なんだろう、この光を見ていると、何か…)

いきなり背後から視界を覆われる。ぶかぶかの、皮の手袋に覆われた、小さな手。微かに血の臭いがする。

(…?梔子?)

「おい、あんまりあれを長い事見んじゃねえぞ、小娘」

―続いて、クロの声。

「…?どうして?」

「…どうして、って、なぁ…。ったく、お前の無知さ加減には心底恐れ入るぜ。生まれたての赤ん坊の方がお前より物を知ってるくらいだ。ホントに良くそれで生きて来られたな―いや、もしかしたら、お前、実はもう死んでんじゃねえか?」

「かもね。で、どうしてなの?」

「………。あのな、あれは、“炉”だ」

「“ロ”?」

私は梔子の皮の手袋を退け、もう一度映像を見る。梔子は、強くは抵抗しない。緑色に発光する映像を眺めていると、相反する感情が強く胸の内に熾るのを感じる。安心と不安。光を長く見ていると目がチカチカする。その度に、何かを思い出しそうになる。

(何か)

「“炉”は………。ああ、クソ、どうしてそんなに何もかも知らないんだ?脳味噌を何処に置き忘れて来ちまったんだ?どうしたらそんな馬鹿になれるんだよ?常識だぞ常識、程の常識だぞ!!」

「うん、うん。それで?」

「……………………………………………………………………………“炉”は、小型の“神の柱”だ」

(何かを)

光の束の周りに人影が現れる。一人ではない。8人、9人、10人と―今まではカメラに映らない範囲に居たのだろう、20人程の人間が緑色の光の束の周りに集まって来る。彼らは無気力に歩き回ったり、光の束の傍に座り込んだり、若しくは画面外に出ていったりと、各々が好き勝手に行動している。歩き回っていた一人が、光の傍で座り込んでいた者にぶつかって体勢を崩す。バランスを崩した彼は、そのまま光の束の中に落下していく。映像の中の彼らは、それを助けようとも、咎めようとも、嗤おうともしない。落下した彼は、悲鳴を上げる事も、暴れる事もなく、光の中に静かに沈んでいく。

「長時間見るなよ。抵抗の弱い奴は、映像だけでも変異体になっちまう」

映像の中に残る20人程がその人間の形をゆっくりと崩していく。(何か)あるものは体中に無数の目玉が浮き出て、あるものは頭の頂点から胴体が二つに裂けて、その中身が口の様になっている。ある者はお腹から腕が生えてくる。ある者は腕が10倍、20倍の長さに伸び、7、8本に増えて、指先の肉が全て小削げ落ちて骨が剥き出しになっていく。ある者は口から紫色の液体を吐き出し続けている。ある者は体を甲羅の様な物で覆っている。あるものは体中から骨が付き出している。あるものは背中に無数の別人の顔を背負っている。あるものは。

あるものは。

(…これが理由か?)

(閉鎖空間のストレス?宗教?それとも、自分自身を消し去りたいだけだったんだろうか?)(“ここでは無い何処か”)(何が引き金だったんだろう。或いは何もかもが引き金だったのか)(痛みの無い、意識だけの自殺)(光を見るだけ。光に触れるだけ)(難しい事は何も無い)(20人くらい。もしかしたら、カメラに映らない所に、もっと居るのかも)(最悪だ。クロの言う通り、私にとっても)(あれ一匹だけじゃなかったんだ。当然の様に。)(あれは何階だ?画面の何処かに書いてないか?あれは何階にある?)(開けては駄目だ。開けたら死ぬ)

(…が起きたんだ)

(兵隊は奴らの所に行ったんだろう。抑止力が消えて、そしてパニックが起きた。もしかしたら、彼らは知らされてなかったのかもしれない。自分達を破滅させる光が直ぐ側にある事を。その光から生まれる副産物を享受して生きている事を)(ここは“シェルター”)(外の脅威から…多分、“神の柱”から逃げて来て、それから、“炉”によって生かされていたんだ。狂いたくもなるものかもしれない)(その後は、物資の奪い合い。知人の胸に消防斧を突き立て、ありったけを奪い合う。全く、酷い世の中だ)

(それからは?変異体も上階に昇って来ただろう。昨日のは、その内の一匹かもしれない)(ネームプレートを集めていた。あの内のどれかが、彼の名前だったのかもしれない。それか、人間だった頃には、収集癖のある人だったとか。それとも、ただ、人の残り香に惹かれていただけかもしれない)

(兵隊は?全滅したと言う事は無いだろう。やり過ごすだけなら簡単だ。少なくとも、誰かが囮になっているうちは)

(この部屋の入り口)

(この部屋の入り口には傷があった。無数の傷が。拳の痕が。銃痕が)

(…生き残った人間の内、一つの集団がここに逃げ込んだ。ここが一番セキュリティの高い部屋だったからだろう。パスワードとカードの2ロック制。もし自我のが強い変異体がやって来たとしても、内側からパスワードだって変えてしまえる)(銃もある。銃もあった。…今は見当たらないけど)

(…それで、結局、この中でも問題が起きたんだろう)

(まぁ、当然かもしれない。人は閉鎖空間の中で長く生きていけない。ここに移り住んだのは、大きい檻から小さい檻に引っ越す様なものだっただろう)(小さい分、囲いが目立って見えたのかもしれない)(首吊りロープ)(あのひとは出たかったんだろう。何度も何度も試した跡がある。でも、ここのパスワードは特別だった)(ここは2ロック制)(パスワードがどれだけ簡単でも、カードが無ければ意味は無い)

(…いっそ、変異体になってしまえれば、楽だったんだろうけど)

(でも、彼には効かなかった。抵抗があったんだ。)

「おい、カナエ―」

(確かに、この光には何かがある。委ねてしまいたくなる様な何か。自分の大切なを)

(何か…)

目がチカチカする。目の前に光が閃く。脳裏にある光景が浮かぶ。思い出す、と言った方が感覚的には近い。見た事のある風景だ。夕日。窓。小さな部屋。部屋の両脇には天井まで届く大きな本棚。本棚には上から下までびっしりと本が敷き詰められている。私はパイプ椅子に座っている。窓は開いていて、そこから風が流れ込んで来る。窓際には老人が立っている。

(…誰?)

見た事のない老人だ。白髪で、顎にはたっぷりと髭を蓄え、白衣を着て、小さな背中を丸めて、疲れた様に微笑んでいる。会った事のない人だ。名前も知らない。なのにその姿だけで、締め付けられるように胸が痛む。(あなたは)(知らない)(誰?)(懐かしい)(知らない人)(デジャブ?)(会った事がある?)(知らない。知らない。知らない)(名前)(名前を)

(何か)

(名前を呼んで)

『もう直ぐ完成だ』

―と、老人は言う。私は頷く。お茶を啜る。お茶受けの、豆大福を頬張る。老人は目を細めて私を見る。それから窓の外を見る。

『…あれの研究に、私は全てを捧げて来た。文字通り、生涯を』

『知っています』

と、私は言う。そんな積りはないけど、とても素っ気なく聞こえる声で。老人は気を悪くした風も無く、只、笑うだけだ。

『君達のお陰だ。…つまりは、その、礼を言いたいんだ。君達が居なければ、私の存命中に結果を出す事は出来なかっただろう』

『未だお若いじゃないですか』

『そんな、儂はもう70だよ』

『猫も杓子も、100まで生きる時代ですよ?』

ふん、と私は鼻を鳴らす。老人は笑う。老人は笑っている。夕日の中で、満足そうに、幸せそうに、疲れた様に。『こうして二人で茶を啜るのも、これが最後かもなぁ』私は手の中の豆大福と、湯呑を見る。私はにやりと笑い、口を開く。私は、

「おい」

―私は涙を零す。

「―おい、おい、しっかりしろ、小娘!!」

目の前にクロの顔が大写しになる。私は混乱する。視界がぼやけている。慌てて目元を拭う。掌に涙の温かい感触がある。(??)どうやら自分が泣いているらしい、と言う事に、遅まきながら気付く。(何)(?)(なんだ、あのじいさん)(…?)涙は直ぐに止まる。クロは私の右肩の上に乗って、私の顔に鼻先をくっ付ける様にして、私の顔を覗き込んでいる。時折柔らかいその肉球で、私の頬をぺしぺしと叩く。

(…肩が重い)

「大丈夫か!?ああ、だから言ったんだ、あれをあんまり見るなって。弱い奴は一瞬で持ってかれんだ。ほら、お前、色々と弱そうだから、その…免疫とかだな、」

クロはゴニョゴニョと口の中でその続きを呟く。私は肩を竦め、失笑する。(…今、“頭”っつったな、このクソ猫)もう一度目元を拭う。まだ、少しヒリヒリする。梔子を見る。心配そうな顔をして、彼も私を見ている。(…どうやら、随分心配を掛けたみたいだ)少し反省する。クロの首筋を柔らかく撫でながら、その胴体に口を埋めて私は言う。

「…悪かったよ。忠告を聞かなくてさ。その、ちょっと気になって」

梔子は首を振り、優しくその目を細める。クロは喉の奥で唸り声を上げ、私の手を押し退けて、(「離せ、この―」)梔子の肩へ素早く飛び移る。

「………ふん、分かりゃ良いんだよ、分かりゃ。テメエが如何に無知で蒙昧かを、自覚しやがれ」

「ごめん」

「…まぁ、反省してんなら許してやるよ、今回だけはな。いいか?今回だけだぞ」

「ん」

「………で?」

「?」

「大丈夫なんだな?その………変異体には、なってないよな?」

「ああ」私は言い、「うん…」首を傾げる。

「…なんだよ。不穏なリアクションだな…」

「なってないと思うな。まぁ、自分じゃ良く分からないけど。どうなんだろ。自覚症状とかあるもんなの?」

「さあ。生憎俺ぁ、変異体になったこと無いからなぁ…」

「なんだそりゃ。まぁいいや。さっさとほら、私に聞いて?」

「?何をだ?」

「ナゾナゾだよ、馬鹿。ほら、早く」

「あ―ああ。そうか。そりゃそうだな。それじゃ、行くぞ―」


「―パンはパンでも、食べられないパンは?」

「フライパン。ねぇ、レパートリーはそれ一つだけ?他のナゾナゾは無いの?」

「良いんだよ、どんなナゾナゾでも、答えられなきゃ変異体なんだから。一個ありゃ充分だろ?謎なんてひとつで沢山だ」


「いただきます」

―手を合わせる。

赤い砂が半分以上を占める、あの円形のホール。私達はそこで、遅めの昼食を摂る事にした。ナップサックから水筒を取り出し、膝の上にコンビニで買ったパン達を並べていく。(目玉焼きトーストに、オニオンブレッドに、チョコレートデニシュ―)腕時計をチラリと見る。(13:41)(成程、道理で空腹でクラクラする訳だ)(まぁ、今日は見る部屋も多かったし―)

パンの包装を破る。トーストを口に咥える。

(めんたま焼き)(私、目玉焼きは冷えてる方が好きなんだよね。どうしてかは分からないけど。卵焼きは熱々が良いんだけれど)(ああ、このトーストのザラザラとした舌触りと、目玉焼きの冷えて固まった感触が―!)

「―さて、それじゃ、これからどうするか、だが」

梔子の膝の上で億劫そうにジャーキーを齧りながら、改まってクロはそう言う。私はトーストを咀嚼しながら彼らを見る。梔子は缶詰の容器に短く切った細い竹筒の様なものを入れ、それをマフラーの下から口元に差し込んで、中身を啜っている。(…食事の時くらい、取れば良いのに、マフラー)梔子は私が見ている事に気付くと、恥ずかしそうに頬を染めて、少し俯く。(…何故だ)

「どうする?どうするって?」

「お前がどうするか、って事だよ、カナエ。俺達ぁ、“タウン”へ帰る」

「?どうして?下の階は、見ていかないの?」

思わず私はそう口走る。(―ああ、誘導してどうする、馬鹿。“扉”を見られたらどうする?私の第一は“扉”の隠蔽だ。せっかく、こいつらが帰るって言ってんのに―)

「…まぁな。動力炉を見つけはしたが、ありゃ“タウン”には持って帰れねえ。つまりは、今回はタダ働き、ってこった。幾らここで小銭を拾ったって割に合わねえよ。使っちまった爆弾分の赤もあるしな。それに、この階みたいに、開いてない扉が下の階にゴロゴロあるなんて、俺には思えねぇ。なんせ、ここは10年以上前から、新米もベテランも、こぞって訪れてるシェルターだからな。実際、B8から下は取るもんも無くなって、階段すら崩して持ってかれてる、って聞いてる。ありもしない小銭を探して溝浚いする位なら、“タウン”に帰って新しい依頼を探す方がマシだわな」

渋い表情を浮かべながら、のろのろとした調子でクロはそう淡々と零す。まるで事実に抵抗するかの様に、のろのろと。(赤)(赤字?)(ああ、そうか。彼らは、ここに仕事で来てたんだったな―)

(―何て言ったっけ。ディガー?)

渋面を浮かべて、クロはジャーキーを一口ずつ切り取っていく。まるで肉の干物が、茶葉の出涸らしに変わってしまったみたいな表情だ。(…うん、その。申し訳ないけど、少し面白い)(けど、そうかぁ。私と違って、彼らは生活に直結してるんだよなぁ)(あれだけの苦労をして、死ぬ思いまでして、依頼の品が持って帰れないものなんで報酬は貰えません、じゃ割に合わないよな)(…結構、キツい仕事なのかな、ディガーって)(でも、クロは何処か、こういう結果にも慣れてしまっている感じだった。報酬が貰えない事、意外と多いのかもな)

(だとしたら、それは―)

「―それに、報酬の話もしなきゃならねぇし」

「?報酬?」

「馬鹿。分け前だよ。お前の分け前の話だ」

「別に良いよ、私は。特別役に立った、って訳じゃないし―」

クロに金色の眼でじとりと睨まれて、私はその先の言葉を飲み込む。「煩ぇ、俺はプロだ、何事もフェアに行く。お前だって言ってたろ?相互尊重だって。お前は働いた。十二分にとは言えなかったかもだがな。遅刻もしたし」

「遅刻はしてない」

「…。兎に角だ。お前は働いた。命を賭けて。だったらその分の分け前はきっちり払う。それがプロってもんだからな。お前は砂山から滑り落ちる様なドジな小娘だが―」

「…そりゃどうも」

「―飛んでくる岩石にビビらない女でもある」

「ありがと。もしかして、それって褒めてる?」

「褒めてるよ、察しやがれ。まぁ、分け前の話は、また後でも良い。金が良いなら金に換えた後でも良いし、現物が良いなら、手に入れたもんから適当に選んで持ってけ。但し1/3だぞ、そこは譲れないからな。何しろお前は一人で、こっちは二人なんだ」

「あいあい、サー」

「…(クロは暫く、怒気と寛容の狭間で揺れ動く複雑な視線を私に注ぎ続ける)…まぁいい、それで、お前はこれからどうする?」

「どう―…」

「俺達と来るか?」

少し考える。本当に少しの間。私は目玉焼きトーストが入っていたビニールを綺麗に四つ折りに畳み、膝の上に置いて、クロの眼を見る。彼らの眼を。クロの背中を、皮の手袋を嵌めた手で軽く梳きながら、梔子が優しい目で私を見ている。その目にちょっとだけ、勇気付けられる。

私は言う。

「―いいえ。私はここに残るわ」

「…そうか………」

「仲間が―、」記憶を必死に辿り、彼らに以前話した作り話を苦労して思い出す。(仲間と逸れて、酷い砂嵐に見舞われて。運良くここを見つけて)「―仲間が、ここに来るかもしれないからね」

「…なぁ。例えば、こういうのはどうだ?メモとか、看板を残すんだ、シェルターの外壁とかにさ。お前が“タウン”に居る、って。ここと“タウン”は近い。直ぐに見つけられるさ。だから、こんなとこに一人で居るよりかは―」

私は微笑んで、首を振る。

「―文字の読めない仲間も居るの」

嘘を吐く。息を吐く様に。嘘を塗り重ねていく事に、罪悪感は無い。

―ただ、破綻する時が来るのが、少し怖いだけだ。

(嘘)(嘘ってのは、本当の中に少し混ぜるもの)(絵具の様に)

(少しずつ水に溶かすんだ。色が変わったと気付かれない様に)

(全部を嘘で塗り固めようとすれば、必ず何処かでボロが出る―)

「…けど、お前がここに来たのって確か、四日か―五日前だろ?砂嵐にも遭ったって。カナエ、そいつらはよ、多分、とっくにさ―」

梔子がクロの口元を、そっと覆う。クロは顔を上げる。梔子は首を横に振る。梔子はクロの口元から手を離し、またその背中を静かに撫で始める。クロは視線を降ろし、その目を私に向ける。

「あ…あ。…そうか、ああ、じゃあ…」

クロは下を向く。その項垂れた肩を見る。私は左腕を持ち上げて、手首の腕時計を眺める。

(13:55)

(秒針は止まっている)

「けど、まぁ、日没までは未だ少しあるし」

「………………?」

「ちょっとだけお邪魔しようかな。ここから近いんだよね?」

クロが顔を上げる。私を見る。驚きで目を見開いている。金色の瞳を。唇が浮かれた様に緩み、その事に気付いたのか、慌てて唇を固く引き結ぶ。私は笑う。クロの背中を撫でながら、梔子も喉の奥でグッグッ、と笑う。

「あ―おう、そうか―おう!そうだな、それがいい―そうだな、ほら、ええと―報酬の話もあるしな!」

「そうね」

「けど、まぁ、お前、この辺は初めてだって言ってたよな?先ずはお前に、タウンの案内をしてやるよ。ああ、その、依頼人に報告が終わったらな。“神の柱”も知らない様な田舎モンの小娘にゃ、きっと目が回る位に忙しい場所だぜ―!」

「期待しとくわ」

「先ずは鰯の養殖場をだな―!」

「それは遠慮しとく」

「何でだ?お前、鰯に何か恨みでもあんのか?」

「恨みなんて無いよ。興味が無いだけで」




「おら、手を出しな。しっかり掴むんだぞ。いいな?途中で放すんじゃねえぞ、両手でしっかり小僧の手を握って―ああ、先に荷物を上に寄越せ、いくら小僧でも、お前と荷物を同時に引っ張り上げられるか分からんからな―因みにお前、何kgだ?」

「…分かったから、ちょっと黙ってて、クロ。それと、次に体重の事を聞いたら殺す」

B1の廊下。突き当りの、エレベーター。(最初に見つけた方。“青色”じゃない方。地下へ続いている方。B1からB10までの間を移動できるエレベーター)その近く、最初に“変異体”と遭遇した辺り、クロと梔子が“シェルター”に侵入して来たあの天井の裂け目から、砂の山を登って、私達はここを出る事にする。

理由は色々だ。

“青色”のエレベーターが機能するのか、昇った先がどうなってるか分からない事、万一1Fに上がれたとしても、施設の入り口が機能しているか分からない事、なにより、他の変異体が1Fに潜伏していないとも限らない。それに、クロと梔子のキャンプもB1の天井の裂け目の近くにあるらしい、と言う事で。

(…それと、エレベーター)

(エレベーターを使う事)

(クロと梔子はエレベーターを知らなかった。最初に会った時も、迷わず探索に階段を使っていた。深く意味を考えた事は無かった。エレベーターで行けない階がある可能性とか、エレベーターが動かない可能性を考えたのかもとしか)(事実、エレベーターで行けない階はあった訳だし)(R)(白骨カップル)

(…けど、あれは)

(知らなかった。彼らは知らなかったんだ。エレベーターぐらいどうという事は無いのかもしれない。それくらいで何かが変わる事なんて無いのかもしれない)(けど)

(だけど、彼らに)

(…彼らにそういった類のものの使用法を教える事に、何故だろう、少し、不安がある)

荷物を渡す。

梔子は片手で私のナップサックの肩紐を掴んでを軽々と持ち上げる。梔子はそれを乱暴に、地上の砂の上へ放り投げる。その拍子に砂埃が舞い上がり、日光に熱された赤い砂が私の頭上へと降り注ぐ。思わずそれを吸い込む。私は慌てて咳き込んで、それを口から出そうとする。

「ちょっと、気を付け―!」

梔子が申し訳無さそうに、捨てられた子犬の様な情けない顔をして、項垂れる。私は苦笑を浮かべ、彼の方に向かって両腕を差し出す。「…もう良いよ。お願い、梔子」しぱしぱと瞬きをして、彼はその手を掴む。思ったよりも、強い力で引っ張られる。(わ)あっという間に、私は地上に辿り着く。(…わ)

熱い。

日光が、空気が、地面が熱い。靴の上からでも分かる位に、赤い砂が熱を放っている。(うわぁ)梔子がナップサックを拾い上げ、私の方に差し出す。「…ありがと」額に汗が流れる。それが目の中へと入る。私は慌てて瞬きを繰り返す。蛙の声みたいな音を咽の奥で鳴らして、梔子が笑う。その肩の上で、クロも私を見て笑っている。

「地下育ちのモグラにゃちとキツいか?ひひ、地上へようこそ」

「…歓迎どうも」

目を拭い、額の汗を拭い、それから、歩き出した彼らの後を追う。(地上だ)(異世界の地上)(ああ、もっとドラマチックだと思ってた。ドラマチックな瞬間になるって。それが、こんなあっさりと)(地上)(異世界の)(砂だらけだ。見渡す限り、砂、砂、砂。赤い砂ばっかり。目が痛くなりそう)(空)(空は青い。紫っぽい青)(地上だ)(異世界に来たんだ―)

彼らの背中に続く。赤い砂の丘陵を踏み締める様に、昇る。(足跡が無い)(風が足跡を消すんだ)(砂漠だ)(本物の砂漠とどう違うのかな。生憎砂漠にゃ行った事が無いから)(ここよりも熱いんだろうか?)(頭がぼーっとする)(でもこれくらいだったら我慢出来るな。勿論、水分があるから、だけど―)

「ここを越えたら俺達のキャンプだ、もう少しだぞ、小娘―」

丘陵の山頂に近付く。陵線の向こうの景色が見える。(…丘陵の向こうにも丘陵、砂の向こうにも、砂)一面が赤い。赤い砂だ。海の水を全部、砂に入れ替えたみたいだ。風に削られて波打つ砂は、静止する赤い海みたいに見える。中々いい景色だ、と私は思う。絵葉書にでもすりゃ、良い観光スポットにでもなるんじゃないだろうか。

(…?)

(あれ、)

(なんだ、あれ)

「ほら、あれだ、見えるか―?」

私は返事を忘れる。

彼らの方を見ずに、彼らの声を聞かずに、私はある一点の方角を見続ける。(北、北西、かな。地下行きのエレベーターがあった方が西側で、監視カメラがあった部屋が東側だったから)青紫の空と、赤い砂。風が砂を巻き上げて、それを戯れに空に放り上げる。砂漠の事は知らない。けれど、違和感の無い風景に見える。自然の風景。何処にでもある、何処かにある、誰かが見た事のある。

が無ければ。

私はそれを見る。目がチカチカする。その度に、何かを思い出しそうになる。北西の方角に、青色を裂いて、赤い色を掻き消す様に、緑の柱が立っている。天蓋を支える様な、巨大な緑の柱。柱は新緑の様に鮮やかな緑をしている。周囲の色が霞む程、強く、色濃く、明滅して発光している。柱が脈打つ度、周囲の風景が広がったり、縮まったりしている様に見える。柱は遠くにあるのか、近くにあるのか、目測ではその距離が良く分からない。分かる事と言えば、その柱がとても巨大だ、ということだけだ。柱は天地を貫き、雲を越えて続いている。脈打つ度、その身を伸ばしている気さえする。施設にあった物とは比べ物にならない。その名を教えられずとも、直ぐにそれ、と理解する事が出来る。

(…神の)

私は見る。目がチカチカする。目の奥で視界を割る様に、映像が閃く。頭痛がする。何かを忘れている気がする。

(何かを)

必死に目を閉じる。誘惑に抗う。長時間見てはいけない、あれはだ、と私は自分に言い聞かせる。湧き上がる衝動を無理矢理捩じ伏せる。(駄目だ、)訳も無く涙が出そうになる。胸の奥から、熱い様な、冷たい様な塊が迫り上がって来る。悲鳴を上げたくなる。混乱する。(駄目だ駄目だ駄目だ、)閉じた眼の内側に映像が浮かび上がって来る。薄暗い部屋、恐怖に顔を歪めた男が一人。壁に背中を必死に擦り付けて、まるで壁を擦り抜けられないかどうか、試しているみたいに見える。私は一歩近づく。男が身を守る様に、自分の片手を上げる。私も片腕を上げる。

「―…むすめ、」

―私の手の中には、ナイフが握られている。

「小娘」

頬にざらざらとした感触がある。気付くと、梔子が私の顔を包み込む様に頬に両手を当て、心配そうな目で私の眼の奥を覗き込んでいる。クロは反対に、呆れた顔をして私を見ている。

「…あんまりあれを長い事見るなって言ったろ。次やったら、頭をボウガンでブチ抜くぞ。いいな?」

「あ…あ、ごめん…」

目を瞑り、瞼を擦る。自分の掌を見る。当然の事ながら、ナイフは持っていない。

(?)

幻とは思えない。、という実感がある。けれども当の私には、当たり前だがそんな記憶は無い。(なんだ、あれ、あの男…)(??)掌を握っては、また開く。掌の中に何も無い事が、暫くの間、とても不思議に思える。(―ナイフを持っていた。今はナイフを持っていない)(、)(?)(あの光…?)(一体何なんだろう、あの光は。あの光景は)(あの男は…)(私はナイフを持っていた)(男はとても怯えていた)(まるで私が…)

(、)

(あれは何だ?これは。ここは…)

「―おおい、こら、足を動かせ、小娘。“タウン”は向こうから近付いてきちゃくれねえぞ。日が沈む前に帰ってきたいんだろ?」

「…ああ、うん。悪かった、今行く―」

(―ここは、どういう世界なんだろう)

クロを追う。クロと、梔子を。緑の光を、極力視界に入れないように気を付ける。目の奥に走る、むず痒い様な、もどかしい様な感覚を無視する。何かを思い出しそうになる。なるべく他の事を考える事にする。外、砂の熱さ、“タウン”、次に来る時までに買い揃えるべきもの、(取り敢えずは、懐中電灯の予備の電池)こちらで生き残る為の、最低限の基礎体力作り。(余り時間を取らずに出来るもの―腕立て腹筋とか、後は早朝のランニングとか)頭の中を一杯にする。他の物が入って来ない様に。

―手の中には、ナイフを握る感触が未だ残っている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ