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#2

ナップサックを開ける。

膝の上に、昼食を取り出す。今朝コンビニで適当に買って来たものだ。明太フランスパンと、焼きそばパンと、チョコクロワッサン。それと、スポーツドリンクが1リットル分。(これが本日最後の水分だ。大切にしないと―)私は昼食に向かって手を合わせ、袋からフランスパンを取り出す。途中、男の子達の方をチラリと見る。

私達はあの場所から少し下がった、T字路の突き当たり、階段の傍まで移動して来ていた。

砂塗れのあの場所はランチの場に相応しくない、と私が主張した結果だ。(あの口の悪い黒猫は散々悪態を吐いたけど)(メシなんて何処で食っても同じだの)(どうせ砂と砂糖との味の区別もつかねえ小娘に場所がどうたらこうたら言う権利は無いだの)(生まれ変わってディナーテーブルでの作法を身に付けてからこの俺様に意見するんだな、だの)男の子は身につけた装備を一つずつ床に下ろしていく。私はそれを目で追う。パンパンに膨らんだ麻色のショルダーバッグ、腰の矢筒、クロスボウ、砂色の、外套代わりの3枚の襤褸布。首元に掛かったゴーグルと小さな双眼鏡、そして胴周りにぶら提げられている、その小さな手には不釣り合いな、

―大振りのナイフ。

(…ナイフだ)

(ナイフだよな、あれ)

(刃物だ)(ヤバイな、ここ。だ)(釘抜きハンマーで安心してる場合じゃない。今直ぐまともな得物を揃えなきゃ。今直ぐまともな得物を―)(まともな得物って?)(まともな得物を―どこで?)

「なあ、小娘」

―声に驚いて、少し仰け反る。気付くと、私の膝の上に、あの黒猫が座っている。猫は興味津々、といった顔で私の手の内を見上げている。(口を閉じてると、ただの可愛い黒猫なんだがな)(砂で汚れちゃいるが、毛並みも悪く無い)(膝の上が、猫の重みでくすぐったい。触ったら怒るかな。猫は撫でられたりするの、大抵苦手だよな―)

「―さっきから気になってたんだが。それ、なんだ?」

「?」

私は黒猫の視線を追い、自分の手の中を見る。手の中には、フランスパン。(パンが珍しい―?)私は少年を見る。少年も金色の目で、物珍しそうに私の方を見ている。少年は緑とオレンジのマフラーを首元に巻いたままだ。ショルダーバッグから小さな紙包みを取り出して、それを膝の上で広げている。紙包みの中には、楕円形のパンの背中に切り込みを入れ、そこに有りっ丈の具材を詰め込んだ、サンドイッチの様な代物が見える。(―という訳でもないのか?)私は首を傾げる。鼻の頭に皺を寄せる。黒猫が期待に満ちた目で私を見上げている。

(そんな目するなよ。なんか、プレッシャーを感じる。下手な事は言えないぞ、ええ、何の事だ、一体―)

「あー…、これは、フランスパン―」

黒猫の目が即座に鋭くなる。「―の、事じゃないよな、ええと、だったら、つまり―」私は少年の方を見て、目線で必死に助けを求める。少年はマフラーの奥でくぐもった笑い声を上げ(ゲッゲッ、とか、グッグッ、といった様な音)、自分の手に持ったサンドイッチの様な代物を、指先でまあるく囲う様なジェスチャーをしてみせる。(?)(パン…じゃなくて)(手に持ってるもの)(サンドイッチの周りをグルグル)(私が手に持ってるもの)(コンビニで買ったパン)(パンの周りをグルグル)(彼のパンと、私のパンで違うもの)(それって、つまり―)

「―えー…、もしかして、包装?」

―タン、と黒猫が私の膝を叩く。「正解だ、小娘!」黒猫は嬉しそうに笑う。釣られて私も、小さく笑う。(口が悪いのが玉に瑕だけど)(猫は猫だな)(全く、ずるいというか、可愛いというか、愛らしいというか)

「で、何なんだ?その透明の包装は?」

「あー…これは…」

(…何処まで話していいもんだろうか)

―悩む。

(この世界の文明レベルはどのくらいなんだろう?)(ビニールが珍しいのか?)(私達の世界と、あまり変わらなく思えるんだけど)(エレベーターがある。電気がある。電子ロックの扉がある)(寧ろそれ以上に)(こんな巨大な施設を稼働させている。恐らくは、ここから誰も居なくなった後も)(半永久、半自動)(それに、この子が持ってる)(クロスボウ)(あれは明らかに、木製じゃない)(塗装してある)(それに、あの矢も)(プラスチックとか、カーボン製とか、そんな感じに見える)(あまり詳しくないけど)(どうする、言っていいのか?)(言わない方が良い気がする)(言ってどうなる?)

(情報が欲しい)

(どうしたら―)

「…これは、私が住んでる所の包装なの。食品を風化や、汚れから守ってくれる。ほら、ちゃんと密閉されてるでしょ?」

―結局、お茶を濁す事にする。

(…これで良かったんだろうか)(問題を先送りにしただけの様な気もする)(でも、ほんとのこと言う訳にも―)

「おお、本当だ。凄いな、何処にも切れ目が無い。見ろ、小僧!こっち来て見てみろ、ほれ、完全に食料を閉じ込めて居やがるんだ、凄え技術だ、パンを缶詰にした様なもんだ―!」

(…缶詰はあるのか)

「これ、貰って良いか?」

「駄目」

「そんなケチくさい事言うなよ、小娘。別に中身ごと貰おうって訳じゃねえんだ、その外側だけだよ外側、こちとらそんな卑しん坊じゃねえよ、俺ぁ生まれも育ちも由緒正しい生粋の家猫だ―」

(…どうする?)

(止めとけ)(こっちの世界の物が、後にどういう影響を及ぼすか予測できないんだ)(慎重に)(彼らはビニールを知らない。彼らがこれを私から手に入れたと吹聴したら?を考える奴が現れないとは限らない)(慎重に、何事も慎重に)(私がこれを何処で手に入れたのか。私が何処から来たのか)(“扉”を潜る所を見られでもしたら。“扉”の向こうにでも来られでもしたら)(『恐怖!異世界人が閑静な住宅街で深夜の凶行』)(そうなったら、笑えない)(だとしたら、この会話の流れも不味い。話を逸らさないと。質問の矛先が私に向かったら?お前は何処から来たのか。どうしてここに居るのか)(でも、情報も欲しい。餌に使えないか?何とか言い含めて。入手先を伏せておく様に約束させて、ビニールを渡す代わりに、幾つかの情報を―)(情報を得る)(慎重に)(変異体。ディガー)(会話の流れを変えて、ビニールを対価に、交渉を)(この世界。“扉”。この場所。喋る猫。喋らない男の子)(慎重に、何事も慎重に)

(兎に角、話を逸らせ)

「駄目ったら、駄目」

「ケツの穴の小さい小娘だな。分かった、だったら金を払う、それでいいんだろ?その包装紙一袋で―」

「…いい加減、その小娘ってのをやめてくれる?こっちには、って名前があるの。良い?交渉の基本は相互尊重よ、黒猫さん。お互いの間に一定以上の信頼が無ければ、取引自体が成り立たない。分かったら、もし交渉の場に立つ気があるのなら、あなた達の名前を私に―」

―言葉を。

止める。

途中で、おかしい、と気付く。彼らの様子が。黒猫は戸惑う様な、驚いた様な、寂しい様な、たった今鼻っ面を不意打ちで叩かれた様な顔で私を見上げていた。少年の反応はもっと淡泊だった。目をパチパチ、と瞬かせただけ。その後、目を細めて少年は微笑んだ。立ち上がり、私の膝の上に乗っている黒猫の首根っこを掴んで、そのまま猫を片手にぶら提げ、自分達の荷物が散乱している方へ戻っていく。(なんだ?)私は遠慮がちにビニール袋を開封し、フランスパンに口を付ける。少年は胡坐を掻き、その胡坐の中心に黒猫を落とすと、ショルダーバッグから猫の昼食と思われるビーフジャーキーを取り出した。(ジャーキー…って、猫も食べるのかな。それとも、喋る猫は、食生活も風変りなのかも)少年の紙包みの中はいつの間にか空っぽになっている。(…食べるの、早いんだな)場がシン、と静まり返る。風の音が聞こえる。砂の流れる音も。私はその音に暫く耳を傾けている。

―ヒュウウウウゥゥゥゥウゥゥ…ウ。

「………あー、名前、なぁ、あー………」

ジャーキーを切り分けるのを少年に手伝って貰いながら、のそのそとした調子で黒猫が再び口を開く。私は彼らを眺める。黒猫は小さく千切ったジャーキーを何度も何度も口の中で噛み潰している。少年はそんな黒猫の頭を見下ろしている。不思議な関係の二人だ、と私は思う。いや、一人と一匹か。(猫が男の子の兄貴分の様で、男の子が黒猫の親みたいで)私は黒猫のペースに合わせてフランスパンを細かく噛み千切りながら、静かに彼らの話の先を待つ。

「―強いていや、こいつの名前は『小僧』だな。そんで俺は、あー………、猫、黒猫、かな。まあそういうこった。悪いな、あんたに悪気があった訳じゃないだろうが―」

「…知り合いはいないの?親とか、兄弟とか、そういう」

「さあね。気付いた時にはふたりだった。こいつは口が利けねえしな。俺の名前は、あるにはあったんだが―呼んでくれる人がいねえと忘れちまう、名前ってそういうもんだろ?」

「そういうもんかね」

「そういうもんだよ。小僧の知り合いはこいつの他には居ねえし、自分の名前は呼ぶ必要がねえからな」

そう言って、黒猫は皮肉気に笑う。私は少し考える。考えて、ビニール袋からフランスパンを取り出してから、ビニールの包みだけを黒猫の方に差し出す。

「お、なんだよ、くれるのか!?いやあ悪いね、小娘―じゃなくてサクタカナエ、お前思ってたより良い奴だな、俺の出会った中でも4本の前足の内に入るくらい―」

黒猫が嬉々としてビニールに前足を伸ばす。

―それを。

私は、すい、と躱す。

「…おい」

黒猫がドスの利いた唸り声を上げる。その声を聞いて私は思わずにやりとする。(ほんと、チンピラみたいな猫だな)少年が、驚いた様にぱちくりと目を見開いて私を見ている。私は猫の鼻先で、ビニール袋を振って高圧的に笑う。

「何の積りだ、小娘?」

「タダであげる訳ないでしょ。交渉と行きましょう」

「だから、金なら払うって―」

「お金は要らないわ。そうね、簡単な約束をして貰いましょう。3つの簡単な約束を。どう?その条件が守れるなら、これはタダであんた達にあげるわ」

「…お前を殺して、それから奪う事も出来るんだぞ?」

「そうね。でも、お友達はその意見に反対みたい」

黒猫は少年を見上げる。少年は黒猫を覗き込む。少年は笑っている。少年の指先が、優しく黒猫の耳の後ろを掻く。黒猫は困った様に、頭を軽く振って少年の指を振り払う。

「…良いだろう。条件を言え、条件を。先ずは条件を言え。今は聞くだけだぞ、守るかどうかはそれから決める。無茶な条件を出してみやがれ、必ずお前の喉を切り裂いて、食道を穿り出して、それを炙り焼きにして食ってやるからな―」

「はいはい、約束その一。これの出所を、誰にも話さない」

―黒猫が気の抜けた顔で私を見る。

拍子抜けした顔、当てが外れた顔、肩透かしを喰らった顔。そんな感じだ。続いて、その表情が、訝しげなものへと変化する。疑いの眼差し。裏があるんじゃないか、と邪推する顔。私は肩を竦め、気の済むまで黒猫に勘繰らせておく。

「…約束の、その二は?」

長い沈黙の後、黒猫は漸くそれだけを口にする。

「約束その二は、私の尋ねる幾つかの簡単な質問に答える事」

「簡単な質問って?」

「簡単な質問は、簡単な質問よ。私、この辺りに来て、まだ日が浅いの。だから、あなた達が喋る事も、幾つか良く分からなくて。それを質問させて欲しいだけよ。ほら、変異体とか、ディガーとか。そういう単語を、少し教えてくれれば良いだけよ」

「……………それじゃ、約束の、三つ目は?」

私は笑う。

「あなたたちに、名前を付けさせて欲しいの」

黒猫の両の目が、見る見るうちに、大きく、丸くなる。少年も、少年の目も。一人と一匹は両の眼を一杯に見開いて私を見つめている。私は口元を押さえて、暫くの間笑いを噛み殺す。(ああ、本当に)笑ってしまう。彼らには悪いけれど。

(本当にそっくりだ、この一人と一匹は)

「―何を―」

「私には小僧の知り合いが他にもいるし、あなたの名前を呼ぶ必要もあるわ。あなた達は名前が無くても困らないかもしれないけれど、他の人はあなた達に名前が無いと困る。そう思わない?」

「―だからって、それを今日出会ったばっかのやつに、どうして―」

「あら、じゃあこれはいらない?」

私は黒猫の前でビニール袋を振る。黒猫は少年の胡坐の中で暫く悶えている。黒猫の首筋に指を埋めながら、少年は苦笑する。私は片手でビニール袋を小さく畳みながら、反対の手で拝む様にして、口パクで少年に謝る。

『ご め ん ね』

少年は首を振る。黒猫を指差し、もう一度。私は笑う。(良かった、いいひとそうだ)傍に転がったクロスボウとナイフさえ無けりゃ、心からそう思えたんだが。

「―ああ、分かったよ、クソ喰らえだ、小娘、テメエの糞みてえなその条件を呑んでやる、ほら、とっととその包装を俺様に寄越しやがれ―!!」


「いいか、ルールを決めるぞ」

ビニール袋を床に広げ、興奮した様子でその周囲をグルグルと回りながら、黒猫は言う。どうも真面目な顔を保てないまま、私は頷く。なんか、せっかく手に入れた宝物を、誰にも取られないようにと子供が見張っているみたいに見える。笑い声を上げないように注意して、私はその光景を眺める。男の子の方はというと、私達に目もくれず、黙々と外した装備を拾い集めている。

「質問は一度に一つずつだ。いいな?フェアに行こうぜ。質問は一度に一つずつ。沢山はナシだ。それと、お前が一つ質問をする度に、こちらからも一つ質問をさせて貰う。それぐらいは構わないよな?」

「ええ、いいわよ」

「オッケー、何事もフェアに行こう。じゃあ、先ずはお前からだ。何から聞きたい?」

「えっと、それじゃ先ず、変異体について」

「は―」

黒猫はビニールに注いでいた視線を持ち上げて、私を見る。口をぽっかりと開けて。驚く、というより、呆れ顔とか、間抜けを見る顔とか形容するのがピッタリな顔だ。(…どうやら、この世界では常識らしい)(聞いといてよかった)(聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥)(真正の馬鹿を見るみたいなこいつの目線に耐えるだけで、こっちの世界の事を学べるんだったら、安いもんだ―)

「―そりゃ、マジか?マジで言ってんのか、お前?一体何処で生きて来たんだ?無人島か、海の底か、それとも月の裏側か?どっちにしろ、今まで良く生き残って来れたなお前―」

「―それが、あんたの質問?」

「……分かった分かった、悪かった、俺様が教えてやる。そういう約束だからな。俺は約束は守る、そういう猫だ。何事もフェアに、だ。そうだな、変異体ってのは、簡単に言や、“神の柱”に当てられた人間で―」

(…“神の柱”?)

喉まで出掛かった質問を飲み込む。

(また知らない単語)(柱に当てられる?)(神様の柱?)(変異体ってのは、人間なのか?)(だから最初、私にボウガンを向けて―)(でも、あのナゾナゾの意味は?)

(オーケー、何事もフェアに)

「―“柱”に近付いたり、まあ、稀に見ただけでなる奴も居るが、そういう奴らの総称だ。…なぁ、お前、ホントに知らないのか?大なり小なり人が住んでる所だったら、噂ぐらい聞くもんだけどな。お前が住んでた所で、そいつらの事をなんて呼んでるかは分からないけど―」

―返答に迷う。

(どうする?)(嘘を吐くか?)(無意味な嘘は自分の首を絞める)(無意味ではないだろ。どうやら変異体ってのは、其処ら中に居る存在らしい。見たことあるのが普通なくらいに)(この子の武装。その変異体とやらに会うことを想定していたんだ。クロスボウにナイフ、もしかしたら、あのショルダーバッグの中にはまだ武器があるのかもしれない―)(でも、私はその変異体を知らない)(見た事が無い)(当たり前だろ、私は“扉”のこっち側に来るのは未だ2回目だ)(嘘ってのは、本当の事の中に少し混ぜるものだ。全部を嘘で塗り固めようとすれば、必ず何処かでボロが出る。私は変異体を知らない。『どんな変異体に出会った事がある?』と切り返されたら、私はそこで言葉に詰まってしまうだろう―)

「―さあ、私は母と二人暮らしだったし、母は私をあまり家から出したがらなかったから」

「ふうぅん…?」

(―苦しい、かな?)

私は黒猫の様子を見る。黒猫は然したる興味も無さそうに私の事を一瞥して、少年の方に視線を移す。少年は全部の装備を集め終わった様で、何度も腰の矢筒とナイフの位置を確認しながら、私達の方に歩み寄って来る。「おう、小僧―」少年は黒猫の傍らの床に広がるのっぺりと潰れたビニール袋を、片手で拾い上げる。「―何すんだ、そりゃ俺の―!!」ショルダーバッグの口を開き、中から小さな赤い巾着袋を取り出す。ビニール袋を小さく八つ折りにして、巾着袋の中にそれを入れる。

少年はそれを、黒猫の首元に掛ける。

「…へへ」

はにかんだ様に黒猫は笑う。私も釣られて頬が緩む。少年が猫に向かって左腕を差し出す。その腕を駆け上がって、黒猫は少年の肩の上の定位置に腰を落ち着ける。

「―まあこんなとこでダラダラと話してるのもなんだ、小娘、続きは進みながらでもいいか?おい小僧、先ずは上に行ってみよう、多分目当てのもんは下にあるが、まだめぼしいもんが残ってる可能性もあるからな―」

少年は頷き、階段の方へと足を向ける。私は苦笑し、溜息を吐いて、少年の背中を追う。

(…やれやれ、せっかく終わったと思ったのに、また階段を昇る羽目になるなんて)

(行かなきゃいいんじゃない?)(それは無いな。約束がある。殆どタダ同然でこちらの世界の事を知る事が出来る、こんな機会、滅多に無い)(次に会う異世界人が、彼らほど話せる奴かどうかも分からないし)(それに、例の怪物の件もある)(彼らと居る方が安全だ)

(足の痛みは耐えるんだな。足が痛くて死んだ奴はいない)

(死ぬほど痛くても)

(ホントに死ぬよりマシだ)


「―じゃ、次の質問、いいかしら?」

階段を上る少年と黒猫に、背中から声を掛ける。

私は確かめる様に階段の一段目に足を乗せる。階段を足の裏で押し、軽く蹴り付け、それから漸く段差に体重を預ける。(…良かった、膝の調子、少しはマシみたい)(まだ多少痛いけど)(さっきよりかは全然マシだ)(休憩と、食事のお陰かな)(それと、彼らのお陰)(誰かが居るだけで、さっきまでとは全然違う。上手く言えないけど、ひとりとは違う。何と言うか、気が紛れる。小学校の時のハイキングを思い出す。そういや無理矢理歌わされたりしたな、私はああいうの嫌いだったけど、今なら少し、分かる気がする―)顔を上げる。懐中電灯が少年の背中を照らし出す。少年が眩しそうに目を細め、肩越しに私を振り返っている。その背中に器用に爪を立て、黒猫が呆れ顔を浮かべて私を見ている。

「―は?次に質問するのは俺だろ?そう約束した筈だ、『お前が一つ質問したら、俺も一つ質問する』。そう決めただろ?そういうルールだ。じゃ、次は俺の番だ。数の数え方もおっかさんに習わなかったのか?」

「でも、あなたはさっき質問したじゃない、『お前は本当に変異体を知らないのか』って。その質問に私は答えたわ。だからあなたの質問は終わり。質問は一度に一つずつ、あなたが一つ質問したら、私も一つ質問をする。これがルールでしょう?」

「な―」

「フェアに行きましょうよ」

黒猫が牙を剥き出し、唸り声を上げて全身の毛を逆立てる。私は笑う。少年が呻き声を上げて(恐らく、黒猫が伸ばした爪が背中に刺さったのだろう)、軽く背中を左右に振る。黒猫は悲鳴を上げ、慌てて彼の定位置の、少年の肩の上に舞い戻る。私は笑いを噛み殺しながら、階段の次の段へと歩を進める。

「―今分かった、テメエは陰険で腹黒のサナダムシ野郎だ、小娘。人の弱みに付け込んで、他人の懐の中身だけかっぱらって行く最低で、腰抜けの、盗賊野郎―」

「そりゃどうも。人を褒めるのが上手いのね、黒猫さん。それで?私の質問に答える?それとも、取引は無し?」

「―うううぐぐぐぐむむむむあああああ―」

―悩む。

悩む、悩む。黒猫は散々悩む。それはもう、見てて気の毒になるくらいに。首を振り、少年の首の周りをグルグルと回り、首元に掛けた赤い巾着袋を前足で弾き、呻き、首を振り、また少年の首の周りを回る。(…凄まじい葛藤だ)私は忍び笑いを浮かべて黒猫の様子を眺める。少年は足を止めて私を振り返り、咎める様な視線を私に送る。私は苦笑し、手の平を合わせて少年に軽く頭を下げる。(流石にからかい過ぎたかな)(でも、必要な駆け引きだ)(向こうの質問は少ない方が良い。少なければ少ない程。私がボロを出す確率も、彼らが“扉”の向こうに気付く確率も、低くなる)(でも、からかう必要は無かった様な…)(コラテラルダメージってヤツだよ、それに、こうやって頭に血が昇ってちゃあ、まともな質問なんて出来やしないし)(それに)(それに、まあ、その、なんだ…やっぱりちょっと、楽しかったし)

私の意図を汲んでくれたのか(それとももう放っておく事に決めたのか)、少年はつい、と私から目を逸らす。黒猫は未だ悩んでいる。天を仰ぎ見、少年の肩に鼻先を擦り付け、少年の身に纏う襤褸切れを噛み、不味そうな顔をし、髭を撫で、巾着袋を前足で弾き。

「―悪いけどさ、そろそろ決めてくんない?」

「…ぐぐぐ、良いだろう、さっさと質問しろ、質問しやがれ。そういうルールだからな。けど次の質問は俺が必ずするぞ、いいな?―あ!今のは質問じゃないぞ!?分かってるな、ああいや、答えなくていい、ただ分かってくれてりゃ良いんだ、本当に分かってるよな?分かってたら、分かってるよ、っていう証に、お前の前足を軽く上げてくれ―ああ、一応言っとくが、これも質問じゃないぞ、勿論分かってるとは思うが―」

「―分かった、落ち着いて。大丈夫、分かってるから」

(予想以上の混乱だ)

挙げ足を取られる事を警戒する余り、言動があやふやになってしまった黒猫は置いといて(耳元で聞いてて良く分かんなくなったんだろう、階段の途中で足を止めて、少年も目を白黒させている)、私は次の質問を何にしようかと、鼻の頭を掻いて思案する。

(何が良いだろ)

(神の柱)(危険だ。変異体の存在が常識な様に、これもこの世界の常識らしい。黒猫も知っていて当然、という口振りだった)(どうやら変異体を生むものらしい、という事も分かってる。一目見てそれと分かるかはさて置いて、それだけ知ってりゃボロが出ないように取り繕うには十分だ)(優先順位は低い)(じゃあ、他には?)(質問の数は少なければ少ないほどいい。私が質問する分だけ、向こうも質問するんだから)(ディガー)(彼らの職業だ。まあ、正確な意味を知っておく必要はあるかもしれないけど、もう少し後でも良いでしょ。凡その意味は分かるし。彼らはここに何かを探しに来た。そこから察するに、サルベージとか、盗掘だとか、大体そんな事をする仕事なんだろう)(喋る猫)(却下だ。この世界の猫はみんな喋るのかもしれない)(だったら―)

「―あの質問の意味は?」

「?あの質問って、どの質問だ、小娘?」

そう言ってから、黒猫はハッとしたように尻尾で口元を塞ぐ。私は苦笑する。(…想像以上に追い詰められてたみたいだ)(からかうんじゃなかったかも)(クソ、話が進まないじゃねえか)

「い、いや、今のは質問じゃなくてだな―」

「大丈夫、分かってる、分かってるから」

私は軽く右手を上げ(黒猫は露骨にホッとして気の抜けた顔を浮かべる)、少年の背中を追い掛けて階段を昇りながら、あの時の事を思い返して口を開く。

「…ほら、あのナゾナゾ」

「ナゾナゾ?」

「パンはパンでも、食べられないパンは?」

「?」

「―って、最初に聞いたでしょ、私に。あれは何?」

―足音が途絶える。

私は顔を上げる。少年は階段の途中で立ち止まっている。B1からこっち、もう何度階段を折り返しただろうか、次の階層表示も、次の扉も、未だ見えない。少年は階段途中で立ち止まっている。私は懐中電灯で少年を照らす。少年は光を遮る様に眼の前に手を翳し、眩しそうに目を細める。そう言えば、明りの類を少年達は持っていない、という事にぼんやりと私は気付く。懐中電灯を彼に渡した方が良かっただろうか。それとも金色の目というのは、猫や梟なんかと同じ様に、素晴らしく夜目が効くのだろうか。(と言うか、今更ながら)(この子たち、瞳の色がお揃いなんだな)

(黒猫の目も金色、男の子の目も金色)

「おい、こら、光をこっちに向けんな」

「あ、ごめん」

懐中電灯の光を逸らす。男の子は再び階段を昇り始める。私はその足音を追う。

「…で?」

「で、って?」

「ナゾナゾ」

「ああ、あのナゾナゾ。あれは、変異体を見分ける為の質問だ」

「?ナゾナゾで、どうやって変異体を?」

「…お前、ホントに知らないのな。その年まで生きて来て、そんな簡単な事も知らないなんてオドロキだ。正気を疑うよ。正に奇跡だな。九生分の幸運を注ぎ込んでも不可能に近い、よっぽど人の少ないとこに住んでたんだな、鯨の胃袋の中とか、巨鳥の胃袋の中とか、四畳半くらいのスペースしか無い無人島とかな。全く、道理で目上の物に対する口の利き方も知らない訳だ―」

「そういうのはいいから。質問に答えて」

「ああ、まあ、その質問の理由は簡単だ―」

黒猫はそう言い、尻尾を一舐めし、私を見る。暗闇の中に一対の金色の目が浮いている。私はそれを懐中電灯の光で照らし出したい衝動に駆られる。少年の足が、階段の何度目かの踊り場で立ち止まる。少年はそこで何かを見上げている。壁に書かれたを。私も少年に追い付き、懐中電灯の明かりを持ち上げて、彼が見上げているそのにライトの光線をそうっと当てる。

B1↓R↑

(R?)

(屋上?)(どうして、屋上?)(B1の次が、屋上?)(B1の次は、1階じゃないの?)(エレベーターの表記は無かった)(地上には出られない?)(落ち着け、落ち着いて。私達は地上に出られる。が入って来たルートがある。B1の天井はぶっ壊れてる、そこから地上に出れば良い、だから―)(ここはどういう施設?)(どうして地上階への出口が無い?)(きっと他にあるんだ、多分他に地上へと続く連絡通路がある、だから―)

(ここはどういう施設?)

(出口の無い施設)(それって)(墓―)

「―変異体は、ナゾナゾに答えられないんだ」

「…どうして?」

私は尋ねる。黒猫は笑う。嘲笑う様に、そして何処か、寂しそうに。

「さあね。考えた事もないな。理屈は幾らでも聞いたことあるがね、関連付けて思考出来ないとか、連想するのが苦手だ、とかな。まあ兎に角、大事なのはこれがの見分け方として実際に役に立ってる、って点だ。からな。奴らはナゾナゾが苦手なのさ。だからどんなに自我の残っている固体でも、決してナゾナゾには答えられない。どんな簡単なナゾナゾにもな」

「…自我の残ってる奴らも居るの?」

「まぁ、極稀にだがな。俺たちだって会ったこと無いよ。話に聞くだけさ。自分のみたいなのが残ってて、生前の行動をなぞりながら、より狡猾に人を襲うんだと。忌々しい化け物だ」

「自分が残ってても、人を襲うの?」

「まぁな。変異体は、何処まで行っても変異体だ。神の柱に触れて、魂が真芯からのさ。もう戻らない。どれだけ自我が残ってたって、化け物はやっぱり化け物だ」

―黒猫はそう言うと、咳払いをひとつし、突然がらりと口調を変えた。

「さあ!お前の質問に散々答えてやったぞ、次は俺達の番だ!そうだな、小娘?しかも俺の記憶が正しければ、お前がした質問はひとつじゃない、お前がした質問は、3つか4つ―」

「―あら、あんたの方の質問を、私は流してあげたのに。ふぅん、あんたはそういうこと言っちゃうわけだ。いいわ、だったらこっちだって―」

「―と言いたいところだが、今日は特別にオマケしてやる!俺様は今日機嫌が良いからな!分かった、質問はひとつだ、小娘。質問は一つで妥協してやる。その代わり―」

「―その代わり?」

「…もう、そういう意地悪を言うんじゃない。全く俺ぁ疲れたよ、お前みたいに口の達者な小娘は初めてだ、回転鋸よりも素早く舌が回りやがる…」

私は。

笑う。堪え切れず。手の甲を口元に当て、背中を小さく震わせて。見ると、少年も笑っている。色褪せたマフラーの奥で、笑い声をくぐもらせて。

黒猫はうろたえて目を瞬かせ、少年の肩の上でぴょんぴょんと飛び跳ねる。「お、おい、こら、小僧!」前足で少年の肩を叩く。尻尾で少年の耳元を擽る。少年は中々笑い止まない。黒猫は途方に暮れた声で少年を呼び続ける。

「こら、おい、小僧!お前は笑うんじゃない、こら、なあ、聞こえてるのか、おい、小僧―!!」


「…それじゃ、今度はあなたの番ね、黒猫さん。それで、何が聞きたいの?」

「そうだなぁ、それじゃ、何を聞こうか…」

黒猫は考え込むように顎を尻尾の上に乗せて(多分、人間でいう、『考える人』的なポーズなのだろう)、少しの間あらぬ方向を見上げていた。ほんの少しの間だ。直ぐに黒猫はピシリ、と少年の首筋を尻尾の先で打って(少年が不機嫌そうな呻き声を上げる)、私の方に素早く向き直った。興奮した声で私に話しかける。

「―そうだな、じゃ、これの使い方を」

「これ?」

「これ」

黒猫は首に掛けた赤い巾着袋を、両方の前足でぱしん、ぱしんと二度弾く。黒猫は満面の笑みを浮かべて私を見る。目を細め、口元を緩めて、まるでマタタビの臭いでも嗅いで居るみたいな表情で。

「―これの使い方だ。さっきくれたあの、パンを包んでいた、透明な包装の。ああ、これがありゃ、砂漠の真ん中でも砂で汚れたパンやら干し肉やら、虫の入ったミルクを飲まなくても良いんだなぁ、ああ夢みたいだ!頼む、小娘、こいつの使い方を教えてくれ、さぁ勿体ぶらず、サクッとズバッと俺様に―!」

「―ああ」

私は。

「それの使い方ね?その、私がさっきあげたやつの」

懐中電灯の光を足元に向け。

じんわりと首筋に浮き出た汗を手の平で拭い。

肺が許す限り、一杯に空気を吸い、息を止める。

「ああそうだ、お前がさっきくれたやつ!頼む!こいつと一緒に居て何が一番困るかって言ったら、まあ食品の事だからな、弓も刃物も腕が良く、鼻も聞くし耳も良い、そんなこいつと仕事してて、唯一困るのが食事って訳だ!なんたってこいつ、食品にはまるで気を使わねえ、荷物なんて持てりゃいいと思ってるし、食い物なんて腹に入りゃあ良いと思ってんだ。だからディガー始めてもう随分になるってんのに、鞄は未だに貰いもんの風通しの良いズダ袋ひとつ、食い物はそこら辺にある布切れやら紙切れに適当に包む有様で―!」

「無いよ」

「―水袋とかは未だ扱いがマシだがな、それだって水が零れてるか零れてないか見るだけさ。虫やら蜘蛛やらが中に入ったって、まるで気にしゃしねぇ。前に俺ァそれで酷い目にあったんだ、俺の水皿の底に、蟷螂がでっかい卵を生み付けやがって―でも酷いと言ったらやっぱり食い物の方さ。ええ?ところで小娘、今なんか言わなかったか?」

「無いよ、って言ったの」

…ゼィゼィと喉を鳴らしながら、黒猫は眼下に続く石段の列を眺める。私は黒猫に気付かれないように、静かに唾を呑み下す。黒猫の金色の目が、ゆっくりと動いて私に据えられる。私は懐中電灯の光を僅かに持ち上げる。黒猫は私を見て、足元を見て、鼻の頭をざらざらの舌で撫でて、もう一度私の顔を見る。

「無い?」

「うん、無い」

「無い?無いって、なにが?」

「使い方だよ。使い方は無い」

―少年の足が止まる。瞬きして、私も足を止める。数段先の階段上で、少年も振り返って私を見ている。金色の目玉が四つ、暗闇の中に浮かんで私を見ている。

「使い捨てなんだ」

―罵声や怒号を覚悟する。が、意外な事に、黒猫は何も言わなかった。誰も何も言わない。辺りは静まり返る。音が途絶える。私は目を閉じて、息を止める。肌を撫でる緩やかな風の動きを、何故だか酷く不快に感じる。私は息を止めている。

やがて、黒猫が口を開く。

「騙したのか?」

―低く唸る様な、冴え冴えとした声で。

「違う、これは―」

「騙したんだな?」

「―知らなかったんだ、使える物が欲しかったなんて。てっきり珍しくて、それが欲しいのかと―」

「騙しやがって」

私は目を開ける。金色の目玉が四つ、暗闇に浮いている。息をするのも忘れて、私は彼らを見る。

「―俺をコケにしやがって。良いザマだったろう?腹の底では笑ってたってわけか?ゴミ同然の物を押し付けて、俺様からまんまと情報を掠め取ったって訳だ。全く、大した盗賊だよ。でも俺様だって、このままじゃ終わらない。交渉の基本は相互尊重、確かそう言ったよな、小娘?」

音がする。

シャラン、と。

―刃物を抜く、音がする。

「お前が俺を尊重しないなら、俺もお前を尊重しない。、小娘。お前さんの荷物を頂戴すりゃ、盗られたもんの元は取れるだろう。残念だが、お前の幸運もここまでだ。次から他人を馬鹿にする時は、ちゃんと相手を選ぶんだな―まあ、お前に、この次は無いんだが」

「―待って、使える物が欲しいなら―」

「じゃあな。やれ、小僧」

「―今度、使える物を―」

暗闇に浮かぶ金色の目玉の内、一対の目玉が暗闇の内に消える。瞬きも忘れて、私はそれを見ている。懐中電灯を取り落とす。空気の移動する音を聞く。暗闇の濃度が増す。喉元に、チクリ、と爪を立てられた様な感覚を覚える。私は視線を落としてそちらを見る。そこには鈍色に輝くナイフがある。ナイフが私の喉元に突き立っている。私は、ナイフの刀身から柄へと、ゆっくりと視線を辿らせる。ナイフの柄を、分厚い革の手袋が包んでいる。その手袋の向こうに、金色の目玉が浮いている。ふたつの金色の目玉が。(あれは、黒猫の目)その隣にもうふたつの(目を閉じていたんだろう)、別の金色の瞳が(これは、あの男の子の目)、暗闇の内側から音もなく現れる。

四つの金色の目が暗闇に浮いている。

「―持って来る、から―」

喉元に、ナイフがゆっくりと分け入って来る感触がある。痛い、とか、苦しい、という感じとは違う。ただ異物感がある。小石や砂粒を押し付けられている感覚に似ている。きっと、その程度の部分しか未だ刺さって居ないのだろう。少年がもう少しを押し込むだけで、私の喉からはスプリンクラーみたいに血が吹き出る羽目になるだろう。そう分かっているのに、私の足は微動だにしようとはしない。(これは)(死ぬ)(息が)(死ぬ)(息がし難い)(死ぬの?)(フェアに)(交渉の基本は)(嫌だ)(死にたくない)(命を天秤に)(死にたくない!)(交渉の基本は、相互尊重)(命を天秤に―命乞いを)

「待て」

ナイフは聞き入れない。先端が私の喉元にゆっくりと沈んでいく。かと言って、右か左に飛び退けば、一瞬で喉を搔っ捌かれるという確信がある。(じゃあ、後ろ?)(それも駄目だ。こいつ、前に体重を掛けてやがる。おまけにこっちは階段の階下)(向こうの方が早い)(それにあの踏み込み、見ただろう?一瞬で首にナイフを突き付けられた。何時突き付けられたのかも分からない。絶対死ぬ)私は口を開ける。確かめる様に、唇を大きく動かす。咽の異物感は変わらない。(良かった)何とか喋る事は出来そうだ、と私は笑う。この状態で出来る事と言えば、命乞い位だ。でもそれも、喋る事が出来なきゃ儘ならない。

「―待て、待て、待て待て小僧」

猫の声がする。黒猫の声が。

(良かった)(問答無用、って訳じゃないみたいだ)(声音が和らいでる)(気がする)(気がするだけだ。希望的観測は止せ)(死にたくない)(ここが正念場だ。気合い入れろ)

(…ナイフ、止まったみたい)

「―小僧、こいつ今何て言った?聞こえたか?俺の空耳か?こいつ、こう言わなかったか?『使える物が欲しいなら―』」

「―『今度持って来る』。確かにそう言ったよ」

黒猫の瞳が丸く、驚いた様に、暗闇の中で大きく膨らむ。私は微笑む。数十分の内に同じ相手に殺されかかったからだろうか、自分でも驚くくらい、落ち着いているのが分かる。(私は落ち着いている)出来るだけ首を動かさないように気を付けながら、私は笑顔を消して、両手を高々と(少年の手首がピクリ、と反応するのが見える)天井に向ける。(私は落ち着いている)出来るだけ聞き取り易い発音を心掛け、慎重に言葉を選ぶ。(私は落ち着いている。これは授業でやらされる、自分で書いた英文のスピーチ。生徒達の頭は皆カボチャ。私は落ち着いている)

「―は使えない」

「テメエ―」

「使い捨てなんだ。でも、何回も使い回せる種類の物もある。似た様な物でね。何回も使いまわすのが前提の物だから、君に渡した者よりも密封度が低いけど、それでも良かったら今度持って来るよ。今は持ってないけど、そうだな、明日か、明後日には。約束する」

「―………約束?約束を破っておいて、どの口がそんな―」

「約束を破ったつもりは無いけど。君が欲しがったから、その包装はあげたんだ。君の反応から察するに、ここらへんじゃ珍しいみたいだったからね。自体に価値を見出したのかと思ったんだ。まさか、使いたがってるとは思わなかった」

「…お前、自分の立場が分かってんのか?いいか、そんな口利いて―」

「―分かってるよ。でも、私だけが悪い訳じゃない、って伝えて置きたくて。あんたはその包装をどうして欲しいのか私に言わなかった。使いたいのか、調べたいのか、それとも、単にコレクションしたいのか。私が勘違いしたって不思議じゃないだろ?」

「―ナイフをちょいと押し込めば、お前の首から血が吹き出て―」

「殺したきゃ殺せば良いさ。でも、あんたの欲しいもんは永遠に手に入らないよ。その包装は使い捨てだ、二度と使えない。でも、私は繰り返し使える似た様な包装の在り処を知ってる。ね。殺したら二度と手に入らない」

黒猫が黙る。喉元に押し付けられていた、ナイフの感触がいつの間にか消えている事に私は気付く。喉元を擦りながら、私は少年の目を覗き込む。少年はバツが悪そうに目を細めている。私は苦笑する。(全く、ずるいなあ)さっきまで殺しかけてた相手に、そんな表情見せないで欲しい。

私は落とした懐中電灯を拾い上げ、埃や砂利を払い落す。落とした拍子に何処かにぶつかってスイッチが切れたみたいだが、スイッチをオンにしてやると、問題無く光の帯がライトから立ち昇る。私はそれを見て満足気に微笑む。その光を少年達の方に向ける。黒猫は光に照らされると、鬱陶しそうにそれを、前足で払う仕草をする。

「………お前がその約束を守るという保証は?」

地を這う様な不機嫌な低音で、黒猫が漸くそう一言だけ言う。私はにやにやと笑いながら、懐中電灯の光を下に向け、彼らの方へぶらぶらと歩み寄る。

「こういうのはどう?私の荷物を全部、あなた達に預ける」

「な―…!」

黒猫は絶句する。

「明日か明後日か。それまでに私が戻らなきゃ、荷物を全部売っ払っても良い」

(交渉の基本は、相互尊重)

(命を天秤に、命乞い)(私の荷物には、3日か4日の価値)(人を殺して、得られる物、得られない物)(ここにある物、無い物)(天秤の片方には、私の命。有利な取引)(どう転んでも、損にはならないなら)

(―それに、私は足が痛いんだ)(死ぬほど痛い)(死にそうになっても、それは変わらない)

(、)

「どう?悪く無い取引じゃない?私が帰っても帰って来なくても、あなた達は損をしない。死体をこさえるよりかは、賢い方法だと思わない?」

黒猫は悶絶する。少年は私に背を向け、階段を昇り始める。二、三歩上った所で少年は振り返り、その分厚い革で覆われた右の手袋を差し出す。私は笑う。(どうやら、交渉は成功)背負っていた鞄を下ろし、彼の手の中に差し出す。少年はそれを背負い、再び階段を昇り出す。

「…猫さんの心の準備が出来るまで、待ってあげた方が良かったんじゃないの?」

少年は首を振り、肩越しに、人差し指と親指で作った丸い輪っかが右から左へ弧を描いて落ちて行くジェスチャーをする。黒猫は少年の肩の上で未だもがいている。

(…なんだ?)(丸)(右から左)(丸い輪が、右から左)(黒猫を待たない理由)(つまり、猫を待っていると―)(こうなるってことだ)(右から左)(東から西?)(丸い輪っかは―)

「―陽が暮れる?」

少年は頷く。私は笑う。(だんだん分かって来た)猫は未だに混乱気味に、少年の肩の上をのた打ち回っている。胴の辺りを毛繕いし、赤の巾着を両の前足で捕まえ、牙を剥き出し、尻尾の先を前足で叩き、少年の首筋に額を押し付け―。

(…こっちの方も。どうして良いか分からなくなると、猫に近くなるんだな)

(一先ずは大人しくしてるか。何しろ一悶着あった後だ)(明日になって)(ジップロックとか、タッパーとか、そういったもんを黒猫にプレゼントして)(何処で買うんだろ。食品コーナー?家庭用品?)(ああまた、口座の中身が飛んで行く)(それからだな、質問の続きとか言い出すのは。今言い出したら、また喧嘩になるかもしれん)(そんな生易しいもんじゃないけど)(血、出てないよな?)

(―それに、名前だな。いつまでも、黒猫や少年じゃ味気ない)


「わぶ」

―少年の背中にぶつかる。

階段を昇りながら、考え事をしていた所為だ。これからの事、これまでの事。必要なもの、足りないもの。(コンパス、メモ帳、地図、水筒、腕時計、携帯充電器)それに、彼らの名前なんかを考えながら、ぼんやり歩いていたから。(タロー、ヒロシ、タカシ、アキラ。金瞳褐色に和名はおかしいか?じゃあ、ジョン、マイク、ダニエル、デイビッド―いや、デイビッドって顔じゃないよなぁ。まあ、だからって、太郎って顔でも無いんだけど…)

「おい、気を付けろ、小娘」

「ごめん。でも、何で急に、立ち止まったり―…?」

鼻の頭を擦りながら、黒猫の方を見上げる。黒猫は無言で、少年の前方に顎をしゃくる。(顎をしゃくる猫)私は頬を緩める。少年は踊り場に立っている。恐らくは、最後の踊り場に。(もう、上に上る階段は無い)(多分ここが最上階)(R)(ここが屋上?)私は、黒猫が示すを見る為に、階段の残り数段を一息に駆け上がる。(…帰りもあるんだぞ、私)(でも、もう荷物もないし)(帰りは下りだし)(一体何だ?そこに、何があるんだろう?)

少年達の隣に立ち(黒猫があからさまな一瞥を私に向ける。やれやれ、随分嫌われたもんだ)、彼らが見ているものを私も見る。そこには、今日の朝、この施設を訪れてから、うんざりする程目にしたものが待っていた。今日“扉”のこちら側に来てから、最初の部屋で、呆れるほど長い廊下の途中で、幾度と無く目にしてきたものだ、幾度と無く。

―薄汚れた、白灰色の鉄扉。

今までに見掛けたものより、随分小振りだ。それこそ、階段の入り口にあった、アルミ扉なんかと大きさはそう変わらない。鉄扉の右隣には、パスワードを入力する為のパネルが設置されている。

(―あれ、今何か―)

懐中電灯を少し持ち上げる。懐中電灯の明かりが一瞬、扉の上の、何かを照らし出した様な気がしたからだ。大した理由があった訳じゃない。目の端に何か映った気がしたから、ただ気になって、好奇心のままに。

そして私はそれを見る。

(―これ―)

見てしまう。

目を見開いて、私はそれを見る。眼球がカラカラに乾くまで、瞬きも忘れて。私はそれを見ている。目を逸らす事が出来ない。私はそれを見る。見てしまう。心臓を鷲掴みにされた様な、胸の奥を無遠慮に弄られる様な、不快感と不安感を覚える。吐き気がする。息が苦しい。咽がぺしゃんこに潰れてしまった様な気がする。私はそれを見る。

声も上げずに。

(…これ、って…)

扉の上部には文字が書かれている。幾つもの文字が。幾つもの文字群が集まって、幾つかの簡単な文章を形作っている。文章の数は7つ。7つの文章は全て違う文字で構成されている。7つの文章はそのどれもが、同じ意味を表している様だ。(どうして?)(だって、)7つの文章の内の、3つを私は読む事が出来る。(どうして?)(分かる)(分かる?)(分かるだって?)(分かるわけない、だってここは“扉”の向こうなんだ、。分かる訳ないよ、だってここは、誰も知らない、私だけの―)3つの内の2つは、アバウトだが、意味は分かる、程度の物だ。けれど、残りの一つは。それはもう、一分の隙もなく、間違えようの無いくらい、完璧に。

『禁止迸入』

『PRYVATE PROPERTY,NO TRESPASSING』

『関係者以外立ち入り禁止』

―分かる。

分かってしまう。

―ひゅう。

遠くから風の音がする。足の裏から地面の感触が消え失せる。急に浮遊感に襲われる。夢の中に居るみたいだ、と思う。温かい水の中を漂っているみたいだ。(分かる)(分かる訳ない、分かる訳ない、だってここは、私だけの―)(日本語)(意味が分からない)(読める)(当たり前だ、日本語なんだから)(どうして?)(新聞、新聞が読みたい、新聞が―)(これは、夢?)(夢じゃない、何度も確かめたじゃないか)(本当にそう?昨日買い物に行って、晩御飯を食べて、それからどしたっけ?)(違う、違う、しっかりしろ、しっかりするんだ、私―)今までバラバラだった破片が、忍び足で私に這い寄って来る。(黒猫の言葉)(言ってる意味が分かる。)(異世界物のセオリー的なやつだと思ってた)(殺されかけてたし、今までは、そこまで気が回らなかったけど、この、この猫、)(それに、あの電子ロックを解除した時―)(『扉が開きました』)(パスワードの入力パネルも)(アラビア数字だった)(数字!私達の世界と同じ数字、私達と―)(確率はどれ位あるんだろう?違う世界、全く別の世界で、同じ言語系統、同じ数字が使われる確率は)(それに、階段の壁にあった、階層表記)(B1とかB2だとかは、確か海外では使われないんじゃなかったっけ、一階はGround florのGで、地下は―)(兎に角、ここは、ここは多分)(そんな訳ない、そんな筈無い、そんな事―)(ここは違う、違う、違う違う、違う、違うんだ―)(ここはどういう施設なんだ??)

(…そう言えば、あのサッカーボール)

―ひゅう、ひゅう。

「―い、おい、おい、この馬鹿小娘!!」

誰かに肩を叩かれる。途端に迸りそうになる悲鳴を、私は慌てて左手で抑える。見ると、黒猫が、私の右肩に前足を突いて不安そうに私を覗き込んでいる。「あ、ごめん、その―」左手の袖で額の汗を拭い(次は汗拭き様のタオルを持って来る事を、固く心に決める)、「―なんでもないよ、なんでもないから。私は大丈夫―」下手糞な作り笑いを浮かべて誤魔化そうとする。不味い。自分でも頬が引き攣っているのが分かる。普段どうやって笑っていたのか思い出せない。目の奥が痛む。涙が出そうになる。咽の奥からは乾いた風が吹き上がって来る。その風が吹く度に、咽が乾いて乾いて、苦しくなる。

「…ちっとも大丈夫そうには見えねえが。急にどうした?顔色も悪いし、息も何だか乱れてっぞ―」

―ひゅう。

黒猫に言われてその音が、初めて自分の呼吸音だった事に気付く。深く息を吸う。息を吐く。少し楽になる。瞬きを繰り返し、目元が痛くなるまで瞼を袖口で擦る。(大丈夫、私は)(未だ何もかも、決まった訳じゃない)(全部憶測だ)(新聞を探そう。新聞を探すんだ。が何なのか知りたい。ここが何なのか知らなくちゃ)息を整え、軽く首の付け根を揉み解して、私はパスワードの入力パネルへと向かう。

「無駄だ、ロックが掛かってる。クソ、ここまで来て無駄骨か。小僧、予定通り、こっから地下へ向かうぞ、面倒だが、このクソ長ぇ階段を、また下まで降り直して―…?」

パスワードパネルの0キーに触れ(上部の液晶画面に数字を入力した証の*が表示されているかを確認する)、それを素早く12回押す。(黒猫達に見られない様に、パネルを自分の身体で隠す)エンターキーを押し、扉から一、二歩下がって、黒猫達を振り返る。背後で扉の開く音が聞こえる。彼らは各々の表情を以って目の前の事態を受け止めている。少年はぽっかりと小さく口を開け、開いていく扉を見つめ、

―黒猫は疑いの眼差しを持って、私の事を睨んでいる。

『扉が開きました』

電子音声がそう告げる。私は小さく微笑んで彼らを見る。何を言っても嘘臭くなる気がする。私は溜息を吐いて、多くの事を語らないことに決める。

「開いたわ。行きましょう」

「…お前、なにやった?」

歩き出そうとする少年を尻尾で打って制し(少年は微かにくぐもった呻き声を漏らした)、黒猫は金色の双眸を油断無く私に据える。私は肩を竦めてそれに応える。

「別に。パスワードを入れただけよ。色々試していたら、偶然正解を見つけたの」

(嘘は言っていない)

「…出鱈目を言うんじゃねえ、ここは“タウン”に一番近いシェルターだ、昔っから両手に余る位のディガーが禿鷹みたいにここの中身を散々浚って、それでも開いてない電子錠なんだぞ?お前なんかに開けられる訳ねえ、お前みてえな、世間知らずで物知らず、恥知らずの小娘に―!」

(“タウン”)(シェルター)(“タウン”は、彼らの拠点かね?)(ここはシェルター)(この施設は、シェルターだったんだ)(何のシェルター?)(何から、身を守る為の?)

(“神の柱”?)

「…だったら、前に来た人達は、よっぽど根気が足りなかったのね」

「な―」

「扉は開いたわ。行かないなら、扉を閉めるけど?」

「こ―の、小娘―!」

―首を振って、男の子が歩き始める。「あ―こら、小僧!」私に済まなそうに、小さく目配せをして。「こら、俺の許可なく行くんじゃない!止まれ、止まれったら―!!」黒猫は男の子の頬を尻尾で叩き、背中に爪を立て、牙を剥き出しにしてふしゅ、ふしゅと荒い息を吐き出す。少年はそれを一向に意に介さず、扉の中を目指して進んでいく。黒猫は尻尾を踏まれたみたいな声を上げてそれに抗議する。少年はその声に立ち止まり、徐に左手を伸ばして、黒猫の首根っこを押さえ、無理矢理に彼を黙らせる。

―私は思わず笑ってしまう。

悪い、とは、思いながら。

(…猫扱いしてんだか、人扱いしてんだか)

少年はそのまま私の前を通り過ぎる。黒猫は恨みがましい目付きで私を睨みつけ続けている。私はその後を追い掛けながら、ふと思いついた質問を投げ掛ける。

「―ねぇ、黒猫さん」

「んだこら小娘、気安く話しかけてんじゃねえぞ―あ、痛、イタタ、こら、止めろ小僧、もう騒いだりしねえから―」

「ひとつ教えて欲しいんだけど。ここって、なんて名前の国なの?」

「あ?猫が知るかよ、そんな事」

「―そりゃ、まあ、うん、そうだよなぁ…」

「そうだろ。そんな事、猫に聞くのが間違ってると思うぜ、小娘」

「そうだけど―うん。そうなんだけどさ―」

(…なんか、納得いかない)

(黒猫は知らないか。でも、何処かにヒントがある筈だ)(ここがどういう場所か、ここがどういう世界か)(知りたい。知らなくちゃ。出来るだけ調べて―)

(その後は―どうする、私?)


「―ところで、小娘」

「何?」

「あの電子ロックを解除したパスワードを、俺達にも教えな」

扉を潜る。部屋に入る。

「嫌よ」

「んだと―?」

「誰だって、自分の価値を切り売りしたりしないでしょう?あなた達が約束の日時まで、私の荷物を大事にしてくれるって保証はない。言わばこれはもう一つの保険ね。その荷物が無くなると私も困るもの」

(…なんせ、貯金の半分を吹き飛ばして作ったんだからな)

(これが無くなったら、次にここに来られるのは随分遅くなるだろう)(先立つものが無い身は寂しいね)(バイトでも始めなきゃなぁ)(ウチの学校、バイトはオーケーだっけ?)(貯金のもう半分も吹っ飛ばしたりしたら、母さんに絶対殺される)

(出来れば無くしたくない)

「…俺達は約束を破ったりしねえ、どっかの誰かさんと違ってな」

「あら、私だって破ったつもりは無いわよ。契約条件に齟齬があっただけ。自分の非を認めない訳じゃないけど、全ての責任があるとは思わない」

「口の減らないガキめ」

「そりゃどうも。良く言われるわ」

部屋の中は六角形をしている。私達の入って来た一面以外、壁には硝子が埋め込まれている。硝子の下には、備え付けの机がある。机には引き出しもブックスタンドもない、その代わり机の中心には赤いボタンが取り付けられている。白い円筒形の中から、僅かに頭を覗かせる赤いボタンが。

(R)(屋上じゃない?)(ここは何だ?)(見張り台?)(屋内だ)(意味が違う?)

(ここは、なんだ?)

ボタンに手を伸ばす。赤いボタンは机と完璧に接合していて、取り外す事は出来ない。どうやら最初から、この机の中心に据えられて生まれてきたようだ。私は部屋を見回す。硝子を軽くノックする。硝子は堅く、砂が外側に降り積もって、外を見る事は出来ない。ノックした時の感触が、水族館の大水槽の硝子を殴った時の感覚に似ている、と思う。もしかしたら、この硝子はかなり分厚いのかもしれない。

(何の為に?)

(何かから身を守る為に)

(“シェルター”)

五つある机の内、二つの机の上には汚れた双眼鏡が落ちている。他の二つの机の下には、座面の擦り減った、緑色の円形椅子が仕舞われている。残りのひとつの机の下からは、

(なんだ?)

―何か白いものが覗いている。

私は懐中電灯をそちらに向ける。どうやら黒猫と少年も気が付いたらしく、彼らも注意をそちらに向けている。私は目を細める。見覚えがあるものだ、と思う。でもそれが何なのか思い出せない。白くて、棒状で、下の方が熊手みたいになっている。見た事がある、と思う。何処で見たんだろう。どうしても思い出せない。それは懐中電灯の光の中で眩しい位に白く輝いている。白く、白く、病的に白く。

(見た事がある)(そうだな)(どこでだっけ?)(分からない)(とても綺麗)(そうか?)(そうかな)(そうかも)

少年がそれに近付く。私は思わず声を上げて彼を止める。「待って、」少年は少しの間だけ立ち止まり、私を安心させる様に小さく片手を振る。私はその場から動く事が出来ない。ただ懐中電灯を構えてそのまま突っ立っている。

(見た事がある)(そうだな)(どこでだっけ?)

少年がそれに近付く。白いに。少年はしゃがみ込んでそれを見、それから立ちあがって私を手招きする。「こい、小娘」黒猫も言う。「手伝え。こいつは中々の、掘り出し物かも知れんぞ―」

(子供の頃)

(男の子と二人、手を繋がされて)(夜の校舎を歩いたんだ)

(夜の校舎を)

歩く。歩み寄る。少年の傍らに立つ。少年は私を見て微笑み、屈みこんで机の下に上半身を突っ込む。私もそれに倣う。黒猫が何かを喋っている。

「俺はフェアだからな。お前が扉を開けなかったら、この部屋には入れなかった。小娘、お前の手柄を少しは認めてやっても良い。ほんのすこーーーーし、な。いいか?天よりも広く寛大な、この俺様の心に感謝しろ、お前にも僅かばかりの―…あー、分け前をくれてやる―」

(白)(見た事がある)(そうだな)(どこでだっけ?)

(夜の校舎?校舎だったか?まぁ兎に角夜だ。臨海学校だったような気もする)

(男子と二人、手を繋がされて)

(余りの組だったんだ。他は男女の4人グループで、私達だけが、二人)

(先生たちも、面白がって)(『あなた達は最後のグループよ、誰も見てないから、ほら』)(あの時ばかりは自分の籤運の無さを呪ったね)(私達は夜の道を歩いて)(夜の校舎を)(虚勢を張る男子が鬱陶しかった)(早く終わらせたかったし、早く寝たかった)(理科室に辿り着いて)(窓が開いてた)(カタカタと音が)(風で揺れる音が)

机の下には見慣れたシルエットが二つ並んでいる。海賊旗だとか、危険を知らせるマークだとか、レントゲンの向こう側で良く見るシルエットだ。

(男の子はワンワン泣き出して、お陰で私は大変だった。必死にあやしたり宥めたりして、そいつを引き摺ったりケツを蹴り上げたりしながら、決められたコースを、蛞蝓が這うみたいな速度で回らなきゃならなくなった)

(心配した先生が迎えに来てくれるまで)

(ああ、憶えてる。そうだったな、その時に見たんだ)

白い頭蓋骨がふたつ机の下で、額を寄せあって並んでいる。骸骨達はお互い上半身だけを、緑と黒の制服の様な物で身を包んでいる。左の骸骨の胸元には、小さなワッペンの様なものが付いている。私はぼんやりとそれを眺める。さっきとは違う意味で、現実感が無い。そこにあるものが何かは理解できるのに、どうしてそこにあるのかが分からない、というか。口を大きく開いたり思い切り歯を食い縛ったり、意味もなく眉間に皺を寄せてみたり、する。少し笑う。そう言えば、本物を見るのは初めてだ、と思う。

(ガイコツ)

二人の骸骨達は手を繋ぎ、空洞と化した眼窩を以って私の事を見つめ返している。(仲の良いこって)右の骸骨には眉間に一つ穴が、左の蓋骨には米神に二つの穴が開いている。左の骸骨の手には拳銃が握られている。(銃)現実感が無い。(何が現実感だ、異世界に来て)(そんなもん、クソ喰らえさ)(銃だ)私はそれを眺める。銃身の先端が折れそうな位細い、小さな拳銃。(こういうの、ゲームで見た事ある)(ドイツ製っぽい拳銃)(銃があるんだ)(当たり前だ、サッカーがあるんだから。銃だってあって当たり前だろ?)

「―てな訳で、こいつらを引き摺り出すぞ、小娘。出来るだけ迅速に、だ。時間は待っちゃくれない。もう既にかなりの量の道草を食ってる。俺が草食だったら、晩飯は抜きでも構わないくらいにな―」

私は黒猫を見る。黒猫は少年の背中にへばり付き、首だけを肩の上から覗かせている。黒猫は驚いた様な顔をして私を見ている。…多分、余程私が変な顔をしていたんだろう。

「引き摺り出す?」

「あ―ああ。それがどうした、小娘?」

「彼らを引き摺り出すの?」

「そりゃあな。引き摺り出さなきゃ、お宝は貰えない。見ろ、あの上等な誂えの服!白骨化するぐらい着古しても、まだ形が残って居やがる!洗濯して臭いをしっかり消してやりゃ、あのままだって十分な値で売れるぜ、ああ勿論バラして売っぱらっても良い、この世は慢性的な布不足だ!どっちにしたって十分儲かる、後はお前の好きにしたら良い―!」

私は何も言えずに黒猫を見ている。黒猫は目を瞬き、少年の左肩から右肩へと移動して私を見る。二、三度、言いあぐねる様に口を開いては閉じ、また流れる様に喋り出す。

「―それに、見ろよ、銃だ!銃は知ってるか、小娘?それともお前の島には無かった代物か?」

「…大丈夫、銃の事は知ってるわ」

「なら、分かるだろ、その価値を!銃を欲しがる奴は砂漠の砂粒の数ほどいる、それこそ一山掬ったって足りないくらいさ!考えても見ろ、矢を的に当てるにゃあそれなりの訓練が必要だが―それに、矢が一本刺さったくらいじゃ近頃は誰も立ち止まっちゃくれねえが、銃ならその手間を大幅に省いてくれる!近付いて、相手の土手っ腹に一発ズドン!―それだけで、大概の問題は片が付くっつう寸法よ!市場にこいつを飾っときゃ、買い手が向こうから徒党を組んで行進してくるぜ―自分のファームを守りたい経営者、盗賊達、それに、自衛の術が欲しい新米ディガーだって―今の時代、お手軽な暴力は良い商売の種さ!特に、それが雇い主を襲わない従順な暴力ならな―あぁ、弾丸もセットでありゃ良かったんだが―使っても良し、売っても良しだ、良い拾いもんだろ、小娘?」

「そうね」

「…なぁ、小娘。取り分を気にしてるのか?ああ、多分もう分かってるとは思うが、その、銃は俺達の方が貰う―それに、二着ある上着の、片方もな。確かに扉を開けたのはお前だが、俺達は二人だし、お前は取引で問題を起こしたし、それに、俺はお前に知恵を付けてやった―変異体とか、その他諸々な。だが分かってる、分け前はきっちり払う、俺達はプロだからな。フェアに行こうぜ。お前の取り分は奴らが来てる上等の上着のもう片方だ、安心しろ、なんだったら金に替え方も俺様がレクチャーしてやる―」

「…取り分に文句を言う積りは無いわ、安心して」

「ホントか、小娘?」

「ええ」

「なら、何をそんなに怒ってる?」

(怒ってる?)

私は黒猫を見る。黒猫と、そして少年を。黒猫は尻尾を股の内側に隠し、少年は戸惑う様な瞳で私の事を見つめている。私は彼らから視線を外し、骸骨達に目を向ける。

(怒ってるだって、私が?)

左の骸骨の腕を掴む。途端に骸骨は積み木の山が崩れる様に、バラバラと他のパーツと綯い交ぜになって崩れ落ちる。私はそれを見ている。もう人じゃない、と思う。意味の無い記号の山だ。

(怒ってない。縁もゆかりも無い奴らだ。どうして私が怒らなきゃならない?)

拳銃を奪い、骨の山から緑と黒の制服を剥ぎ取る。右の骸骨も同じように崩す。二人の骨のパーツが床の上でぐちゃぐちゃに混ざり合う。ここに二人居たと示すものは、今となっては床の上に転がる二つの頭蓋骨だけだ。

(ただ、気に入らないだけだ)

―右の骸骨からも、緑と黒の制服を奪う。

(ああ、大いに気に入らないね)

歯を食い縛る。歯の隙間から、静かに深く息を吐く。

クソ喰らえ、と思う。


「それじゃ、次はどうする、小僧?」

“R”の部屋を出て、またあの長い長い階段を下りる。彼らは少し先を歩いている。少年が私のナップサックに無造作に拳銃を詰め込むのが見える。黒猫が欠伸をする。私もつられて欠伸しながら、ぼんやりと頭の中を思考が巡るままに任せる。

これからのこと、これまでのこと。さっきのことを。

(次はどうする、私?次はどうしよう?)

「目当ては多分最下層だが―さっき、思わぬ拾い物もした位だしよ、へへ。上から虱潰しに地下へ降ってく、ってのもアリかも知んねえ。な、どう思う、小僧?この女は電子ロックを開けられる。この分じゃ、用意して来た爆薬だって必要無いかもな、地下のあの最後の大扉を、抉じ開ける為に持って来たC4爆弾8個―ああ、ありゃ、かなり手痛い出費だったが、それが削れるとなりゃ、経費は無しも同然だ―報酬と合わせりゃ、新しいジープを買うのだって夢じゃ無いかもよ!あんなシャーシがガタガタで、走る度にシートに砂が吹き上げる様なのじゃ無く―!」

(今何時だろう、私がここに来てから、彼らとここで会ってから)

(体感だと、1時間か、2時間)

(彼らの前でスマホを出すのは憚られる)(コッソリ出せば気付かれないさ)(無理だよ、彼らは両方夜目が効く。画面の光で感付かれるぞ)(畜生、腕時計も持ってくりゃ良かった)(ビニール袋にあの喰い付きだ、こんなもん見せた日にゃ―)

(…昼飯を食って、階段を上がっただけだ。1時間も経ってる筈無いよ)

(そうか?話しながらだったし、一悶着あったし、それに、私達の誰もが、急いでるとは言えない足取りだった。途中からは、少年くんに全部の荷物を持って貰ってたし。それで彼の足取りは更に遅くなった。そりゃ、私の足取りは軽くなったけど、それとこれとは全然別問題だ。私は彼らの後を付いて行くだけだった。私の足の軽さと、一行の進みの遅さは別物だ)

(どうする?)

(1時間なら良い。でも、2時間ならヤバい気がする)

(ヤバい?ヤバいって、何が?)

(“頭上の怪物”)

(“変異体”)(変異体なのかな?)(そうだと思う。そうじゃないかな。ここら辺りに生息する、危険な野生動物の話なんかを彼らはしなかったから)(しなかっただけじゃないの?しなかったから居ない、って訳じゃないと思うけど)(そうかもしれないけど。でも、今はそれを考えなくても良いと思う。可能性の話だ。変異体かも、ってだけ。あいつは確かに居る。コンクリート造りの天井から、その下に居る獲物の位置を正確に捉える―)

(音で捉える)

(怪物が居る。確かに居るんだ。夜行性の怪物が)

(1時間なら良い。でも、2時間なら)

(夜行性、って、何時からが夜になるんだろう?)(昼食を終えて、12時15分。その2時間後なら、14時15分。今から階段を下りて、“扉”のあった部屋につく頃には、多分15時くらいになってると思う)

(15時は、昼?それとも、半分、夜?)

(少なくとも、その頃には太陽は十分に西に傾いている)

(帰る事を視野に入れた方が良いか?)(今、何を一番に考えたらいい?)(ジップロックとコンパスと腕時計と、それにメモ帳と水筒を買って―)(それはの話だ。今は?今は何を、一番に―?)

(“扉”)

(…そうだ、“扉”だ)(彼らに扉を見せちゃいけない)(“扉”を見られたら。“こちら側”へ来られたら。きっと不味い事になる。知られてはいけない。“扉”を知られてしまったら、彼らは多分、扉の向こうに―)

(…あの骸骨達)

私は呻く。思い出す。脳裏に白が蘇る。黒猫達が何かを喋っている。彼らが手を繋いでいたのを思い出す。彼らの頭蓋骨に穴が開いていたのを思い出す。彼らが額を寄せ合っていたのを思い出す。

「―そりゃ、お前が言う事も尤もだけどよ。確かに得物を前に舌なめずりするのは三流のやる事さ。けどよ、ここに来て他のディガーを見たか?他のやつらがここに来るって言う噂を聞いたか?ああ、この小娘は別としてだがよ―なぁ小僧、多分、あの依頼を受けたのは俺達だけなんだ。他の奴らは皆こう思ったに違いないぜ。ああ、なんせ俺自身がそう思った位だからよ、良く聞け小僧、きっと他の連中は皆こう思ってる―『あんな搾りカスの出涸らしみてえな施設から、10年以上誰も見つけられなかった動力源を持って来いだと?嫌だね、大いなる時間の無駄遣いだ』ってな―」

(あの骸骨達は恋人だったんだろうか)

思い出す。手を繋いで、机の下に隠れて、拳銃を持って、二人きり。

私達が見つけるまで。私達が見つけて、何もかも持っていってしまうまで。

(あの二人はどうしてあの場所に居たんだろうか。あの二人は最後に、どういう話をしたんだろうか)

私は考える、考える、考える。ただ漫然と考える。

(…“扉だ”)(彼らを扉に近付けちゃいけない)(一旦帰ろう。一旦帰って、ジップロックを手に入れて)(彼らをどうやって退けよう)(本当の事を話す?)(それも良いかもしれない。)(意図的に説明を変異体に近付ければ―彼らの探索の足を弱める事が出来るかもしれない)(上手くやれるだろうか?)(やれるかじゃない、やるんだ)(B2階にだけは、絶対近づけない様に)

「―そうだ小僧、まだここにはお宝が眠ってる。それをみすみす見逃しても良いのか?ディガーの名が泣かねえか?動力源を取っちまったら、あの電子ロックも二度と開かねえんだぞ、小僧。俺達には」

私は呻く。

「この施設の全てを手に入れてやろうぜ、小僧。」


―地下一階の廊下に繋がる、階段の踊り場に辿り着く。

溜息の様な咳の様な、濁った吐息の音を少年が漏らす。黒猫は未だ少年の説得を続けている。「なあ小僧、もう随分時間も経ってる―最下層に行くのは明日にしてだ、な?今日はこの辺りを少し調べてみようぜ―一日の稼ぎとしては、もう十分な量を手に入れたじゃねぇか。弾薬が無かったのは確かに惜しかったがよ―実はそれもここら辺にあるんじゃねえかと踏んでんだ、俺ぁよ。銃を使うには弾薬が要る。当然のことだろ?何処かに弾薬庫があったって全然不思議じゃない―」私は唇を噛む。覚悟を決める。腹の中に熱い塊がある。私を内側から灼く、熱い塊が。

(彼らを扉に近付けない様に)

(天秤を)(嘘と本当を)(約束を)(取引の基本は、相互尊重)()(扉に近付けない代わりに―何か、見返りを彼らに与えなければ)(約束の品を上乗せする?)(危険な気がする。物で釣るのは―)(―。彼らをそういう方向に動かしかねないんじゃ?)(なら、代わりに、何を?)(情報)(“頭上の怪物”)(彼らが知っていたら?)(ここは“タウン”に一番近い“シェルター”)(知っていても不思議じゃない)(でも、そうじゃないかも。黒猫はここを、『絞りカスの出涸らしみてえな施設』だと言った。つまりは、ここには目ぼしい物が殆ど残って無い、っていう事だ。ここに最近訪れた物好きは、もしかしたら彼らだけかもしれない。多くのディガーがここにやって来ていた時とは、少し事情が違うのかもしれない)(かもしれない、かもしれない。かもしれないばっかだ)(だったら何だ?私が切れるはこれだけだ。これが駄目だったら、後は私に出来る事は、この少年くんの頭を釘抜きハンマーでカチ割る事位だ)(幸い、彼はたっぷりと荷物を持っている。さっきよりは動きも鈍い)(かもしれない)(後ろから脳天に一撃)(物騒過ぎる。もっと平和的な解決方法はないの?)(“扉”に鍵を掛ける)(そんなものがあればな)(そんなものは無いよ。もしも彼らに“扉”の向こうに来られたら)(向こうに来られたら―なんだよ?一体何が起こるっていうの?)

(…良くない事が、起こる気がする)

「ねぇ、二人とも。ちょっと聞いて?」

一人と一匹が私の方を見る。黒猫は少年の肩の上で、バネ仕掛けの人形みたいに素早く全身で私を振り返り(ちょっと警戒し過ぎだろ、と頭の中でツッコむ)、少年は首だけを億劫そうに私の方に向ける。私は唾を飲み込み、唇を舐め、彼らの目を覗き込んで話を続ける。二揃いの金色の目と、真正面から向かい合うのは勇気がいる。その独特の輝きを放つ瞳が、私の頭の中まで貫いて見透かしている様な気がする。彼らが、私の真意にまで気付いている様な気がする。“扉”の事も、もう既に知られている様な気さえする。

(そんな事無いよ。そんな事は無い)(ある筈無い)(考えるな。考えるな)(余計な事は考えるな)

「…今日の探索はもう中止にしない?」

少年と黒猫は、お互いの顔を見合わせる。「どうしてだ?」と言う黒猫の言葉に同意する様に、少年も首を傾げて、喉の奥でくぐもった音を立てる。

「あー…」

(なんて言えば良い?)(『ここには変異体が居るの』)(そんな直接的な言い方は避けるべきじゃ?また一悶着起きたら―)(じゃあ、何て言えば?)(あんまり考え込んでたら、怪しまれないか?)(―兎に角、話を続けなきゃ。彼らに危険を認識させる。変異体に話を繋げる様に―)(嘘と本当を混ぜて―天秤を私の方に)

「…私がここに来たのは、4日程前の事よ」

(嘘は言ってない)

「はぁ」

黒猫が、興味があるともないとも取れる、曖昧な返事をする。少年は頬を掻きながら、何度も瞬きをして私を見る。私は口を動かし続ける。舌を止めないことだけを考える。

「奇跡だと思った。仲間とも逸れて、酷い砂嵐に見舞われて。てっきりそのまま野垂れ死ぬものかと。でも、運良くここを見つけて。砂の音が聞こえない下の階に避難して、その日は一日中眠ったわ」

「ふん」

「二日目に起きてから、この施設をいろいろ見て回った」

「その時に、パスワードも見つけたのか?」

「ええ。時間だけはたっぷりあったからね。色々試してたら、偶然正答を見つけたの」

(これも、まぁ、嘘じゃないかな)

「…それに、正直外には出たくなかった。水も食料も未だ残ってたし、風雨を凌ぐだけなら、ここは申し分なかったし、その、それに」

口を開く。自分が凡そ、似つかわしく無い事を口走ろうとしているのを自覚する。唇に力を入れる。彼らに見えない様に、膝の裏を抓る。笑ってしまわないように気を付ける。

「―…砂の音が、怖くて」

―下を向く。暫く自分の爪先を見ている。笑ってなかっただろうか。私は頬を両手で撫で、自分の表情を確かめたい衝動に駆られる。(1、2、3―)(大丈夫、きっと大丈夫)(―4、5)僅かに顔を上げ、前髪の隙間から彼らの様子を窺い見る。黒猫の視線は柔らかく緩み、少年は私の方に向き直って、背中の荷物を床に下ろしている。(話を聞く態勢―なのかな)彼らの態度が同情的な事に安堵する。(土台は整ったか?)(それにしても、案外すんなり受け入れてくれたよな)(もしかしたら、彼らも同じ様な経験があるのかもしれない)(だとしたら―だとしなくても、私は嫌な女だな、人の親切心に浸け込んで)

(知らなかったのか?お前は元々、嫌な女だよ)

「…それで?お前のその思い出話が、俺達とどう関係する?」

黒猫が相変わらずの調子でそう口を開く(けど、声音は随分と優しい)。私は静かに、大きく息を吸う。(ここからが、正念場)(さっきもそう思った気がする)(全く、幾つあるんだよ、今日の正念場は)

「昨日の夜よ」

「?」

「音を聞いたの」

「音を…?」

「ええ、足音を」

黒猫の目付きが途端に鋭くなる。少年は右腕をだらりと垂らし、その指先をナイフの柄に触れさせる。(大丈夫、あれは大丈夫)途端に跳ね上がる自分の心拍数を、私は掌で宥めながらそう繰り返す。(大丈夫、大丈夫だから)(何が大丈夫?)(は周囲を警戒してるだけ。さっきとは違う。何もかもが違う)(大丈夫、大丈夫、大丈夫―)

「足音だァ―?」

「ええ。私も最初、空耳だと思った。一人でこんなとこにずっといたから、おかしくなってしまったのかとね。でも、どれだけ時間が経っても、私がどれだけ移動しても、足音は消えなかった」

「なにを―?」

「足音は次第に鮮明に聞こえる様になった。足音は私の頭上からハッキリ聞こえて来ていた。足音は私の居場所を正確に探知して追い掛けて来た。どれだけ私が逃げ回っても、どれだけ息を殺して隠れていてもね。最初はあなた達が、その正体なんだと思ったんだけれど―」

黒猫の表情が変わる。大きく、大きく目を見開いた、驚きに満ちた表情に。

「まさか―変異体か!?」

「多分。そうだと思う。あなた達の話を聞く限りね。本物を見た事が無いから、私は何とも言えないけど―」

「―馬鹿!どうして今まで言わなかった!?」

私は肩を竦めてみせる。

「―さっきも言ったけど、最初はあなた達がその正体だと思ったんだよ。それに、私は変異体を見た事が無いからね。なんせ『鯨の胃袋の中』育ちですから」

「―今そんな事、言ってる場合か―!!」

「まぁまぁ、それに、私はその足音の主を直接見た訳でもないし。それから多分、私が思うに、その足音の持ち主は―」

―唇に。

私は目を丸くする。

唇に、人差し指を押し当てられる。

(?)

私は訳が分からずに少年を見る。少年が私の口元に、左手の人差し指を押し当てている。(?)(何?)(これは?)(これは、万国共通の―)少年が小さく首を横に振り、その人差し指を自分の口元に寄せて、もう一度小さく首を振る。(―万国共通の、『静かにしろ』の、サイン)少年はいつの間にかナイフを抜いている。少年は地下一階の廊下へと繋がる扉を肩越しに振り返っている。少年は左手で、背中にくくり付けたクロスボウの結び目を解こうとしている。少年の左手が切迫した様に、何度も結び目をカリカリと爪で引っ掻く。

「どうした、小僧―?」

黒猫の小声も、少年は左手の人差し指で黙らせる。人差し指を口元に押し当てられた黒猫は、困惑した様な、焦っている様な視線を私に向ける。

(…そう、焦っている)

少年は焦っている様だ。少年の焦躁が、空気を伝う様に私達にも少しずつ伝染していく。少年は必死に耳を欹てている。地下一階の、廊下側から聞こえる音へ。(…何が聞こえているんだろう?)少年の左手が、また虚しく結び目の上を引っ掻く。私は彼に歩み寄り、結び目を解く手助けをする。私の指が結び目に触れた瞬間、少年の肩が跳ね上がる。ナイフを持った方の腕が、瞬きする間に私の視界から消える。

「大丈夫」

私は囁く。首に異物感は無い。(もう首を刎ねられた後だったりして)(はは、笑えない)(取り敢えず指先は動く)結び目を解く事に集中する。「小娘、早くしろ、急げ!」黒猫が小声で私を急き立てる。見ると、黒猫も尻尾をピンと立てて、少年と同じ方向を見据えている。

(夜行性)

「大丈夫、もう少しだから」

(夜は何時から?)

―ザクッ。

音が聞こえる。

足音が。

―ザクッ、ザクッ、ザクッ。

廊下の向こうから、私にも足音が。


「小僧、後退するぞ。荷物は置いとけ。後で拾う、荷物と俺達が両方無事だった場合な。ヤツとの距離はどのぐらい離れてる?」

黒猫が囁き声でそう捲し立てる。少年がその言葉に左手の指を一本、次いで三本立てる。私はその遣り取りを横目に、クロスボウの結び目と格闘し続ける。(クソ、どんだけ固く結んでんだコイツ―)黒猫と少年は揃って同じ方向を見据えている。

―ザクッ。

「130?ええ?マジか、思ったより近いな、もうちょい余裕あるかと思ってたんだが―おい小娘!さっさとしろ、未だ解けねえのか!?」

「煩いな、後もうちょっとだ、黙って待ってろ―」

指先が痛い。ロープの縄目が指に食い込む。(ハハ、足の次は指先か)(今日は痛いとこだらけだな)(首にナイフも突き立てられて)(クソ、余計なこと考えてる場合か?集中しろ、集中―)指先に息を吹きかける。結び目に歯を立て、力任せに無理矢理引っ張る。「おい―」漸く結び目が解ける。

「…獣みてえな解き方しやがる女だな」

「なによ。文句ある?」

「いや。上出来だ」

黒猫が私をチラリと見て笑い、直ぐ様視線を廊下側に戻す。少年は左手にナイフを持ち替え、右手にクロスボウを構える。左腕の上にボウガンの射出口を乗せ、地下一階へと続く扉の向こうにピタリと狙いを定める。少年の頬を汗が一筋流れる。

足音が途絶える。

息をするのも躊躇われる程の静寂が流れる。砂の流れる音と、風の吹く音と、自分の呼吸音だけがやけに煩く聞こえる。私は唇を噛み、袖口を口元に押し当てて少しでも音を小さくしようと試みる。彼らの邪魔にならない様に。自分が騒音の塊になった様な気分になる。血液の音と、心臓の鼓動音と、膝の軋む音までもが耳を騒がすノイズに聞こえる。(クソ、どうなってる?)足音が消える。何の音も聞こえない。“怪物”が立てる音は、何も。

「……………どうなってやがる?」

黒猫が沈黙を破る。少年の右肩から左肩へと移動し、少年の耳元に黒猫は囁く。「何処行きやがった、ヤツは?消えちまったのか?おい小僧、どうなってる?」少年も困惑した表情を浮かべて廊下の向こうを見つめている。私も彼らの傍に歩み寄り、耳の後ろに手を当てて、懸命に耳を欹ててみる。生憎一般的な可聴域しか持たない私の耳では、何の音を捕えられる訳も無かったが。私に聞こえたのは、風の音と、砂の音と、自分から出る騒音だけだ。

「おい小娘、ヤツはどういう変異体だ?どうしてヤツの足音が消えた?一体どういう奴なんだ?ヤツは空でも飛べるのか?」

「知らないよ。私も見たこと無いし―」

「チ、使えねえ小娘だな(いちいち角の立つ言い方をする猫だ)、おい小僧、どうする?このままじゃキャンプに戻るのも危ういぜ、荷物を纏めて一旦後退するか、それとも―?」

―少年は。

クロスボウとナイフを構えたまま、息を殺して、少しずつ前進を始める。

「―そうだよな、それでこそ俺の相棒だ」

黒猫は少年の肩を飛び降り、私の背中を攀じ登って、私の左肩の上に陣取る。

「ちょっと―」

「いいだろ?ちょっとの間だけだ。俺があのままあそこに居たら、俺があいつの邪魔になる」

「…だったら、床の上に居れば良いのに」

「埃塗れで汚ねぇだろ」

少年が扉に詰め寄る。少年がナイフを持った左手を動かして、人差し指と親指だけで薄汚れたアルミ扉に触れる。クロスボウは扉の向こうに狙いを定めたままだ。(…私がクロスボウを使えれば良かったんだけど)私は微かに震える指先を撫で、少年の背中を見守る。黒猫が耳元で唾を飲み込む。

少年が扉を押す。

―キイイィィィ、ィ…。

扉が開く。扉の向こうには誰も居ない。少年はクロスボウを構え直し、壁で死角になる部分にも射線が通る様に、左側に弧を描いて扇状に進んでいく。私は耳の後ろに手を当てて、もう一度何か聞こえないだろうかと試してみる。私の左肩でピンと耳を立てて、黒猫も同じことをやっている様だ。(肩に少し爪が刺さって、痛い)何も聞こえない。私の耳に聞こえるのは、ここ数時間ですっかり御馴染になった、砂と風の二重奏だけだ。

(…何が起こった?)

(“怪物”が死んだ)(それは無い)(そうだったら良いけど。でも、要因が無い。死因になりそうなものが)(他の誰かが殺してくれた)(有り得ない。ここは確かに一番“タウン”に近い“シェルター”、でも10数年の間に何もかもを浚われ尽した、出涸らしみたいな“シェルター”、って話だ。よっぽどの物好きじゃ無ければここには来ないだろう、それもこんなにタイミング良く。それに何の戦闘音もしなかった)(じゃあ、自然災害?)(だったらここに居る、私達は何?“怪物”を即座に葬る規模の災害なら、私達にも何らかの被害が出ている筈。それに、全く気付かないなんて在り得ない)(寿命)(無い)(毒)(無い―)

―少年が、廊下に足を踏み出す。

「おい、小僧―」

少年は廊下に素早く視線を走らせ、それから足早に戻って来て、自分達の荷物と、それから私のナップサックを回収する。(廊下はT字路)(長い部分が何kmも続く直線の廊下になっていて、短い部分が階段と、エレベーター、それに緑とオレンジが示す動線の部屋に接している)(B1は天井部分が破損していて、そこから少年達は侵入してきた)(そこまでの距離は100mも無い。強行突破する積りか?)(確かに、ここで退路を塞がれて、袋の鼠になる位なら―)少年は私にナップサックを渡し、廊下の安全を再確認した後、振り返って私を手招きする。黒猫も私の左肩をポンポン、と叩く。「行くぞ、小娘」(―違う、退路が無いのは彼らだけだ)(私にはある)(“扉”)(本当について行っても良いのか?)(どうして足音が消えた?)(“怪物”の一番は、音―)

私は廊下に足を踏み出す。

少年が頷く。黒猫は小さく笑う。少年は廊下の一番長い直線、何kmも続く部分を視認する為に、クロスボウを構え、ゆっくりと壁に沿って前進を始める。

(全部、後で考えよう)

(彼らを“扉”に近付けないという大目的はクリアしたんだ)(“怪物”の事も、命の危機も、それから、彼らを撒いて、どうやって“扉”の向こうに帰るかも)(全部、後で考える)

(どうせ、明日は日曜日だ)


T字路の曲がり角にピッタリと背中を張り付け、少年は廊下の直線部分から視認できる場所へナイフの先端を差し出す。最初は一瞬だけ、次は左手で握ったナイフのグリップを、長い間くるくると回して。

(…ナイフの刃に反射した光で、廊下の向こうを確認しているのか)

(成程なぁ、咄嗟に良く考える)(これも“ディガー”としての経験、ってヤツなのかね)(助かった)(こいつが慎重な奴で良かった)(惜しむらくは、ナイフが碌に磨かれて無い事だ。殆どモザイク画じゃないか)(それで充分だろ?)(白いのは壁、赤いのは砂。怪しいものは特に映ってない、様に見える。怪しいものは―)(待て、“怪物”の色が白かったらどうする?“怪物”の色が赤だったら?)(慎重に、出来るだけ慎重に―)

少年は曲がり角の向こうに首を出す。最初は一瞬、次は出口の辺りを、ざっと確認出来るくらいの余裕を以って。

(…心臓が止まるかと思った)

(案外思い切り良いよな、この子)

クロスボウをしっかり握り直し、射出口を左腕の上に乗せて、少年は何kmも続く廊下の直線上に足を踏み出す。静かに息を吐き、クロスボウを構えて少しずつ前進する。私達はT字路の角、さっきまで少年が陣取っていた位置で息を顰めている。壁に強く背中を押し付けて、一歩毎に視界から消えていく少年の背中を、縋る様な思いで見る。肩の上で黒猫が全身の毛を逆立てている。黒猫の胴体が私の頬に触れる。(…温かい)(撫でたら怒るだろうか)(今はそんなこと考えてる場合じゃない、自分の命が危ないって時に。集中しろ、集中)(変異体。どんな見た目をしてるんだろう。元は人間らしいけど、だとしたらやっぱり人型なんだろうか―)(―集中しろ、集中!集中、集中を―)

―少年が左腕を伸ばして、人差し指で廊下の角を、トントン、と叩く。

―ひゅう。

悲鳴を飲み込む。

黒猫が私の肩の上で、ホッとした溜息を吐く。「ああ良かった、俺ぁ、今度こそ本当に駄目かと―」少年の伸ばした左腕を伝い、少年の肩の上に戻っていく。「―ああ、ホントに居ねえな、畜生、ヒヤヒヤさせやがって―砂漠で凍傷になるかと思った位だぜ。ほら小娘、さっさと行くぞ。奴さんの気が変わっちまわねえウチにな―」

…黒猫と少年を追って、私も何kmも続く廊下の直線上に身を曝す。少年は私を振り返る事無く、クロスボウを構えて前方の警戒を続けている。黒猫は少年の肩に顎を乗っけて、洗濯竿に吊るされる衣類の様に、すっかりだらけ切った体勢で私の方を振り返っている。「―小娘、今晩だけは俺達のキャンプに案内してやる。仕方ねえが、今晩だけな。ここに一人放り出していく訳にも行かねえ、俺様達の太陽系をも包み込まんとする恩赦の懐の深さに感謝しろよ。ああ、約束のブツはまた今度で良い―明後日か明々後日か、そのまた明日でも―その代わり必ず持って来るんだ。いいな?必ずだぞ必ず、意味は分かるな―?」

少年は私が付いて来ているかどうかも確認せず、そのまま侵入してきた場所へ向かって、前進を始める。崩落したB1の廊下の天井、そこから大量の砂が流れ込んでいる場所へ。(余裕が無いのか?)(危険は未だ去って無い、ってことか?)(でも、黒猫の軽口を止めない)(今は安全だけど、危険が本当に去ったかどうかは分からない?)砂の流れる音が聞こえる。風の音も。(足音は消えた)(ということは、安全だ、って事じゃないの?)(違う。足音は逃げたり、遠ざかって言った訳じゃない。。ヤツは未だこの辺りに居る可能性がある)(だとしたら、黒猫を黙らせた方が良いんじゃ?)(もしかしたら、待ってるのかも。“怪物”が黒猫の言葉に誘われて、姿を現すのを―)(見えてた方が、対処はし易いから。逃げるにも、戦うのにも)(―それとも)

(彼も、不安なのかも)

―ザクッ。

足音に砂の音が混じる。足音に。(大丈夫)(大丈夫、大丈夫)(音は聞こえない。妙な奴も見えない。“怪物”らしきヤツは。ここには私達だけ。これは私の足音)少年が立ち止まり、辺りを見回す。黒猫も彼の肩の上で聞き耳を立てる。私は彼らの邪魔をしない様に、砂の上で出来るだけ音を殺す。ナップサックを出来るだけ静かに背負い直す。靴が砂の山の上で滑って、私は少しずつ麓の方に流されて行く。黒猫が欠伸をする。少年も小さく溜息を漏らして、クロスボウを右手にぶら提げ、砂の山を崩落した天井目指して登り始める。私は脱力した笑みを浮かべて彼らの後を追う。崩落した天井から異世界の空が見える。紫色の空は、太陽が西に傾いて赤味を増している。(パープルレッド)(変な色)風の音が聞こえる。砂の音も。私は足元を見る。足の裏が痛かった事を今更に思い出す。靴の中で足の指を伸ばしたり曲げたりして、それから私は彼らの背中を見上げる。

―ザクッ。                

一歩踏み出した所で、私はそれを見つける。彼らの背中とは別の方向に。砂の山の中腹に、一人の男が倒れている。崩落した天井からは離れた、B1の廊下の奥へと続く方角、その中腹に、壁と多量の砂に、体を挟まれる様にして。(?)倒れているというか、寝そべっているというか。

埋まっているというか。

男はその体の6割を砂に埋もれさせていた。僅かに胸部から上と、頭部が出ている位だ。男は白衣を身に纏った研究者風で、頭髪には白髪が混じり、顔は草臥れて、痩せ細っていた。目の下にはくっきりとした隈が浮き出ている。胸元にはネームプレートがピンで留めてある。

【区分・研究員/ID65487890/ Michael Adler】

(…研究員)

(男)

(男、の…人)

(?)

「やあ、お譲さん。済まないが、手を貸してくれないかな?少しだけ困っていてね―ああ、本音を言わせて貰えるなら、少し所じゃない訳なんだが。兎に角困っているんだよ。、と言っても良い位だ」

男は。

男は喋り出す。流麗な日本語で。(Micha―)(外国人、じゃ)(痩せ過ぎてて、元の人相が良く分からない。目も黒っぽく見えるけど)(ペラペラに日本語を喋る外人―なんて、今どき珍しく無いのかな?)声が出ない。砂の山を見る、砂の山を昇る彼らを見る。首筋に悪寒がする。声を上げて彼らを呼ぶべきだと分かっている。でも、どうしても声が出ない。

「お譲さん、済まないが、手を貸してくれないかな?」

背中に背負ったナップサックに手を伸ばす。何度も唾を飲み込み、喉を湿らせ、口を開ける。「あ」漸く声が出る。到底彼らには届かないだろう、か細い、か細い声が。考える前に口を動かす。少しずつ少年達の方に歩を進める。喋りながら私は考える。考える。考える。考える。

「その砂の山から助け出すのは一人じゃ無理よ。待ってて、今、応援を―」

「娘を探しているんだよ」

男は砂の上に両手を突き、自分の下半身を砂の中からゆっくりと引き摺り出す。男はまるで蛇の様に胴体をくねらせながら砂の山から這い出て来る。男の胸元にはネームプレートがピンで留めてある。

【区分・研究員/ID65487890/Michael Adler】

―一枚だけじゃない。幾つもの、幾つものネームプレートが。

【区分・研究員/ID65612290/Denis Dlvimare】

【区分・研究員/ID65881290/Ryosuke Tokita】

【区分・研究員/ID65234690/Olivia Peterson】

【区分・研究員―】

「お譲さん。済まないが、手を貸してくれないかな?」

ナップサックを背中に背負ったまま、ジッパーを開け、中に手を突っ込む。(武器)少年がここに入れた筈だ、私は祈るような思いで指を動かし続ける。彼がここに銃を入れた筈だ、彼がここに銃を、彼がここに銃を、彼がここに―。

「娘を探しているんだよ。身長は君よりも大きくて、そうだな、120cmくらいだ、体重は君よりも軽いだろう―確か95kgを越えていた筈だ。娘はまだ幼くてね。顔は皺くちゃで、乳房も萎れてるから直ぐに見分けがつく筈だ」

手の平に。

ナップサックを探る手の平に、何も触れない事に、ほんの微かに落胆する。例え銃のグリップを握れても、それと分かったかどうかも怪しいが。私は空の掌をナップサックから出し、微笑を浮かべて男を見る。男の頬が、水面に気泡が出るかのように膨らんで、頬の肉が気泡の頂点から裂けて二つに開く。そこには目玉がある。右頬を丸ごと覆う様に大きく、白く、血走って濁ったもう一つの目玉が。

男は頬の目玉を瞬きさせて、私に笑い掛ける。

「おい、何してる、小娘―」

黒猫の声が遠くに聞こえる。私は溜息を吐いて、男にひとつの質問をする。

あの質問を。

「…パンはパンでも、食べられないパンは?」

男の肌の上が膨らむ。。幾つもの気泡が浮き出る。男の肌の上が泡立つ。男の体積が膨らむ。男は既に、最初に見掛けた時の二倍に膨れ上がっている。服が破ける。胸に、肩に、二の腕に、幾つもの目玉が開いては閉じる。ピンク色に変色した肌からはテラテラとした粘液が滴り落ちる。男は笑う。白衣が背中から真っ二つに割れ、男の両腕から静かに垂れ下がる。笑みを湛える男の唇の奥から、舌が覗く。舌の先についた小さな眼玉が、私の鼻先にゆっくり近づいて来る。目玉に私の顔が歪んで映っている。


「おジョウさん、スまないがテをカしてクレないかな。むむムムム、ムスめをサガしているんだよ」


「―れ」

声が聞こえる。

遠くから声が。

私は声のした方向を見上げる。周囲からはいつの間にか音が消えている。まるで夢の中に居る様に静かだ。砂の山の上、崩落したB1の天井の向こう側で、黒猫が必死の形相でなにかを叫んでいる。何を怒ってるんだろう、と私は思う。体がだるい。頭の中がざあざあと煩い。けれども、そのだるさに身を任せてしまいたくなる、頭の中の煩さに、何もかもを委ねてしまいたくなる。周りのものの動きが酷く鮮明に見える。砂粒の滑り落ちる速度、宙を舞う埃。黒猫の唇が何度も開いては閉じる、少年がゆっくりとクロスボウの引き金を絞る。

ゆっくりと、とてもゆっくりと。

「―走れ!!!」

弾かれた様に私は走り出す。砂の地面を蹴って、砂の山に手を突いて、彼らの方へ。ギチュ、と水気のある音がして、私の右手側に居る“怪物”の左肩に、クロスボウの矢が命中する。(ああ、嫌だ)(死ぬ)(ヤバイヤバイヤバイ)(嫌だ嫌だ嫌だ)(嫌な音だ)(肉だ。肉を噛む音に似てる。噛み切れない肉を何度も何度も、顎が疲れるまで何度も何度も何度も―)(走れ)(足が痛い。足が痛いんだ)

(それがどうした?死にたくなきゃ、死ぬ気で走るしかないんだよ)

走る。走る。砂の山は蹴る度にバラバラと足場が崩れて、思う様には前へ進めない。(クソ)(不味い。部活辞めてから、運動不足が―)(死ぬ、死んじゃう)(足を出せ、砂を掴め、前へ進め)(脇腹が痛い、咽がカラカラだ、息が出来ない、)(ヤバいぞ、スピードが足りない、このままじゃ―)

―“怪物”の方を見る。

“怪物”は目玉だらけの左腕を砂の上に突いて、真直ぐ私の方に向かって来る。(…畜生)(目玉だらけの前足で、砂の上をよく歩けるな。痛くないのか、それ?)(こっちに来やがる)(私なんか食っても美味しくないぞ、他の奴にしろ―)“怪物”の体表にある百余の目が、全て私の上に注がれている。(…クソ、本当に)(今日は何て日だ)(ボウガンで殺されかけて、ナイフで殺されかけて、“怪物”に殺されかけて。あと何回、死にそうになりゃ良いんだ?)(死ぬ)“怪物”は最早、何処に頭があったかも分からない形状となっている。今や俵型の胴体に、適当に手足をくっ付けただけの様な形だ。良く見れば手足の数も既に4本ではない、5本、6本と、少しずつその胴体から絞り出す様に、その数を増やし続けている。

(7本、8本…。8本か。確か、8は海の向こうじゃ悪魔の数字だとか―)

少年が二射目を放つ。グチュ、と音がして、“怪物”の脇腹にボウガンの矢が突き刺さる。

それでも“怪物”は止まらない。

(…死ぬ。死にそう、じゃなく、ホントに死ぬかも)

砂の山に左手を手首まで突き刺し、右足で強く踏み込む。途端に足場が崩壊し、私は砂の山の麓まで一気に滑落する。

(あ)

B1のコンクリート造りの廊下の上に、背中から投げ出される。幸い、ナップサックを背負っていたので、頭を打ったりはしなかったが、代わりに背中側から突き上げる様に、ナップサックに肺を圧迫される。肺の中の空気を全て失う。涙が滲む。吐き気がする。猛烈に吐き気がする。

(ああ)

―ひゅう。

何とか体を起こそうとする。けれども、体に力が入らない。指先が痺れた様に痛む。脹脛が鉛に変わってしまったかの様に重たい。私は首だけを起こして、前を見る。そこには“怪物”が居る。“怪物”は私を見ている。俵型の胴体を揺らして、“怪物”は笑っているように見える。

(………顔も無いのに)

―ビン、と弦の震える音と共に、少年が三射目を放つ。三本目の矢は“怪物”の百幾つある目玉の一つに命中する。“怪物”はゆっくりとその巨体の方向を変えて、漸く砂の山の上に居る少年に気付いた様に、そちらに目線を向ける。

「おい」

耳元で囁き声がする。そちらに目を向けると、そこにはいつの間にか黒猫が立っている。「―動けるか、小娘?」私は胸を擦り、空咳をして、軽く頷く。「そうか。まあ動けなくても動いて貰うがな。小僧が時間を稼いでくれてる、俺達も逃げるぞ」もう一度頷く。息を深く吸う。涙を拭う。

(…大丈夫、まだ、大丈夫)

可能な限り、素早く立ち上がる。「こっちだ、小娘」黒猫が廊下の元来た方角、エレベーターや階段のある方向へと私を手招きする。私は小走りでそちらに向かいながら、“怪物”の方を振り返る。その重い体重では流石に砂の山を昇れずに、“怪物”は砂の坂を上がっては滑り落ちる、を繰り返している。少年は“怪物”の行動に構う事無く、ボウガンに矢を番え、四射目を放つ。四射目が“怪物”の背中側にある目玉のひとつに突き刺さる。“怪物”はその体を小さく震わせ、その目玉の全てで、

(―あ)

少年を見る。

(ヤバい)

「避けろ!!」

―私は思わず叫ぶ。

少年がピクリ、と背筋を起こし、素早く後方に飛び退くのが見える。“怪物”の目から、(少年を)数々の目玉から、(少年を視界にとらえていた目玉から)黄白色の光の帯が迸る。それが天井を焼き切り、砂を溶かし、白いぶすぶすとした煙と水蒸気を巻き上げるのが見える。焼き切られた天井が“怪物”の上に降る。“怪物”の胴体に当たって、石片は粉々に砕ける。“怪物”はまだ、少年が居た場所を見つめている。

その全ての眼で。

「おい、小娘、さっさと行くぞ、なぁ―!」

黒猫の、咽が裂けんばかりの金切り声で我に返る。私は彼を見る。彼の泣きそうな顔を見る。彼の後に付いて、私は無言で“怪物”から逃げ出す。急いで、急いで、疲れた足に、可能な限り。

「ああ、おい、小娘、小僧はどうなった?無事だよな?なんだありゃ、あいつ、何をしやがった?ええ?小僧は無事なのか?なぁ、小娘、お前あいつを見たか―?」


(…なんだあれ)

(ビーム)(そのくらい、知ってるよ)(ビームだ)(なんだあれ)(なんなんだよ、あれ、あんなの聞いてないぞ、あんなもんどうしろってんだ、ふざけんなよ、あんな―)

(あの子は無事?)

(無事だろうか、彼は、あの少年くんは)(きっと大丈夫さ、あの人は素早い。私よかそりゃもう、遥かに。一呼吸で私の首元にナイフを突き付けられる位に―)(―でも、光よりかは早く無い)(直前に、飛び退くのが見えた)(それで?無事な所を見た訳じゃない)(射角がずれてた)(だから?光がどんな風に飛ぶのかも知らない癖に)(光は何かの影響を受けない限り直進する)(影響を受けたら?砂を焼いて、天井を溶かして、その後、あの光線がどういう風に進んだか―)(落ち着け。落ち着け、叶。悪い癖だ、冷静に考えろ、物事の悪い面だけを見るな、現状を確認して、冷静に―)

「最悪だ。チクショウ、お前なんか助けるんじゃなかった。ああ、どうして、どうしてこんな―」

黒猫の泣き声で我に返る。黒猫は半ベソを掻きながら、牙を剥きだして私を睨み上げている。私は黒猫を無視して考える。手持ちの武器、持っているもので役立つ物、今出来る事。

「―小僧が死んだらお前の所為だ、小娘。絶対殺してやる。ああ、お前がボーっとしてなきゃこんな事にはならなかったんだ、俺達ァ今頃キャンプに帰りついて、豆のスープでも飲みながらウトウトと―」

私達は階段の踊り場に居る。(また階段)(階段日和だ)B1から、一つ下がった所にある踊り場だ。今の所、“怪物”の足音は聞こえない。ちょっと前まではB1でモタモタと暴れ狂う“怪物”の音が盛大に聞こえていたが、今ではもう何事も無かったかのように静かだ。何の音も聞こえない。私の耳がバカになっただけかもしれないが。

「―殺しとけばよかったんだ、お前みたいな疫病神。ああ、さっさと殺しとくべきだった。出会い頭で頭を撃ち抜いて、荷物だけ頂いときゃ、こんな事には―おい、聞いてるのか、小娘?」

「聞いてるよ、煩いな」

「煩ぇだと!?テメエ、誰の所為で―!」

私は背中からナップサックを下ろす。半分開いたジッパーの隙間から中を覗き込む。コンビニで買ったお菓子群に紛れる様にして、拳銃がそこに刺さっているのを発見する。思わず脱力した笑みが浮かぶ。(…こうやって見ると、とても本物とは思えないな)私はそれをナップサックから取り出し、(黒猫が微かに体を強張らせるのが見える)手の中のそれを繁々と観察する。

「ねぇ、黒猫さん、これ、どうやって使うの?」

「…あ?」

黒猫が一歩、後退さる姿が視界の端に見える。私は手の中の拳銃を色んな角度から眺める。…結構、重たい。銃身の先端5cm程が、やはり極端に細い気がする。(太めのストロー位)何かのアクシデントで簡単に曲がってしまいそうだ。グリップは木製。所々擦り減って、滑り止めが消えてしまっている所もある。

「―そんな事聞いて、どうするつもりだ、小娘?」

「安心して、あなたを撃ったりはしないから」

銃から目を離して、黒猫を見る。黒猫の金色の眼の、下瞼の縁が赤く腫れている。(…泣く猫、か)私は笑う。(普通の猫も涙を流すんだろうか)(まぁ、そんなこと、考えても意味の無い事だけど)(ここは普通の世界じゃないし、彼は普通の猫じゃない)

(泣き虫の猫が居てもいいじゃないか)

「―ちょっと、様子を見に戻ろうかと思って」

黒猫は大きく目を見開き、次にそれを、疑うように鋭く細める。私は銃のグリップを指先で弾きながら、その様子を眺める。

「…正気か、小娘?」

「多分ね。自分じゃそう思うけれど」

「死にたいのか?」

「そんなつもりは無いけど。でも、ずっとここに居ても同じ事じゃない?私達には碌な武器が無いし、私は彼みたいには素早く動けない。私とあなただけなら確実に殺される。でも、少年くんだけでも多分勝てないわ、痛みに鈍い巨体と、強力な熱線。近寄るのは難しい。かといって、矢の数にも上限がある」

(嘘だ)

私は頭の隅でぼんやりと考える。

(同じ事にはならない。私には“扉”があるし、私は知っている)(私は怪物が夜行性な事を知っている)(今日で大まかな時間も分かった。少なくとも10時から13時の間は、“怪物”は眠りに着いている。その間は、絶対の保証は出来ないが、その間だけは多分安全だ)(同じ事にはならない)

私はグリップを弾く。

(なら、どうして?)

「…けどよぉ、お前、さっき『銃は知ってる』って言ってなかったか?」

「言ったけど、でも、銃の使い方を知ってるとは言わなかったでしょ?」

「………全く、屁理屈を捏ね回す事に関しちゃ、お前の右に出る奴ァいねぇな、カナエ…」

私は笑う。

(助けてもらったから?)(“怪物”に狙われて)(でも、殺されかけた)(二回も)(ナイフと、ボウガンで)(歳が近いから?)(多分、年下)(金色の眼)(初めて見た)(黒猫が泣くから?)(さぁ、多分その全部が理由だし、その全てが理由じゃないんだろう)

(こういうのは、理屈じゃない)

(彼を見捨てたくない)(彼らを)(黒猫と、あの少年を)

(助けになりたいんだ)

「じゃあ、早速お願いね。ついでにこの拳銃の残弾の調べ方と、それからあの少年くんの手持ちの武器の詳細も、教えてくれると助かるんだけれど」

「…図々しい女だな」

「良く言われるわ」

「おまけに可愛げも無い」

「それも良く言われる」


銃艇を引く。

ガション、と機械的な音がして、薬室から薬莢が排出される。薬莢の排出される音に混じって、カチリ、と小さな音がした様な気がする。(白骨死体が持っていた銃)(白骨化するまでの長い間)(本当に撃てるの?整備不良。金属疲労。不安要素は腐るほどある)(弾が無かったら?銃身に何かが詰まってたら?火薬が時化ってたら?引き金が―)(信じろ。信じるんだ)(何を?)

(さ。死にたくなけりゃね)

撃鉄を起こす。

錆付いているのか、それとも他の理由か(例えば、死体から揮発した油が銃の周りにこびり付いてとか―ああ、この銃、何だかベタベタしてる気がする)、引き起こすのに中々苦労する。黒猫によれば、これで次に引き金を引けば、真新しい銃弾が飛び出す、筈だそうだ。(弾があれば、ね)(拳銃の装弾数は大体6~12発)(オートマチックならもう少し多い。となると、8~12発くらいか)(種類から装弾数が分かる位、銃に詳しけりゃ良かったんだけれど)(銃弾は自殺用に3発使われていた。マイナス3発の銃弾)(これから死ぬような奴が、銃のリロードを済ませてくれていたとは考え難い。自殺する様な奴は、後の事なんて考えないもんだ。次にこの銃を使う奴の事を考えて、リロードしてから自殺する様な奴は居ない)(ということは、この銃はマイナス3発だ。最低でも。そこが問題だ。その前に何発か使った筈だ。それが問題なんだ)(この場所で昔、何かが起こり、彼らは何発かを使い、あの場所に逃げ込んで)(『関係者以外立ち入り禁止』)(―そこで自殺した。その前に何発使ったか。それが問題だ)

(最低でもマイナス3発)

マガジンを外す。中を覗き込む。銃弾はマガジンの天辺まで目一杯入っている、様に見える。(そんな訳ない、最低でも)(最低でもマイナス3発)(でも、マガジンに目一杯)(目一杯、入っている様に見える)(…そうか、リロード?)(オートマチックの拳銃に詳しい訳じゃないけど、多分、リロードしたら、次の銃弾が薬室の下に来るように上昇するから―)(…じゃあ、どうやって残弾を調べる?)(弾を押し込んでみるか?それとも取り出してみる?)(止めた方が良い。元に戻せるかどうか分からないし、他に銃器や銃弾の替えがある訳でも無いんだ)(…簡単そうに見えるけど。少なくとも、映画とかじゃ。マガジンに弾を込めて、それを銃に装填するなんてシーン、良く見る―)(そりゃ、だ。私は危ない橋を渡る気は無いね。元に戻せなくなったらどうする?今の所、)

溜息を吐く。地面に落ちた薬莢を拾い、マガジンの横に並べて、目測で装弾数を計ってみる。8発か、多分9発。薬莢が少し凹んで、歪んでいる事を呪う。マガジンを元通り装填して、私は途方に暮れる。

(…最低でもマイナス3発)

「忘れずに安全装置を掛けろよ?」

拳銃を握る私に、黒猫が念を押すように(疑う様に)(いぶかしむ様に)(不安そうに)言う。

「銃の左側面にある小さな掛け金を下ろせ。いいか、必ずだぞ?今でもたまにそこら辺で見るんだ、銃を手に入れて浮かれた新米ディガーが、安全装置も掛けずに銃をホルスターに突っ込んで、自分の脹脛を吹っ飛ばすんだ―笑い事じゃないぞ、新米ディガーにゃ良くある事故のベスト4だ―“良いディガーかどうかは脹脛を見りゃ分かる”。脹脛の傷は慎重さの欠如の証だ」

「オーケー、猫さん」

安全装置を掛ける。その小さな留め金だけで、本当に銃が暴発しないのか、微かに不安になる。(もう少し、厳重に鍵を掛けた方がいいんじゃないのか?)(いやいや、いざという時、咄嗟に使えなきゃ―)(―最低でもマイナス3発)私は拳銃を握ったまま立ち上がる。唾を飲み込む。手の平に、僅かに汗が滲む。

(最低でもマイナス3発)

(―咄嗟に使えなきゃ、意味が無い)

考える。手持ちの武器、持っているもので役に立つ物、今出来る事。

「そろそろ行くわよ。準備は良い?」

「おうよ。お前こそどうなんだ、小娘?膝が震えてるぞ。小便は済ませたか?ハンカチは持った?」

「…口の減らない猫ね」

「お前に言われたか無ぇよ」

黒猫に左腕を差し出す。すかさず猫は左腕を駆け上って、私の左肩に陣取る。黒猫の体温を左頬に感じる。黒猫の爪が服の繊維の隙間を縫って、私の肌に僅かに突き刺さる。その痛みが、今は有難い。痛みが私を現実に繋ぎ止めてくれている。これは夢じゃない、と教え続けてくれている。

(最低でもマイナス3発)

(手持ちの武器、持っているもので役に立つ物、今出来る事)

(咄嗟に使えなきゃ意味が無い)

(ビーム)(彼は無事?)(“頭上の怪物”)(私達には碌な武器が無いし、私は彼みたいには素早く動けない)(殺される)(【区分・研究員/Michael Adler】―)

(“怪物”の一番は多分、音―)

(どうせ、明日は日曜日)

「…なぁ、小娘。あいつは…その。どうなっただろうな、あいつは、その、あ―…あの、変異体は」

私の肩の上で、黒猫は密やかにそう問いかける。まるで、誰かに聞かれる事、を恐れる様に。言葉にした途端、形にした途端、それが、その言葉が彼を、彼の事を―。

私は笑う。

「さあね。死んでてくれると、一番嬉しいんだけれど。少なくとも、最後に見た時は生きていたわ」

(信じろ)

(何を?)(幸運を)(あの子が生きている事を)

(死にたくなけりゃ、ね)

(私達だけじゃ殺される。彼だけでも殺される)

(一番は、多分、音)

「それじゃ、行きましょうか。早目に彼と合流しないと。私達だけであの“怪物”と鉢合わせしたら、多分、今度こそあの世行きよ」

(最低でもマイナス3発)

私は階段を昇る。私達は。膝が軋んだ悲鳴を上げる。私は聞こえないふりをする。



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