#1
―その日ぼくは、天使をみました。
“いいかい、今後この先からどんな人が現れても、決して言葉を交わしてはいけないよ”
天使をみました。
“いいね?約束だ”
天使をみました。
“それは邪悪なものだ。の邪悪だ。彼らが全ての元凶なんだ。彼らがこの世界を見つけないことを切に願う”
“はい、おじいさん”
“もしも彼らが来たなら、彼らを導くんだ。お前が彼らをね。炉へ導け。それがお前の唯一の役割だ”
天使をみました。
天使をみました。
天使をみました。
“はい、おじいさん”
“良い子だ。ああ、とても。とても良い子だ”
扉だ。
私は首を傾げる。
10月13日。駅前のロータリー、から少し歩いた所。シャッターが閉まった倉庫や、何年も使われていない様な自動車が停めてある駐車場なんかがある一角だ。そこに、街灯と街灯の間の薄闇に隠れるようにして、一枚の扉が置かれていた。
(ふむ?)
私は扉の前で首を傾げる。顎に手を当てて首を捻る。くっ付きそうなくらいに眉根を寄せてみる。見れば見る程おかしな扉だ。最初は壁かなんかに立て掛けてあるのかと思っていたが(それはそれでおかしな話だけど)、良く見ると扉はそれ一枚だけで直立している様だった。足元を固定している訳でもないのに、扉はそれ一枚だけで完璧にバランスを保っている。私は首を傾げて扉を見る。「んん」扉はそれ一枚で完璧にバランスを保って立っている。
駅前へと続く、寂れた路地の道端で。
(なんじゃこりゃ)
私は首を傾げたまま扉の周りをゆるりと一周する。扉は木製で、良く磨き込まれ、丁寧にニスで磨き上げられている。使われている木材は白っぽい色で、木目とのコントラストが見た目に良く映える。扉の上部にはモザイク硝子が、十字に仕切られて埋め込まれている。「はー?」裏っ側には何も無かったが、表っ側にはノブが付いていた。円形の装飾を何重にも刻まれた、真鍮製のドアノブだ。
「わけがわからん」
私は腕を組んでドアノブを睨む。ドアノブも私を睨み返して来る、と言う訳も無く、数秒の間無為な時間が流れる。
烏の鳴き声が聞こえる。
扉だ。
ともかく扉だ。
扉だ、扉だ、扉がある。私はリズムを付けて頭の中で繰り返す。Yoyoyoyo扉だyo, hey guys,今俺の目の前に♪扉が立ってるその奇跡♪分かって欲しい今皆に♪feel catch the hands on everybody♪あああなんて歌ってる場合じゃない私、思考だ、思考を止めるんじゃない。私は直ぐさま下手糞なビートを刻む脳内ヒップホッパーを脳内レーベルから解雇する。(何でだよ、結構いい出来だっただろ)(どこがだよ、歌番組で歌わなくてもアンチがスレ立てするレベルだっただろ)(違う、先ずは扉だ)(扉の事を考えよう)
(扉だよ 扉の事を 考えよう)
続いて私は脳内俳人も脳内俳会から追放する。(なんでもかんでも追い出すなよ。表現の自由はどこ行ったんだ?)(そんな事は今重要じゃないだろ、時と場合を考えてくれよ)(さっきのアレは俳句じゃないだろ、季語が入ってるのが俳句だって学校で教わったろ。扉は季語か?)(黙ってろ)(そうだ黙ってろ、教養人ぶりたいだけのファシスト野郎)(誰がファシストだこの―)
私は―。
手を伸ばす。
扉に触れる。
扉を軽く押してみる。もしかしたら倒れるんじゃないだろうか、という、軽い期待からだ。扉はビクともしない。もう一度押す。今度はもっと強く。徐々に体重を込めて。「…っで、倒っれ、ないんだこらああああああああぁぁぁぁぁぁんぎぎぎぎぎぎっぎ…!」最後には、相撲取りの鉄砲稽古みたいに。
扉はその場所に完全に固定されている。家の扉や、教室の扉を押しているみたいだ。まるで建物全体を相手にしているかのような、絶対的な安定感。
「…ああ、あ、これ、こりゃ無理だ、こりゃ絶対、絶対に…」
扉はビクともしない。
扉は完璧なバランスを保ってそこに立っている。
(…地面にボンドで接着してる、とかでもないみたいだし)
改めて扉を見る。今度は扉を思いっきり蹴ってみる。
―ガン。
扉はビクともしない。
「うぁ」
…私の爪先がジンジンするだけだ。
「――――ぁっ、この、クソ扉―」
ドアに思いっきり残った靴跡を睨みつける。爪先の痛みが引くまでの間、私はそこにしゃがんで、その最後に残った選択肢について考える。今日の私の服装は、制服にマフラー、秋物の通学用コート。この向こうが極寒のツンドラ地帯とかだったとしたら、また改めて夏に来るとしよう。私は次に鞄の中身を見る。弁当箱、筆箱、友人に借りたノート、iポッド、親に出し忘れたプリント、親に(故意に)見せ忘れた返却されたテスト、開封済みのチョコ菓子の箱、ガム、飴玉のパック、ティッシュ、小銭。私は爪先を擦りながら考える。考えようによっちゃ食料もある。チョコは疲労回復に良いっていうし(そんな、ゲームみたいにそれ一口食べりゃ体力全快って訳にはいかないだろ?)(いいじゃん、ここで帰る選択肢はないって。この扉の先がどうなってるのか、気になるだろ?)(気になる)(行こう)(止めとけ)(待てって、こりゃ誰かの性質の悪い悪戯だ。誰かがここに扉を勝手に設置したんだ。扉を開けても見えるのは向こうの空間だけだ、そうだろ?)(扉の足元は全く固定されてない)(だったら開かない扉だ。性悪な芸術家が無許可で設置した現代アートだ。きっと監視カメラでどっかからこっちの反応を窺ってんのさ)(一理ある)(きっと今に、ドッキリの札を持って誰かが走って来るぞ)(一体何の為に?)(異常者の考える事なんか知るもんか)。
(大体、扉が何処かにと考える方が不自然なんだ)
(大丈夫。ちょっと開けて、見てみるだけさ)
(見てみるだけ?見てみるだけで、我慢出来るって言うのか、お前が?)
私はドアノブを見る。ドアノブには見事な装飾が施されている。円形の装飾だ。蔦の様な物が幾重にも絡まり合って輪を描いている。私はドアノブに手を伸ばす。予想通り、冷たくてひんやりしている。ドアノブを捻る。ノブは何の抵抗も無く回転する。私は思わず、笑ってしまう。
「は」
(開いた)
扉を押す。ビクともしない。少し考えて、今度はドアノブを手前に引っ張ってみる事にする。ギィギィと重苦しい音を立てて扉がゆっくりと手前に開いていく。隙間が開いていくにつれて、胸の奥に火が点く様な感覚を覚える。
「マジか」
扉が開く。笑顔を抑えられない。指先の震えも。
(ヤバい、どうしよう、ワクワクする)
扉の向こうには―。
「―?」
私は目を細めて向こう側を眺める。いっそ、睨みつけてると言った方が良い目付きで。笑顔が消える。指先の震えも。
扉の向こうには、暗闇が広がっていた。
肩すかしを喰らった様な気分になる。扉の向こうは、ただただ真っ暗だった。いや、別に、真っ暗闇と言う訳じゃない(何のフォローをしてるんだ、私は)。例えて言うなら、田舎のお婆ちゃん家に遊びに行った時に、遠くの山裾の方に見える暗闇の様な、停電時に見る暗闇の様な、文化祭なんかで夜遅くまで学校に残った時、消灯後の校舎内で見る暗闇の様な。
まあ簡単に言えば、凄い暗闇だ。物凄い真っ暗闇。
周囲をぐるりと眺める。スマホで現在の時刻を確認する。18:14。成程、まあ確かに、暗くなり始める位の時間帯だし、現に街に居並ぶ街灯共にももう明かりが点いている。それにしても、この暗闇は。もしかしてこの先には灯りがひとつもないんだろうか、等と考える。今日はもう出直そうか(それが良いと思う)(賛成)(今日の晩御飯なんだろう)(カレーじゃないかな?お母さんカレーを作る日は、何故かカレールーを冷蔵庫に入れる癖あるし―)。
いやいやいや。
待て、待て待て。
明日になったからと言って、扉の向こうからこの暗闇が無くなる保証は?そもそも、この中が扉のこっち側と同じ時刻だと、どうしていい切れる?(確かに)(もしかしたら、夜明け前かも)いやいやそれどころか、この扉の向こうには可能性だってあるんだ(太陽が無い世界、って事?)(寒そう)(サムソン)(ずっと暗いままだったら、生物は特殊な進化をしそうだな。人間の場合は肌が白くなり、髪の毛から色は抜けて、少ない光源を効率的にキャッチする為に眼球は大きくなり、顔の外に張り出して、爬虫類の様にこう、眼球の稼働域を―)。
待て。
先ずは暗闇だ。
私はスマホをもう一度覗きこむ(すっごい気持ち悪い妄想をしてしまった。爬虫類みたいに目が外に張り出した人間。視覚以外で情報を取り入れる為に、きっと耳も巨大化して―)(止めろ)(止めろお前)(誰かその馬鹿を止めろ!ここから抓みだせ―!!)。今度は電池残量を確認する為だ。79%。私は頬を掻きながらその場で暫く思案する。(79%)(多いのかな、少ないのかな)(普通位じゃね?)画面の明るさをマックスにすれば、軽い懐中電灯の代りにゃなるだろう、が―。
(…どうする、私?)
(そんな使い方した事ないからな、果たしてどの位で電池の残量が尽きるか―)
(もう決まってる癖に)
(まあね)
溜息を吐き、私は笑う。扉の向こうの、固形物みたいな暗闇に手を触れる。(コーヒーゼリーみたいな色)指先は何の抵抗も無く暗闇に沈んで行く。スマホを取り出し、扉の向こうを照らす。一瞬、スマホくらいの明りじゃ、向こうの暗闇は退散してくれないんじゃという脈絡のない心配が私の胸の内を過ぎる。その心配が頭から消えるか消えないかの内に、スマホの光源がその手の届く範囲内から一瞬で暗闇を一掃する。
(…さすがスマホ)
私は訳も無く科学の力を盲信し、扉の向こうに足を踏み入れる。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ。ぐるーっと見て回って、なんもなかったら直ぐ帰るから、ね?」
先ず気が付いたのは、臭いだった。
(臭いが、違う)
カビ臭い様な、息苦しい様な。新車の車内の臭いみたいな、物置の中の臭いみたいな。兎に角人の手の入らない場所の様な臭いだ。密閉された、風通しの良くない場所の空気。
さっきまでとは違う臭い。
(…というか、空気、あるんだな)(空気があって良かった)(そりゃそうだ。あんな何処に繋がってるのか分からない扉、くぐった途端空気の無い場所に出て即意識がブラックアウトしてそのままジ・エンド、って展開もあり得たんだよな)(怖いこと言うなよ)(なんにせよ、息が出来る所で良かった)(もっと慎重に行動しないと)(ここ、どこだろう?)(空気が違う。臭いが違う)
(別の場所なのは確かだ)
スマホの画面を胸の高さに持ち上げる。スマホが3m程の確かな視界を私にくれる。その眩しさに少し目が眩む。
(…うわ)
初めに目に入ったのは埃だ。宙に舞う埃。白い綿雪みたいな埃が、私が入って来た扉を中心に舞っている。(うへぇ)私は目を細めてそれを眺める。どうやら辺りは埃塗れの様だ。長い間人の手は入っていなかったらしい。(今度来る時は、長靴にしよう)私は履いているローファーを恨みがましく見てそう考える。(…買ったばっかだったのに、はぁ)
他に目に入るのは、どうやら(多分。私は建材に詳しい方じゃない)コンクリートで出来ている床や壁と、その隙間から逞しく伸びている雑草位だ。(…太陽が無い世界、って事はなさそうだな。日光が無いと植物は育たない)(なんだ、私達の世界とあんまり変わんないな)(本当に?新種の植物だという可能性は考えないのか?)壁や床に模様はない。壁面や床は灰色をしていて、どれも風化してザラザラだ。(…どうやら私は、建物の中に居るらしい)(この建物、築何年だ?風化したコンクリートは、何kgまでの人間を支えられるんだろう?)(ここを早く出よう)(ああ急ぐな、こういう時こそ、慎重に、慎重に…)
私は恐る恐る足を踏み出す。取り敢えず前に。(どっちに行けばいいかも分かんないから。取り敢えず、まぁ、直進で)二、三歩と足を進めてからふと思いついて、鞄の中から飴玉を取り出して自分の後ろに落とす。(一応これ、目印に)(ちっちゃすぎないかな?)(仕方ないだろ、他に目印に出来そうな物を持ってないんだから)(でも、食べ物を目印にするのって、失敗フラグじゃね?確か、ヘンゼルとグレーテルって…)(あれはパン屑なんてアホな物を目印にしたからだろ、バカ。それにヘンゼルとグレーテルはハッピーエンドだっただろ?)(いやぁ、魔女を竃で焼き殺すのがハッピーだってんなら、世界中のどんな不幸話だってハッピーエンドですぜ、旦那)
(…ふぅ、念の為にお徳用パックの飴玉を買っといてよかったぜ)
額の汗を拭き、私は歩き始める。胸中は不安半々、興奮半々と言った具合だ。唇は引き攣ったみたいに笑い続けているし、スマホを持った手はいつの間にか小刻みに震えて、おまけに汗で濡れている。
―けれども胸の中はじんわりとあったかいんだ、まるでホットココアでも一気飲みしたみたいにさ。
(ああ、子供ん頃を思い出すなあ、スタンプラリーとか、町内探検とか。私ああいうの、好きだったんだ)
「―さぁ、冒険といこうじゃないか、え?」
「―…どうなってんだ、こりゃ?」
開始から10分と少し。
私の冒険は、早くも行き詰まりを迎えていた。
扉の向こうを、お徳用パックの飴玉が空になるまで落としながら歩き回った結果、分かったのは。
①扉の向こうは体育館程度の、四方をコンクリートで囲まれた空間だという事。
そして。
(そんな筈はないだろ、だったらこの場所は、一体何の為に…)
②出口が無い、ということだ。
(。そんなものある筈無いんだ。そうじゃないか?)
(確かに)(内部だって造らなきゃならんしな。その為には中に入る扉が居る)(その扉を後から埋めちゃったんじゃ?)(意図が分からん)(何の為に?)
(…もしかしたら、ここはお墓なのかも)
(待て、この中には植物も、空気だってある。何処かに隙間がある筈なんだ。何処かに外に繋がる出口がある)
(息が苦しい)(ここには元々、どのくらいの酸素があったんだろう。どの位酸素が残っているんだろう?)(いい加減にしろ。何処かに外に繋がる出口はあるんだ。空気もあるんだ。植物だって生えてる)
(その植物が、新種の植物だという可能性は考えないのか?)
息が苦しい。
私は壁に手を触れて、扉の方を振り返る。スマホの明りが、罅割れたコンクリートの床を照らす。床の上には私が落として回った飴玉が転がっている。お徳用パックの中身が空になるまでばら撒いたので、床の上は飴玉だらけだ。
(調べてないとこは無い、と思うんだけどな…)
私は壁に背中を預けて暫く思案する。ぼんやりとスマホの画面を眺める(…電池残量、残り8%)(決まりだな)(帰ろう)(今度来る時はユンボでも持って来るか。それか、鉄球がクレーンの先に付いた、建築解体用の、あの車両、アレ)(アレなんていう車なんだろう)(…ま、金槌とか懐中電灯とかが、用意できる現実的なラインかね。後は長靴だ、長靴―)。
(早いとこ帰ろう。今日はカレーだ)
最後にふと思いついて、壁に耳を当ててみる(どうして気付かなかったんだろう)(これで、隣に空洞があるかどうか、調べる事が出来る)(もし、何の音もしなかったら?)(他の壁で試すだけさ)(もし、他の壁でも何の音もしなかったら?)。
(ざんねん わたしのぼうけんは ここで おわってしまった!)
耳を澄ます。
何の音も聞こえない。落胆する気持ちと、まあこんなもんだよな、という想いが、私の中で綯い交ぜになって沈澱していく。(まあこんなもんさ。何もかもそう都合良くはいかない)(せっかく面白い場所を見つけたと思ったのに)(しょうがないよ。一介の女子高生に出来る事なんて限られてる。後は警察に任せよう)(え、こういう場合って、警察に言えばいいのかな?)(じゃあ、他に何処に?消防署?レスキュー?)(もう放っとこうよ。悪戯と思われるのがオチさ)(ええー、でも、世紀の大発見なのに)
(教科書に乗るかもよ)
―ヒュウゥゥ…。
音がする。
私は顔を上げる。
上だ。上の方から音がする。(風だ)(風の音だ)私は天井を見上げて、息を殺して懸命に耳を澄ます。そうしていないと、音が途切れてしまいそうな気がして。(音がした)(音がしたんだ)目を閉じる。呼吸を止める。動きを止める。
(風の音がしたんだ)
そうして再び音がするのを待つ。けれども風の音はもう聞こえなかった。その日はもう二度と風の音は聞こえなかった。
代わりに。
―ザクッ、ザクッ、ザクッ。
私は目を開ける。天井を見つめる。(何?)音が聞こえる。(足―?)音が私の方に近寄って来る。
(足音?)
音は私の頭上で動きを止める。
私は扉の方を向き、スマホの電池残量を確認する。(6%)さっき妄想で思い浮かべた、暗闇で進化した新人類の事を思い出す。(肌が白くなり、髪の毛から色は抜けて、少ない光源を効率的にキャッチする為に眼球は大きくなり、顔の外に張り出して、爬虫類の様にこう、眼球の稼働域を広げ、視覚以外で情報を取り入れる為に、きっと耳も巨大化して―)私は首を振ってその妄想を追い払う。一足飛びで扉に向かう。扉の向こうに。
(早いとこ帰ろう。今日は―)
―ザクッ、ザクッ、ザクッ。
―足音が、私の頭上を着いて来る。
私は頭上を見上げたまま固まる。(風の音は)足音も私の頭上でピタリと止まる。(風の音はもう聞こえないのに)(足音が)(どうして)(思ったより、天井低いのかな、ここ)恐る恐る、私は足を一歩踏み出す。音を立てない様に。続いてもう一歩。天井の足音は動かない。唾を飲み込む。スマホの電池残量を確認する。
(4%)
走り出したい衝動に駆られる。(走っても良いんじゃないかな?ここに出入り口は無いし)(無いとは限らないだろ?ここには空気があるし、植物だってある)(慎重に行動しないと)(真っ暗闇では、育成し、食料に出来る植物や生物は限られて来る。だからもしかしたら彼らは、自分以外の個体を―)(黙れ)(自分以外の個体を食料に―)(考えるな)(彼らって何だ?)(考えるんじゃない)
(だよ。食料に出来るものが限られてるなら、選択肢としては悪い方じゃない。一つの個体が大きいし、簡単に増やす事が―)
(止めろ。考えるな)
(2%)
スマホの画面を眺め、私は小さく溜息を吐く。小さく押し殺して、上のやつに聞こえない様に。扉の向こうまで追って来るとは思えない、が念には念を入れないと。明日の朝のニュースで、『恐怖!食人鬼が閑静な住宅街で深夜の凶行』なんて風なトピックを拝むのは御免だ。(考え過ぎだよ、走り抜けろ)(飴玉を踏まない様に)(そもそも、人間だと決まった訳じゃないじゃないか。他の野生動物の可能性だってある。なんたってここは未知の場所だ。扉の向こうなんだ)
成程、一理ある。私は慎重に一歩を踏み出しながらその可能性について一考する。(確かに。その通りだ。上のやつが人間だと決まった訳じゃない)(そうだ)(その通り)
(でも、だとしたらもっと危険じゃないか?)
(?)
(自分の視界外の生物、しかもコンクリート下に居る様な人間を、どうやら音だけで正確に探知しているみたいだし)
(…)
(かなり頭の良い生物みたいだ。正確にこちらの頭上に陣取っている)
(…)
(しかも人間じゃないなら、私達の間に交渉の余地はないし)
(…ううう)
余計怖くなってしまった。
(1%)
震える腕を持ち上げて、スマホで扉の位置を正確に記憶する。出来るだけ正確に。前方何mくらいか。そこに至るまでに幾つ飴玉が落ちているか。パニックにならない様に、何度も自分に言い聞かせる。(飴玉の数は3個。前方15mくらい。ああ、やっぱり明日にしとけばよかった。飴玉の数は3個。前方15mくらい。飴玉の数は3個…)
(0%)
突然、視界から何もかもが消え失せる。分かっていても悲鳴を上げそうになる。何も見えない。目の前にある筈の、自分の掌さえも。
(何も見えない)
(飴玉の数は3個。扉は前方15mくらい)
(あああその飴玉が見えないんだよ!)
ひゅう、と喉がおかしな風切り音を立てる。腹の底からドロドロとした何かが湧き上がって来る。首の後ろに汗が滲む。闇雲に叫び出したくなる。目を瞑って、開く、を繰り返す。何度も何度も何度も。
(飴玉の数は3個。扉は前方15mくらい)
目が少しずつ暗闇に慣れ始める。ぼんやりと自分の目の前に白く手の甲が浮かび上がって見える。当座の視界を確保した事で、自分の気持ちが少し落ち着いたのを感じる。(飴玉の数は3個)私は四つん這いになって、地面の飴玉を探しながらゆっくりと前へ進み始める。(懐かしいな、ハイハイなんて赤ちゃん以来だよ)下らない事を考える余裕も出て来る。
(これが一つ目の飴。なんだ、簡単じゃないか、これなら直ぐに―)
―ザクッ。
私は凍りつく。
(―何?)
―ザクッ、ザクッ。
足音が私の方に向かって来る。足音が私の方に近付いて来る。(何?一体何だ?な、なにかしたか、私?どうしてやつが私に近付いて来る?どうしてやつが私の方に近付いて来る?)私は飴玉を握り締めて―可能な限り―素早く前進する。呼吸が次第に荒くなる。呼吸の音で気付かれるのが怖くて、拾った飴玉の包みを口の端で滅茶苦茶に強く噛み締める。汗で手が滑る。膝が痛い。
足音が私に近付いて来る。
―ザクッ、ザクッ、ザクッ。
右手の中指に何かが触れる。咽の奥から熱い何かが噴き出しそうになる。それを懸命に堪え、中指に触れた物を人差し指と親指で抓んで恐る恐る持ち上げる。それは―
(…2個目の飴玉だ。脅かすなよ、全く。良し、これで、もう直ぐ扉だ。あと6m、いや、4mで扉に―)
―コツン。
何かが左手の薬指に触れる。私はそれを見下ろし、左手で抓んでそれを持ち上げる。
震える手で。
(そんな筈はない)
それは飴玉だった。もうひとつの飴玉だった。
(そんな筈無い。そんな筈ないんだ。そんな筈は―)
間違いなく、私が落とした飴玉だ。お徳用パックの飴玉。(そんな筈無い。私は正しい方向に来ていた。ここに飴玉がある筈無いんだ)(3つ目の飴玉じゃ?)(3つ目の飴玉はかなり離れて落ちている様に見えた。それこそ、扉の目の前に)(じゃあ、違う飴玉だ)(そんな筈無い)(違う方向に来ちゃったんだ)(そんな筈無い!)
(いい加減に認めろよ。お前は迷子になったんだ)
―ザクッ。
足音が近づいて来る。
(どうする?)
足音が私の頭上に近付いて来る。
(…どうする?)
―コツン。
目を閉じる。
全神経を耳に集中する。首から上が全部耳になってしまったんじゃないかと思うくらい、どんな小さな音も聞き逃さない様に。
―コツン。
―ザクッ、ザクッ、ザクッ。
足音が私の頭上を歩きまわっている。まるで何かを見失ったかのように。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。(良い気味だ)私は暗闇の中で音を立てずに笑う。(人を散々怖がらせるからさ。そうやって迷子の仔犬みたいに、そこら辺をずうっとうろうろしてるんだね)私は右手に三つ目の飴玉を握り締める。肩の後ろまで右手を大きく振り被る。(腕の力で投げるんじゃない、ってのが父さんの口癖だったな。ボールは腰で投げるんだ、ってね)胴を思い切り回転させ、出来るだけ遠くに飴玉を飛ばす。座っているので投げ難い事この上ないが、音を立てまくって怪物に居場所を感づかれるよりマシだ。(多分、大丈夫だとは思うけど)
―コツン。
(…扉の向こうにやって来られたら困るしね。見知らぬ誰かさんの死に責任なんて持ちたくないからな。それに)鞄の中に手を突っ込む。音を立てないように、指先に触れる感触を丁寧に確かめる。人差し指と中指がお目当ての物を探り当てる。(ビンゴ。お手柄だ、君達)
(それに、ここがどういう場所かも良く分かってないんだ。何事も慎重に。石橋を叩き折る位で丁度良いんだ)
私は鞄の中から筆箱を取り出す。円筒型の布製ペンケース。明るいとこなら浅葱色をして、チャックの所に友達が勝手に着けたピンク色の目付きの悪い熊のストラップが付いているのが見える、筈だ。私は右の掌でペンケースの表面を撫で、クマのストラップの首根っこを掴まえる。(おっと、悪く思うなよ)私は熊の首根っこを引っ張り、ゆっくりとペンケースのジッパーを引き下ろす。(お前さんに恨みはないんだ、ただ中に居るやつに用があるだけでね)
筆箱の中からペンを一掴み取りだす。(多分これが蛍光ペン。これは三色ペン、これは修正液…)適当な一本を持ち、さっきの飴玉の様に、振りかぶって、投げる。
―コツン。
(良し)
もう一度、今度は角度を付けて投げる。(これは、多分ロケットペン)さっきペンを投げた方向より気持ち5度程右手を向いて、振りかぶって、投げる。
―コツン。
(良し)
―ザクッ、ザクッ。
頭上の怪物がウロウロと歩き出す。足元の音があっちへ行ったり、こっちへ行ったりするので、混乱してるみたいだ。(ざまあみろ)私は暗闇の中で一人ほくそ笑む。(これは筆ペン)さっきペンを投げた方向より5度程右手を向いて、振りかぶって。
(くらえ)
投げる。
―コツン。
(良し)
(私は扉の近くに来てる筈だ。視界がある内に当たりを付けて、進んで来たんだから。でも少しずれて進んでしまった。人間は目を瞑って歩くと、利き手側の方向にぶれて進んでしまう、とか言う話を聞いた事がある)(そうだっけ?確か逆じゃなかった?)(どっちでもいいよ。三つあった飴玉の内、二つ目は運良く壁に当たってくれた)
(あれはラッキーだった)
(後はこのまま角度をずらしていって、壁よりも手前にあるを見つけるだけだ)
(壁よりも手前にある音って?)
(鈍い奴だな、扉だよ)(扉の反響音を探すんだ)(要するに出来の悪いソナーさ、しかも回数制限付きのね)
5度程角度を付けて、投げる。5度程角度を付けて、投げる。5度程角度を付けて。音だけに集中する。今自分がどっちを向いてるのかすらも分からなくなる。あるのは音だけ。音と掌の皮膚だけ。
(これは、お気に入りのシャーペン)ペンを全て投げ尽す。代わりに消しゴムを投げる。(消しゴムは飛びすぎるから、少し力を抑えて―)消しゴムの次は、シャー芯入れを投げる。次に筆入れを投げる。
まだ、壁よりも手前に音は無い。
鞄に手を突っ込み、暫く考える。紙や柔らかいものは駄目だ。あんまり飛ばないし、反響音も聞き辛い。小銭みたいな小さいものも駄目だ。良く飛ぶのは良いけど、小さすぎると、何かに当たる面積が少ない。反響音で扉の位置を探ろうとしてるんだ、当たる確率の小さいものは、ソナーの弾丸としちゃ不十分だ。
(後は―)
私は気の抜けた笑顔を浮かべて、弁当箱を取り出す。そこそこ大きく、面積もあり、重さも十分だ。(…お母さんに、どう説明するかな)私は首を振り、5度程角度を付けて、弁当箱を。
投げる。
―ガシャン。
(来た)
近くで音が聞こえる。さっきまで聞こえていた反響音達よりも、遥か近くで。(扉だ)私は確信する。鞄の中から小銭を取り出し(今度こそ、方向を忘れないようにしないと)、後ろ手に思いっきり、遠くに投げる。
―ゴン。
―カコン。
―ザクッ、ザクッ、ザクッ。
頭上の怪物が移動を始める。私は息を漏らさないように、左手で口元を押さえて、再び這いずり始める。怪物と反対方向へ。音のした方へ。扉の方へ。(…やれやれ、一時はどうなる事かと思ったよ)耳の奥で血液の流れる音が聞こえる。心臓が爆音で鳴り響いている。その音で怪物が気付かないようにと、祈りながら私は扉の方へ進む。
指先が堅いものに触れる。手の平を滑らせて、それが材木である事を素早く確認する。(扉だ)(早く)(早く帰ろう)暗闇の中で鈍く光る真鍮製の扉のノブが見える。(見える)安堵の溜息を吐いてしまいそうになって、私は慌てて口元に当てた左手に力を込める。
(…ああ、早く帰ろう。確か、今日はカレーだ)
「あれ、サクちゃん。今日はお弁当じゃないんだね」
顔を上げる。
昼休みの教室。私の席の前に、友達の真菜加が立っている。私は返事をせずに、チョコクロワッサンの先端を齧る。真菜加は特に気にした風も無く、私の席の前まで椅子を引き摺って来て、私の机の上に弁当を広げる。
「いただきまーす」
胸の前で小さく手を合わせ、彼女はそう言って弁当箱の蓋を開ける。プチトマトにマッシュポテトにパスタサラダ、そんな軽そうなものばかりで良く腹が膨れるなぁ、と私は感心する。彼女が小柄だからだろうか。(いや、そんなことないでしょ)(女子高生ってのはそういう生き物なんだよ)(そうそう、お前が食いしん坊なだけだ)(いやいや、食いしん坊って程じゃないでしょ、標準よ標準)(そうか?昨日はカレーを2杯お代わりして―)(カレーはお代わりするでしょ)(―その後、カップアイスをふたつ―)(アイスは別腹)
―カララ。
真菜加が箸箱を開ける音で我に還る。(いかん、ボーっとしとった)クロワッサンの続きを思い出した様に齧る。ふと真菜加が、私の顔をじっと眺めているのに気付く。私が自分から話し出す時を待っているかの様な、柔らかい目線。私は思わず苦笑する。(そうだ、こいつはこういう奴だった)(そんなにしつこくはないけど、興味がある事には忍耐強いんだよな)(黒板消しに付いたチョークの粉を、目に付かなくなるまでクリーナーで取り除いてみたり)(学校の軒先に居付いた燕のヒナが、飛び立てる様になるまで毎日様子を見に行ったり)
(…全く、敵わないなぁ)
「失くしたんだ」
と、私は言う。前置き無しに。
どうしてだか、彼女との会話はいつもそんな風になる。
「ん?…………って、え!?弁当箱を?なんで?どうして?」
「落とした」
「お……」
ぷ、と我慢出来ずに彼女は吹き出す。(…やっぱり話すんじゃなかった)クロワッサンの残りを口に押し込みながら、私は小さな肩を震わせる彼女を眉根を寄せて眺める。
「弁当箱なんて、そうそう落とさないよ…さ、サクちゃん、お外でお昼の残りでも食べようとしたの?」
「うるせぇ」
「案外かわいーところあるんだねぇ、サクちゃんも」
「笑うな」
「結構食いしん坊だしね」
「関係ないし。余計なお世話」
「ところでさ、真菜加」
二つ目のパンの袋を開けながら、私はそう口を開く。プチトマトのヘタを箸で器用に取り除きつつ、彼女は私に目を向ける。ベーグルパンの輪っかの内側を眺めて、さて、どう話したもんか、と私は暫く途方に暮れる。
(本当の事を言えば良いよ)(駄目だ)(どうして?)(危険すぎる)(そんな事無いよ、現に私は無事だった)(はね。でも次回はどうか分からない)(お前は嘘を吐いている)(どうせまた直ぐ行く癖に)(嘘?嘘ってなにさ)(嘘は嘘だよ)(お前はただ、秘密を一人占めしたいだけなんだ)
「なに?サクちゃん」
「あー…」
生返事しつつベーグルパンに齧り付く。私が話そうと思っていたのは、勿論昨日の事だ。扉の事。扉の向こうの事。出口の無い部屋の事。(…どうやって話せばいいんだろう)(話す必要なんてないさ。あの部屋は行き止まりなんだ)(本当に?)(そんな筈無いよ。だったら、あの部屋は何の為にあるんだ?)(このパン不味いな)(意味なんか無い。だ。全ての事象に意味があるとでも?お前は意味を求め過ぎなんだ)(でも)(でも、風の)(風の音がした)
(風の音がしたんだ)
パンを呑み下す。米神を掻く。天井を見上げて、意味も無く右手の指先をわきわきと動かす。全部話す訳にはいかない。危険だし(当たり前だ。扉の向こうには、怪物が居るんだ)、未だこの秘密を一人占めしていたい、という想いも確かにある。でも、私には視点が必要だ、視点が必要だ。出口の無い部屋なんて無い、意味の無い部屋も、部屋というのは用途があって造られる筈だ、あの部屋にはあの部屋が作られるがあった筈だ。あの部屋には出口がある。けれども一度あの部屋を見て回って、凝り固まってしまった私の視点じゃ見つけられない、だから視点が必要なんだ。
(風の音がしたんだ)
が必要だ。
私は机の中からシャーペンを取り出し(今朝購買部で買ったものだ)、机に小さな四角を落書きする。完全な正方形じゃない、ちょっとだけ縦に歪に長い四角。私はその四角の枠の内側をシャーペンの先でトントンと突く。
「なにそれ」
「うん…」
(…なんだろうね。なんだコレ)
「これは、部屋」
「ヘヤ?」
「部屋、と思ってくれ」
なんて説明したものか。私は首を傾げ、四角の枠をシャーペンでゴリゴリとなぞり、パンを齧り、喉の奥で低く唸った。なんて言ったらいいんだろう。(言わない方が良いよ)(何かのヒントになるかも)(今んとこお前、馬鹿みたいだぞ)(しかし不味いパンだな)(もうちょっとうまく言えないのか?)(うるせえな、色々と障りがあるんだよ)(扉の事は言わないで)(分かってる、つまり―)
「―あー…、これは部屋だ」
「はぁ」
「この部屋には出口が無い」
「はぁ?」
「この部屋から出るには、どうしたらいいと思う?」
真菜加を見る。真菜加は凄く困った顔をして私と落書きを見比べている。
―私は少しだけ泣きたくなる。
(…ああ。今の私、最高に馬鹿みたいだ)
(記憶を消したい。タイムスリップしたい。タイムスリップして、数秒前の馬鹿な事を言い始める前の私の首を跳ね飛ばしたい。穴があったら入りたい。出来るだけ深い穴に、マントル層を突きぬける様な―)
「ええと―それは、もしかして、なにかのナゾナゾ?」
―パン。
と、私は手を叩く。
「ど、どうしたの、サクちゃ―」
「そう」
「ん、え、なにが?」
「これはナゾナゾなの」
「…う、えぇ、だったら、なんでそんな取って付けた様に…」
「私じゃ分からなくてさ。お陰で気になって夜も眠れない。謎を解くのに協力してくれよ、真菜加隊員」
「いや、色々なんか、納得できないんだけど―」
「頼む。今度何か奢るからさ。宿題も写さないで自分でやって来る」
「…それは当り前でしょ」
「お願い、ね?」
「…調子いいんだから、もう」
「壁は四方がコンクリートで、部屋の大きさは体育館くらい。床もコンクリートで、壁や床に模様や装飾は全く無い。おまけに何処もかしこも風化してザラザラで、割れた床の隙間や壁と床の繋ぎ目辺りなんかには雑草も生えてたりする。あと、部屋全体が埃塗れ」
「…なんか、すごく具体的だね。これ、ほんとにナゾナゾ?」
「なんだよ、謎を解くなら具体的な方が良いでしょ?それとも真菜加は、そういうの要らないタイプ?」
「や、そんなことないけどさ、なんかサクちゃんが隠すというか、さっきから誤魔化してるから。なに?何かの懸賞?それとも今ハマってるゲームの謎解き?」
「そんなとこ」
「…むう、そうやってまた誤魔化す。やる気なくなっちゃうなぁ」
「いいよ。元からあんま当てにしてなかったし」
「またそんなこと言って」
私は口にした情報を机の落書きに書き足していく。真菜加はぶつくさ言いながらも、真剣に私の落書きを見下ろしている。何だかんだ言って付き合いの良い奴だなぁと、私は彼女の横顔を眺めながら不意に感謝の念に駆られる。こんな与太話に付き合ってくれて。今度何かお礼をしないとなぁ。
(高いものは却下)(おい)(酷い奴だな。感謝の気持ちってのは値段だけでは決まらんけれども、値段は付加価値に含まれるんだぞ?)(でも、扉の向こうに行くにはある程度の出費は覚悟しなきゃならんし。流石に昔の長靴は履けないから、新しいブーツ、持物を詰めるナップサック、通学用のコートをあんまり汚す訳にはいかないから、それも新調しなきゃだし、後携帯バーナーとか懐中電灯とかもしもの為に寝袋とか―)(なるほど)(そう言う事なら仕方ないよな)(…気持ちってのは、金じゃ買えないもんだよな)(駅前のラーメンで)(ちょっと待って。女子にラーメンはどうなの?)
「ねえ、サクちゃん」
「ん?」
「ざっくりと体育館くらいって言うけれど、もうちょっと具体的に、どんなとこなの?障害物とか、死角になる様な物は?ほら、体育館だと、一見見通しが良く見えるけど、上の足場とか、壇上の垂れ幕とか、天井の辺りに引っ掛かってるバレーボールとかさ…」
「障害物とかは無かったなぁ。でも、暗かったし…」
「暗?」
「―…暗いし」
真菜加が猜疑心の塊みたいな顔でこちらを見て来る。(…まるで身近な人が犯罪に手を染めている事実に気付いたみたいな顔だ)私は教室の窓から空を見上げてほんのり現実逃避する。(ああ、今日も良い天気だなぁ)(馬鹿、今日は曇りだ)(―穏やかな陽気だ、春麗かというか)(…今は10月だし、教室があったかいのは空調が効いてるからだよ、バカ)(鳥達ものんびり日向ぼっこを…)(サイレンの音にビビって全部飛んでっちまったぞ、バカ)
「まるで見て来たように言うよね、サクちゃん。これ、ホントは何なの?」
「…見て来た訳ないでしょ、出口が無い部屋なんだから。出口が無いって事は、入り口もないの」
「む」
「ゲームだよゲーム。今ハマってるゲームの謎解き」
「むぅ………」
真菜加は一応その説明で納得したのか、頬杖を突いて黙ってしまった。私は溜息を吐いて、三つ目のパンの袋を開ける(チョコオールドファッション)。不味いなぁ、すっかり疑われてしまっている。(言動には気を付けないと)(慎重に行動するんだ。肝に銘じろ。慎重に行動する様に)(話に齟齬が出ないようにしないと。あと、扉の位置がバレても困る、特に駅前の話題は避けなくては)(分かった、駅前の話は―)
「サクちゃん」
「―ぅあ、はい?」
「ずっと気になってたんだけど、これは何なの?この落書きのココ、手前の所に引いてある、線」
「駅前?駅前の事は分かんないなぁ、用事が無けりゃ、私、そっちの方には出掛けないし…」
「…誰も駅前の話なんてしてないけど」
真菜加が私の落書きに触れながら私を見る(疑いの眼差し)。私は下手糞な作り笑いを浮かべる。暫し無言のまま時が流れる。数秒間か、数分か。兎に角気不味い。尻がむず痒くなる。首筋を思いっきり掻き毟りたくなる。遠くで男子達の歓声が聞こえる。「だあーーーーーっ、クソ!」「やりぃ、これで奢り決定だな!」「まだだ、まだヒサシの攻撃が残って―」「今のって変化球?」「どうすんだよあんなボール飛ばして、誰がボール取りに行くんだよ?」「そりゃホームラン打った人が、責任もって」「な、テメェ、それが勝利の立役者に対する態度かよ―」
無言のまま、オールドファッションの端に口を付ける。溶けだしたチョコが唇に付いてべた付く。すごく気持ち悪い。
「…ていうか、サクちゃん、電車通学じゃなかった?」
「自転車通学に変えたんだよ」
「…この学校、自転車通学は禁止だけど」
「間違えた、自動車通学」
「……サクちゃん、16じゃん。まだ免許取れないでしょ」
そう言って、脱力したように彼女は笑い出す。連られて私も思わず笑う。「もーいいよ。聞かれたくないなら、無理に聞かないから」彼女の言葉に、露骨にホッとする。「そんだけ露骨に安心されると、ちょっと腹立つなぁ」笑いながら彼女は言う。
「…ありがと、真菜加」
「いいって。話せるようになったら、また聞かせてね。で、これは何なの?ここの所、壁の手前側の…」
真菜加は落書きの四角形の内側、私が書いた短いシャープペンシルの直線を指差す。
「書き損じ、じゃないよね。これは?」
「ああ、これは、扉」
「―扉?」
どう説明したものか。オールドファッションに歯を突き立てながら、私は悩む。「えーと、これは、この部屋に入る為の扉で…」困惑した顔で、真菜加が私を見ている。(その言い方は駄目じゃないかな)(語弊を産む気がする)(『出口の無い部屋』という大前提を崩さずに、この扉の事をなんて説明すればいいのか)(『全部解決じゃない?』とか言われそうな気がする)
「…出口あるじゃん。全部解決じゃない、サクちゃん?」
(言われた)
「違うんだよ、あー、この扉は…―」
(違う)(違うんだ)(この扉は違うんだ)(この扉は元々あの場所に無かった筈だ、あの部屋はあれだけで部屋の機能を満たしてる筈なんだ)(この扉は違う)(この扉はあの場所に無かった筈だ)(何故なら、駅前付近のあの場所にも、この前まで扉は無かったんだから)(この扉は違う)(この扉は除外して考えなきゃならない。あの部屋はあれだけで部屋の機能を満たしてる筈だ)(部屋には出口が必要だ)(だからあの部屋にも出口がある筈なんだ)
「―…あー…一方通行なんだ」
咄嗟の言い訳を口走る。(苦しい…かな?)
「一方通行…?」
「そう。この扉からは、入る事は出来ても出る事は出来ない。ほら、ゲームとかではよくあるでしょ?一方通行のワープゾーン。あれみたいなもんだって。だから他に出口がある筈なんだ、けど…」
「ううん…」
真菜加は私の言葉に、腕を組んで考え込んでしまう。私はオールドファッションの残りをリスみたいに少しずつカリカリと齧り取っていく。ああ、何だか疲れる昼休みだった。(主に原因は私だけど)(特に身になる着想は得られなかったなぁ)(まぁまぁ、それで彼女を責めるのは酷というものだろう)(別に責めちゃいないけど)(今度しっかりと、探索し直せば良いだけの話だ)(確証が得られるまで)(明日か明後日に買い物に出かけて)(何の確証?)(今週末の土日に、川床の砂を洗う様にあの部屋を回るんだ)(決まってる、という確証だ)(ここから先が無いと分かるまで、が終着点何だと分かるまで)
(それまではあの扉を、私だけの秘密にしていよう)
「…うーん、サクちゃん、多分だけど」
「うん?」
「間違ってたらご免ね?でも、多分、出口があるとしたら、ここしかないんじゃないかな?」
10月17日、土曜日、朝9時30分。
私は扉の前に立っている。
勿論あの扉だ。謎の扉。駅前から少し離れた所にある、寂れた路地にポツンと立っている、あの扉。
私は扉に何度も触れる。丁寧に磨き込まれた扉の表面に指を滑らせ、真鍮製のドアノブの凹凸の感触を指で楽しむ。やばい。頬が緩みっぱなしだ。ニヤニヤする。
「ひっひっひ」
―夢じゃなかったんだ、と改めて思う。
前に扉の向こうに行ってから、私は今日までここに来ない様にしていた。それは、(怪物)少しだけ怖かったからでもあり、何度も足繁く扉の前に通って(秘密)それを誰かに見咎められ、他の誰かにこの扉の事がバレるのが嫌だったからでもあり、ああでもやっぱり最大の理由は、もう一度この場所を訪れて、そして何も無い路地を見るのが嫌だったからだと思う。
(ああ、やっぱあれは夢だったんだ)
そう思うのが嫌だった。それぐらい現実感の無い出来事だった。ちゃんと目を覚ましていた自覚はあるし、あの痛いくらいの心臓の鼓動も暗闇の恐怖も憶えているけれど、それでも何にも無い路地を目の当たりにしたら、あれは夢じゃなかったと私は確信を持って言えるだろうか。自信が無い。兎に角そう言うことだ。私は確信が無かった。あれは夢じゃなかった、と胸を張って言える自信が無かった。
(このヘタレ)
(煩いな)
(ああそうだよ、私はヘタレです)
私は笑う。ナップサックの肩紐の位置を調節する。昨日買って来たものだ。食料やガスランプ(家の押し入れにあったキャンプ用品だ)、大型の懐中電灯(これも押し入れにあった災害用品)に万が一の時の為の釘抜きハンマー(家の工具箱にあったのを失敬して来た)に虫よけスプレーやライターなんかも入っている(即席の火炎放射器になる、と最近見たゾンビ映画の開始10分で死ぬ脇役が言っていた)。母さんには友達とハイキングに行く、と言って出て来た。その言い訳で母さんは、長袖、長ズボンに、10月には未だ大袈裟なコート(8552円)、新品のトラッキングシューズ(ブーツよりかはまだ歩きやすいだろうと思って。5292円)の出で立ちにも納得した様だった。私は取り敢えず、私の貯金の内の半分を吹き飛ばした買い物が無駄にならなかった事に安堵する。「よし」私はクスクスと笑いながら真鍮製のドアノブの装飾を一つ一つ指で確かめていく。
「よし、よしよし」
軽く息を吸い込み、息を止めて、扉を開ける。その瞬間、私は目を瞑る。瞬間、悪い想像が、頭の中を過ぎる。今日まで何度も夢に見た光景だ。扉を開けようとした瞬間に、扉が開かない事に気付く。向こう側から鍵が掛かっているのだ。私は必死でドアノブを揺すり、扉を蹴りつける。けれども扉は決して開かない。その内私は、扉が下側からゆっくり姿を消している事に気付く…。
(お願い)
(どうか)
(お願い、開いて)
扉は簡単に開く。何の抵抗も無く。額の汗を拭い、私は目を開く。
―その光景に、私は目を疑う。
「…どうなってんだ、こりゃ?」
違う。
前とは違う。
何もかもが違う。
扉の向こう側には光が満ちていた。(明るい)(太陽?)(違う、この感じは)(電気?)(でも、どうして?)眩しい位に。土曜日の駅前から少し離れた所にある寂れた路地よりも明るい位だ。(眩しい)(白い)私は目を細める。目を疑う。(別の場所?)(でも、ほら。中には飴玉が沢山落ちてる。あれは私が投げた飴玉だ)(それに、ボールペンも)(弁当箱だって)
私は恐る恐る扉を潜る。後ろ手に扉を閉める。左右を見回す。(体育館ぐらいの広さ)続いて天井を。(眩しい)(電灯だ)(電気がある)(何が起きてる?なんなんだ、ここ?)前と同じ所だ、と思う。確信を持っては言えないが。罅割れたコンクリート、埃塗れの床、床や壁の割れ目から逞しく伸びる雑草(だけど、これで謎の一つは解決する事が出来た。この雑草達は電気の光で育っていたんだ。電灯の明かりで)、そして、床中にぽつぽつと落ちている飴玉。(あれは私が落とした飴玉だ。多分。私と同じ銘柄の飴玉を持って、私と同じ事をした人が他にいなければ)(だけどこれで分からなくなった。雑草は電気の力で成長していた。出口のある根拠の一つだったのに)(諦めるにゃまだ早い。真菜加がくれたヒントがあるだろ?)(それに)(それに風の)
(風の音が)
私は振り返り、今し方入って来たばかりの扉の方に向き直る。(サクちゃん、多分)(多分だけど)私は頬を思いっきりピシャリと叩き、覚悟を決める。「うし」扉の縁に手を掛け、扉の背後へと慎重に足を踏み出す。
(出口があるとしたら、ここしかないんじゃないかな?)
扉の背後、真後ろの壁に、明らかに周囲のコンクリートとは違う、薄汚れた白灰の鉄扉を見つける。(…ビンゴ、真菜加、お手柄だ)背筋が震える。序でに、足も。私は、好奇心と興奮で破裂しそうになりながら、扉に歩み寄る。成程、こりゃ気付かない訳だ。扉の後ろで死角になってる上に、色はコンクリートと殆ど同化している。(あの暗闇じゃわからんよなぁ)(今でも扉の部分が少しへっ込んでなきゃ、うっかりスルーしそうだし)(真菜加にゃ後でスペシャルな何かを奢ってやろう)(800円以内で)
私は満面の笑みを浮かべて扉の前に立つ。鉄扉の前に。そろそろ笑い過ぎで頬が痛い。指で扉に触れると、ベットリと長年の汚れが指先に引っ付いて来る、それすらも愛おしい。(後は取っ手を探すだけだ)私は笑顔を浮かべたまま扉を舐める様に上から下へと調べていく。(なんだ、やっぱりあったじゃん)(誰だよ、この部屋に出口が無いなんて言ったヤツは)(私はずっと信じてたよ)(でも閉まってる)(だから開ける方法を探してるんだろ?)(ていうか、だったらこの前あんなに怪物の野郎に怯える必要もなかったよな。扉は閉まってたんだから)(でも、油断は良くないよ。何があるのか分からないんだから。なんたってだ。何事も慎重に)扉の下から上へ。また上から下へ。次第に笑顔が曇っていくのが自分でも分かる。下から上へ。上から下へ。
(…取っ手が、無い?)
(馬鹿な)(そんな事、ある訳が無い)(良く探したのか?)(探したよ、でも無いんだ、何処にも取っ手が無い)(ふざけんな)(そんな訳あるか?出口の無い部屋の次は、取っ手の無い扉か?手前の探し方が悪いんだ、もっと発想を変えて―)(この)(スイッチ?)(この扉、)(レバーとか?何処かにこの扉を開閉する、レバーがある?)(この扉、もしかして)(止めろ!)(向こう側からしか開かないんじゃ―)
見つける。
―瞬き、する。
私は瞬きする。それを見つけたのは、全くの偶然だった。スイッチやレバーがあるかもと、周囲の壁を手探りで捜索している時だった。ふと、他の壁よりも一段高く盛り上がっている場所を見つけたのだ。埃が覆いの様に降り積もり、姿が隠れているが、そこには確かに出っ張りがある。私は手を伸ばし、そこの埃を無造作に指で払う。
そこにはパネルがある。
見慣れた形のパネルだ。例えるなら電卓だ。1から9の数字と、その下に0とエンターキーのスイッチが行儀よく並んでいる。数字の上にはパネルがある。きっと少し想像力のある人間なら、そこのパネルが何をするものか分かるだろう。パネルには数字が並ぶ。でも、これは計算をするものじゃない。
体の力が抜けるのが分かる。
「パスワード…?」
(終わった)
私は笑う。力無く笑う。確か、0~9の数字の組み合わせは4桁の場合でも10の4乗=10000通りの筈だ。このパネルのパスワードが何桁あるかは知らないが。その上回数制限でもあったりしたら―。
(終わった)(無理)(解散)(なんで?ここまで来て)(分かってるだろ?パスワードの解錠なんて、いっこずつ試してったら何時間掛かるんだ?それに、これのパスワードが何桁のものかも分からない、5桁だったら、一気に100000通りだぞ?見ろ、あのパネル、軽く8桁は入る)(T2のコナーくんがATM破りに使ってた機械があればなぁ)(まあ、出口があるって分かっただけでも良しとしようじゃないか。でも、私はここで行き止まりだ)
私はパネルに触れる。数字の0キーを親指でプッシュする。(何してる?)(もう終わりなんだよ、朝早く出て来たとこ悪いがな。帰って母さんにハイキングは雨天中止になったと言おう)(明日まで全国的に晴れ模様が続くのに?)(じゃあ山火事だ。あるいは友達が来なかった。何でも良いよ。もう帰ろう。扉が目の前にあるだけ悔しいよ)(分かってる。でも何桁のパスワードか調べてから。4桁だったら何とかなる。4桁だったらパネルに齧りついてでも今日中にこの扉を解錠してやる)(あら、まあ。素敵な土曜日の休日になりそうだこと)(何時間も扉の前に座ってパスワードを入れ続ける事を考えただけで発狂しそうだな)
パネルに数字を入力した事を示す*マークが表示される。続いて、0をもう一度押す。唾を飲み込む。もう一度。もう一度。
【****】
(頼む、4桁であってくれ、4桁だったなら―)
私は、祈る様な気持でもう一度0キーを押す。(入力されませんように)(どうか、お願い、どうか、どうか―)
【*****】
「ふ」
思わず苦笑する。(…そんな甘かないか)私は半ば自棄気味に0キーを何度も連打する。(あんだけ祈ったってーのに、畜生。私ァもう神にも仏にも祈らねぇ)(神様のデベソ)(意地悪)(オタンコナス)
【************】
私は溜息と共にパネルに表示された桁を絶望的な気分で眺める。成程。こりゃあ、無理だ。正規の方法で解除するよりも、扉を破壊する為の爆薬を入手する方法を考えるか、鉄の扉をぶち破る肉体を得る方法を考えた方が早い。
(…これが脱出ゲームなら、この部屋の何処かにパスワードのヒントが落ちてるんだけどな…)
私は疲れた笑いを浮かべてエンターキーを押す。
(家で不貞寝でもするか。やれやれ、せっかく早起きしたのに、こんな―)
―プシュウゥゥゥ…。
―ガコン。
音が。
音がする。
空気の抜ける音、重い物の動く音、機械の駆動音。状況が理解出来ずに私はただ、立ち尽くす。その間にも、音は忙しく動いていく。状況は忙しく動いていく。
―ガッコ、ガッコ、ガッコ、ガッコ…。
(何?)
(なんだ?)
(一体、何が起きて―)
―ガッコ、ガッコ、ガッコ…。
音は忙しく動いていく。状況は忙しく動いていく。
扉は忙しく動いていく。
(?)
扉が少しずつ開いていく。何が起こっているのか理解できない。扉が少しずつ開いていく。壁に少しずつ隙間が開いていく。理解よりも先に背筋が震える。私は目を真ん丸にしてその光景を見ている。扉が開いていく。
―ガッコ、ガ…シャン。
扉が開く。
『扉が開きました』
電子音声でそうアナウンスが入る。それで終わりだ。扉はそれっきり黙ってしまう。
扉が開いている。私は目を見開いてそれを眺めている。思い出したように頬を抓る。
「痛い」
痛い様な気がする。夢じゃない気がする。扉が開いている気がする。(いや、気の所為じゃない、扉は開いている)(どうして?)
(そりゃ、パスワードが当ってたからじゃないか?)
(000000000000が?)
鼻の頭を掻いて、私は考える。幾ら私がおめでたくても、偶然幸運にもパスワードを引き当てたとは考え難い。それに、パスワードが000000000000に設定してあったとも。パスワードが0の羅列で設定されている状況、それは―。
(…パスワードの設定前。システムクラッシュ。初期化?それか、?)
私は扉の向こうを見る。の向こうを。鉄扉の向こうは廊下になっている。廊下には煌々と明かりが降り注いでいる。廊下は何処までも長く伸びている。何処までも長く、左右一直線に。
(…ま、ここで帰るって選択肢はないわな)
私は念の為に釘抜きハンマーをナップサックから取り出し、廊下に一歩踏み出す。ふと、この前の怪物の存在が頭を過ぎる。私はハンマーを素振りし、その思考を頭の中から打ち消す。怪物への恐怖よりも、はち切れんばかりに膨らんだ好奇心の方が私の内側を支配している。ここは一体何処なのか。ここは一体何なのか。
自然に口元が綻ぶのが分かる。
「…さ、先ずは取り敢えず、どっちに行くか決めないとな」
廊下に出る。
(…さて、どうしようか)
廊下は左右に延々と続いている。それこそ、果てが見えないくらいに。廊下の天井には、部屋にあったのよりかは少し小振りの電灯が輝いている。廊下の造りは部屋の中と然程変わらない。古びて罅割れたコンクリート、隙間からは植物が逞しく顔を覗かせている。
―違う所といえば、床だけだ。
(ふむ)
床だけが違う。。数々の色褪せた線が、何本も廊下を横断している。何人も、いや何十人もの人がその上を歩いたのだろう、今は薄く掠れて枠線だけが残っているが、それでもその色と形は今でもはっきりと見て取れる。
(…察するに、これは動線かな?)
何本もの線が廊下を横断している。(1、2、3、4、5、6、7…8)8本の線が。(黄、赤、緑、薄緑、茶色、オレンジ、青、紫。紫色の線は部屋の入り口から右にカーブして床の中央を走る動線に合流している。赤、緑、薄緑、茶色、オレンジ、青は左にカーブしている。黄色の線は廊下の中央を走る動線に垂直に交わっている)
(…これは、どういう意味?)
(カーブしている方向の先に、その色が示す動線の目的地がある、という事か)(じゃあ、垂直に交わってるのは?)(…この部屋が目的地、ということだろうか。黄色の線はこの部屋を示す動線?)(でも、黄色の線も廊下の左右へと続いてる)(知らないよ。廊下のどっち側から来てもこの部屋に来れる様にじゃない?)(それか)
(それか、この部屋と同じ様な部屋がいっぱいあるか)
―背筋が、ゾクリとする。
(…もしかして、この施設、思ってたより滅茶苦茶広い?)
私はナップサックを背中から降ろし、中から油性のマジックペンを取り出す(扉の部屋に落ちていたのを回収したものだ。因みに弁当箱も回収済み)。ペンのキャップを取り外し、私はそれで出て来た部屋の正面に大きな丸を描く。
(めじるし)
(ま、これで、おんなじような部屋がいっぱいあっても、扉のある部屋が分かるでしょ)
(帰れなくなったら洒落にならないもんね)
(慎重に、何事も慎重に)
ナップサックにペンを仕舞って背負い直し、私は改めて廊下の左右を見る。さて、どうしようか。カーブが目的地の方向を示しているのなら、動線は廊下の左に集中している、が…。
(…RPGでは、ハズレの道から探索したい派なんだよね、私)
私は廊下の右手側に向き直る。手の中で釘抜きハンマーをくるりと一回転させる。
(攻略に役立つ宝箱、なんかは置いてありそうにないけど)
地べたを眺めながら、新品のトレッキングシューズで私は歩き始める。紫の動線を追い掛けて。ああ、5292円が、もう埃や煤でドロドロだ。
(新聞があれば良いな。少なくとも、ここがどんな場所か分かる。それが例え、読めなくたって)
(…まだ終わらないの、この廊下?)
長い廊下だった。
長い廊下だ。床の動線を追って私は歩き続ける。8本の動線が私の行く先へずっと続いている。変わり映えしない風景が私の内側に苛々を堆積させる。あれからふたつ三つ、黄色の動線と垂直に交わる汚れた鉄扉を見掛けたが(どれも0の12桁のパスワードで解錠出来た)、その内側にあったのは、最初の扉の部屋と同じ様な体育館大のコンクリートの部屋だけだった。同じような間取り、同じ様に天井に明かりが点って、同じようにそこら中が罅割れている。(…コンクリートの耐久年数って、どの位だったっけ)私は前に考えたのと似た様な事を思いながら、それらの部屋を後にする。
―ああ、そう言えば、鉄扉以外にも、黄色の動線と垂直に交差する小部屋を、私は廊下の先で幾つか見掛けた。だ。扉は無く、必ず二部屋セットで造られていて、中は薄暗く、そして糞尿の臭いに満ちている。
(うげ)
トイレだ。多分。他の用途だった部屋を、誰かがそんな風に模様替えしようと決めたのでなければ。中に入る気にはなれなかった。役に立つ物があるとも思えなかったし、そこまで細かな探索の必要に駆られても居なかったから。(今度来る時はガスマスクを持ってこよう)私は入り口から懐中電灯でお座成りに部屋を調べると、又廊下の先へと歩き出した。水道管が故障したのか、他の何かが故障したのか、どちらにしろ酷い匂いだ。公園の公衆便所だって、ここにあるものよりかは百倍マシだ。
(いや、千倍、数千倍かな。何しろ酷ぇ臭いだ。鼻が曲がりそう、ってのはああいうのを言うんだな。息を吸い込んだ端から器官が腐ってくような感じがする)(確かに臭かった。昔母さんが玉葱を常温で腐らせていたけれど、アレより臭かったもん)(でも、数千倍は言い過ぎじゃないか?少なくとも、あそこに虫はいなかったぞ)(虫も住めないくらい臭い環境なんだよ)(なにトイレの擁護してんだよ?)(いや、流石に言い過ぎかと…)(トイレを庇ったって一文の得にもならんぞ)(それに、良く探せば虫の一匹や百匹、必ず居るよ。居たに決まってる。あんなに不衛生だったんだから)(なんなら探しに行こうか?)(…いや、いい、新品の靴を汚したくないし)(だったら、トイレを庇うなんて意味の無い事をするんじゃない)(博愛主義を装った卑しい偽善者め)(なんだとこの、誰彼構わず噛み付く狂犬レイシスト野郎が―)
(―…それにしても、ああ、長い廊下だ)
(長い)
(クソ長い)
(もう何kmも歩いてる気がする。足が痛い。足にマメが出来てる気がする。新品の靴なんて履いて来るんじゃなかった)
私は只管廊下を直進する。最初の部屋を出てから、只管右へ。、としか言い表わせない今の現状に、私は小さく苦笑する。(ああ、コンパスを持ってくりゃ良かった)(こんな時になって、方角の大切さが良く分かる)(まあ、日常生活には使わないんだけど)(これじゃ地図も書けやしない)(方角か、考えた事もなかった。家から見てどっちが北とか、考えてみりゃ、私、分かんないなぁ)(方角だけじゃない、こっちの世界に来て分かった事とか、多分こうじゃないかって推察とかを、メモしておく何かが必要かも)(は、こういうの、あるよなぁ、旅行に出かけてから、あああれがありゃ良かったこれがあれば良かったと、旅先の旅館で初めて気付くんだ)(歯ブラシとか)(歯ブラシは今はいらないけど―)
(コンパス、こっちの事をメモする為のノート)
(黄色の動線は多分生活区画。動線が垂直に交わってる所は目的地)
(あと、万歩計も)
(長い廊下だ。左っ側もこんな位に長かったんだろうか。距離が知りたい。大体の距離が)
(万歩計って、確かスマホのアプリに万歩計機能があった様な)
(マジかよ、さすがスマホ)
(まあ、こんな所じゃダウンロードなんて出来ないだろうけど)
(マジかよ、ガッカリだわスマホ)
考える。考え事をしながら私は歩く。だから気付いた時には、私はもうそれに激突していた。
「―痛」
驚きよりも、衝撃よりも、疑問が私の頭の中に湧く。なんだろう、という小さな疑問。私はおでこを擦り、鼻の頭を擦り、前を見る。(?)又も薄汚れた白灰色の鉄扉。私は慌てて左右を見渡す。どうやら、いつの間にか廊下の突き当たりに来てしまったらしい。改めて扉を見る。黄色の動線が示していた扉や、扉のあった部屋にあった扉と全く同じ造りだ(なんだかややこしい)。扉の右手側には埃塗れのパスワードパネル。私はそれを繁々と眺める。腕を組む。頬を掻く。首を傾げる。
足元の動線を見る。
足元の8本の動線の内、7本が途中でその線を途切れさせている。廊下の端までは来ず、途中でその色を止めている。廊下の端まで続いている動線は一本のみだ。
―紫の線。
それだけが、廊下の端まで伸び、鉄扉の足元まで続いている。
(…つまり、これは紫の線が指し示す区画だ、ということだ)
(何の区画?)(知らないよ。でもさっきまでの区画とは違う、ということだけは確かだ。黄色の線が示す場所とは違う。黄色の線は多分生活区画を示しているから―)(どうしてそんな事が分かるの?)(分かんないよ、多分って言ったじゃんか。でも黄色の動線はトイレとも繋がってた、トイレはどんな聖人だろうと罪人だろうと、一日に何回かは絶対訪れなきゃならない場所だ、そのトイレとあのだだっ広い空間の繋がりを考えれば、自然とそういう発想になる)(でも、あんな広い場所に?仕切りも何も無かったぞ、個人部屋とは考え辛いし)(知らないよ、片付けたんじゃないの?それか巨人の部屋だったか、だ)(でも、トイレは標準サイズだったよ)(もうトイレの話は良いよ)(それに分かんない事はまだあるぞ、あの巨大部屋が居住区だったってんなら、どうして居住区のじゃなくてにトイレがあるんだよ?)
(それは―)
(逃がさない為?)
―何の脈絡も無く浮かんだ考えを、私は慌てて頭の中から打ち消す。(管理しやすくする為?)私は目を瞑る。(ここはなんだ?この施設は。一体どういう場所だったんだ?何の為の場所だ?どうしてこんな所に扉が繋がってる??)
(刑務所?)
(かもな。分からない。でも仮に刑務所だったとしたら、どうして部屋の内側にもパスワードパネルが付いている?)
私は瞼の上から眼球を軽くマッサージし、改めて白灰色の鉄扉を見る。(違う区画だ)私はパネルに手を伸ばす。(パスワードが同じだとは限らない)0キーを押す。きっちり12回。エンターキーに触れようとした瞬間、私はふとこう思ってしまう。
(―パスワードが間違っていると良い)
エンターキーを押す。ガッコ、ガッコと最早耳慣れた音がして、ゆっくりと扉が開いていく。その姿を見守る間、どうして私はそんな事を思ってしまったのだろう、と自分の思考をぼんやりと追い掛け続ける。
(ここはなんなんだろう。何の為の場所だったんだろう。どうして私はここに居るんだろう。この施設はどれくらいの広さなんだろう。どうしてこんなに不安になるんだろう)
答えは出ない。手の中で釘抜きハンマーを弄ぶ。初めて来た時に、妄想で頭の中に描いた新人類の事を思い出す。私の頭上を闊歩していた、あの怪物の事を思い出す。
(―もしかして私、怖いんだろうか)
(何が?)
(さぁね。私だって、それが知りたいよ)
扉が開く。
中には廊下と同じ様に煌々と白色灯の明りが点っている。私は直ぐには足を踏み入れずに、扉の入り口で暫くの間待つ。
頭上にハンマーを振り上げて。
(1、2、3…)(慎重に、何事も慎重に)(用心だ、用心)(火の用心)(4、5…)(こんなに不安になるのは、きっと怪物の正体を見ていないからだ。。怪物はこの前ここに来た時は、扉の部屋のに居た。だからといって、今日この階層に居ないとは限らない)(この部屋にはロックが掛かっていたのに?)(他にも怪物が居ないとは限らないだろう?)(6、7、8…)(用心だよ、用心。それが肝心なんだ)(マッチ一本火事の元)(慎重に、何事も慎重に)(石橋を叩き折る位に慎重に)
(…9、10)
―釘抜きハンマーを体の脇にだらりと垂らして、私は長々と一息吐く。汗を拭き、釘抜きハンマーを左手に持ち替えて、私は改めて部屋の中を見る。違う。黄色の動線が示す部屋とは違う。間取りや大きさは殆ど同じ位だ、でも違う、(これは…)。
(これは…なんだろう、この部屋は?)
先ず壁や床からして違う。。壁は入り口から見て左半分が、上っ側が淡い青色、下が緑色に塗られ、右半分が赤のツーラインに白で塗られている。左半分の床には鶏や兎の絵が描かれ、ジグソーパズル上のカーペットなんかも敷かれているのに対し、右半分の床は黒一色に塗られている。有り余った墨汁を床に流したみたいに、適当に、均等に。
置かれているものも違う。左半分には大人の片手大くらいのブロックや布製のサイコロ、ぬいぐるみ、サッカーボールなんかが置かれているのに対し、右半分に置かれているものと言えば、エアロバイク、重量バーベル、レッグプレス。
(…要するに、筋トレ器具だ。なんだろう、ここは、ジム?でも、左半分は、どちらかというと迷子センターみたいだし…)
何だか拍子抜けする。と、同時に、頭の中に疑問符が溢れる。ここはどういう施設なんだろう。ここはどういう場所なんだろう。あの黄色い動線が示す意味は、本当は何なんだろう。12桁ものパスワードで、扉をロックする意味は何?トイレが廊下にある理由は?かと思えば、こんな部屋もある。ここは何?
(ここは何処?)
私は苦笑する。頭の中で質問したって、誰が答えてくれる訳もない。(…それを調べに来たんじゃない、私は)釘抜きハンマーを右手に握り直し、私は扉の内側に足を踏み出す。(ビビるな)唾を飲み込む。瞬きを堪える。
「おーい、誰か居ますか?」
声が体育館大の部屋に小さく木霊する。少々間抜けな響きを伴って。(おお、これは)(結構恥ずかしいな)(誰にも聞かれなくて良かった)(そんなこと言ってる場合か?)(そう言われても、恥ずかしいもんは恥ずかしいし)(大体、声を上げる事自体間違いじゃないか?こないだの怪物は、音で私の位置を正確に探知していた。もしあいつに見つかったら―)(でも、生きてる人間がいたら?)(は、生きてるやつがいたら、なんなんだ?)(生きてる人間なんて居ないよ。ここは死の世界だ)(…生きてる人間がいたら、こっちから声を掛けて、敵意が無い事を知らせないと。じゃないと)
(じゃないと?)
(…多分向こうからは出て来てくれないだろうから。それに、最悪の場合、不意を突いて殺されるかも。冷静に考えりゃ、私、カモネギ状態だもんなぁ。潤沢に物資の詰まったナップサックを背負った、か弱い女子高生)
(…急に不安になって来た。どうして私の頭の中はこう世紀末思考なんだ。ウェイストランドじゃあるまいし)(もっと強い武器が欲しい。釘抜きハンマーじゃ不安だよ)(ビームだ。ビームガンを持ってこい―)
筋トレ器具の間を、順繰りに確認していく。何も居ない。鼠一匹どころか、虫一匹(電灯がパチパチと音を立てる度に、悲鳴を上げそうになる)。続いて、左半分のキッズコーナーの方も。と、言っても、こちら側は視界が開けているので、確認も何もあったもんじゃないが。一応カーペットを捲って裏をチェックし(絵具かペンキで描かれた猿の落書きが潜んでいるだけだ)、布で出来たサイコロに釘抜きハンマーの一撃を振り下ろす(手元には柔らかい手応えのみ。どうやら本当に布と綿で出来てるみたいだ)。壁際に置かれた空気が抜けてベコベコのサッカーボールを軽く壁に蹴飛ばし、私はこの部屋の探索を終了する事にする。
(…やれやれ、本当に外れルートだったみたいだな)
(特に収穫も無かったし)
(黄色い動線以外の扉のロックも、0の12桁で解錠できる、って事が分かったくらいか)
(ところで今何時だ?)(スマホによれば、10時50分)(マジかよ、この不毛な探索に1時間以上も費やしてたのかよ)(まぁまぁ、まだ門限までは長いんだから)(けど、またこの廊下を折り返し、延々歩かにゃならんのか―)
紫の動線の部屋を後にし、廊下に出て思いっきり背伸びをした所で、私はふと気づいて部屋の中を振り返る。
(―そういえば、サッカーボールがある)
(そりゃ、メジャーなスポーツだからな)
(そうじゃなくて、。異世界にまで流行る程、メジャーなスポーツなのか、サッカーは?)
私は壁際で平餅みたいになって潰れているサッカーボールを睨みつけながら、考えを整理しようとする。(サッカーボールがある)(あったらおかしいのか?)(おかしいだろ、異世界だぞ?)(サッカーボールがある異世界があったら、何故悪い?)(異世界じゃないんじゃない?)(いや、あんな扉を潜り抜けて―そもそもこんな場所、元の世界にあったらニュースになる筈だろ?こんな大規模な施設)(扉を潜り抜けてるんだぞ?扉の反対側には何も無かった。ここが元の世界の筈が無い)(いや、今はそれは良いんだ。論点がずれている)(思えば、他にもおかしな所があった―)(他って、何処がだよ?)(あー…何と言うか、上手く言えないけど)(ほら、説明できないじゃないか)(でも分かるんだ、ここはおかしい。)
思考が上手く一本に纏まらない。私は天井を見上げてそのまま無為な数分を過ごす。心がざわつく。上手く言葉に出来ないけれど、何かもうひとつ、大事な何かを見落としている気がする。
(…ま、上手く言葉にならんならお手上げだ。考えてたってどうにかなるもんじゃなし)
(今は先に進む事を優先しよう)
(次は廊下の左側だ、左側―)
(階段があるかも)(上の階に行ったら気を付けなきゃ、例の怪物も居るかもしれないし、それに)(風の音)(風の音が)
(外が見れるかも。どんなとこだろう?太陽が二つあったり、月が二つあったりするだろうか?)
(そりゃそうさ。なんてったって、ここは異世界だぜ?異世界ってのは、つまり、)
歩く。
ただ歩く。
延々と歩く。
(長い廊下だ)
そう思うのももう何度目だろう。私は片道何kmもある廊下を、延々と歩いて折り返す。脹脛がパンパンに張って痛い。足の裏の親指と中指の付け根辺りが火が付いたみたいに痛い。変わり映えしない風景が恨めしい。白色に輝く電灯、罅割れたコンクリート、隙間からは植物の芽が覗いてる。
(…いいよな、植物は動かなくても良いんだから)(ああ、足が痛い)(ハハ、とうとう植物を羨ましがり始めたぞ、私。とんだ末期状態だな)(逆を言うと、死ぬまでこの変わり映えしない風景から逃げられないんだぞ?)(足が痛い)(そりゃキツいな。地獄とどっちがマシかね?)(足が痛い、太腿が痛い、脹脛が痛い、足首が痛い、足の裏が痛い)(つまり足が痛い)(畜生、折り畳み自転車でも買って来りゃ良かった)(運動しないからだよ、現代っ子め)(貯金の半分吹っ飛ばしたってのに、まだ出費する積りか?)(大人達が悪いよ。近所に空き地もないし公園もないから、子供達は外で遊ばなくなったんだ。て事は私が運動不足なのは、大人達の所為だ)
(そうだそうだ。つまり政治が悪いんだ。私の膝関節が、曲げる度に煮え滾る様に痛むのだって―)
―丸。
廊下の右手に大きな丸が描かれている。油性ペンで書かれた、人一人潜り抜けられそうな、大きな大きな黒い枠の円だ。ということは、この左手に見える薄汚れた鉄扉が、元の場所に戻る為のあの“扉”がある部屋なのだろう。つまりは、漸く降り出しに戻って来たということだ。私は苦笑いを浮かべる。滲み出る様な苦笑いを。
私は再び歩き出す。
ただ延々と、廊下の前へ向かって。
(―つまりは政治が悪いんだ。だから私はここに政策を掲げる、各県各都市の学区内に、最低一つは公園を確保する、と―)
(…そりゃすげえマニフェストだ。きっと歴史に残るだろうよ)
スマホの内蔵時計によれば、現在の時刻は11時25分。
「―った―」
(やった)
―私は遂に、廊下の突き当たりに辿り着いた。
「―ったぞクソ、馬鹿野郎、誰だこんな、クソ長―」
(―クソ長い廊下造りやがったのは。責任者を呼べ、責任者を―)
(私が直々に金玉をカチ割ってやる)(正義の鉄槌を喰らえ)(ああ、この鉄槌で、釘抜きの付いた鉄槌で、ふたつとも綺麗に踏み潰した蛙みたいにペシャンコに―)
廊下の突き当たりはT字路になっている。(また分かれ道)床を走る8本の動線は、緑とオレンジが左側に、残り6本が右手側と正面に分岐している。T字路の右手側は曲がって直ぐ行き止まりになっている。そこには扉がある。今までの白灰色の鉄扉とは違う、薄っぺらいアルミ扉だ。壁とドアノブの直ぐ上に、南京錠を掛ける為の緑と赤錆色の小さな金具が取り付けてあるが、そこには何も掛かっていない。扉は僅かに開いている。その隙間からは、暗闇だけが覗いている。扉の上部には、階段を駆け上がる緑色の人型の絵が表記されている。
(…非常口、かな)
(良く似たデザインだ)
(開いてる)(階段?)(足が痛いよ)(電気がついてない)(懐中電灯を持ってきて良かった)(足が痛い)(待てよ。もしかしたら、わざわざ階段を上らなくても良いかもしれない。ほら、この正面―)
私は動線の、残り6本が伸びている廊下の突き当たりに向かう。そこには扉がある。6本の動線、黄、青、赤、紫、茶色、薄緑は、T字路の右手側と、その正面の扉に枝分かれてそれぞれ伸びている。6本の動線の内、黄色と紫は、突き当りまで色を届かせる事無くその線を止めている。(…多分、目的の場所がこの階にあるからだ)私は眉間を親指で揉み解しながら、そう考える。(廊下の反対側と一緒だ。廊下の反対側では、紫の線だけが廊下の端まで伸びていた。それは、紫の線があの部屋を示す印だったからだ、と思う)(じゃあ、黄色と紫の線とは、ここでお別れ?)(他の階に無ければね)(他の4本の動線は、何処を示してるんだろう?)(行けば分かるよ)(残りの4本の動線が、階段の方へ伸びてるのは、まあ、意味が分かるけど、この扉の方にも伸びているのは、何故?)(この扉は、何?)
(見てれば分かるよ)
(きっとこれ、私達の良く知ってるものだ)
扉の前に立つ。扉はもともとは、居住区の鉄扉達とは違う色をしていたのだろうが、長年の間にすっかり薄汚れ、今はあまり判別の付かない黒灰色になっている。この扉の傍にも、居住区の鉄扉と同じ様に、直ぐ側の壁にパネルが付いている。ただ、この扉が他の扉と違う点は、そのパネルのだ。そのパネルは極めてシンプルだった。使い方とか、パスワードとか、そんな余地を考えさせないくらい。
―上を示す矢印と、下を示す矢印。
(エレベーター)
私は迷わず上を押す。少し硬いそのスイッチを奥まで押し込むと、スイッチが点灯し、扉の向こうから機械の駆動音がごうごうと響き始める。私は思わずにやりとする。電気は生きてる、パスワード錠の扉も開く。となれば当然、エレベーターも動く、という訳だ。
(いいね、楽しくなってきた)
(この上にあがったら休憩、や、ちょっと早いけど、昼食にしよう)
(廊下の左側は、今日は後回しにするか。時間も結構経ったし、早く外が見たいし。それに足も痛いし)
(ああ、足が痛い)(私ぁRPGの主人公と違って、延々とフィールド上を駆け回ったり出来ないからな。私のスタミナは有限だ。今日はそれをよーーーーく思い知らされた。これからは体力面のマネジメントもしなきゃな。適度な休憩と塩分、糖分補給。それに水分も。スポーツドリンクをしこたま買い込んでこよう。ああ、でも買うとなったら出費がまた大変だから、家で水道水に塩水を混ぜた物を作って―)
チン、とベルの音がして黒灰色の扉が開く。私は物思いに耽りながら扉の内側に足を踏み入れる。(糖分。糖分か。出来るだけ金が掛からなくて、簡単に作れるとなると―)(べっこう飴?)私はぼんやりと思考しながらエレベーターの中をぐるりと周回する。入口付近の右手側の壁に、コントロールパネルと思しきスイッチ群を発見する。
私はそれに歩み寄り―。
一番上の階のスイッチに指を重ね。
そこでふと気付く。
(あ)
数字が並んでいる。幾つもの階層の数字が。B1から始まり、B2、B3、B4、B5…という調子で、スイッチが2列縦隊でお行儀良く壁際に並んでいる。数字はB10まで続いている。残念ながら、地上階層のボタンは無い。エレベーターのスイッチはB1からだ。
(今、私、何階に居るんだろう?)
―エレベーターのスイッチを押す直前の指を、慌てて引っ込める。(危ね)そう思うと同時に、じわり、と首筋に汗が広がる。(…ここが何階なのかも分からないのに、エレベーターで移動しちゃったりしたら)(どうなる?)(“扉”のある階が分からなくなる)(元の世界に帰る時に、何階に来ればいいのか分からない)(でも、風の音が)(風の音がしたんだ。上の方の階なんじゃ?)(上の方って、具体的に何階くらいからが上の方なんだよ?上から順に虱潰しに探索でもしていく積りか?)(あのクソ長い廊下を)(一往復しなくても探索に2時間掛かったんだぞ、1フロアで)(勘弁してくれ)(それに、あの風の音が、外のものじゃなかったらどうする?空調とか、換気ダクトとか、そういうものの風の音だったら。もしかしたらそうかもしれない。あの風の音は幻なのかもしれない。思えばコンクリート造りの壁に耳を当てて、上階を吹き抜ける風の音なんて聞こえるものだろうか―)(止めろ)(止めろ、上に進んで行きゃ外には出られるんだ。信じなくてどうする?私は風の音を聞いた。。どうするんだ、私が信じないで)(でも、エレベーターのスイッチには地上階のボタンが無い)(止めろ、それは別の問題だ)(ああ、そうだ、エレベーターには大体階層表示があるんじゃないか?今自分がどの階に居るか、ってのが何処かに表示されるだろ?なら、それを見れば―)
(…そんなものを表示する場所、どこに?)
私はもう一度、エレベーターの中をぐるりと観察する。四方の壁、床、天井。真っ白だ。少し笑ってしまう。エレベーターの中は(とは言えないが、お世辞にも)綺麗だった。何かを見落としようもない程には。溜息を吐き、私は覚悟を決める。痺れる様な痛みを持って足が私に訴えかけてくるが、私はそれを無視する事にする。
(…仕方が無い、階段で行こう)
(足が痛い)
(足が痛くて死んだ奴はいないさ。異世界の空を拝むまでは、私は今日は帰る気は無い。一日は未だ後半分残ってる)
(でも、足が痛いんだ)
(忘れろ。行くぞ、私―)
安っぽいアルミ扉のノブに手を掛け、手前に引く。
―途端にゴキン、ゴキンと音がして、脆くなっていた蝶番が上から順番に弾け飛ぶ。倒れて来るアルミ扉の重量を支えきれずに、私はそれを地面に取り落としてしまう。扉に足が下敷きにされない様に、私は慌ててその場を跳び退く。扉は騒々しい音を立てて、大量の土埃を上げながらゆっくりと地面に倒れ込む。
―ゴトン。
…思わず安堵の溜息が出る。
気を取り直して、私は右手に釘抜きハンマーを、左手に大型の懐中電灯を構え、扉の方へと歩き出す。扉の向こうへと足を踏み入れる前に、地面に倒れるアルミ扉に、一発蹴りをくれてやる。
(…脅かしやがって。軟弱者め)
(鍛え方が足りねえんだよ)
(ちょーっと引っ張っただけで倒れちまいやがって)
扉の向こうは暗く、そして冷たい空気が流れている。寒い、と言っても良い。(やっぱりここから、外に通じているんだ)私は朧気な、根拠の無い確信を得る。扉の向こうは空気が冷たくて、それに水滴の音がする。足の痛みが少し和らぐ。顔が自然に笑顔になる。口角が上がるのが抑えきれない。
(もう直ぐ外だ)
「ひひ」
私は目を細めて暗闇を見透かそうとする。明るい廊下からでは、殆どが物の輪郭を失ったままだ。見えるのは入り口付近、明りに程近い所にある物だけだ。手摺、床、壁、階段と思しき段差、それにそこら中に転がる瓦礫の山。
(―まさか、途中で塞がってたりしないよな?)
耳を欹てる。聞こえる音と言えば、水滴の音と、小石の転がる音と、私の心臓の音だけ。(…うん、あの化け物の足音は聞こえない)私は意を決して、懐中電灯のスイッチを入れる。(慎重に、慎重に)(水の音が聞こえる。雨の音だろうか)(いいや、雨の音にしては小さいぞ。どっちかというと、一滴一滴、って感じの音だ。ほら、コーヒードリップの最後の数滴が、こんな感じの音だし)(それか蛇口の締め忘れ)
―懐中電灯から眩いばかりの光が流れ出す。余りの眩しさに、私は思わず目を瞑る。(…やっぱスマホとは違うな。流石は本職)(スマホはほら、他に色々出来るから)(色々って?)(色々は色々だよ。例えばほら…時間だって分かるし)
(マジかよ、さすがスマホ)
目を開ける。
ゆっくりと、少し、臆病なくらいに。
目の前には階段がある。階段の段差が上下に伸びている。踊り場や階段状の壁際に、ぽつぽつと瓦礫の欠片が山積しているが、大丈夫、光の届く限りは、階段は取り敢えず無事に続いている。
私は笑みを浮かべる。小さく笑みを。
勝利の笑みを。
(…やったぞ、これで―)
(外だ)
私は踊り場に足を踏み出す。階段のある空間は狭く、何度も折り返しては上へ続いている。私は確信を得る。確信を。目が異様に開いているのが自分でも分かる。歯茎を剥き出して笑っているのが自分でも分かる。心臓の鼓動が痛い。私は胸を抑えて、繰り返し何度も深呼吸する。(落ち着け、落ち着け、落ち着け―)体の疲労がいつの間にか消えている。胸の中に熱いドロリとした塊が渦巻いている。
(ヤバイ、私、今めちゃくちゃ―)
(―落ち着け、落ち着くんだ、落ち着いて―)
(興奮してる。ここは見た事の無い場所だ。。誰も知らない、私だけの―)
(落ち着け、何事も慎重に、慎重に―)
(―冒険だ。。こんなの無いと思ってた、ゲームの中だけの、映画の中だけの、漫画の中だけの―)
(慎重に。全ての物事に対して慎重にならないと。近くには怪物が居る。忘れたのか?)
(外だ)(外だ!)(外だ外だ外だ外だそとだ―)
辛うじて叫び声を上げるのを自制する。本当は叫びまくりたい、喉を枯らすまでカラオケでシャウトしまくりたい、ゆずの『夏色』を歌いまくりたい。(外だ)私は興奮に突き動かされて階段を上る。鼻歌を歌いながら。(外だ。外が見れる。私の耳は正しかった。風の音の正体はこの上だ。水滴の音もする。きっと空が見れる。)
(誰も知らない、私だけの)
(…足が痛い)
階段を何度か折り返して。
(長い階段だ)(腰が痛い)(長い廊下の次は長い階段か)(こんな大荷物持って来るから)(お次は何だ?長いエスカレーターか?長いエレベーターか?長い扉か?)(でも、必要な荷物だろ)(長い扉って何だよ)(腰が痛い。アキレス腱が痛い。脹脛の後ろ側がプチプチ言ってる気がする。二の腕の辺りもだるくなってきた)
興奮による疲労の低減は、長くは続かなかった。ヒィヒィと悲鳴を上げながら、階段を二、三段上がっては休憩、を繰り返す。その度に水を浴びる様に飲む。家から持って来た水筒はあっという間に空っぽになってしまった。残る水分は、念の為にと“扉”に来る途中で買った、1リットルのスポーツドリンクがあるだけだ。
(…慎重に)
(バカ)
(思い出せ、この場所のモットーを。慎重に。何事も慎重に)
(ハイになって体力を無駄遣いした挙句、水筒も空っぽにしてしまうなんて。我ながら、自分がちょっと情けなくなって来る)
(慎重に)(自制心はある方だと思ってたんだけど)
(外が見たいなら、尚更だ。何事も慎重に。脳味噌に刻んどけ、二度と忘れない様に、何事も―)
壁に。
私は立ち止り、瞬きする。懐中電灯の光が、少し上った先にある踊り場の、壁に書かれた“何か”を照らし出す。照らし出した、様な気がする。小さな違和感。高速で間違い探しをやるみたいなもんだ。違いがあったと言われればあった様な気がするし、無かったと言われたら無かった様な気がする。自分の目に自信が無い。
唇を噛んで私は思案する。
(今までは無かった)(今までの踊り場には)
(…無かった、と思う)
懐中電灯の光を、少し動かす。光の元に曝されて、今度ははっきりとその“何か”が私の目にも見える。
文字、いや、その“数字”が。
私は目を見張る。
(…なんだ。やっぱり、上の方の階だったんじゃん)
B1↑B2↓
階層表示だ。
私は笑う。さっきより少し力が出る、ほんの少しだけ。
「おっし」
壁に手を突き、膝を抑え、歯を食い縛って上る。上へ、一歩ずつ、上へ。(外が)(もうすぐ)(空が見れる)袖口で汗を拭い、歯を食い縛って又笑う。もう新品のコートも靴も埃やら汗やらでドロドロのベタベタだが、そんなことももう気にならなくなっている。笑いが込み上げる。釘抜きハンマーを握り直す。(上の階の扉が開いてると良いけれど)懐中電灯で行く先を照らしながら、私は考える。(扉を叩っ壊すには、今の私には元気が足りないかな)
足元の瓦礫を蹴飛ばす。深く息を吸い込んで、また階段を上り始める。少しずつ、上へ。(外が)(近づいてる)(水の音だ)(汗が冷えて、寒い)(もうちょっと着こんで来るんだったかなあ、せめてあとシャツ一枚と、マフラーと手袋が―)
―ふと。
思い付く。
壁に背を凭れさせて、階層表示を振り返る。思いついてしまう。
思いついてしまった。
今更な事に。
(…というか、こんな必死に階段を上らなくても)(止めろ)(それ以上考えるな)
(エレベーターの入り口手前に、“扉”のある部屋の正面に書いたみたいな、大きな目印を書いて)
(よせ)(今更だぞ)(エレベーターがちゃんと動くって保証も無かった)(でも、呼んだらちゃんと来たじゃないか)(外だ)(外の事を考えよう)(足が痛い)(足じゃなくて、外の事を―)
(一階層ずつエレベーターを動かしてって、“扉”のある階が何階なのか調べた方が早かったんじゃ―)
笑う。
「…へへ」
笑う。力無く。脱力する。危うく懐中電灯と、ハンマーを取り落としそうになる。
「へっへっへっへっへ」
ちょっと泣きそうになる。急に重さの増した足を引き摺って、私は階段を上る。「あー畜生やってられっかよー私のバカバカ大馬鹿―」時間は有限だ、という意味を私は改めて噛み締める。現在11時45分。階段を上がりきる頃には、昼食に丁度良い時間になっている頃だろう。
(ああ畜生、誰だこんな忌々しい階段を造りやがったのは。見つけ出して鉄槌を喰らわせてやる、絶対に、畜生、そいつの金玉をハンバーガーのパテみたいにぺちゃんこに―)
扉だ。
薄汚れたアルミ材質。下の階にあったものと全く同じ扉だ。これの前には扉を見掛けなかったし、多分これがB1への扉と見て間違いないだろう。
私は指先で扉に触れる。
扉は指の力だけで簡単に外側に開く。蝶番の軋む音に、私は少なからず背筋を強張らせる。が、今度はB2階層の扉みたいに千切れて倒れる事も無く、確りと立位を保っている。
扉の前で腕を組んで、私は考える。
(階段は上に続いてる)
(じゃあ、上に行くか?)(いや、どうだろう)(休憩してから)(足が痛い)(私の体力だってそろそろ限界だ。体育の時しかロクに運動しないインドア系にゃ、今日のハードワークは筋肉痛2日でお釣りが出る位だ。この階を軽く覗いて、それからお昼にしよう。それからこの階をもう少し丁寧に見て、それで今日の探索はお開きにするか)
(上)(階段の上には何がある?)
(そりゃ、地上じゃないか?)(でも、エレベーターには地上階への表記が無かった)(どうして?)(それに、風の音は上の)(上の階から聞こえたんだ)
(錯覚だったんじゃないか?別に特別な訓練とかを受けた訳じゃないんだ、音の大小で正確な距離なんて分かる訳ないよ)(でもコンクリート造りだぞ?)(風の音って、そんな大きなものか?)
(さあね。その日は台風でも来てたんじゃない?)
(もう一つエレベーターがあるのかも)(地下階層用のエレベーターと、地上へ出るエレベーターと、分けて二つ)(一体何の為に?)(さぁ、出入りを管理する為とか?)(良く分かんないな)(別にエレベーターがあるんなら、この階段の上には何があるのさ?)
地下二階の、階段へ続く扉の上に、緑色の人型の絵が書かれていた事を思い出す。
階段を駆け上がる、緑色の人型の絵。
(…非常口?)
私は階段の上を見る。迷う。懐中電灯で、階段の上の方をサッと照らす。階段は未だ続いている。光が届く場所には天井は見当たらない。私は迷う。(上に行こうか?)(でも、終わりが見えない)(足が痛い)(ほんとにこれ、地上へ向かってるんだろうか?)(疲れた、もう休もうよ)(風の音はここから聞こえた。間違いないって。ここから外へと繋がってるんだ)(水滴の音も聞こえる)
(待て待て待て。問題は未だある。怪物だ。まさか忘れた訳じゃないよな?。あの日私の居場所を正確に探知し、私の頭上に張り付いていた、あの間抜けな怪物だ。あいつのことはどうする?本当に、この扉の先に行っても良いのか?)
(確かに)(死にたくないし)(そうだな)(でも、その為に武器を持って来たんじゃ)(バカ、こんなの殆ど気休めだ、手ぶらよりマシだから持って来ただけだ)(こんなもので怪物に太刀打ちできる訳ない。こんなもので殺せるのなんて人間だけだ)
(でも、だったらどうする?)
(…)
(音)
(?)
(多分、音だ。ヤツが最初に私を探知したのは、多分音だった。音を立ててなくても、私の事を感知出来てたみたいだから、他の手段もあるんだろうけど。でも、一番は音だ。私が鞄の中の物を投げて、扉の場所を探ろうとしてた時、あいつは私の居場所を見失ってたみたいだった。筆箱の中のありったけを投げている間、あいつはずっと頭上でオロオロしてた。一番は多分音なんだ。だから)
(だから?)
(ほら)
私はもう一度アルミ扉を押す。今度は、突き飛ばす様に乱暴に。蝶番が皺枯れた悲鳴を上げる。(おい、何を―)釘抜きハンマーを振り上げる。躊躇する気分を押し退けて、私は釘抜きハンマーを扉に振り下ろす。力を込めて、太鼓を打ち鳴らすみたいに、一度、二度、三度、四度―。
―ガン、ガン、ガン、ガァン―!
音が反響する。耳の奥が震える。私は目を瞑って暫く待つ。(―何をするんだ、何を―)(怖い)(怪物が来るよ)(いいや、来ないね)(きっと大丈夫)待つ。待つ。待つ。
待つ。
(…怪物は来ない)
(どうして?)
待つ。呼吸を止めて待つ。目を開ける。スマホを取り出して、時刻表示を見る。現在、11時52分。1分か2分くらい経っただろうかと、私は首筋を書きながらスマホをポケットに戻す。
(怪物は来ない)
(どうして?)
(怪物は来ない。あいつの一番は、多分音だ。けれど私は今日一日、まだあの怪物の足音を聞いていない。壁に耳を当てなくても聞こえる様な、大きな足音なのに。別に私だって息を殺して探索していた訳じゃない、それなのに。パスワードでロックされた扉の解錠音、エレベーターを呼ぶ音、地下二階では扉を一つ駄目にしたし。見つかるなら、もうとっくに見つかっていても良い筈だ)
(が息を殺してるんじゃ?)
(それはないよ。だったら何故、最初に会ったあの日にそれをやらない?近くにいる獲物に、わざわざ聞こえる様に足音を立てる。威嚇でも無いなら、意味の無い行為だ)
(だったら、どうして?)
「夜行性なんだ」
扉の外に足を一歩出す。廊下は地下一階と同じ様相をしている。罅割れたコンクリート、装飾の無い壁、床に動線、廊下は左手側に長い通路の続くT字路になっている。でも、空気が。私は笑う。間欠泉の様に胸の奥から、強烈な喜びが噴き出して来る。―空気が冷たい。冷たいままだ。
(多分。仮説の域を出ないけど。でも、今までの情報を合わせると、そう考えるしかないと思う。辻褄もあってる、と思う)
私は笑う。頬を撫でる空気の冷たさが、さっきまでよりもずっと大きく聞こえる水滴の垂れる音が、私を正しい方向に進ませてくれている、と感じる。
それに。
(―風の)
―ヒュウゥゥ…。
(聞こえる。ハッキリと聞こえる。今度は絶対に、聞き間違いなんかじゃない)
確信が私の背中を押す。押されるがままに私は歩きだす。空腹も忘れて。背中に背負った荷物も、釘抜きハンマーの重さも忘れて。懐中電灯のスイッチを切る事も忘れて。
(もうすぐだ。もうすぐ外だ)
風の音が聞こえる。
水滴の音も。それに、サラサラという音、何かがサラサラと流れる音。瓦礫の崩れる音。風の音、地下のカビ臭い匂いじゃない、新鮮な気配。
(外だ)
笑顔が零れる。息が荒くなる。足が軽い、羽のように軽い。(外)私は袖先で口元を擦り、小走りで廊下のT字になっている場所を目指す。私はそのまま左手を見る。B2と同じ構造なら、何kmも続く直線の廊下が走っている筈の部分だ。私は左手の、廊下を覗き込み。
―足を止める。
(…………………………?)
口を開けたまま、ぼんやりと暫く、その光景を眺める。開いた口が塞がらない、というのはこういう感じなのだろうかと、頭の隅っこでどこか冷静な自分がそう考えている。ここは“扉”の向こう側だし、どんな風景が広がっていてもある程度驚かない様に覚悟は決めていた、つもりだった。
が。
(…どうやら張りぼての覚悟だったみたいだ)
砂。(ほんとに違う所だ)(何もかも違う)(これで、壮大なドッキリの可能性は消えたな)砂、砂。(何処だろう、ここ)(ほんとに違う所に来たんだ)(知らない所だ)(誰も知らない所)
―砂、砂。砂、砂、砂。
(…ホントに私、別世界に来たんだなぁ)
砂だ。見渡す限り、砂がある。直線で何kmも続いている筈の廊下は、砂の重みの所為か、それとも他の原因か、天井の一部が崩落し、そこから多量の砂が廊下に流れ込んでいた。砂は、写真で見た事のある砂漠の色よりも大分濃く、赤煉瓦を砕いて粉にしたような色合いをしていた。私は笑う。風の音がする。深く息を吸いこもうとし、口の中に砂が入って、慌てて口元を手の平で覆う。(…今度来る時は、マスクを持って来なきゃ。それか、マフラー)口の中の砂を俯いて吐き出し、改めて目の前の風景を眺める。笑う。私は笑う。笑い過ぎて、頬の筋肉がもう攣りそうだ。
「―別の世界だ」
不意に泣きそうになる。私は慌てて目元を拭い、おずおずと砂の上に向かって第一歩を踏み出す。足がゆっくりと砂に沈んでいく感覚が小気味良い。(…でも、この靴は砂漠を歩くには向いているとは言えないな。ああ、でも砂漠を歩くのに向いている靴ってなんだろう、例えば―)
「止まれ」
私は顔を上げる。
声のした方へ。
(?)
声。
(声?)
声がした方には人影が見える。人影は崩落した天井の縁から、私の頭上を覗き込む様に立っている。人影は砂色の襤褸切れを幾つも身に纏っている。両手には分厚い革の手袋、足首をすっぽり覆うブーツの入り口には包帯を何重にも巻き、口元には色褪せた緑とオレンジのマフラーを巻いている。(マフラー)(?)(人?)そして肩には黒猫を乗せて、
―両手にはクロスボウを持っている。
(?)(あれ―)(?)
人影は黒色に塗装されたクロスボウを持っている。クロスボウの先端は私を向いている。クロスボウには矢が番えられている、様に見える。(?)(私―)(なんだ?)(誰?)人影は私に慎重に狙いを定め、引き金に掛けた人差し指を静かに絞り始める。
「あの、私―」
胸に手を当てて、一歩踏み出す。即座に人影がクロスボウの矢を放つ。私は凍りつく。(あ)(あれ)(あ、あれ、なんだこれ―)矢は深々と砂の上に突き刺さる。私がもし二歩目を踏み出していたら、そこに左足があった筈の場所に。遅れ馳せながら、左手の指先が少しずつ震え始める。(これ)(私)(本物?)(犯罪だ。じゅ、銃刀法違反、警察に―)(警察って、何処の警察?)(この世界の警察は、何番にダイヤルすればいいんだろう―?)私の体からは、以前疲労感は消えたままだ。でももうそれは、別の理由だと思う。
「動くな」
私は人影を見上げる。人影の表情は、逆光で良く読み取れない。けれども、その視線が、油断無く私の頭上から注がれているのが分かる。人影が二本目のクロスボウの矢を番える。何度も唾を飲み込もうとするが、粘ついて上手く飲み込めない。右手に持ったままの釘抜きハンマーを、捨てるか持ったままにしておくかどうか迷う。(捨てた方が良いかな、でも、余計な行動を取らない方が良いかも―)汗が目に入る。下を向く。汗が目に入ってから漸く、私は自分がたっぷりと冷や汗を掻いている事に気付く。
「あの、多分、何かの間違いだと思うんだけど、あ、こ、ここには偶然来ただけで、別に私は―」
「黙れ。質問はこちらがする」
(不味い)
(死ぬ)(死ぬ?)(死ぬわけ無いよ、私が何かした訳でもない、この人は誤解してるだけ、この人は―)(死ぬ)(死なないよ)(何が起こってる?こいつは何だ?何を考えてる?)(死ぬわけ無い)(死ぬ)(先ずハンマーを投げつけて、それからナップサックを盾にして後退しよう。中身の詰まったナップサックを、クロスボウで貫通できる筈無い―)(―そんなの無理だ、あの速さを見ただろ!?気付いた時にはもう矢は足元に刺さってた、。それより早くどうやって私が動ける?疲れ切ったこの体で。無理だ。諦めろ。私は死ぬ。今日死ぬ)(嫌だ―)(どうすればいい?こいつは何なんだ?こいつは―)
「パンはパンでも、食べられないパンは何だ?」
「は?」
私は顔を上げる。人影は微動だにせずにクロスボウを構えている。(?)私は半笑いのまま、人影と、その背後に広がる空をぼんやりと眺める。思考が散漫になる。(なんだ?)(空)(“扉”の向こうも、空は青いんだな。それに、太陽も二つ無い。空に一つあるっきりだ)(こいつ、今何て言った?)(それにしても、空が汚いな。噴き上がった砂の色が混ざって殆ど紫色だ)(パンはパンでも)(ナゾナゾ?こいつ、今、ナゾナゾを言ったのか?)(何かの符牒か?)(訳が分からん)(不味い、自分でも分かる位に、今ボーっとしてる。集中、集中しろ、私―)(パンはパンでも…)(こいつは何なんだ。からかってるのか?何がしたい?)(…食べられないパン)
人影の肩の上に乗った黒猫が、ゆっくりと優美な動きで身を沈め、人影の耳元に頬を寄せる。黒猫の口が動く。
。
(な―)
「どうやら答えられないみたいだな。小僧、こいつはだ。今直ぐ殺せ」
「に―」
人影が躊躇なくクロスボウを私に向ける。(不味い)「わわ、待って、待って、待った待った待った待った―」土煙が立つ。視界が赤と黒に染まる。パニックになる。(不味い。不味い不味い不味い不味い―)両手を広げて自分の身を庇う様に目の前に突き出す。釘抜きハンマーと懐中電灯を取り落とす。(死ぬ)(死ぬ)(死ぬ死ぬ、絶対死ぬ)(誰か助けて、死にたくない―)さっきまで考えていた事が綺麗に頭の中から拭い去られる。(死ぬ)目の前が真っ暗になる。体の感覚が消える。血液の巡る音だけが、耳の中に響いている。
「パ、パン、パンパン、フライパン、答えはフライパン、フライパンだろ―!!!」
射撃音が止む。
矢が放たれる時の、鋭い、シュッ、という音が。土煙の撒き上がる時に聞こえる、ダン、という胃の腑に響く様な重低音が。音が聞こえなくなっても、私は暫くじっとしていた。耳の中で血の音が渦巻いている。ガンガンと、ドクドクと、キュウキュウと。私はそうしていた。音が消えるまで、私はずっとそこでそうしていた。
「小娘」
目を開ける。
感覚が戻って来る。頬に砂の喰い込む様な感覚を覚える。体にじわじわと疲れが戻って来る。体中が地面に引っ張られているように感じる。風の音が聞こえる。水滴の音も。砂が左目に入る。涙が出る。私は左目だけを閉じて、右目だけで見るともなく周囲を見回す。
目の前に靴が見える。私の目の前に人影が立っている。どうやら私は地面に倒れているらしい。砂のベッドが疲れた体に存外心地良い。人影が私を見下ろしている。人影の襤褸布のフードの内側が、私の眼にその時初めて垣間見える。赤茶けた砂で痛んだ黒髪、良く焼けた褐色の肌、そして、猛禽類の様に金色の瞳。
金色の内には申し訳無さそうな表情と、未だ怪しむ様な表情が入り混じっている。私が見ている事に気付くと、彼は頬を掻いて、慎重に、親切半分警戒半分といった感じで、私に右の掌を差し出した。私はその掌と、彼の顔を暫く見比べている。(男…)(男だ。いや、男の子?)私は反射的に、釘抜きハンマーと懐中電灯を探す。二つとも彼の後ろに落ちている。彼は未だクロスボウを持っている。先端を地面に向けて入るが、クロスボウを左手に持ったままだ。
「小娘、小娘、おい、おい、小娘。聞こえるか?まさか、死んじゃいねえよな―?ああ、ストップ、ちょっと待て小僧、まだこいつが変異体じゃないと決まった訳じゃない。助け起こすのは後にしろ。先に矢を回収するんだ」
(…変異体…?)
【男/若しくは男の子】は黒猫の言葉に肩を竦め、素直に地面に刺さった矢の回収を始めた。矢は全部で3本。(…良く当たらなかったな、私…)全部の矢を拾い集め、それを腰の矢筒に収めると、彼は改めて私の方を見た。彼は再び右手を差し出す。私はその手を見る。分厚い革の手袋に包まれた、決して大きいとは言えない右手。少し考えて、私はその右手を掴む。拒否する理由は無い。少なくとも、向こうに、もう敵意が無いのなら。
「悪かったな、小娘。だがお前も悪いんだぜ?何しろこっちも命が掛かってる。ご同業か?ならああいう場合は、さっさと答えた方がアンタの身の為だぜ。特に相手が武器を持って、アンタを狙ってる場合はな。こいつのクロスボウ、見えなかった訳じゃねえだろ?」
(猫―)
思考が追いつかない。私は、今さっき私を助け起こしてくれた少年を見る。を。(私と同じくらいか―少し背が低く見える)(猫が喋ってる)(高校一年生か―もしかしたら中学生くらい。そんくらいに見える)(不思議な目)(同業?何の話だ?)(結構幼く見えるな。少年、っていうより男の子、っていう言い方がしっくりくる。本人に言ったら怒られそうだけど)(金色の目なんて初めて見た。凄い目力。なんだか視線が、突き刺さるみたい―)
「聞いてんのか?」
「あ―うん…」
「ふううぅぅぅぅぅぅぅーーーん…?」
猫はわざとらしく語尾を伸ばし(厭味ったらしく、とも言えるかもしれない)、男の子の肩を跳び下りて、私の周りを気取った足取りでゆっくりと一周した。正にキャットウォーク、と言える、見事なモデル歩きだ。私は妙に感心してその歩行を見守ってしまう。男の子は呆れたように、あからさまに大きな溜息を吐く。私が彼の方を見ると、男の子は金色の目を細め、苦笑の様な物を浮かべて見せた。(あら、なかなか愛嬌のある笑顔)猫は私の周囲を回り終えると、少年の腕を伝って肩の上の定位置へと戻った。右の前足で髭を一撫でし、疑わしげに眼を細めて私を見る。
「…どうやら、変異体ではない様だがな」
「変異体―?」
「だが、他の脅威の可能性もある。こいつの態度はかなり怪しいぞ、小僧。他のディガーと組んで俺達を嵌める気かもしれん。前にもあっただろ?今ここで後腐れなく殺しちまおう。それにこいつ、良く見りゃなかなか良いもん持ってやがる。こいつを殺すだけでもそこそこの金になるかもよ。それに武器も持ってない―」
「―は、」
(殺す)(殺す?)(ちょっと待って、こいつ、今殺すって言った?)(殺す、殺すって、それって、つまり―)
「―あんた、おい、テメエ、この糞猫、何言ってやがる、私への疑いは晴れたんじゃないの!?」
「確かにお前は変異体じゃない様だがな。それでも俺達の敵じゃないって保証は何処にも無い。悪いが時代が悪かったと諦めてくれ。お前さんを殺しゃ3日は遊び呆けて暮せる。いや、4日かな、血統書付きのペルシャ猫侍らせて朝までドンペリパーティーって寸法だ―」
「―冗談じゃねえ、そんな事の為に、私の命を―!!!」
「―そういう時代だ。やれ、小僧」
私は黒猫から、少年へとゆっくり視線を移す。少年の金色の目が私を射竦める。(冗談だろ?)口の中がカラカラに乾く。反対に、肌の上には大量の汗が噴き出る。瞬きが出来ない。疲労で鈍った体は、彫像の様にその場に凍りついている。咽が痛い。太陽が眩しい。砂が肌に張り付く。少年が静かにクロスボウを持ち上げる。私の両手には何も無い。どうして私の手の中には何も無いんだろう、と冷え切った頭で私は考える。少年がクロスボウの先端を持ち上げる。
少年がクロスボウを―。
「やれ、小僧、あの小娘を剣山みたいにしろ!撃て撃て、構うこたぁ無い、こんなとこに葱背負って突っ立ってる方が悪いって、今後の教育の為に教えてやんな!もっとも死んじまったらその教育も使いどころが無いけどな、ほれやれ小僧、それ小僧、人間社会へのアンチテーゼだ、図体でかくて鈍いだけの糞袋を、世の為俺の為に抹殺するんだ!そして俺に新鮮な鰯を食わせろ、合成食品でも生臭い外来魚でも無く、市場で卸売されてる養殖魚を―」
―背中に背負い、紐を結びつけ、それを更に胸元で結わえて身体に固定する。
それから、拳を振り上げ。
「―いけ小僧、俺達の、いや俺の生活の為に!さぁ躊躇う事はねぇ、俺とペルシャ猫のアイジーちゃんの愛路の為に―!」
―こつん、と黒猫の頭を軽く小突く。
「…んだよ、冗談じゃねぇか」
少年は唇の前に人差し指を立てるジェスチャーをする。「んだよ、黙ってろってか?」少年はこくんと頷く。黒猫は少年と、そして私の顔を見比べ、やがてその顔に意地の悪いしたり顔を浮かべる。
(…チェシャ猫みたい)
「―ああ、お前、こいつが気に入ったのか?そうかい、お前もとうとう色気づいたってわけか、成程ね、お前も漸くそういう歳か―」
少年は拳を振り上げ、もう一度黒猫を小突く。肌が褐色なので分かりづらいが、どうやら顔を真っ赤にしているみたいだ。男の子はそのまま、ブンブンと首を横に振る。「ええ?だったらなんで、そんな顔を赤くしてんだよ。心配しなくっても、俺が大人のいろはってやつを教えてやるぜ、先ず、いろはの“い”だ―」(…なんだか、微笑ましいな)思わず、笑ってしまう。(黒猫でなくても、思わずからかいたくなるの、分かる気がする)漸く、自分が安全だという確信を得る。私は目を閉じる。途端に、胃袋が痛切な悲鳴を上げる。
―ぐううううぅうぅぅぅぅ…。
頬が。
黒猫が私を見る。少年の金色の視線を感じる。
頬が、今度は私の頬が。
―燃えるように真っ赤になっているのが分かる。例え目を閉じていても。
「………………恥ずかしながら、その、私、昼食がまだでして」
「―俺らの分は分けねえぞ」
「ご心配無く。持参してきてますから…」