五話 いざクイエンへ
日もまだ昇ったばかりの早朝。
私とロイはクイエンへ向けて出発した。
クイエンから伸びる街道はいくつかあって、その中でもロイの村に近いこの街道は一二を争うくらい小さな道らしい。実際歩いてみて、本当にそうなんだと感じた。
街道の右手には森があり、その手前には小さな川が流れている。澄んだ川の水がきらきらと朝日の光を反射して綺麗だ。左手には青々とした麦畑が広がっていた。穂はまだ細く、収穫はかなり先らしい。
道の幅は両腕を横に広げた人が二人並べるかどうか。
これでは街道というよりむしろ農道に近い。
うん、実にのんびりとした田舎の一風景だ。
私は道の端に並んで咲いている小さな青い花を、ぼんやりと眺めながらロイの隣を歩いていた。
「ねえエリー」
そんな私に、ロイも道の向こう側を眺めながら話しかけてきた。
「なんですか?」
「村を出るときに、マルタおばさんが君に何か話していたみたいだったけど、何の話だったんだい?」
一瞬、うえっと女子高生らしくない声がでてしまった。
「エリー?」
どうしたんだと聞いてくるロイ。私は裏返りそうになる声を必死に抑えながら、両手をなんでもないという風に振った。
「別に大したことじゃないです。怪我しないように気をつけてね、とかそういう感じです」
「そうなの?」
「そうですそうです。ロイさんが気にすることじゃないですよ」
むしろ気にしてほしくないです。そう心の中で私は付け足した。
ロイはふうんと鼻をならしながらこちらを胡乱げな顔でしばらく見つめていたが、私が話そうとしないのを見て、視線をまた道の向こう側へと投げた。
どうやら追求するまでもないと思ってくれたみたいだ。
私は内心胸をなでおろした。
マルタが私に耳打ちしてきたことは、本当に大したことない話だった。
正直に明かすと、この前の話の続きだ。
村を発つ際、見送りにきてくれた村の人たちと一緒に姿を見せたマルタは、餞別として今朝作ったという固いパンのサンドイッチを渡してくれた。その際に耳打ちしてきた内容はこうだ。
――あのこと、ちょっとは考えておくれよ。
念押すようになその言葉に、私は苦笑いを返すことしかできなかった。
あれは絶対恋人の件バレてる。だよね、伊達に私の倍以上生きてないよね。
ロイには聞こえてなかったみたいでひとまず安心だ。これから二人で旅に出るっていうのに変なこと言われてぎくしゃくしちゃったら、たまったものじゃない。
それはともかく、私たちはマルタからだけでなく他の人たちからも色々と餞別をいただいた。ちょっとした保存食、お金など見繕ってくれた彼らに、私は感謝すると同時に少し申し訳なく思った。
決して裕福ではないはずなのに、それでも村を出ていく私のために早朝から顔を見せ、その上餞別まで用意してくれたのだ。でも、そんな彼らに私は何も恩を返せていない。
餞別の入ったリュックが急に重くなったような気がした。
顔にそんな気持ちが出ていたみたいで、隣を歩いていたロイは私の肩に大きく温かい手をのせた。次いで、私の顔を覗きこむように少し上体をかがめて、その甘い顔に優しげな笑みを浮かべる。
「エリー、そんな顔をしないで。
僕たちはいつかあの村を離れなければならなかったんだ。あの優しい村は君の傷をいやしてくれるけど、でもそれだけだ。君は君のいるべき場所に戻るため、小さな巣から出てつらく厳しい空の世界に飛び立たなければならない。
彼らも分かってくれるさ」
うああああなんか違う。なんか違うよロイさん。
何がとは上手く言えないけど、根本的なところが違うと思うんだ。
そんな私の心のうちなど露知らず、ロイは頭上を仰いで空を飛ぶ鳥を見つめた。
見た目がサマになっているだけに、非常になんとも言えない気分になってくる。この一カ月、私は「これで思い込みが激しくなかったら……」と何度思ったことか。
いや、そんなことより早く話の本題をもとに戻さないと。彼に任せていたら、二転三転、坂道を転がり落ちるかのごとく話が変わってしまう。
「ロイさんロイさん、私が言いたいのはそういうことじゃなくて――」
甘い笑顔で見返してくる彼を、私は非常に不安な気持ちで見上げた。
……こんな状態で無事クイエンまでたどりつけるんだろうか、私たち。
それからしばらく歩いて太陽が中天から少し傾いた時分に、私たちは昼食がてら休憩することになった。
道沿いにある川べりにおりて、平らに削れた比較的大きな石の上に腰を下ろす。ロイはその石を背もたれ代わりにして、地面に座り込んだ。
川は村を出た時より少しだけ幅が広くなっていた。このままクイエンに近づけば川も大きくなっていくんだろうか。
怪我も治ったばかりで運動もあまりしていなかった私にとって、ただ延々と歩き続けるこの旅はかなりきついものだった。舗装もされていない石の転がる道の上を、履きなれない靴で歩くのだ。
もちろんまめだって出来ている。ロイがテーピング代わりに巻いてくれた布のお陰でまだ楽に歩けるけれど、つぶれてしまうのは時間の問題だ。
この世界に来る前に履いてたスニーカーだったら、まめなんてできなかっただろうになあ。
私はそう思って、恨めしくため息をついた。
二か月前ロイが助けてくれたとき、私は家を出た時と同じ服を着ていたものと思い込んでいたんだけど、実際は全く違う恰好だったらしい。
着ていたはずのチュニックとホットパンツは消え失せ、膝上何十センチだよ、と突っ込んでしまいたくなるほどの短い丈のキャミソールワンピースと薄手のカーディガンに変わっていたのだ。
実物を見せてもらったけれど、ロイが年頃の少女が云々とか言っていた気持ちが良く分かった。その服が変に淡い色合いをしていたせいで、誰が見ても「もうそれワンピースじゃなくて下着ですよね」レベルになっていた。
しかもそれが血まみれになっていた日にはもうね……
彼の中で私が『そういう少女』になってしまうのは無理もない話だと思う。
村医者のお爺さんが言うには、暴行された跡は――お腹の怪我を除いては――なかったらしい。それを聞いた時、ちょっとほっとした。
もう色々なことが起こりすぎて、訳がわからない。あれだな、過去のことは考えずとにかく先へ進めと神様が言っているに違いない。うんそう考えよう。
……その神様がアレフレートじゃないことだけ祈っていよう。
ちなみにお腹の怪我は、お爺さんの腕が見事だったのと魔法薬の原料の薬草のお陰で、跡を残すだけになっていた。時間がたてばその傷跡もほとんど目立たなくなるらしい。
「エリーにはまだちょっときつかったかな。傷は痛むかい?」
流れる汗をタオルでふく私に、ロイは気遣わしげな声で話しかけてきた。
歩き詰めでへとへとの状態な私に比べ、流石ロイは体力がものをいう仕事をしているだけあって、疲れた様子は一切ない。
大丈夫ですと答えながらも説得力ゼロな私を見てロイは「ちょっと待ってね」と言って荷物の中を漁りはじめた。ほどなくして取り出したものは、小さな木片だった。受け取って良く見れば、生木ではなく乾燥させたものだと分かる。
「これはロジと言ってね、花の蜜だけじゃなくて木全体が甘いんだ。疲れた時に舐めれば疲れが取れるんだよ」
ロジ――シナモンみたいなものかな。
ロイに勧められるままに口に放りこんでみると、ほのかな甘みが口の中に広がった。かすかにしてくる柑橘系の香りは、多分この植物自体の香りだろう。
これはいいな。甘ったるい感じがないから何個でもいけそうだ。
「おいしいです。ありがとうございます」
甘い食べ物に、自然と笑顔になってしまう。
「どういたしまして」
ロイはそう答えてロジの入った袋を荷物の中に戻した。
その後、私たちはマルタ特製のサンドイッチで簡単な昼食をとった。私はもう少し休んでいたかったけれど、日が沈む前には隣町に着きたいというロイの言葉に従って、早めに休憩を切り上げることになった。
そして延々と歩き続けること数時間。日が傾き始め、烏のような鳴き声が遠く聞こえるようになった頃、私たちは隣町アウトナに着いた。
アウトナはロイの村より大きく、活気のある町だった。商店以外にも宿が多く、いかにも宿場町といった雰囲気がある。ロイの話によると、商人や旅人たちはロイの村に立ち寄ることも少なく、まっすぐこの町を目指すんだとか。
確かにあの村は少々入り組んだ場所にあった。宿もほとんどない辺鄙な村を目指して街道をはずれるより、ちょっと無理してでもそのまま進んで宿のあるアウトナに行く方ががいいのかもしれない。ロイの村自体、知名度は高くなさそうだし。
「日が落ちる前に着けたね。朝早く出て良かったよ」
ほっと安堵の息をつくロイ。私はというと彼の言葉に相槌を打ちながら、きょろきょろと周りを見回していた。
商店が立ち並ぶその隙間を縫うように、小さな露店がいくつか点在している。その露店には、祭りの屋台みたいに食べ物が売ってあるところもあれば、用途の分からないがらくたのような物を並べている店もある。
「お嬢ちゃん」
私をそう呼んで手招きした露天商は、まさにそんながらくたを売っている店だった。腕ほどの長さの棒の先にこぶし大の球体をくっつけたものやら、明らかに何かの部品だったものであろう歯車で作った置物やら、様々な代物が置いてある。
年老いた店主がどこか胡散臭そうな笑みを顔に張り付けて、こちらを見上げてくる。
「何か気になるものはあるかね。
この飾りボタンはどうだい。あんたくらいの年頃はこういうのが好きなんじゃないかい」
そう言って、一つのボタンを己の手のひらに取り上げた。
金色に塗られたそのボタンの表面には、地面らしき真ん中の線を挟んで太陽と月が向かい合う形で彫られていた。真ん中の線には木や動物などが細かく刻まれている。裏を見てみると糸を通す穴はなく、その代わりに服に止めるためのピンがついていた。
これはボタンというよりバッジなんじゃないのかな。
店主は商売をしている割にそういうことには無頓着らしく、あれやこれやといいかげんな説明をしながら商品を見せてくる。
「エリー」
そんな店主の様子と商品をぼんやり見ている私の様子に気付いたロイが、背後からたしなめるように私の名前を呼んだ。
「残念だけど、無駄遣いできるようなお金はないよ。宿も探さなきゃいけな――」
そう言いながら私の手を取った彼だったが、なぜか中途半端なところで言葉を切った。
視線は私でも露店の商品でもなく、通りの奥に注がれている。何を見ているんだろう、そう思って私も同じ方向に視線を向けようとして――
「エリー」
「え!?」
いきなりロイさんが私の肩を抱き寄せて、顔を耳元に近付けてきた。がたいもよく上背もあるおかげで、ほとんど覆いかぶさるような形になっている。
恋人同士がじゃれあい、ささやいている姿に見られてもおかしくない。
「ろ、ロイさん!? 一体どうしたんですか?」
突然のことに、しらず声が裏返る。慌てて振り返ろうとしたけれど、大きな手でがっちりと頭を固定されてしまって目しか動かせない
私の問いも、からかうような声を上げた店主にも何も返さず、彼は私の体を抱き寄せたまま人の波をかき分けて移動し始めた。
ていうかこれは一体何がどうなってこういう展開になったんだ。待ってロイさん顔近い! 近すぎる!
混乱する私をロイはそのまま建物の間の小さな隙間に連れ込んで、いきなり壁に押し付けた。
「あの、これは、その……私そういう経験ないんで……!」
いつスイッチ入った? そもそもおとぎ話にはこういうアレなエピソードはないはずだよね?
冷や汗をだらだらと流しながらロイの顔を見上げると、彼は人差し指を立てて静かにするように合図を送ってきた。いやあの、本気ですか?
いよいよまな板の上の鯉みたいな気持になった私に、ロイは神妙な声で話しかけてきた。
「ごめんね、いきなり。びっくりしたよね。
いいかい、落ち着いて聞いてエリー」
「が頑張って落ち着きますはい」
こくこくと頷く私。ロイはそれに一つ頷いて言葉を続けた。
「――君の話してたあの男、奴の特徴によく似た男がいたんだ」
それは全く予想していなかった方向の内容で、私は一瞬理解できなかった。
あの男? あの男ってもしかして――アレフレート?
頭の中が一気に冷静になる。
「本当ですか、まさかこんなところにいるなんて。特徴の似た別人とかじゃなくて?」
ロイは実際に彼を見ていない。ただ私の話を聞いただけだ。それに、旅立って一個目の町でアレフレートに会うなんて出来すぎている。
その上ここは異世界だ。別人の可能性が高い。
でも彼は自分のことを神様だと言っていたから、異世界へ移動することだって簡単なのかもしれない。
本当に私を追ってここまで来たとか?……まさか、私のお腹の傷は……
だんだん嫌な方向に考え始めた私の体を隠すようにロイが身じろぎをした。
「こっちに来てる。静かに、じっとしてて」
体がこわばるのが自分でも分かった。息をひそめて、目だけを動かして通りの様子をうかがう。この町の住人であろう親子連れやカップル、旅人らしき人たちなど様々な人が、楽しそうにあるいは忙しそうに行きかっている。その中にそれらしき男の姿はなかった。
それでもロイはじっと息をひそめている。――まだ、なんだ。
数秒かそれとも数分か。私の緊張が頂点に達した頃、その男が人波の中に姿を現した。
後ろに流した茶色の髪に同色の目。表情のない顔に、鍛えられた逞しい体。黒いスーツこそ着ていないものの、間違いなく――
あの星空のような空間で出会った、アレフレート本人だった。