牛乳と溜息
目が覚めた。
カーテンの隙間が白かった。
何時なのか確認するために枕元を探った。
スマートフォンは布団の下にあった。
画面には午前九時十三分と表示されていた。
起きる理由はなかった。
もう一度、目を閉じた。
眠れなかった。
隣の部屋で何かを落とす音がした。続いて、女の笑い声が聞こえた。テレビかもしれない。誰かと電話をしているのかもしれない。
俺は布団をめくった。
足の裏が冷たかった。
床に脱ぎ捨てたズボンを拾い、椅子の背に掛けた。椅子には昨日のシャツが掛かっていた。洗濯するつもりだった。
洗濯機を回すには、まだ少なかった。
台所へ行った。
冷蔵庫を開けた。
卵が二つと、賞味期限の切れた豆腐があった。飲みかけのペットボトルを取り出して水を飲んだ。
冷蔵庫の扉を閉めると、モーターの音が聞こえた。
しばらく、その音を聞いていた。
静かになると、何も聞こえなくなった。
ため息が出た。
朝から何をやっているんだろうと思った。
思ったところで、何かをするわけでもなかった。
───
顔を洗い、髭を剃った。
鏡の中の顔は、ずいぶん老けたように見えた。実際に老けたのだろう。あれから三年経っている。
三年。
長いのか短いのか、よくわからなかった。
蛇口を閉めた。
水滴が一つ、洗面台に落ちた。
あの日も雨が降っていた。
妻は助手席に座っていた。信号待ちのあいだ、膝の上でスマートフォンを握っていた。
俺は、妻が誰かと連絡を取っているのだと思った。
自分がしていることを棚に上げて、そんなことを考えていた。
妻は画面を消した。
「ねえ」
俺は前を見ていた。
「何?」
「私に言うこと、ない?」
そのとき、俺は何を考えていたのだろう。
不倫のことだとわかっていたのかもしれない。違う話だと思いたかったのかもしれない。
「別に」
そう答えた。
妻は何も言わなかった。
信号が青になった。
そこで記憶が途切れた。
いや、違う。
途切れているのではない。
そのあとに何があったのか、俺は知っている。
知っているはずなのに、思い出そうとすると、喉の奥が狭くなった。
俺は洗面台に手をついた。
吐き気がした。
しばらくして顔を上げた。
鏡の中の男が、こちらを見ていた。
ため息をついた。
―――
昼になったので、近所のコンビニへ行った。
弁当と缶コーヒーを買った。
レジの店員が「袋はどうされますか」と聞いた。
「いらないです」
会話はそれで終わった。
帰り道、向かいから親子が歩いてきた。小さな男の子が母親の手を引っ張っていた。母親は困ったような顔で笑っていた。
俺はゆっくりと道の端に寄った。
すれ違ったあとも、しばらく歩く速度が戻らなかった。
家に帰り、弁当を食べた。
テレビをつけた。
昼の番組で、誰かが旅行の話をしていた。温泉に行ったらしい。料理がうまかったとか、部屋からの眺めがよかったとか、そんな話をしていた。
俺は缶コーヒーを開けた。
プルタブが指に当たった。
妻は缶コーヒーが嫌いだった。
苦いからと言っていた。
俺は、甘いものばかり飲むなと笑っていた。
妻は笑わなかった。
あの頃から、笑わなくなっていたのかもしれない。
俺が気づかなかっただけで。
弁当の容器を片づけた。
テレビを消した。
部屋が静かになった。
───
午後二時を過ぎた。
することがなかった。
スマートフォンを開いた。ニュースを読んだ。天気を確認した。動画をいくつか見た。
どれも、見終わると何も残らなかった。
連絡先を開いた。
妻の名前は、まだ残っていた。
削除しようと思ったことは何度もある。
名前を消しても、妻がいなくなるわけではない。
そんなことはわかっていた。
それでも、残しておく理由もなかった。
画面を閉じた。
俺は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
事故の前日、妻からメッセージが届いていた。
帰り、牛乳買ってきて。
それだけだった。
俺は既読をつけたまま、返事をしなかった。
不倫相手と食事をしていた。
帰宅したとき、妻はもう寝ていた。
翌朝、牛乳は買わなかった。
妻に頼まれたことを忘れたわけではなかった。
買うのが面倒だった。
ただ、それだけだった。
事故のあと、冷蔵庫に牛乳が残っていたかどうかは覚えていない。
そんなことを思い出して、何になるのだろう。
俺は額を押さえた。
ため息が出た。
───
夕方、洗濯機を回した。
洗剤を入れ、蓋を閉めた。
水が流れ始めた。
回転する音を聞いているうちに、事故の日の夢を思い出した。
妻が助手席にいる。
雨が降っている。
妻がこちらを見ている。
何かを言おうとしている。
俺は前を向いている。
いつも、そこで目が覚める。
夢の中の妻は、毎回違う言葉を口にする。
どうして。
嫌い。
許さない。
死ねばいい。
どれも、妻が本当に言った言葉ではないかもしれない。
俺は最後の会話を覚えていない。
妻が何を言ったのか。
俺が何と答えたのか。
事故が起きる直前、俺は妻の顔を見たのか。
思い出そうとすると、胸の奥が重くなった。
俺は洗濯機の前から離れた。
窓を開けた。
どこかの家から、夕飯を作る匂いがした。
醤油と、焼いた魚の匂い。
妻は魚を焼くのが下手だった。
いつも皮を焦がしていた。
それでも俺は、うまいと言って食べていた。
あれは嘘ではなかった。
うまかったのだ。
そう思った途端、腹の底がひっくり返るような感覚がした。
俺は窓を閉めた。
───
夜になった。
洗濯物を干した。
夕食は食べなかった。
腹は減っていたが、何かを作るのが面倒だった。
布団に入る前に、妻の連絡先をもう一度開いた。
名前を長押しした。
削除の項目が出た。
指を動かせなかった。
画面を消した。
部屋の電気を消した。
暗闇の中で、冷蔵庫のモーターが動き始めた。
隣の部屋から、子どもの声が聞こえた。
誰かが笑っていた。
俺は布団をかぶった。
目を閉じる。
妻がいる。
助手席に座っている。
雨が降っている。
妻がこちらを向く。
口が動く。
今度こそ聞こうとする。
けれど、聞こえない。
俺は目を開けた。
天井は暗かった。
時計を見ると、まだ午前一時だった。
眠るには早かった。
起きているには長かった。
俺は寝返りを打った。
妻の名前を、声に出さずに呼んだ。
返事はなかった。
当たり前だった。
それでも、もう一度呼んだ。
それから、何も言わずに天井を見ていた。
ため息だけが、部屋の中に残った。




