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牛乳と溜息

掲載日:2026/10/22





目が覚めた。


 


カーテンの隙間が白かった。


何時なのか確認するために枕元を探った。


スマートフォンは布団の下にあった。


画面には午前九時十三分と表示されていた。



起きる理由はなかった。

もう一度、目を閉じた。



眠れなかった。


 

隣の部屋で何かを落とす音がした。続いて、女の笑い声が聞こえた。テレビかもしれない。誰かと電話をしているのかもしれない。



俺は布団をめくった。


足の裏が冷たかった。


床に脱ぎ捨てたズボンを拾い、椅子の背に掛けた。椅子には昨日のシャツが掛かっていた。洗濯するつもりだった。


洗濯機を回すには、まだ少なかった。


台所へ行った。


冷蔵庫を開けた。


卵が二つと、賞味期限の切れた豆腐があった。飲みかけのペットボトルを取り出して水を飲んだ。


冷蔵庫の扉を閉めると、モーターの音が聞こえた。


しばらく、その音を聞いていた。


静かになると、何も聞こえなくなった。


ため息が出た。



朝から何をやっているんだろうと思った。


思ったところで、何かをするわけでもなかった。


───


顔を洗い、髭を剃った。


鏡の中の顔は、ずいぶん老けたように見えた。実際に老けたのだろう。あれから三年経っている。



三年。


長いのか短いのか、よくわからなかった。


蛇口を閉めた。


水滴が一つ、洗面台に落ちた。


あの日も雨が降っていた。



妻は助手席に座っていた。信号待ちのあいだ、膝の上でスマートフォンを握っていた。


俺は、妻が誰かと連絡を取っているのだと思った。


自分がしていることを棚に上げて、そんなことを考えていた。


妻は画面を消した。




「ねえ」


俺は前を見ていた。


「何?」


「私に言うこと、ない?」




そのとき、俺は何を考えていたのだろう。


不倫のことだとわかっていたのかもしれない。違う話だと思いたかったのかもしれない。


「別に」


そう答えた。


妻は何も言わなかった。


信号が青になった。





そこで記憶が途切れた。


いや、違う。


途切れているのではない。


そのあとに何があったのか、俺は知っている。


知っているはずなのに、思い出そうとすると、喉の奥が狭くなった。



俺は洗面台に手をついた。


吐き気がした。


しばらくして顔を上げた。


鏡の中の男が、こちらを見ていた。


ため息をついた。


―――


昼になったので、近所のコンビニへ行った。


弁当と缶コーヒーを買った。


レジの店員が「袋はどうされますか」と聞いた。


「いらないです」


会話はそれで終わった。


 

帰り道、向かいから親子が歩いてきた。小さな男の子が母親の手を引っ張っていた。母親は困ったような顔で笑っていた。


俺はゆっくりと道の端に寄った。


すれ違ったあとも、しばらく歩く速度が戻らなかった。


家に帰り、弁当を食べた。


テレビをつけた。


昼の番組で、誰かが旅行の話をしていた。温泉に行ったらしい。料理がうまかったとか、部屋からの眺めがよかったとか、そんな話をしていた。


俺は缶コーヒーを開けた。


プルタブが指に当たった。


妻は缶コーヒーが嫌いだった。


苦いからと言っていた。


俺は、甘いものばかり飲むなと笑っていた。


妻は笑わなかった。



あの頃から、笑わなくなっていたのかもしれない。


俺が気づかなかっただけで。


弁当の容器を片づけた。


テレビを消した。


部屋が静かになった。


───


午後二時を過ぎた。


することがなかった。


スマートフォンを開いた。ニュースを読んだ。天気を確認した。動画をいくつか見た。


どれも、見終わると何も残らなかった。


連絡先を開いた。


妻の名前は、まだ残っていた。


削除しようと思ったことは何度もある。


名前を消しても、妻がいなくなるわけではない。


そんなことはわかっていた。


それでも、残しておく理由もなかった。


画面を閉じた。


俺は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。


事故の前日、妻からメッセージが届いていた。




帰り、牛乳買ってきて。



それだけだった。


俺は既読をつけたまま、返事をしなかった。


不倫相手と食事をしていた。


帰宅したとき、妻はもう寝ていた。



翌朝、牛乳は買わなかった。


妻に頼まれたことを忘れたわけではなかった。


買うのが面倒だった。


ただ、それだけだった。


事故のあと、冷蔵庫に牛乳が残っていたかどうかは覚えていない。


そんなことを思い出して、何になるのだろう。


俺は額を押さえた。


ため息が出た。


───


夕方、洗濯機を回した。


洗剤を入れ、蓋を閉めた。


水が流れ始めた。


回転する音を聞いているうちに、事故の日の夢を思い出した。


妻が助手席にいる。


雨が降っている。


妻がこちらを見ている。


何かを言おうとしている。


俺は前を向いている。


いつも、そこで目が覚める。


夢の中の妻は、毎回違う言葉を口にする。



どうして。


嫌い。


許さない。


死ねばいい。



どれも、妻が本当に言った言葉ではないかもしれない。


俺は最後の会話を覚えていない。


妻が何を言ったのか。


俺が何と答えたのか。


事故が起きる直前、俺は妻の顔を見たのか。


思い出そうとすると、胸の奥が重くなった。


俺は洗濯機の前から離れた。


窓を開けた。


どこかの家から、夕飯を作る匂いがした。


醤油と、焼いた魚の匂い。


妻は魚を焼くのが下手だった。


いつも皮を焦がしていた。


それでも俺は、うまいと言って食べていた。


あれは嘘ではなかった。


うまかったのだ。


そう思った途端、腹の底がひっくり返るような感覚がした。


俺は窓を閉めた。


───


夜になった。


洗濯物を干した。


夕食は食べなかった。


腹は減っていたが、何かを作るのが面倒だった。


布団に入る前に、妻の連絡先をもう一度開いた。


名前を長押しした。


削除の項目が出た。


指を動かせなかった。


画面を消した。


部屋の電気を消した。


暗闇の中で、冷蔵庫のモーターが動き始めた。


隣の部屋から、子どもの声が聞こえた。


誰かが笑っていた。


俺は布団をかぶった。


目を閉じる。


妻がいる。


助手席に座っている。


雨が降っている。


妻がこちらを向く。


口が動く。


今度こそ聞こうとする。


けれど、聞こえない。


俺は目を開けた。


天井は暗かった。


時計を見ると、まだ午前一時だった。


眠るには早かった。


起きているには長かった。


俺は寝返りを打った。


妻の名前を、声に出さずに呼んだ。


返事はなかった。


当たり前だった。


それでも、もう一度呼んだ。


それから、何も言わずに天井を見ていた。


ため息だけが、部屋の中に残った。






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