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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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千年ずっと天に手を伸ばしていた

作者: 猫目石琥珀
掲載日:2026/08/01



「あんたはまた記憶を落とらかして来て!」

 薄暗がりから、怒声が投げつけられた。

「なにを好き好んであたまん中、落としてくるんやろね。あたしみたいに皺だらけでもありゃせんし、あの子みたいに赤んぼでもない、野良に間に合う手足してるんになァ」

 怒声が降る。

 矢継ぎ早に怒鳴っているのは、禿の年寄りだ。皺だらけの口の奥には、歯がほとんど無い。

 裾が擦り切れた着物に、継ぎはぎだらけの上着を着ている。衣よりさらに古びた手足を難儀そうに動かして、土間に下り、柄杓で甕を掻きまわしていた。

「また最初から食える灰を教えんとあかんのかね。いやになるね、まったくそうやろ」

 土間の菰には、裸の赤ん坊がいた。

 手足は骨みたいで、腹だけ膨れて顔色の悪い。こちらも毛も歯も生えていない。

 小さな口で喋る。

「灰篩いだけさせときゃええやろ」

「あんたにできるお端を、こいつにさせるのはもったいないやろが。落ち穂を拾ってもらわんことにゃ。あたしは腰が痛いし、あんたは這いずるしかできやしない」

「わしだって好きで歩けんわけやない」

 禿げと歯無しのふたりはしばらく言い合いを続け、わたしを同時に見据えた。

「もう目が覚めたろ。しゃんとし!」

 背中を叩かれて、外に引き出される。

 薄暗い小屋から出れば、そこには刈ったあとの田んぼがずっと広がっていた。硬そうな稲株ばかりが、どこまでも、どこまでも続く。

 稲株の遥かな彼方には、峻厳と切り立った山が聳えている。

 雲を貫き、従え纏い、さらに天を削るほどの高嶺。

「さ、落ち穂を拾っておいで。山はあかん」

 年寄りは山を直視せぬように、視線を下げた。

「あの山に入ったまんま日暮れを過ぎると、記憶が無くなるんやからね」




 年寄りに言われるがまま、刈られた田んぼの落ち穂を拾った。

 ひび割れるほど乾いた泥には稗か粟か分からぬ粒が落ちており、おひさまが分からづらい薄曇りの下、腰を曲げてひとつひとつ拾っていく。

 他にも掘っ立て小屋が、ぽつりぽつりと点在している。

 みな、年寄りか幼いか、あるいは火傷まみれや傷だらけ、手足や目鼻のどこか欠けている。

 誰もが不自由な手足で、灰めいた土を集め、濁った水路から水を汲み、刈られた田から落ち穂を拾って集めていた。

 誰も言葉を交わさない。

 わたしのからだは背丈がちょうどよく、手足も指も揃っているから、他より落ち穂をよくよく拾えた。それでも一握りが精いっぱいだが。

 腰を屈めて落ち穂を拾い、膝を曲げて灰を掻き集め、日暮れ前に小屋に戻り、柴で火を焚き、灰汁で茹でて、柄杓で回し飲みする。

 それの繰り返しだった。




 天気さえ移り変わらぬ繰り返しだが、今日は山側からざわざと声がした。

 誰かを必死で探しているような……

 いや、違う。これは悲鳴だ。

「おーい、猪や! 猪が来おった!」

 赤い毛並みの猪だ。稲株を踏みつぶし、泥飛沫を上げながら駆けてきた。

 ひとを食らうために。

 特に四肢の欠いた男を好むのか、執拗に追いかけている。

 牙で太ももを貫いて、逃げられなくしてから蹄で頭を踏みつぶす。ハラワタを掘り起こすように貪った。まき散らされるハラワタのせいで、枯れた泥田は赤く染まる。

 わたしも追いかけられたが逃げた。

 猪は四人か五人ばかりの男どもを食い散らかし、山奥へと帰っていった。

 腹が膨れたのか、それとも夕暮れだから去ったのか。

 泥田は静かになった。

 多少、目端の利くものは喰われた男の落ち穂を集め、みな、疲れた吐息を洩らしながら各々の小屋やねぐらに帰っていた。

 




 今日も薄曇りだ。山の目と鼻の先で、落ち穂を拾い集める。

 みな、獣を恐れて山に近づかないが、わたし以外にひとりいた。

 しばらく前に、里にふらりとやってきた中年だった。褪せた藍色の袖からのぞく手足は、鱗じみた瘡に覆われ、白く粉噴いていた。瘡が痒いのか、爪でよく引っ掻いている。

 山から柴を取ってきたらしい。蔓でまとめている。

「あの山に入ったのですか?」

 わたしは問いかける。

 唐突な問いかけを投げられても、取り立て驚きもせず、そして嘲りもしなかった。

「山ってほど山やない。ちょっと繁っているところだけや」

 袖で柴を隠す。

 わたしは柴でなく、山へと視線を移した。遥か遥かな頂上を。

「あの山のてっぺんには何があるんでしょうね?」

「なんもないやろ。行ったところで物忘れになるだけや」

「日が沈む前に戻ってこれば……」

「羆がおる」

 恐ろしげに呟いた。

「山の奥には羆がうろついとる。赤猪も、蛇もおるんや。奥へ踏み込んだら喰われるだけやろ」

 ならばどうしてわたしは、日の落ちた山から戻ってこれたのだろう。

 蔓か柴を拾いに行き、たまたま獣に遭ったが、山で逃げるか隠れるかしてやり過ごし、運よく戻ってこれたのだろうか?

 考えながら、落ち穂を拾う。

 泥の中に、握りこぶしほどの石があった。

 なんとなくその石も拾う。

「申し、空が黒ずんできおった。蝗や」

 呟きに促され空を仰げば、遠くの曇天が黒く染まっていた。このまま田んぼにいれば、蝗にたかられて噛み殺される。

 誰もかれも、急ぎ帰途につく。わたしもだ。

 薄暗い小屋の土間では、相変わらず赤ん坊が菰に座って灰を篩っていた。灰を細かくして、小石や枯葉を取り除いている。

 赤ん坊はわたしをちらっと見上げ、口の中でしゃぶっていた丸い小石を吐く。

「なんや。また石を拾ってきたのか。邪魔や、邪魔。裏に捨てとけ」

 また?

 わたしは何度も石を拾ってきているのか?

 裏に回れば、似たような石がいくつも転がっていた。

 わたしは記憶を喪う前に、石を集めていたらしい。そしてその石のいくつかは、とがっていた。

 いや、尖るように手を加えられていたのだ。

 一方は尖り、一方は平たい。

 わたしは何故、こんなにたくさんの石を尖らせていたのだ?

 もし野良稼ぎに使うなら、ひとつふたつで間に合ったはずだ。こうもたくさん作る必要はない。数がいるのだ。

 同じことをすれば、己が何を目的にして行ったか、思いつくだろうか?

 拾ってきた石も大きな岩にぶつけ、欠けさせていく。

「申し申し」

 不意に声をかけてきたのは、昼の中年だった。

 干からびた皮膚を掻きながら、だらだらとやってくる。

「あんたのとこの年寄りさんなぁ。さっき大鴉に喰われとったよ」

「ご親切さまにありがとうございます」

 教えてくれた礼を述べる。

 年寄りは大鴉に喰われたか。

 二羽揃って飛ぶ大鴉。あれは老いさらばえた人間の皺を好んで啄み食っているのだ。




  


 稲株ばかりの田んぼでも、山に近いと石が多く埋まっている。

 毎日、手ごろな石を集めて、ぶつけて、欠かせて、尖らせる。

 それを繰り返した。

 石の使い方を半分だけ理解していた。

 きっと山で使うのだ。

 夜明け前に小屋を飛び出す。

 石の半分は着物に包んで持っていき、そして半分は小屋の裏に残した。また記憶を喪った時に、己のやってきたことを教えるためだ。

 まだ誰もいない刈穂の田を通り越して、山に向かう坂道に踏み入った。

 草が茂りだす。乾いた泥ではなく、湿った土を踏んだ感覚だ。木々が生い茂り、蔦や蔓が絡み合い、阻むがごとくひたすら八重葎が続く。

 赤猪がいた。

 だがわたしを一瞥して、すっと緑の翳へと消えていく。

「襲わないのか……?」

 わたしの呟きに答えるものはない。

 大きな蛇も這っていたが、すぐに姿をくらました。

 上り坂を歩けば歩くほど茂みや葉っぱは弥増し、重なり合った緑陰が曇天さえ遮り、空気は冷たく潤ってくる。息を吐くにも吸うにも心地よいが、だんだんと狭く、急になってきた。

 もはや歩いて登れぬ。

 崖にも等しい坂には、石のくさびが打ち付けられてきた。

 これは、わたしだ。

 わたしが道を作っていたんだ。

 記憶を喪う前に、わたしが石たちを打ち込んだのだ。登攀のために。

 わたしは石を手掛かりにして上る。少しづつしか登れぬのは、小屋から持ってきた石を抱えているせいだ。 

 坂はもはや絶壁になっていた。

 石の足掛かりも途切れた。

 わたしはもってきた石を打ち込み、さらに上へ上へと登った。

 いや、夢中になってはだめだ。

 この速度では登りきる前に、日が暮れてしまう。手のひらは傷つき、指も腕もしびれてきた。

 いったん下り、持ってきた石を残して、小屋へと帰った。



 蝗が空を覆う日は石を削り、溜まれば山へ赴いた。

 行き来を容易くするため梢を折って、八重葎を踏みしめて、崖には足掛かりを作る。そして小屋へ帰り、また繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 これは落ち穂を拾う繰り返しの日々と、何が違うのだろう。

 少なくとも成し遂げた先には、わたしの知らぬ風景があるだろう。それでいいのだ。

 平べったい刈田で腰を折るより、天に腕を伸ばしたほうがよいではないか。



 

 山路を切り開いていっても、猪や蛇は襲ってこなかった。里に下りればあれほど猛り狂う獣が、山の中ではむしろわたしを避けていた。

 だが、羆は違った。

 山奥深くには羆が巣食っていたのだ。

 羆はわたしを目にするや否や、唸り、吼え、牙という獰猛さを剥き出して、黒い毛を逆立てて追いかけてくる。

 蔦を頼って木に登った。

 羆は登ろうとしたが、あまりの巨体で蔦が千切れる。長いことがりがりと幹を爪で削っていたが、不意に諦めた。他の獲物を探しに行ったのかもしれない。

 木から下りて、山路を下った。

 息を切らして駆け続ければ、辛うじて日暮れ前に山を抜け出せた。

 羆はどうすればいいだろう。

 わたしの登った木が太くなく、蔦が千切れたから、羆は登ってこられなかったのだ。石の足掛かりに上っている途中で襲われたら、きっと登ってくる。

 そしたら首が折られて、ハラワタが食われてしまう。

 ぼんやりとしながら小屋に入る。

 夜に湿らされた小屋にいたのは、赤ん坊だけ。

 土間の菰で、灰を篩にかけていた。ちゅくちゅくと口の中で小石を転がしていたが、ふいに吐き捨てる。

「おい、わしはもう嫌気がさした」

 赤ん坊は骨と皮だけの手でふるいを投げ捨て、異様に膨れた腹を上下させる。

「おまえはよう記憶を落っとこしてくるが、わしはもうずっと覚えとるんや。灰を篩って、落ち穂入りの灰汁を啜るだけの毎日をな」

「では山に置いてきましょうか?」

「あほう、いままでやらなんだと思うか? それはそれで鬱や」

 赤ん坊は吐き捨てた小石を握る。

 いつもしゃぶっている小石は、尖ったところなく、つやつやと丸かった。

「喰われれば終いや。そろそろわしを水路に流してくれんか?」

「はい、いいですよ」

 わたしは赤ん坊を初めて抱いた。軽い。抱いていることを忘れるほどに、軽くて、乾いている。

 田んぼを廻る水路まで歩いていく。

「わしがいっつも嘗めとった小石な。あれをしゃぶり始めた時は、とんがっててな。わしがしゃぶり続けるうちに、あんな小さく丸くなったんや」

「そうでしたか」

「おまえが石を拾いだしたのは、それを教えた後やったなぁ」

 わたしは赤ん坊に教えられ、石のかたちが変わると知り、足場作りをひらめいたのか。

「ありがとうございます」

「気色悪いこと言わんでええ」

 水音が聞こえてきた。

 流れが速く、濁った水路。

「さようなら」

「あんじょうな」

 そこに赤ん坊を流した。

 たちまち無数の鯉たちがやってきて、赤ん坊をつつき、大きな泡ひとつ吐いたと思えば、そのまま見えなくなった。

 わたしは水路の濁り水をすくって飲み、独りの小屋で一眠りした後、また朝に山に向かった。

 路の途中に茂っていた大樹は折れていた。

 わたしが山に通い始めたころ若芽だったその木は、もう年輪が百を超えていた。




 留守をしていた赤ん坊がいなくなったので、数日経たずに見知らぬひとたちが小屋に住み着いた。

 わたしの寝起きする場所はなくもなかったが、見知らぬひとたちの皮膚は爛れて腐っているので、臭気が耐え切れなかった。

 わたしは集めた石と菰ひと巻きなんとか持ち出し、山の近くで寝起きした。

 朝が訪れれば、山路を踏みしめて、足掛かりを登る。

 羆がいた。

 だが、今日はわたしに見向きもしない。気付いていないかもしれない。

 誰かを食らっているのだ。

 手足が白い鱗のような瘡に覆われた人物だった。藍色の着物を血染めにされて、腹からワタを掻きだされていた。

 わたしは音を立てぬように、さらに上へと登る。

 石のくさびを足掛かりにして、天へ天へと手を伸ばし、ようよう山の中腹に辿り着いた。

 日暮れも近いのに、まだ登る先がある。

 ここまで来たが、一旦、戻らねば。

 いや、しかし羆だ。

 羆の縄張りを抜けたこの日に、先へ進むべきではないか。

 すべてを忘れても。

 葉っぱや草が柔らかくなってきて、水の音が響いてきた。

 遥か頂上の岩場より山間を砕くように、水が流れ落ちてきている。涼やかな水飛沫が舞う。

 すくっても手のひらのしわまで分かるほど透けた水だ。

 わたしは幾度も水を両手に溢れさせ、飲み干し、渇きを癒した。疲れまでも癒すような甘露だ。もっと歩ける。

 さらに一歩、もう一歩、歩みを進めれば、足場をなだらかになってきた。摩耗した石が敷かれている。

 鳥の鳴き声が、鼓膜に触れた。

「孔雀……?」

 瑠璃や緑に煌めく孔雀と、純白と銀に煌めく孔雀、その二匹がゆっくりと歩いている。

 孔雀たちが行き交うさらに奥、小さな祠があった。

 こどもがひとり、祠に腰かけている。ざんばらとした蓬髪のこどもで、腰だけを布で覆っていた。薄く、そして艶やかな布がひらりと舞う。

「よくぞ参った。ここまで来れるものは少ない、まずは祝そう」

 ほっそりとした指を蓮のつぼみように組み、わたしではないどこかへと淡く微笑む。

 蓬髪のこどもは両目両手両足すべて揃っており、きれいに日焼けした肌をしていた。

「誰だ? 山にずっといるのか?」

「三千世界がはじまる前から」

「なぜ記憶を喪わない?」

 こどもは笑みを深めた。

「そんな問答をしていると日が暮れる。そなたは中腹までたどり着いた。さて、どのような宿世を与えようか?」

 わたしは答えられない。

 問いの意味を掴めなかった。

「下で待つだけものは、次の宿命を選べぬ。赤猪に貪られれば、戦場で誰かを殺すか殺される宿命を。つがいの大鴉に啄まれれば、伴侶を娶せられ生涯を共にする。蝗たちに噛まれれば、数え切れぬ子や孫を得る。蛇に飲まれれば、狂おしいほどの恋に落ちる。鯉たちに啜られれば争い絶えぬが、渇きや飢えでは死なぬ。羆に喰われれば、頑丈な肉体に生まれ病は得ることはない」

 蓬髪のこどもは諳んじつつ、蓮めいた両手を開き、左右の孔雀たちを撫でた。

「瑠璃孔雀に啄まれれば、誰もが崇める血統に生まれ、この世の栄華を極められる。銀孔雀に啄まれれば、誰からも愛され、慕われ、慈しまれて長生きする」

 こどもはようようわたしを見据えた。

「自らに由れ、来世のさだめを」

 来世の運命を、どの獣に喰われるかを、わたし自身で選べと言っているのか。

 美しい二匹の孔雀は、わたしを見つめていた。

 瑠璃と白銀は、金無垢の木漏れ日と滝の水飛沫を受けて、さんざめくほどの眩さを撒き散らしていた。里ではけして拝めぬ輝きが、わたしの傷だらけの手にまで届く。

 だが、わたしが見に来たのは、これではないのだ。

「わたしは……山のいただきを目にしたい。まずその望みをかなえたい」 

「日が落ちれば、この記憶も失うぞ」

「それでもわたしは見に来たのです」 

「……そうか」

 蓬髪のこどもは少し悲しそうだった。

 それは暮れなずむ日差しの幻想かもしれないが、たしかに項垂れてはいた。

「好きにするがいい、そなたは許されておる」

「誰によって?」

 こどもは問いに答えない。

 微かな沈黙を淡い笑みに変えて、さらに上へと向かう道を示した。

「疾く行け。このまま歩みを絶やさなくば、日が沈む前には至れるだろう」

 それを聞いて、里に戻る気は失せた。

 やっと手が届くのだ。

「だが霊峰の頂き、そこから落ちてしまえば、なにひとつ加護も約束もできない。宿命を無き生を歩むことになる。努々、落ちることないように」

「ご親切にありがとうございます」

 こどもと孔雀たちに見送られ、わたしはさらに険しい山道を登っていった。坂の勾配はそれほどでもないが、道はだんだん狭くなり、風は吹きすさび、濃い霧が流れてくる。

 歩き続けて、山の頂に辿り着いた果てに、わたしはこどもと孔雀たちの元へ戻るのだろうか。

 最果ての風景が素晴らしければ、虚空に身を委ねるのも悪くはない。

 軽やかな気持ちで、わたしは山頂を目指した。




 終


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