千年ずっと天に手を伸ばしていた
「あんたはまた記憶を落とらかして来て!」
薄暗がりから、怒声が投げつけられた。
「なにを好き好んであたまん中、落としてくるんやろね。あたしみたいに皺だらけでもありゃせんし、あの子みたいに赤んぼでもない、野良に間に合う手足してるんになァ」
怒声が降る。
矢継ぎ早に怒鳴っているのは、禿の年寄りだ。皺だらけの口の奥には、歯がほとんど無い。
裾が擦り切れた着物に、継ぎはぎだらけの上着を着ている。衣よりさらに古びた手足を難儀そうに動かして、土間に下り、柄杓で甕を掻きまわしていた。
「また最初から食える灰を教えんとあかんのかね。いやになるね、まったくそうやろ」
土間の菰には、裸の赤ん坊がいた。
手足は骨みたいで、腹だけ膨れて顔色の悪い。こちらも毛も歯も生えていない。
小さな口で喋る。
「灰篩いだけさせときゃええやろ」
「あんたにできるお端を、こいつにさせるのはもったいないやろが。落ち穂を拾ってもらわんことにゃ。あたしは腰が痛いし、あんたは這いずるしかできやしない」
「わしだって好きで歩けんわけやない」
禿げと歯無しのふたりはしばらく言い合いを続け、わたしを同時に見据えた。
「もう目が覚めたろ。しゃんとし!」
背中を叩かれて、外に引き出される。
薄暗い小屋から出れば、そこには刈ったあとの田んぼがずっと広がっていた。硬そうな稲株ばかりが、どこまでも、どこまでも続く。
稲株の遥かな彼方には、峻厳と切り立った山が聳えている。
雲を貫き、従え纏い、さらに天を削るほどの高嶺。
「さ、落ち穂を拾っておいで。山はあかん」
年寄りは山を直視せぬように、視線を下げた。
「あの山に入ったまんま日暮れを過ぎると、記憶が無くなるんやからね」
年寄りに言われるがまま、刈られた田んぼの落ち穂を拾った。
ひび割れるほど乾いた泥には稗か粟か分からぬ粒が落ちており、おひさまが分からづらい薄曇りの下、腰を曲げてひとつひとつ拾っていく。
他にも掘っ立て小屋が、ぽつりぽつりと点在している。
みな、年寄りか幼いか、あるいは火傷まみれや傷だらけ、手足や目鼻のどこか欠けている。
誰もが不自由な手足で、灰めいた土を集め、濁った水路から水を汲み、刈られた田から落ち穂を拾って集めていた。
誰も言葉を交わさない。
わたしのからだは背丈がちょうどよく、手足も指も揃っているから、他より落ち穂をよくよく拾えた。それでも一握りが精いっぱいだが。
腰を屈めて落ち穂を拾い、膝を曲げて灰を掻き集め、日暮れ前に小屋に戻り、柴で火を焚き、灰汁で茹でて、柄杓で回し飲みする。
それの繰り返しだった。
天気さえ移り変わらぬ繰り返しだが、今日は山側からざわざと声がした。
誰かを必死で探しているような……
いや、違う。これは悲鳴だ。
「おーい、猪や! 猪が来おった!」
赤い毛並みの猪だ。稲株を踏みつぶし、泥飛沫を上げながら駆けてきた。
ひとを食らうために。
特に四肢の欠いた男を好むのか、執拗に追いかけている。
牙で太ももを貫いて、逃げられなくしてから蹄で頭を踏みつぶす。ハラワタを掘り起こすように貪った。まき散らされるハラワタのせいで、枯れた泥田は赤く染まる。
わたしも追いかけられたが逃げた。
猪は四人か五人ばかりの男どもを食い散らかし、山奥へと帰っていった。
腹が膨れたのか、それとも夕暮れだから去ったのか。
泥田は静かになった。
多少、目端の利くものは喰われた男の落ち穂を集め、みな、疲れた吐息を洩らしながら各々の小屋やねぐらに帰っていた。
今日も薄曇りだ。山の目と鼻の先で、落ち穂を拾い集める。
みな、獣を恐れて山に近づかないが、わたし以外にひとりいた。
しばらく前に、里にふらりとやってきた中年だった。褪せた藍色の袖からのぞく手足は、鱗じみた瘡に覆われ、白く粉噴いていた。瘡が痒いのか、爪でよく引っ掻いている。
山から柴を取ってきたらしい。蔓でまとめている。
「あの山に入ったのですか?」
わたしは問いかける。
唐突な問いかけを投げられても、取り立て驚きもせず、そして嘲りもしなかった。
「山ってほど山やない。ちょっと繁っているところだけや」
袖で柴を隠す。
わたしは柴でなく、山へと視線を移した。遥か遥かな頂上を。
「あの山のてっぺんには何があるんでしょうね?」
「なんもないやろ。行ったところで物忘れになるだけや」
「日が沈む前に戻ってこれば……」
「羆がおる」
恐ろしげに呟いた。
「山の奥には羆がうろついとる。赤猪も、蛇もおるんや。奥へ踏み込んだら喰われるだけやろ」
ならばどうしてわたしは、日の落ちた山から戻ってこれたのだろう。
蔓か柴を拾いに行き、たまたま獣に遭ったが、山で逃げるか隠れるかしてやり過ごし、運よく戻ってこれたのだろうか?
考えながら、落ち穂を拾う。
泥の中に、握りこぶしほどの石があった。
なんとなくその石も拾う。
「申し、空が黒ずんできおった。蝗や」
呟きに促され空を仰げば、遠くの曇天が黒く染まっていた。このまま田んぼにいれば、蝗にたかられて噛み殺される。
誰もかれも、急ぎ帰途につく。わたしもだ。
薄暗い小屋の土間では、相変わらず赤ん坊が菰に座って灰を篩っていた。灰を細かくして、小石や枯葉を取り除いている。
赤ん坊はわたしをちらっと見上げ、口の中でしゃぶっていた丸い小石を吐く。
「なんや。また石を拾ってきたのか。邪魔や、邪魔。裏に捨てとけ」
また?
わたしは何度も石を拾ってきているのか?
裏に回れば、似たような石がいくつも転がっていた。
わたしは記憶を喪う前に、石を集めていたらしい。そしてその石のいくつかは、とがっていた。
いや、尖るように手を加えられていたのだ。
一方は尖り、一方は平たい。
わたしは何故、こんなにたくさんの石を尖らせていたのだ?
もし野良稼ぎに使うなら、ひとつふたつで間に合ったはずだ。こうもたくさん作る必要はない。数がいるのだ。
同じことをすれば、己が何を目的にして行ったか、思いつくだろうか?
拾ってきた石も大きな岩にぶつけ、欠けさせていく。
「申し申し」
不意に声をかけてきたのは、昼の中年だった。
干からびた皮膚を掻きながら、だらだらとやってくる。
「あんたのとこの年寄りさんなぁ。さっき大鴉に喰われとったよ」
「ご親切さまにありがとうございます」
教えてくれた礼を述べる。
年寄りは大鴉に喰われたか。
二羽揃って飛ぶ大鴉。あれは老いさらばえた人間の皺を好んで啄み食っているのだ。
稲株ばかりの田んぼでも、山に近いと石が多く埋まっている。
毎日、手ごろな石を集めて、ぶつけて、欠かせて、尖らせる。
それを繰り返した。
石の使い方を半分だけ理解していた。
きっと山で使うのだ。
夜明け前に小屋を飛び出す。
石の半分は着物に包んで持っていき、そして半分は小屋の裏に残した。また記憶を喪った時に、己のやってきたことを教えるためだ。
まだ誰もいない刈穂の田を通り越して、山に向かう坂道に踏み入った。
草が茂りだす。乾いた泥ではなく、湿った土を踏んだ感覚だ。木々が生い茂り、蔦や蔓が絡み合い、阻むがごとくひたすら八重葎が続く。
赤猪がいた。
だがわたしを一瞥して、すっと緑の翳へと消えていく。
「襲わないのか……?」
わたしの呟きに答えるものはない。
大きな蛇も這っていたが、すぐに姿をくらました。
上り坂を歩けば歩くほど茂みや葉っぱは弥増し、重なり合った緑陰が曇天さえ遮り、空気は冷たく潤ってくる。息を吐くにも吸うにも心地よいが、だんだんと狭く、急になってきた。
もはや歩いて登れぬ。
崖にも等しい坂には、石のくさびが打ち付けられてきた。
これは、わたしだ。
わたしが道を作っていたんだ。
記憶を喪う前に、わたしが石たちを打ち込んだのだ。登攀のために。
わたしは石を手掛かりにして上る。少しづつしか登れぬのは、小屋から持ってきた石を抱えているせいだ。
坂はもはや絶壁になっていた。
石の足掛かりも途切れた。
わたしはもってきた石を打ち込み、さらに上へ上へと登った。
いや、夢中になってはだめだ。
この速度では登りきる前に、日が暮れてしまう。手のひらは傷つき、指も腕もしびれてきた。
いったん下り、持ってきた石を残して、小屋へと帰った。
蝗が空を覆う日は石を削り、溜まれば山へ赴いた。
行き来を容易くするため梢を折って、八重葎を踏みしめて、崖には足掛かりを作る。そして小屋へ帰り、また繰り返し、繰り返し、繰り返し。
これは落ち穂を拾う繰り返しの日々と、何が違うのだろう。
少なくとも成し遂げた先には、わたしの知らぬ風景があるだろう。それでいいのだ。
平べったい刈田で腰を折るより、天に腕を伸ばしたほうがよいではないか。
山路を切り開いていっても、猪や蛇は襲ってこなかった。里に下りればあれほど猛り狂う獣が、山の中ではむしろわたしを避けていた。
だが、羆は違った。
山奥深くには羆が巣食っていたのだ。
羆はわたしを目にするや否や、唸り、吼え、牙という獰猛さを剥き出して、黒い毛を逆立てて追いかけてくる。
蔦を頼って木に登った。
羆は登ろうとしたが、あまりの巨体で蔦が千切れる。長いことがりがりと幹を爪で削っていたが、不意に諦めた。他の獲物を探しに行ったのかもしれない。
木から下りて、山路を下った。
息を切らして駆け続ければ、辛うじて日暮れ前に山を抜け出せた。
羆はどうすればいいだろう。
わたしの登った木が太くなく、蔦が千切れたから、羆は登ってこられなかったのだ。石の足掛かりに上っている途中で襲われたら、きっと登ってくる。
そしたら首が折られて、ハラワタが食われてしまう。
ぼんやりとしながら小屋に入る。
夜に湿らされた小屋にいたのは、赤ん坊だけ。
土間の菰で、灰を篩にかけていた。ちゅくちゅくと口の中で小石を転がしていたが、ふいに吐き捨てる。
「おい、わしはもう嫌気がさした」
赤ん坊は骨と皮だけの手でふるいを投げ捨て、異様に膨れた腹を上下させる。
「おまえはよう記憶を落っとこしてくるが、わしはもうずっと覚えとるんや。灰を篩って、落ち穂入りの灰汁を啜るだけの毎日をな」
「では山に置いてきましょうか?」
「あほう、いままでやらなんだと思うか? それはそれで鬱や」
赤ん坊は吐き捨てた小石を握る。
いつもしゃぶっている小石は、尖ったところなく、つやつやと丸かった。
「喰われれば終いや。そろそろわしを水路に流してくれんか?」
「はい、いいですよ」
わたしは赤ん坊を初めて抱いた。軽い。抱いていることを忘れるほどに、軽くて、乾いている。
田んぼを廻る水路まで歩いていく。
「わしがいっつも嘗めとった小石な。あれをしゃぶり始めた時は、とんがっててな。わしがしゃぶり続けるうちに、あんな小さく丸くなったんや」
「そうでしたか」
「おまえが石を拾いだしたのは、それを教えた後やったなぁ」
わたしは赤ん坊に教えられ、石のかたちが変わると知り、足場作りをひらめいたのか。
「ありがとうございます」
「気色悪いこと言わんでええ」
水音が聞こえてきた。
流れが速く、濁った水路。
「さようなら」
「あんじょうな」
そこに赤ん坊を流した。
たちまち無数の鯉たちがやってきて、赤ん坊をつつき、大きな泡ひとつ吐いたと思えば、そのまま見えなくなった。
わたしは水路の濁り水をすくって飲み、独りの小屋で一眠りした後、また朝に山に向かった。
路の途中に茂っていた大樹は折れていた。
わたしが山に通い始めたころ若芽だったその木は、もう年輪が百を超えていた。
留守をしていた赤ん坊がいなくなったので、数日経たずに見知らぬひとたちが小屋に住み着いた。
わたしの寝起きする場所はなくもなかったが、見知らぬひとたちの皮膚は爛れて腐っているので、臭気が耐え切れなかった。
わたしは集めた石と菰ひと巻きなんとか持ち出し、山の近くで寝起きした。
朝が訪れれば、山路を踏みしめて、足掛かりを登る。
羆がいた。
だが、今日はわたしに見向きもしない。気付いていないかもしれない。
誰かを食らっているのだ。
手足が白い鱗のような瘡に覆われた人物だった。藍色の着物を血染めにされて、腹からワタを掻きだされていた。
わたしは音を立てぬように、さらに上へと登る。
石のくさびを足掛かりにして、天へ天へと手を伸ばし、ようよう山の中腹に辿り着いた。
日暮れも近いのに、まだ登る先がある。
ここまで来たが、一旦、戻らねば。
いや、しかし羆だ。
羆の縄張りを抜けたこの日に、先へ進むべきではないか。
すべてを忘れても。
葉っぱや草が柔らかくなってきて、水の音が響いてきた。
遥か頂上の岩場より山間を砕くように、水が流れ落ちてきている。涼やかな水飛沫が舞う。
すくっても手のひらのしわまで分かるほど透けた水だ。
わたしは幾度も水を両手に溢れさせ、飲み干し、渇きを癒した。疲れまでも癒すような甘露だ。もっと歩ける。
さらに一歩、もう一歩、歩みを進めれば、足場をなだらかになってきた。摩耗した石が敷かれている。
鳥の鳴き声が、鼓膜に触れた。
「孔雀……?」
瑠璃や緑に煌めく孔雀と、純白と銀に煌めく孔雀、その二匹がゆっくりと歩いている。
孔雀たちが行き交うさらに奥、小さな祠があった。
こどもがひとり、祠に腰かけている。ざんばらとした蓬髪のこどもで、腰だけを布で覆っていた。薄く、そして艶やかな布がひらりと舞う。
「よくぞ参った。ここまで来れるものは少ない、まずは祝そう」
ほっそりとした指を蓮のつぼみように組み、わたしではないどこかへと淡く微笑む。
蓬髪のこどもは両目両手両足すべて揃っており、きれいに日焼けした肌をしていた。
「誰だ? 山にずっといるのか?」
「三千世界がはじまる前から」
「なぜ記憶を喪わない?」
こどもは笑みを深めた。
「そんな問答をしていると日が暮れる。そなたは中腹までたどり着いた。さて、どのような宿世を与えようか?」
わたしは答えられない。
問いの意味を掴めなかった。
「下で待つだけものは、次の宿命を選べぬ。赤猪に貪られれば、戦場で誰かを殺すか殺される宿命を。つがいの大鴉に啄まれれば、伴侶を娶せられ生涯を共にする。蝗たちに噛まれれば、数え切れぬ子や孫を得る。蛇に飲まれれば、狂おしいほどの恋に落ちる。鯉たちに啜られれば争い絶えぬが、渇きや飢えでは死なぬ。羆に喰われれば、頑丈な肉体に生まれ病は得ることはない」
蓬髪のこどもは諳んじつつ、蓮めいた両手を開き、左右の孔雀たちを撫でた。
「瑠璃孔雀に啄まれれば、誰もが崇める血統に生まれ、この世の栄華を極められる。銀孔雀に啄まれれば、誰からも愛され、慕われ、慈しまれて長生きする」
こどもはようようわたしを見据えた。
「自らに由れ、来世のさだめを」
来世の運命を、どの獣に喰われるかを、わたし自身で選べと言っているのか。
美しい二匹の孔雀は、わたしを見つめていた。
瑠璃と白銀は、金無垢の木漏れ日と滝の水飛沫を受けて、さんざめくほどの眩さを撒き散らしていた。里ではけして拝めぬ輝きが、わたしの傷だらけの手にまで届く。
だが、わたしが見に来たのは、これではないのだ。
「わたしは……山のいただきを目にしたい。まずその望みをかなえたい」
「日が落ちれば、この記憶も失うぞ」
「それでもわたしは見に来たのです」
「……そうか」
蓬髪のこどもは少し悲しそうだった。
それは暮れなずむ日差しの幻想かもしれないが、たしかに項垂れてはいた。
「好きにするがいい、そなたは許されておる」
「誰によって?」
こどもは問いに答えない。
微かな沈黙を淡い笑みに変えて、さらに上へと向かう道を示した。
「疾く行け。このまま歩みを絶やさなくば、日が沈む前には至れるだろう」
それを聞いて、里に戻る気は失せた。
やっと手が届くのだ。
「だが霊峰の頂き、そこから落ちてしまえば、なにひとつ加護も約束もできない。宿命を無き生を歩むことになる。努々、落ちることないように」
「ご親切にありがとうございます」
こどもと孔雀たちに見送られ、わたしはさらに険しい山道を登っていった。坂の勾配はそれほどでもないが、道はだんだん狭くなり、風は吹きすさび、濃い霧が流れてくる。
歩き続けて、山の頂に辿り着いた果てに、わたしはこどもと孔雀たちの元へ戻るのだろうか。
最果ての風景が素晴らしければ、虚空に身を委ねるのも悪くはない。
軽やかな気持ちで、わたしは山頂を目指した。
終




