「功績は侯爵家、欠陥はお前のものだ」と断罪されたので、同じ基準をお返ししました——永久排除は侯爵家へ、私の名は嫡男様の隣へ
「削れ。読み上げの前に、なかったことにしろ」
ベルナール侯爵の爪が、誓文扇の一行を叩いた。リディアの銀泥がまだ乾ききらない、自己担保条項の一行だった。
誓文扇は、扇面へ編んだ約束を満座で読み上げて初めて契約に変える。リディアは、その約束を文様にする職人だ。だから線を削るなら、記した者の指が要る。
「こちらを、ですか」
「ほかに何がある。欠陥を承知で利用した者は、立場を問わず同一の処分を受ける——こんなものを残せば、読み上げの邪魔になる」
邪魔。ずいぶん便利な呼び名だった。折れた骨も、布をかぶせれば室内装飾と言い張れそうな艶がある。
「削れば、条項そのものが変わります」
「整うのだ。侯爵家が引き受ける誓約に、不要な傷を残すな」
傷ではない。傷が開いたとき、誰の手だったか確かめるための継ぎ目だ。
リディアは削り刀を取らなかった。代わりに、銀泥の付いた指を布で拭う。布には細い線が残ったが、扇の文字は残ったままだ。
ベルナールの視線が、扇から彼女へ滑る。品物についた値札を確かめる目だった。まだ値下げで済ませられると思っている。
「ユリウス。そこは読み飛ばせ」
広間へ続く扉の前で、ユリウスが誓文扇を受け取った。黒い礼装の袖口に銀泥が触れそうになり、リディアはとっさに手を引く。
彼は汚れではなく、指先を見た。
「一行も飛ばしません」
「聞こえなかったのか」
「読み手が一行を選べば、公開朗読の意味がありません」
低く、均一な声だった。父に逆らう尖りも、リディアを庇う熱もない。正しい線を正しい場所へ引く職人の手つきに似ていて、だからこそベルナールの命令だけがひどく歪んで見えた。
「侯爵家の信用に関わるのだぞ」
「ですから、飛ばしません」
ユリウスは扇を閉じなかった。自己担保条項の文字が、骨と骨のあいだに細く続いている。
リディアは作業台の端に置いていた古い扇を取った。初めて自分の名を刻んだ、売り物にもならない扇だ。骨は擦れ、要の飾りも古びているが、開けば線だけは今も狂わない。
「それを持っていくつもりか」
「私の名を証明するものですので」
「今日を過ぎれば不要になる」
ベルナールは返事を待たず、広間へ向かった。削れと命じるときより、足取りが軽い。仕上がった品を受け取りに行く当主の歩き方だった。
なるほど。納品前の検品は、もう終えたつもりらしい。
◇
公開朗読の広間には、侯爵家側の参加者たちが並んでいた。それぞれが誓文扇を持ち、受領皿を囲んでいる。リディアが作業場で欠陥を示したとき、誰も止めなかった顔ぶれだ。
「条項は当初のままですか」
一人が小声で問うた。
「朗読後には、職人個人の不備として処理される」
ベルナールが答えると、何人かが短く「了承しました」と応じた。残りは扇の陰で目を合わせ、口元だけを緩める。
言葉にしなければ手は汚れない、とでも思っているらしい。残念ながら銀泥は、黙って触った指にもよく付く。
リディアが所定の位置へ立つと、彼らの視線が一斉に集まった。顔ではなく、古い扇。それから銀泥の残る指。職人の値打ちは名ではなく、今日どれだけ安く切れるかで決まるようだった。
ユリウスが扇を開く。
「これより、記載された誓約および付随する申告を、一項ずつ読み上げます」
ざわめきが細くなった。
「誓文の作成者、リディアより申告。本誓文扇には、利益の帰属と責任の帰属が一致しない箇所がある。侯爵家は、その不一致を認識したうえで、自己担保条項の削除を命じた」
広間の空気が揺れた。
「待て」
ベルナールの声が飛ぶ。
ユリウスは扇から目を上げた。
「申告文だ。契約本文ではない」
「付随する申告も読み上げると、冒頭で申し上げました」
「職人の言い分まで誓約に混ぜるな」
「混ぜたのはリディアではありません。この申告を付した扇へ、侯爵家が公開朗読を求めました」
ユリウスの声は変わらない。告発を読むにも、天候の報告をするにも、きっと同じ高さを使うのだろう。
ベルナールは満座へ向き直った。リディアへ命じていたときより、声に磨きがかかる。
「誤解を招く言い方だ。誓文扇の考案、制作環境、材料、その後に生じる利益——功績のすべては侯爵家が用意した。ゆえに功績も利益も侯爵家のものだ」
そこで一度、参加者たちを見渡す。扇の陰から、いくつもの頷きが返った。
「しかし、線を誤ったのは職人だ。欠陥はあの女個人の仕事であり、侯爵家とは無関係である」
見栄えだけなら上等だった。表の艶は均一、金具も立派。裏を返せば、継ぎ目が全部こちらを向いている。
「したがって、リディアを誓文扇の制作および関与から永久に排除する。侯爵家の信用を守るためだ」
広間の視線がリディアの顔から指へ落ちた。
銀泥の付いた指。これまでは仕事を任せる理由だったものが、今は欠陥を作った証拠として眺められている。名前が剥がされるときは、もっと大きな音がすると思っていた。
実際には、誰かが扇を持ち直した衣擦れだけだった。
「ユリウス。処分を読め」
「その前に、帰属について確認します」
リディアが言うと、ベルナールの眉が動いた。
「お前に確認する権利はない」
「では、侯爵閣下の今のお言葉を、そのまま基準としてよろしいでしょうか。功績と利益は侯爵家に帰属し、欠陥は実行した個人に帰属する」
「くどい。そう言った」
「その基準は、記載された関係者へ等しく適用されますか」
「無論だ。だからお前が排除される」
リディアは受領皿を見た。まだ空だ。よく磨かれた銀の底に、ベルナールの顎だけが歪んで映っている。
「同じ基準を、全員に。」
新しい罰は要らない。侯爵が自分で磨き上げた物差しなら、返却するだけで足りる。
「異存のない者は、参加印を」
ユリウスが告げた。
最初の一人がベルナールを見る。侯爵が顎を引くと、その手は迷いを捨てた。
参加印が受領皿へ落ちた。硬い音が、広間の天井まで跳ねる。
「了承しました」
「侯爵家の宣言を支持します」
次の者たちも印を置いた。乾いた金属音が重なり、皿の中で互いの縁を叩く。誰かの扇の裏で、また目配せが交わされた。
リディアだけを切るための印だ。そう信じている手は、実に滑らかに動く。作業を頼むなら、あの迷いのなさだけは見習いたい。
ベルナール自身も参加印を取り出した。
「これで職人の責任は確定する。読み上げろ」
彼の印が皿へ入る。澄んだ音のあと、先に置かれた印が少しずれた。
六つ。
ユリウスの手元に、最後の一つが残っていた。
「自己担保条項へ移ります」
ベルナールの口元がようやく緩んだ。参加印さえ揃えば、リディア一人を切り離せる。その笑みは、焼きの甘い器にそっくりだった。
「読み上げなさい」
参加者の一人が促した。先ほどまで扇の陰で笑っていた者だ。
ユリウスは条項の先頭へ指を置いた。
「本誓文により生じる功績、利益、欠陥および損失について、記載者、利用者、承認者、朗読者は、それぞれが認識し得た範囲の責任を負う」
扇の骨が、彼の指の下でわずかに鳴る。
「欠陥を認識しながら削除、秘匿、利用、承認、朗読した者は、立場および家格を問わず、不正利用者とする」
ベルナールの笑みが止まった。
「そこまででいい」
「まだ条項は続きます」
「要旨は読んだ。処分へ移れ」
「これより処分です」
ユリウスは一度も父を見なかった。
「不正利用者は、誓文扇の制作、保有、依頼、承認、朗読および、それによって生じる一切の利益から永久に排除される」
観衆のあいだから、息を呑む音が上がる。
「共同担保の参加印を置いた者は、記載された申告および条項を了承したものとし、同一の処分を受ける」
扇を伏せかけた手が止まった。皿へ印を落とした参加者たちが、一斉にベルナールを見る。
「お待ちください。我々は、職人の処分に了承を——」
「個別の弁明は、参加印により放棄されています」
ユリウスが遮った。声量は上がっていない。それでも、先ほどの「了承しました」より遠くまで届いた。
「侯爵閣下」
初めて、彼が父を見た。
「削れ。今からでも、その一行を削れ」
ベルナールの命令はリディアへ向かなかった。ユリウスだけを見ていた。先ほどまで満座へ響いていた当主の声は、息子の名を呼ぶ幅まで痩せている。
「父の命令だ、ユリウス。読み手には省略の裁量がある。そうだろう」
「ありません」
「お前まで排除されるのだぞ」
ユリウスは手元の参加印へ視線を落とした。
「私は侯爵家の一員であり、この扇の朗読者です。欠陥の申告も、削除命令も知っていました」
「お前は命令に従っただけだ」
「従わずに読んでいます」
「ならばなおさら、お前に責任はない!」
怒鳴り声から銀泥が剥げた。艶のない下地は、満座ではよく見える。
ユリウスは扇へ目を戻した。
「一行も飛ばしません」
「ユリウス!」
「朗読者ユリウスは、自己担保条項に基づき、侯爵家の一員として、また欠陥を認識した関係者として、永久排除の処分を受ける」
同じ声だった。
リディアの告発を読んだ声。侯爵の命令を退けた声。自分の将来を切り落とす一項にも、震えも飾りも足さない。
リディアは古い扇の要を親指で押さえた。彼の名まで消える。彼が父を止めなかった事実は残るし、同じ基準なら免れる理由はない。それでも、古い扇の要を押さえる指だけが、職人の理屈を聞かなかった。
「待ってください」
言い終えるより早く、銀泥の指が古い扇を強く握った。
ユリウスがこちらを見る。
「私は、あなたを免除してほしいとは言いません」
「はい」
返事まで同じ高さだった。
それが腹立たしい。少しくらい困ってくれなければ、こちらだけ線を引き損ねたようではないか。
「侯爵閣下の宣言は、功績と利益を侯爵家へ、欠陥を私個人へ帰属させるものでしたね」
ベルナールが口を開く。
「今さら何を——」
「確認は侯爵閣下ではなく、読み手へ」
リディアはユリウスを見た。
「宣言、条項、参加印。適用されるのは」
「すべてです」
「適用の機会は」
「この公開朗読において、一括して確定します」
「すべて。一度。」
「はい」
リディアはベルナールへ向き直った。
「同じ基準を、全員に。」
ユリウスが読み進める。
「功績および利益を侯爵家へ帰属させるとの当主宣言により、本誓文扇の利用主体は侯爵家と確定する。欠陥を認識したうえで削除を命じ、公開朗読による利益を得ようとした責任も、同じく侯爵家へ帰属する」
ベルナールの顔から、色が落ちた。
「違う。欠陥を作ったのは、その女だ」
「制作上の欠陥ではありません」
ユリウスは扇面の線を示した。
「功績と責任の帰属を意図的に分離し、不正利用を可能にする契約上の欠陥です。リディアはこれを申告し、削除を拒否しました」
「侯爵家のために整えろと命じただけだ!」
「利用主体が侯爵家であることを、重ねて認められました」
ざわめきが広がった。観衆の視線が、リディアの指からベルナールへ移っていく。
値札を見る目で立たせた女の値段が上がったのではない。ただ、侯爵自身の裏側が店先へ向いただけだ。納品なら戻す。修復不能の札を添えて。
「参加者の皆様は、申告と条項を了承し、共同担保の印を置かれました」
ユリウスの視線が、皿の印をなぞる。
「侯爵家側の参加者および当主ベルナール侯爵を、不正利用者として永久排除します」
誰かが椅子を引いた。先ほど含み笑いを交わした者たちは、もう互いを見ない。自分の扇だけを抱え、皿から手を遠ざけている。
残っているのは、ユリウスの印だった。
彼はそれを指先で持ち上げる。
「朗読者として、また侯爵家の一員として、私も共同担保へ参加します」
「やめろ」
ベルナールの声が途切れた。
「ユリウス、置くな。お前は嫡男だ。侯爵家を継ぐ者だぞ。私の言うことを——」
ユリウスの指が開いた。
七つ目の参加印が受領皿へ落ちた。
その音を、リディアは数え損ねた。
「……っ」
古い扇を胸へ当てる。擦れた骨が礼装越しに当たり、どうにか息の形を保ってくれた。
ユリウスは父から目を逸らさない。
「効力の発生を確認しました」
その声も、同じだった。
◇
係の手が、ベルナールの誓文扇へ伸びる。侯爵は扇を引こうとしたが、参加印はすでに受領皿の中だ。
「触るな。これは侯爵家の——」
扇が取り上げられ、卓上に伏せられた。
広間のざわめきが一度膨らみ、すぐに道を空ける気配へ変わる。さきほどまでベルナールの背後に集まっていた視線は、誰一人そこへ戻らない。
共同担保者たちは受領皿の自分の印を見て、口を閉じた。扇が伏せられるたび、卓の端から手が引かれた。
ベルナールがユリウスの腕をつかんだ。
「お前なら戻せる。朗読を訂正しろ。参加印は誤って置かれたのだと宣言しろ」
「参加印はすでに受領され、効力は発生しています」
「侯爵家がなくなれば、お前も何も残らないぞ」
「永久排除されるのは、今の宣言と条項に基づく利益です」
「同じことだ!」
「同じではありません」
ユリウスは父の手を外した。乱暴ではない。だが、二度と元の位置へ戻さない外し方だった。
「侯爵閣下の扇は、すでに伏せられました」
父とは呼ばなかった。
ベルナールの唇が動く。音になったのは、息子の名だけだった。
「ユリウス」
返事はない。
最後の共同担保者の扇が伏せられた。侯爵家の参加席から、金属も紙も鳴らなくなる。
永久排除は、予告ではなくなった。
ユリウスは自分の扇を閉じ、卓へ伏せた。父と同じ処分を、自分だけ免れようとはしない。そこで初めて、彼の指が扇の上に一拍長く残った。
失った将来の重さは、リディアには測れなかった。測れるふりをするのも、職人として趣味が悪い。
ベルナールと共同担保者たちが退出を促される。観衆は道を空けたが、誰も頭を下げなかった。侯爵は二度ユリウスを振り返り、そのたびに足を止めかけた。
ユリウスは追わない。
◇
扉が閉じると、彼は処分記録をリディアの前へ置いた。署名欄には、朗読者としての彼の名がすでに記されている。その隣だけが空いていた。
「申告者の確認署名が必要です」
「私の名は、排除されたのでは」
「誤った申告をした職人としての処分は、適用されません。欠陥を申告し、削除を拒んだ者の名は残ります」
リディアは銀泥の指を見た。拭ったはずなのに、爪の際にまだ光がある。
「では、ここへ」
「はい」
ユリウスが隣の欄を指す。少し近い。署名のためだけなら、もっと離れた欄でも構わないはずだ。
リディアは筆を取った。
「ユリウス様は、永久排除を受けられました」
「受けました」
「侯爵家の利益も、誓文扇の朗読資格も失われます」
「そのとおりです」
「今後の仕事を依頼するには、ずいぶん不向きな経歴ですね」
「承知しています」
均一な声。どこにも欠けがない。少しは言いよどんでくれれば、こちらも不良品として突き返せるのに。
リディアは自分の名を書いた。最後の線が、彼の署名の末尾と並ぶ。
古い扇を胸から離すと、ユリウスの手が、その扇の要へ触れた。
「その扇は、最初にご自分の名を刻んだものですね」
「なぜご存じなのですか」
「以前、見せていただきました」
「いつです」
「お忘れなら、そのままで」
初めて、彼の声が公的な読み手の高さを外れた。ほんのわずか。銀泥へ息をかけた程度の違いなのに、職人の耳には困るほどよく聞こえる。
「私はもう、侯爵家の名であなたへ仕事を依頼できません」
「そうですね」
「朗読者として誓文扇を読むこともできません」
「ええ」
「それでも、線を引く仕事は残ります」
ユリウスは、隣り合った署名欄を示した。自分の名ではなく、その隣にあるリディアの名へ指を置く。
「今後、私が引く線には、欠陥も責任も私の名で残します。功績だけを受け取る家もありません」
「ずいぶん条件の悪い依頼です」
「期間は長くなります」
「どのくらいでしょう」
彼は告発を読み、自分を裁き、父の扇を伏せたのと同じ声で告げた。
「一生、私の線を、なぞっていただきます」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




