裏切りの騎士
夜の帝都ノクティアは、昼とは別の顔を見せる。
灯りは多い。人の気配も消えない。
それでも――どこか冷たく、息を潜めたような静けさがあった。
その静寂を、靴音が規則正しく刻む。
「……遅くなったわね」
リディアは、肩にかけた外套を引き寄せながら小さく呟いた。
隣を歩くセレナが軽く笑う。
「新作だもの。詰めたくなる気持ちは分かるけど」
「仕方ないだろ。あれは簡単な話じゃねえ」
後ろからトビアスが応じる。
「裏切りの騎士――ね」
セレナがその題を口にした瞬間、空気がほんの僅かに変わった。
その変化に気づいたのは、リディアだけではない。
視線が、一人に集まる。
「……何だ」
先頭を歩いていたカイルが、足を止めずに言った。
だが、その声はわずかに低い。
「別に?」
セレナは肩をすくめる。
「ただ、随分と踏み込んだ題材だと思って」
数歩分の間が落ちる。
リディアは、カイルの背中を見る。
誰よりも頼りになる、劇団の盾であり、劇団の顔の一人。
彼がいなければ形にできなかった物語も数多い。
――それでも。
(この人は、一度捨てられた側の人間)
その過去を、リディアは知っている。
カイルは元騎士だった。
王室に忠誠を誓い、そして――裏切り者として切り捨てられた男。
ある政治事件で「裏切り者」の汚名を着せられ騎士団を追われた過去を持ち、誤解は解けたものの、上層部の陰謀をかばうために名誉が回復されなかった悲劇の騎士。
カイルと知り合ったのは、とある王都の劇場で、彼が警備を担当していた時だった。
貴族令嬢ということもあり、近しい間柄だったリディアは、騎士時代のカイルとも話をしたことがある。
その縁もあり、王国に見捨てられたカイルを拾い、役者として育て上げたのだ。
人の心に訴えかける作品は、できるだけリアルな方がいいというのがリディアの考えだ。
だから、より帝国お抱えの劇団として成長する為には、カイルの過去をベースにした物語が、今の帝国歌劇の世界に刺さると踏んだ。
それは、カイルの過去をつまびらかにすること。
カイル自体に裸で舞台に立てとお願いしているようなものだ。
それでも、カイルは言った。
「……あくまで物語だ」
振り返らないまま。
「現実とは違う」
自分に言い聞かせているのか、リディアを慰めているのか、わからなかった。
それでも、リディアを否定することも、非難することもなかった。
リディアの物語を認め、その傍らで演じ続ける人生を選んだ時点で、リディアがどのような選択、決定を下そうと、彼の中では納得していたのだ。
「そうね」
リディアは、静かに頷いた。
「でも――」
一歩、距離を詰める。
「現実があったから、書ける物語でもある」
カイルの足が、わずかに止まる。
ほんの一瞬だけ。
それから、何もなかったかのように再び歩き出した。
「……好きにしろ」
それだけだった。
拒絶でも、許可でもない。
けれど――確かに、踏み込むことを許された一言だった。
★
ノクティア大劇場。
その裏手にある回廊は、人の出入りが少ない。
今日は次の公演の練習日なので、本舞台の熱気はなく、生物が住んでいない湖の湖面のように静まり返っている。
その回廊を抜けた先にある多目的室は本舞台とは違い、賑やかだった。
裏切りの騎士の台本の読み合わせをしていたからだ。
「今日はここまでね」
脚本を片手に演技指導を入れていたリディアがそう言った、その時だった。
「――気配がする」
カイルの声だった。
今日は関係者以外立ち入り禁止のはずだ。
劇場関係者なら、変に気配を隠してくることはない。
カイルが警戒するように眉を吊り上げる。
侵入者。
追手を経験した団員たちの空気が張りつめる。
「――来るぞ」
一瞬で、空気が戦場に変わった。
リディアが何かを言うより早く――カイルの手が、脇に立てかけていた剣にかかり、入口へ真っ先に走った。
窓はない。あるのは倉庫へ続く扉と、出入り口の扉が一枚ずつ。
侵入口は一つしかない。
次の瞬間だった。
――ドンッ!!
重い衝撃音と共に、扉が内側へと弾け飛ぶ。
「っ!」
木片が散る中、黒装束の男たちがなだれ込んできた。
無駄のない動きに統制の取れた足運びはただの盗賊ではない。
「座長を狙え!」
低い号令の後、狙いは明確だった。
「リディア、下がれ!」
カイルが一歩前に出る。
抜き放たれた剣が、空気を裂き、金属音が連続する。
トビアスや他の団員が机を蹴り飛ばし、簡易的な障壁を作る。
セレナたち女性陣はリディアの腕を掴み、後方へ引いた。
「完全に“排除”ね……!」
「ええ……!」
理解する。
これは脅しではなく、――消しに来ている。
(やっぱり……!)
刃が振り下ろされるその瞬間――。
――ギィンッ!!
鋭い衝突音。
振り下ろされた剣が、途中で止まった。
「……なっ」
男の目が見開かれる。
その刃を受け止めていたのは、見慣れた、だがこの場にいるはずのない男。
「下がっていろ」
低く、抑えた声。目の前には視界いっぱいの上等な黒服に身を包んだ男性の背中。
血に濡れた刀身を振り下ろした皇帝、アレスだった。
「……陛下?」
思わず声が漏れる。
あり得ない、皇帝が、こんな場所に。
しかも、自ら剣を取っている。
「動くな」
短い命令。
次の瞬間、アレスの剣が振るわれた。
一閃。無駄がない、躊躇もない。
まるで処理するかのような、冷酷で正確な一撃。
一人、また一人と崩れ落ちる。
「くそ……撤退!」
状況を悟った男が叫ぶ。
だが。
「遅い」
アレスの声と同時に、回廊の奥から近衛兵が雪崩れ込んできた。
「捕らえろ」
完全な包囲。
数分もかからず、襲撃者たちは制圧された。
★
静寂が戻る。
先ほどまでの殺気が嘘のように消え、ただ荒れた室内だけが残る。
「怪我はないか」
アレスは振り返らずに言った。
「……はい」
リディアが答える。
だが、自分でもわかるほど声が少し震えていた。
アレスは剣を収め、ゆっくりと振り返る。
その視線が、真っ直ぐリディアに向く。
「ならいい」
それだけ。
本当に、それだけだった。
まるで今のことが些事であるかのように淡々としていた。
気づけば、口にしていた。
「どうして、陛下がここに……?」
当然の疑問。
皇帝が自ら動く理由など、普通はない。
アレスは一瞬だけ沈黙した。
「……情報が上がっていた」
簡潔に答える。
「宮廷内の一部が、お前たちの排除に動く可能性があると」
「それなら……皇帝陛下がここまで出向かなくともよかったのでは……」
リディアの言葉を、アレスは遮った。
「間に合わなかった場合の話だ」
その一言。
あまりにも淡々としていて。
けれど、意味だけは、はっきりと伝わる。
(間に合わなかったら……。だから――自分で?)
リディアの呼吸が、わずかに乱れる。
一国の主が、一塊の人間を助けるために、ここまで足を運んできたのが本来ならあり得ないことだとわかっていたからだ。
アレスが一歩、距離を詰める。
「お前は、……死なせるには、惜しい」
その言葉に、心臓が強く跳ねた。
「……それだけ、ですか?」
思わず問い返す。
アレスはわずかに目を細めた後に、ほんの一瞬だけ、間があった。
「……それだけだ」
そう言い切る。
だが、その声は、ほんの僅かに揺れていた。
★
「……いや、それだけじゃないでしょ」
セレナが小声で呟く。
「来る理由としては弱すぎるわよね」
「普通来ねえだろ、皇帝が」
トビアスも即答する。
カイルは黙っていた。
ただ、アレスを見る目が、少しだけ変わっていた。
(……本気か)
★
「警備は強化する」
アレスは事務的に告げる。
「次はないと思え」
「……はい」
リディアは頷く。
それでも、胸の奥がざわついている。
恐怖とは違う、別の名前のつかない感情。
その正体はなんなのかは、リディアは知らない。
それでも――。
「……あの」
リディアが呼び止めると、アレスが足を止める。
それ以前に、リディアはアレスにとって助けられた。
アレスにとって当然のことでも、リディアにとっては大きなことなのだから。
感謝は、口にして伝えることに、意味がある。
「ありがとうございました」
素直に言う。
少しだけ、息が詰まる。
アレスは振り返らない。
けれど、リディアは感じた。
硬かった空気感が少し和らいだ気がしたのを。
「当然のことをしたまでだ」
それだけ言って、アレスは去っていく。
★
その背中を見送りながら、リディアは、ゆっくりと息を吐いた。
(……ずるい)
言葉では何も言わないくせに、行動だけで、全部持っていく。
行動で示していくアレスに、リディアは心を奪われていた。
呆然とアレスが去った方向を見つめていると。
「顔、赤いわよ」
セレナがニヤニヤする。
「赤くないわ!」
即否定。
だが、否定しきれない何かが、確かにそこにあった。
「座長は可愛いわね。恋物語を書く癖に、意外と初心なんだから」
「それとこれとは関係ないでしょう。……もう」
これ以上、感情を表に出していると下世話な団員たちに弄られると悟ったリディアは両手で顔を覆う。
男性陣は訳が分からず首を傾げるが、女性陣はそんなリディアを見て、先ほどの奇襲などなかったかのように和やかになっていた。
★
――リディアは机の上の台本を見下ろす。
「裏切りの騎士」
そのタイトルの横に――。
ペンを走らせた。
(守る側の選択も、書ける)
胸の奥に残った感情を、逃さないように。
裏切りの騎士の一節。
――新しい一行が、静かに刻まれていく。




