皇帝の招待
リディアが宮廷へ呼ばれたのは、公演から三日後のことだった。
帝都ノクティアの中心――白亜の宮殿は、遠目に見たとき以上に冷たく、そして静かだった。
「……本当に、ここに来ることになるなんて」
小さく零した声は、やけに軽く響いた。
案内役の近衛兵は振り返ることもなく、ただ無言で長い回廊を進んでいく。
磨き上げられた床に、靴音だけが規則正しく反響する。
――逃げ場がない。
そんな感覚が、じわじわと胸を締め付けた。
(怖い……でも)
足を止める理由にはならない。
リディアは一歩、また一歩と前へ進む。
やがて、巨大な扉の前で足が止まった。
近衛兵が扉を叩く。
「陛下。灰梟劇団座長、リディア・クラウゼルをお連れしました」
わずかな沈黙。
そして――。
「入れ」
低く、よく通る声。
扉が開かれた瞬間、空気が変わった。
広間の最奥、高い玉座に、ひとりの男が座っている。
――皇帝、アレス。
このヴァルディア帝国の頂点に君臨する男。
暴君と呼ばれ、周囲に恐れられているが、政治、戦争、全てに勝つことにこだわる。
政治では、少しの不正でも許すことなく、その粛清の多さから周囲に恐れられている。
戦争では、被害と犠牲を計算に入れ、的確に、冷酷に指示を下す姿はまさに暴君。
しかし、結果を残し続けた結果、民心の信頼は厚く、慕われている。
慕われてはいるが、基本は恐ろしい人物という認識でいた方が良いだろうと、リディアは脳内で分析をした。
リディアは膝をついて頭を垂れる。緊張して、喉が強張る。
感情を削ぎ落としたような視線が、真っ直ぐにリディアを射抜く。
「顔を上げろ」
命令は短い。
リディアはゆっくりと顔を上げると、視線がぶつかる。
逸らしてはいけない――そう直感した。
沈黙が空間を支配する。
値踏みし、測られている時間が続く。
その感覚に、リディアの背筋が冷たくなった時だった。
「……ようやく見つけた」
リディアの呼吸が止まる。
「七年前から、探していた」
意味がすぐには理解できない。
リディアは「え……」と目を丸くさせる。
アレスは静かに立ち上がり、玉座から降りるとある劇の一説を口ずさんだ。
「王は孤高であれ、冷酷であれ。人の心は持っていてもよい。誰かに理解されようとしなくてよい。――民に理解を求めた時、王は、王でなくなってしまうのだから」
「――それは」
冬の王子。リディア――灰色の梟の初公演作品のタイトルだった。
冷酷で無慈悲な王の元で育った王子は、幼い頃から感情を捨てろと言われて育てられてきた。
笑うことも、泣くことも、怒ることも許されない。
優しさは弱さであり、迷いは国を滅ぼす――誰も彼に寄り添うことはなかった。
孤独の中で成長した王子は、ある日、国を守るために究極の選択を迫られる。
それは、多くの者を切り捨て、自らが“悪”となる決断だった、という物語である。
灰色の梟の名が王国中に知れ渡った作品のひとつで、未だに公演予定がある人気作だ。
それを、何故敵国の皇帝が冬の王子の一節を口にしているのだろう。
首を傾げると、アレスの言葉の余韻が静かな広間に落ちた。
アレスはゆっくりと歩み寄る。
石床に響く足音は重く、リディアの逃げ場を奪うように一定だった。
「七年前。帝国に密かに流れてきた写本で読んだ。これが、アルヴェリオ王国で活動をしている、灰色の梟の著作物だと知るのは、もう少し後のことだったが。……それでも、この物語は俺の心に深く突き刺さった作品だ」
「皇帝陛下が、私の作品を……」
言葉が零れる。
アレスはリディアの前で足を止め、わずかに目を細めた。
「冬の王子は、感情を切り捨てることで、国を統治した。民からは理解されないが、それでもその無慈悲な統治は確かに富国強兵を成し遂げた。――あれは、理想論ではなかった」
アレスは静かに断じた。
「切り捨てなければ、守れないものがある。綺麗事でも、慰めでもない。“現実”だと、幼かった俺に教えてくれたんだ。だから、もし、作者と会えたら、一言、礼を言いたかった。誰も言葉にしなかったものを、理解し、書いてくれて、ありがとうと」
「……それは」
その言葉に、リディアは目を逸らしそうになった。
あまりにも重く、苦しい言葉。
あの物語が、彼の人生の支柱と、皇帝自らが宣言したのだ。
孤独な王として君臨し続けたあの物語の結末を、アレスは辿っている。
――その言葉を、リディアは受け止めきれなかった。
胸の奥が、きしむように痛む。
「……それは、違います」
気づけば、口にしていた。
広間の空気が、わずかに揺れる。
近衛兵の視線が鋭くなり、空気が一瞬で張り詰めた。
だが、アレスは止めない。
ただ、静かにリディアを見ていた。
「……何が違う」
低く、抑えられた、試すような響き。
けれど、その奥に――ほんの僅かな“何か”があった。
リディアは、拳を握りしめる。
「冬の王子は、“正しさ”の物語ではありません」
はっきりと、言い切る。
「確かに、王子は国を守りました。でも、それは“正しいから”じゃない」
一歩、踏み出す。
「――選ぶしかなかったからです」
アレスの瞳が、わずかに細くなる。
「彼は、捨てたんです。守るために、大切なものを」
「……同じだろう」
「違います」
即座に否定する。
その強さに、自分でも驚くほどだった。
「彼は、救われていないんです」
広間に、静寂が落ちる。
「誰にも理解されず、誰にも寄り添われず、ただ王であり続けるしかなかった。……あれは、正しさの証明じゃない」
リディアは、まっすぐにアレスを見る。
「――悲劇です」
その一言が、静かに響いた。
アレスは何も言わない。
ただ、リディアを見ている。
その視線は変わらず冷たいはずなのに、どこか――わずかに揺れているように見えた。
「私は、あの物語を“肯定”するために書いたわけじゃありません。そうならざるを得なかった人間がいることを、知ってほしかった。……そして」
息を吸う。
「――そうならなくてもいい未来があると、伝えたかったんです」
――沈黙が続いた。
わずかな、数回の瞬き程度の時間だが、その時間でさえ、リディアは永遠のような長さを感じた。
「……なるほどな」
やがて、アレスは、ぽつりと呟いた。
その声音は、どこか遠くを見るような響きだった。
非難するわけでも、笑うわけでも、謗るわけでもない。
悲嘆に満ちた、悲し気な声だった。
「なら、お前は。――俺を否定するのか」
怒気はない、確認をするための淡々とした抑揚。確かめるように、ゆっくりと言葉を吐く。
リディアは、迷わず首を横に振った。
「いいえ。だって、陛下は守ったのでしょう?自ら不必要なものだと切り捨てて、国を、民を守ったのなら。……それを、間違いだとは言えません。正しいとも、申しませんけれど」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、空気が止まる。
リディアの声は、静かだった。
静かなのに、揺るがなく、強い言葉にアレスは、しばらく何も言わなかった。
「では、何のために書く?」
アレスの問いに、リディアは真っ直ぐに、ぶつける。
「一つしかないと思っていた道に、別の道があるって、気づいてもらうためです」
リディアの脳裏にレオンの顔がよぎる。
レオンは、ずっとリディアを目の敵にしていた。
聖女を虐め、自分の意にそぐわぬ行動をする厄介な女。
権力を持っているからと、諫言から耳を塞ぎ、横柄な振る舞いを続けてきた。
レオンだけではない。
私腹を肥やす貴族たちが、弱き者たちにどう接して来たのかリディアはこの目を通してみてきている。
それでも、王国の常識では表立って注意を促したり、指摘したりというのは美徳に反するとされてきた。
自分の意見が正しいと思わない。
けれど、物語を通して、なにか変われたら、気づいてくれたら。
「――エゴだって、わかっているのです。それでも、私は。……あの日読んだ物語のように、誰かの心を動かせるような物語を作りたいのです」
それは、ヴァルディア帝国に流れ着いて、物語を披露してから、より強い思いとなっていた。
「……面白い」
アレスは小さく、笑った。
それは初めて見せる表情。冷酷でも、威圧でもない、純粋な興味。
「ならば、見せてみろ」
背を向け、玉座へ戻る。
「お前の言う“別の道”とやらを」
振り返る。
その視線は、先ほどよりもずっと鋭い。
「宮廷歌劇団として働け」
空気が張り詰める。
「お前の、”未来を見通す物語”で。帝国の中枢で、お前の物語を上演しろ」
命令ではない。
だが、拒めばどうなるかは明白だった。
「俺に――」
わずかに間を置く。
「証明してみせろ」
「皇帝陛下――」
「王が、別の選択をしても、国を守れるのだと。冬の王子ではない、別の結末――いや、物語を、書いて魅せろ」
リディアの心臓が、大きく鳴った。
これは、試されている。
物語が。
そして、自分自身が。
正直言えば、やりたくない。上流階級の政治的しがらみが厄介だからだ。
それでも、あのノクティア大劇場で。劇団の面々で大きな舞台で物語を紡ぎ続けたい思いが強かったリディアは、ゆっくりと息を吸った。
――逃げる理由は、もう、ない。
「……お受けします」
はっきりと、答えた。
その瞬間。
リディアの中で、何かが、動き出した。




