落日の王
帝都の夜は、熱を孕んでいた。
ノクティアの中心から少し外れた場所にある小劇場――石造りの古びた建物は、今や人で溢れかえっていた。
立ち見の客が通路を埋め、窓の外にまで人影が揺れる。
「……満員、どころじゃないわね」
舞台袖から覗いたセレナが、小さく息を呑む。
「広場での一件、噂が広がりすぎたな」
カイルが台本を片手に腕を組む。
即興劇「シルバの涙」で名を広めた灰梟劇団は、わずか数日で帝都中の話題をさらっていた。
そして、今夜。
正式な舞台として選んだ演目は。
「落日の王」
リディアが静かに呟く。
「……準備は?」
「万全だ」
「いつでもいけるわ」
団員たちの声に、迷いはない。
リディアはゆっくりと息を吸い、吐く。
(これは、試される舞台)
恋愛劇で心を掴んだ。なら次は――。
「……開幕よ」
演奏用の幕がないステージに蝋燭のように淡い照明が灯る。
舞台の幕あけだと、リディアは手に汗を握って舞台の行く末を見守った。
★
ざわめきが、すっと消えた。
王宮の広間を模した舞台に淡く、ゆっくりとオレンジ色の照明が灯っていく。
――静寂。
共に、舞台袖から、10人の役者たちが現れる。
舞台の前に整列をすると、囁くような合唱が始まった。
「――日は傾き、影は伸びる。栄華はなお、続くと思われた」
合唱が終わり、暗転すると、入れ替わりに老王の恰好をした俳優が舞台の上に立つ。
――老王、ガルディア。
その歩みは堂々として、本物の為政者のような威圧感があった。
だが、どこか、わずかな揺らぎがあった。
玉座に腰を下ろす。
「報告を」
臣下の一人が前に出る。
言葉を選ぶように、わずかに間を置く。
「……本日の戦況ですが――」
寵臣リオンが一歩前に出る。笑みを浮かべ、王を安心させる言葉を選ぶ。
「陛下、ご安心を。戦は優勢にございます」
観客席にまで届くほどの威圧的な緊張感は、老王の笑みと共にほどける。
「そうか」
短い言葉。
その一言で、場は安堵に包まれる。
――その時。
一歩、影が動いた。
宰相、ロディウスが進み出る。
「陛下。その報告は、事実と異なります」
空気が凍りつく。
ガルディアの視線が、ゆっくりと宰相、ロディウスへ向く。
「……何だと?」
「前線は押され、補給も滞っております。このままでは、戦は長くは持ちません」
台詞だけが響く劇場に観客が息を呑む声が交じる。
ロディウスの切羽詰まった演技に、圧倒される。
ロディウスの言葉を遮るように、リオンは言った。
「誤報にございます!陛下、この者は不安を煽っているだけです」
「現実です」
ロディウスはすぐに否定をし、一歩、踏み出す。
「今、目を逸らせば、取り返しのつかぬことになります」
その言葉は、重く、まっすぐに落ちた。
ガルディアは、しばらく何も言わない。
やがて――。
小さく、息を吐いた。
「またか」
その一言で。
空気が、決定的に変わった。
…………。
落日の王は、老王が忠誠心が高い宰相の言葉を煩わしく思い、逆に耳障りの良い言葉を並べる若き寵臣リオンを筆頭とした若い取り巻きの言葉だけを信じた結果、国が崩壊寸前になるまでの物語だ。
第一章は、寵臣の言葉だけを受け取る老王の姿と、静かな滅びが始まるところまでを描く。
静かでありながらも、現実的な物語は観客の心を掴んだ。
王を称える若い者たちの合唱、王を憐み、悲嘆に溢れる低く厳格な宰相たちの合唱。
そして、王妃ミレイアの美しくも儚い、王を憂うソロパート。
静かな物語を、歌が彩る。
二章は、寵臣の言葉を信じたガルディアが宰相を追放し、物語が続くごとに、政治も崩落していく。
必要な物を悪だと全てを切り捨ててきた王の元に残った取り巻き立は、最終的に戦況が悪くなると、ガルディアを捨てて国元を去ってしまう。
自らが切り捨ててきた者たちの言葉の重みと、諫言から目を逸らし続けてきた過ちに気づき、初めて深い孤独を知る。
最大の味方であり、理解者だったのは、戦況が悪くなり、最初に逃げたリオンでもない。最初に切り捨てたロディウスだった。
後悔しても時既に遅し。
――間違っていた。
ロディウスに言葉は届かぬと知りながらも、王は初めて“誰かに届く言葉”を口にする。
その言葉は、王宮の外へと広がっていく。
民の中に残っていたロディウスの教えと重なり、小さな変化が生まれる。舞台の奥、群衆の中にロディウスの姿が一瞬映る――生きているかは語られない。
王は玉座から立ち上がり、観客席――民の方へ歩み出す。薄明の光の中、幕が下りた。
…………。
幕が下りた瞬間。
――一拍の静寂。
それは、誰もが呼吸を忘れたような、重く、深い沈黙だった。
やがて。
「……っ」
どこかで、誰かが息を吐く。
次の瞬間。
――割れるような拍手が、劇場を満たした。
歓声が、遅れて押し寄せる。
「なんだ、今の……」
「ただの芝居じゃない……」
「……胸が、痛い」
立ち上がる者。
涙を拭う者。
誰もが、言葉にできない何かを抱えていた。
舞台袖で、それを見ていたリディアは、ただ、立ち尽くしていた。
(――さすが、黄鶸組と蒼鷹組の二枚目俳優。老王と宰相という難しい役を、見事に演じてくれた。彼らがいなければ、落日の王はただの寓話で終わっていた。彼らがいたからこそ、言葉に深みが増して、観客に、届いた)
リディアの胸の奥が、強く脈打つ。
あの王に届かなかった言葉が。
今、確かに、ここにいる誰かに届いているのだと。
その時だった。
賞賛の歓声の質が変わる。
ざわざわ、と、波が割れるように、人の流れが左右に分かれていく。
誰かが、息を呑んだ。
ゆっくりと、通路を歩いてくる一人の男。
誰もが、その存在に気づいていた。
黒の外套に、圧倒的な威圧感。
役者が演じる威圧感とは比べ物にならない、本物だった。
本当の支配者がいると、リディアの本能は悟った。
「おい、あれって……」
「皇帝陛下じゃないか……ッ!」
――皇帝、アレス。
ざわめきが、一瞬で消え、劇場が、再び静寂に包まれた。
アレスは足を止め、舞台を見上げる。
先ほどまで、王が立っていた場所。何もない玉座。
その残滓を、じっと見つめる。
「……面白い。忠臣の言葉に、耳を塞いだ王、か」
誰にともなく呟く。
その言葉に、リディアの心臓が跳ねた。
ただ観ているだけではない。物語の奥にある意図を、この一回の公演で理解している。
「作者は、どこだ」
静かに、しかし逆らえぬ声音が響き、空気が張り詰める。
リディアは緊張して身体が強張る。
――機嫌を損ねてしまっただろうか。
捉え方によっては王を非難していると捉えられても仕方がない。けれど、公演したことに対する後悔は微塵もない。
出るかどうかは迷ったが、団員たちの視線が、一斉にリディアへと向いたことで、隠れるわけにもいかなかった。
リディアは、一歩、前へ出た。
「……私です」
その声は、震えていなかった。
アレスの視線が、ゆっくりとリディアを捉える。
まるで、値踏みするように。そして、わずかに目を細めた。
「なるほどな」
その一言に。
リディアの背筋に、冷たいものが走る。
物語だけではない。
自分が何を伝えようとしたのか。何を、誰に向けて書いたのか。
すべてをアレスは、理解している素振りで、ゆっくりと口元を歪める。
「いい劇だ」
それは、賞賛だった。だが同時に。
逃げ場のない、興味でもあった。
「――続きが見たい」
その言葉が、静かに鼓膜に落ちる。劇場の空気が、再び張り詰めた。
リディアは、まっすぐにアレスを見返す。
(……試されるのは、ここから)
胸の奥で、あの焚火の夜の言葉が蘇る。
――やめる理由はない。リディアは、小さく息を吸った。
「……なら、次もご覧に入れます」
一歩も引かずに、そう答えた。アレスは、一瞬だけ沈黙し――。
ふっと、笑った。
その笑みは、どこか愉しげで、ほんのわずかに期待しているようにも見えた。




