仁義なきバレンタインと謎のゴリラチョコ
二月十四日。それは、一年の中で最も甘く、そして最も残酷な格差社会が浮き彫りになる日である。星ヶ丘中高一貫校の朝は、異様な緊張感に包まれていた。登校する男子生徒たちの目は、まるで獲物を探すハイエナのように血走り、女子生徒たちの鞄は、物理的に膨れ上がっている。そして、職員室。ここにもまた、静かなる戦場があった。
「……ない」
空木は、自分のデスクの引き出しを三度目の確認のために開け、そして絶望的な溜め息と共に閉じた。中に入っているのは、赤ペンと、修正テープと、いつか使うと思って取っておいた輪ゴムの束だけだ。チョコレートの「チ」の字もない。カカオの香りすらしない。
「おはようございます、空木先生。朝から引き出しの整理整頓ですか?断捨離にしては、捨てるものが何もなさそうですね」
海田が、いつものように涼しい顔で出勤してきた。しかし、空木は見逃さなかった。海田が一瞬、自分の下駄箱とデスクの上を鋭い眼光でスキャンしたのを。そして、そこには丁寧にラッピングされた小箱が二つほど置かれているのを。
「……海田。お前、その机の上の物体は何だ」
空木が地を這うような声で尋ねる。
「ああ、これですか?陸上部のマネージャーと、保護者の方からの『日頃の感謝』ですよ。いわゆる『義理』というやつです。……まあ、成分分析すれば、カカオ70%の高カカオチョコでしょうね。健康に気を使っていただいて恐縮です」
海田は淡々と言っているが、口元が微かに緩んでいる。
「義理でもチョコはチョコだ!俺なんて、下駄箱に入ってたのは『スーパーのチラシ』だけだったぞ!なぜ俺の下駄箱にポスティングするんだ!」
そこへ、地響きと共に川島が現れた。彼の手には、すでに開封されたチョコレートの袋が握られている。
「ういーッス!ハッピーバレンタインっす!いやあ、朝から糖分補給できるなんて、今日は最高の一日っすね!」
川島の口の周りは茶色く汚れ、甘い匂いを漂わせている。
「川島……お前、まさか生徒から貰ったのか!?」
空木が驚愕する。
「え?いや、これコンビニで自分で買った『徳用ファミリーパック』っすよ。自分へのご褒美っす」
「朝からファミリーパックを一袋空けたのか!?お前一人でファミリーか!」
「だって、下駄箱見たら空っぽだったんで、悲しみをカロリーで埋めようかと……」
川島が寂しそうにチョコを貪る。仲間だ。空木は心の中で川島と熱い握手を交わした。最後に、羽上が登場した。彼は今日、いつも以上に気合が入っていた。髪は完璧にセットされ、香水の匂いが廊下まで漂っている。そして手には、デパートの紙袋のような巨大な空のバッグを持っていた。
「おはよーございまーす。ふあ〜、眠い。昨日はファンクラブの子たちへの対応で忙しくて」
羽上はわざとらしくあくびをしながら、自分のデスクを見た。
……そこには、小さなチョコが一つだけ置かれていた。
「……あれ?」
羽上が固まる。
「おかしいな。僕の計算では、ここにタワーができているはずなんですが。時空が歪んだかな?」
「現実を見ろ羽上」
と空木。
「それがお前の実力だ」
「い、いや!これは先遣隊です!本隊はこれからトラックで来るはずです!」
「トラックで来るか!」
「ちなみにそれ、隣の席の英語の先生(五十代女性)が『余ったからあげるわ』って置いていったやつですよ」
海田が無慈悲な事実を告げる。
「なっ……!まさかの情けチョコ……!」 羽上は膝から崩れ落ちた。
こうして、「職員室の四銃士」のバレンタインは、海田の一人勝ち(義理2個)、他は全滅という悲惨なスタートを切った。
一時間目の休み時間。教頭先生から緊急指令が下った。
『校内における不純異性交遊および、勉強の妨げとなる過剰な菓子の持ち込みを監視せよ。通称、バレンタイン・パトロール隊の結成を命ずる』
要するに
「チョコを貰えなかった腹いせに、生徒たちの浮かれた現場を取り締まれ」
という、非モテ教師には願ってもない(?)任務である。
「行くぞお前ら!校内の風紀を守るんだ!」
空木が腕章を巻きながら叫ぶ。その目は私怨で燃えていた。
「ラジャ!チョコの匂いは逃がさないっす!」
川島が鼻をヒクヒクさせる。彼は今日、警察犬ならぬ「警察豚」としての能力を開花させていた。
「僕は、女子生徒たちに『チョコは僕に渡すべきだ』という真理を説いて回ります」
羽上が髪をかき上げる。
「それはただのナンパです。やめてください」
と海田。四人は校内巡回へと繰り出した。渡り廊下。人気の少ない階段の踊り場。そこかしこで、女子生徒が男子生徒を呼び出し、モジモジしている光景が見受けられる。
「あそこだ!確保ーっ!」
空木が飛び出そうとするが、海田が襟首を掴んで止めた。
「待ってください空木先生。あれは『純愛』のカテゴリーです。見てください、あの中学一年生の初々しい姿を。あれを邪魔するのは、人として、いえ、教育者として野暮というものです」
見ると、小柄な女子生徒が、顔を真っ赤にして男子に小さな包みを渡そうとしている。男子の方も、耳まで真っ赤にして直立不動だ。
「うっ……! 眩しい……!俺の汚れた心が浄化される……!」
空木が目を覆う。
「俺、あの子たちのためにBGM歌うっす!♪バレンタイン・キッス〜」
川島が野太い声で歌い出そうとしたので、羽上が口を塞いだ。
「静かに。ムードが台無しになります」
結局、四人はその場をそっと離れた。しかし、次の現場はそうはいかなかった。3年B組の教室前。数人の女子生徒が、一人の男子を取り囲んで詰問している修羅場に遭遇したのだ。
「ちょっとあんた!私のチョコと、ミカのチョコ、どっちが本命なのよ!」
「えっ、いや、どっちも美味しくいただいたというか……」
「はっきりしなさいよ!この優柔不断男!」
男子生徒は青ざめている。これは教育的指導が必要な案件だ。
「こらこら、君たち。廊下で騒がない」
空木が割って入る。
「あ、空木先生!」
「先生、聞いてくださいよ!こいつ、二股かけてたんですよ!」
「なに!?二股だと!?」
空木が男子生徒に向き直る。
「貴様……!世の中には一つも貰えない三十五歳がいるというのに、二つ貰って、しかも文句を言われる贅沢な身分か!許せん!直ちにそのチョコを没収し、俺の胃袋へ……じゃなくて、職員室へ持ってくるんだ!」
「先生、私怨が漏れてます」
海田が冷たく突っ込む。
「いいか少年。男なら、一つを選べ。もしくは、全員を幸せにする覚悟を持て!それができないなら、チョコを食べる資格はない!」 空木の熱い説教(という名の嫉妬)が始まった。
「は、はい!すみません!」
男子生徒は逃げるように去っていった。女子生徒たちも
「なんか先生が熱すぎて引くわー」
と言いながら散っていった。
「……ふう。校内の平和を守ったな」
空木が満足げに頷く。
「ただの営業妨害でしたけどね」
と海田。
昼休み。 四人が職員室に戻ると、異変が起きていた。四人が共有して使っている中央の打ち合わせテーブルの上に、それは鎮座していた。巨大な、段ボール箱である。みかん箱3個分くらいのサイズがある。
「……なんだ、これ」
空木が立ち止まる。箱には、毒々しいピンク色の紙が貼られ、太いマジックでこう書かれていた。
『職員室で一番輝いている先生へ愛を込めて 匿名希望より』
「!!!」
四人の間に、電流が走った。一番輝いている先生。愛を込めて。この巨大な箱。中身がチョコだとすれば、一生分の量だ。
「……おい、海田。お前のデータ分析によると、この宛先は誰になる?」
空木がゴクリと唾を飲み込む。海田が眼鏡をクイッと押し上げた。
「論理的に考えましょう。『輝いている』という定義です。物理的な光の反射率で言えば、頭皮の脂でテカっている川島先生か、あるいは教頭先生になります」
「俺は脂じゃなくてオーラで輝いてるっす!」
川島が抗議する。
「しかし、『愛を込めて』という文脈からすると、内面の輝き、あるいは容姿の輝きを指している可能性が高い」
海田の分析が続く。
「なら、僕ですね」
羽上が一歩前に出た。髪をファサッとかき上げる。
「輝く美貌。スター性。どう考えても僕宛です。いやあ、ファンのみんなも無理しちゃって。こんな大きな箱、運ぶの大変だったろうに」
「待て羽上」
空木が遮る。
「『一番輝いている』というのは、リーダーシップのことだ。この四人を束ね、迷える生徒を導く灯台のような存在……つまり、俺だ!」
「ボス、無理があるっす。灯台というより、非常口のランプくらいの輝きっす」
川島が無慈悲なツッコミを入れる。
「俺だ!中身はきっと、超巨大な特製カツ丼か、バケツプリンに違いないっす!俺の胃袋がそう叫んでるっす!」
川島が箱に抱きつこうとする。
「離れろ川島! 箱が潰れる!」
四人は箱を囲んで睨み合った。午前中の「チョコ0個」の屈辱を晴らすチャンス。この巨大チョコ(推定)を手に入れた者が、今日の勝者となるのだ。
「……開けましょう」
海田が提案した。
「中身を見れば、誰宛か分かるはずです。メッセージカードが入っているかもしれません」
「よし、開けるぞ……!」
空木が震える手でカッターナイフを入れる。ガムテープを切る音が、静まり返った職員室に響く。
パカッ。
箱が開いた。中から漂ってきたのは、濃厚な、むせ返るようなカカオの香り。
「おおっ!チョコだ!間違いなくチョコだ!」
川島が歓喜の雄叫びを上げる。緩衝材の新聞紙を取り除くと、そこには……黒光りする、巨大なゴリラの像が入っていた。全てチョコレートで出来ている。リアルだ。無駄にリアルだ。筋肉の隆起、毛並みの質感、そして何より、あの哀愁漂う表情。高さは50センチほどある。
「……ゴリラ?」
四人が声を揃えた。
ゴリラの胸板には、ホワイトチョコのプレートでメッセージが書かれていた。
『いつもウホウホと元気な先生へ。これを食べて、もっと強くなってください。 バスケ部・柔道部・ラグビー部 合同有志より』
「ウホウホ……?」
羽上が読み上げる。
「……えーと、この中で『ウホウホ』という擬音が最も似合うのは……」
海田の視線が、ゆっくりと移動する。羽上も見る。空木も見る。三人の視線の先には、川島がいた。
「えっ? 俺っすか?俺、ゴリラじゃなくてクマ系を目指してるんすけど」
「いや、柔道部顧問だし。体型的に一番近い」
と空木。
「でも待ってください」
と海田。
「『バスケ部』も入ってますよ。空木先生の顧問先です」
「むっ!?」
「ラグビー部は……顧問の先生、今日出張ですね」
「つまり……これは、俺と川島、二人の『パワー系教師』へのリスペクトということか?」
空木が呆然とする。
「『輝いている』っていうのは、汗のことだったんすね……」
川島も複雑な表情だ。
「まあ、誰宛でもいいじゃないですか。問題は、この巨大な物体をどうするかです」
海田が現実的な問題を提起した。
「これをこのまま職員室に置いておくわけにはいきません。教頭先生が見たら『なんだこの不気味な偶像崇拝は!』と激怒しますよ」 「確かに。しかもチョコだ。暖房の効いた職員室じゃ、夕方にはドロドロの茶色い液体になって、大惨事になる」
「……食べるしかないですね」
羽上が言った。
「証拠隠滅です。僕たちの胃袋に収めるしか、道はありません」
「マジっすか! やっていいんすか!」
川島の目が輝いた。ゴリラよりも輝いている。
「よし!緊急ミッション発動! 『オペレーション・ゴリラ・イート』だ!」
空木が号令をかけた。
かくして、男四人による「巨大ゴリラチョコ解体ショー」が始まった。まずは物理的な破壊だ。
「川島、手刀で割れ!」
「了解っす!ゴリラさんごめんね!手刀ォォッ!」
バガン!
川島のチョップがゴリラの頭部に炸裂する。ゴリラの首がボロリと落ちた。
「ひいっ!絵面が残酷!」
羽上が悲鳴を上げる。
「さあ、食え!まずは頭部だ!」
四人はチョコの塊にかぶりついた。
「……硬い!」
空木が呻く。
「これ、純度高すぎないか?カカオの塊だぞ!」
「苦いですね……。部活男子たちの『男の味』がします」
海田が眉をひそめる。
「うめえええ! チョコだあああ!」
川島だけは幸せそうだ。彼はバリボリと音を立ててゴリラの顔面を咀嚼していく。
「川島、お前が主力だ!俺たちは援護に回る!」
空木は早々に戦線離脱しそうになるが、リーダーの意地で食べ続ける。しかし、ゴリラは巨大だった。食べても食べても減らない。胸板が厚すぎる。
「うっぷ……。もう無理です……。鼻血が出そうです……」
羽上がギブアップ気味だ。
「僕の美しい肌が、油分でテカテカになってきました」
「海田、データ分析だ!あとどれくらいで完食できる!?」
「現在のペースだと……あと四時間かかります。その前に、全員が血糖値スパイクで昏倒する確率が98%です」
「死ぬじゃねえか!」
その時。ガララ……。職員室の扉が開いた。現れたのは、教頭先生だった。
「……ん? なんだか甘ったるい匂いがしますが……」
「「「!!!」」」
四人は凍りついた。テーブルの上には、無残な姿になった首のないゴリラと、チョコまみれの口をした四人の男たち。どう見ても、怪しい儀式の最中だ。
「き、教頭先生!お疲れ様です!」
空木が立ち上がり、背中でゴリラを隠そうとする。しかし、ゴリラの肩幅が広すぎて隠しきれない。
「空木先生。……後ろにある黒い物体は何ですか?新手の現代アートですか?」
教頭が怪訝な顔で近づいてくる。
「あ、いえ!これは……その……」
空木の脳内CPUがオーバーヒートする。
「生物の授業で使う、ゴリラの解剖模型です!」
空木が叫んだ。
「解剖模型?茶色いですが?」
「アフリカの土壌を再現した、特殊な素材でできているんです!今、耐久テストを行っているところで!」
「耐久テスト?川島先生が齧り付いているように見えましたが?」
「あ、あれは……ゴリラの硬度を歯で確認しているんです!原始的な測定方法です!」
「……」
教頭は冷ややかな目で四人を見回した。そして、テーブルの上の「ウホウホ」と書かれたメッセージプレートに目を留めた。
「……ウホウホと元気な先生へ……?」
教頭がプレートを読み上げる。沈黙。永遠とも思える沈黙。やがて、教頭は小さく溜め息をついた。
「……生徒たちに慕われているようで、何よりですね。……ただし、虫歯には気をつけなさい。それと、夕方の会議までにその『模型』を片付けておくように」
教頭は見て見ぬ振りをしてくれた。彼もまた、男たちの哀愁を感じ取ったのかもしれない。
「は、はい! ありがとうございます!」
教頭が去った後、四人はへたり込んだ。
「助かった……。教頭、意外と話がわかるな……」
「いや、呆れられてただけですよ」
「よし、ラストスパートだ! 残り半分、一気にいくぞ!」
「うおおお! ゴリラ完食だあああ!」
結局、彼らは夕方までにゴリラを胃袋に収めた。その代償として、全員が激しい胸焼けと、一時的なチョコ嫌いを発症することになった。
放課後。すっかり日が落ち、生徒たちも帰り始めた頃。空木は一人、職員室の外のベランダで風に当たっていた。口の中の甘さがまだ消えない。
「……はあ。結局、まともなチョコはゼロか……」
三十五歳のバレンタイン。ゴリラを食べた記憶しかない。空木が夜空を見上げた時。
「あ、あの……先生」
背後から、小さな声がした。振り返ると、一人の女子生徒が立っていた。おとなしい、図書委員の生徒だ。
「どうした?もう下校時間だぞ」
空木が優しく声をかける。
「その……これ」
彼女が差し出したのは、小さな、本当に小さな紙袋だった。
「先生、いつも図書室で面白い本教えてくれて、ありがとうございます。……これ、手作りクッキーなんですけど、よかったら……」
「えっ……」
空木が固まる。
「お、俺に?」
「はい。……あの、あんまり美味しくないかもしれませんけど……」
彼女は恥ずかしそうに袋を押し付け、そして「さようなら!」と言って走り去っていった。空木はしばらくその場に立ち尽くしていた。手の中にある、小さな袋。中には、不格好な形のクッキーが三枚入っていた。
「……」
空木は一枚取り出し、齧った。少し焦げた味がした。甘さも控えめだった。でも、さっき食べた高級なゴリラチョコの何倍も、何万倍も美味しかった。
「……うまいな」
空木の目から、一筋の涙がこぼれた。三十五歳、独身。まだ捨てたもんじゃない。職員室に戻ると、三人が死にそうな顔で胃薬を飲んでいた。
「ボス、どこ行ってたんすか……。俺、もうチョコは見たくないっす……」
「僕もです……。カカオの呪いです……」
空木はニヤリと笑った。
「ふっ、甘いな、お前たち。俺は今、最高のスイーツを味わってきたところだ」
「はあ? 抜け駆けして何食ったんすか!」
「教えなーい。これは大人の秘密だ」
空木はクッキーの袋を胸ポケットに大切にしまった。この温かさは、誰にも渡さない。こうして、星ヶ丘のバレンタインデーは終わった。胃もたれと、少しの胸キュンを残して。明日からはまた、普通の日常が戻ってくる。でも、空木のポケットの中には、確かな「輝き」が残っていた。
(エピソード9・完)




