表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
職員室の四銃士  作者: 花曇り


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/22

戦慄の健康診断と回転する三十五歳

 一月下旬。正月ボケもようやく抜けきり、三学期の授業が軌道に乗り始めた頃。星ヶ丘中高一貫校の職員室に、一通の「不幸の手紙」が届いた。白い封筒に入ったそれは、机の上に静かに、しかし死刑宣告のような威圧感を持って置かれていた。

『定期健康診断のお知らせ』

その文字を見た瞬間、国語科の空木の表情が凍りついた。彼は今年で三十五歳。そう、三十五歳という年齢は、健康診断において一つの大きな分水嶺を迎える。

「……来たか。ついにこの時が……」

空木の手が震えている。まるで爆弾処理を行うかのような慎重さで封筒を開けると、中から一枚の問診票と、そして「白い粉」が入った小袋が出てきた。いや、白い粉ではない。『バリウム検査のお知らせ』だ。

「バリウム……!胃部X線検査……!俺の消化器官を白く塗りつぶす悪魔の飲み物……!」

空木が頭を抱えて絶叫した。静かな職員室に、彼の悲鳴が木霊する。

「おはようございます、空木先生。朝から発声練習ですか?いい喉してますね」  

社会科の海田が、涼しい顔で出勤してきた。彼は自分のデスクにある同じ封筒を見ても、眉一つ動かさない。

「海田ぁ……!お前には分からんのだ!三十五歳の恐怖が!今年から俺は『人間ドック』コースなんだぞ!バリウム飲んで、台の上でグルグル回されて、ゲップを我慢するという拷問を受けなきゃならんのだ!」

「ああ、バリウムですか。聞いた話によると、飲むとセメントみたいな味がするらしいですね」  

海田が事もなげに言う。

「しかも、検査技師の指示通りに動かないと、『はい、もう一回転!』ってスパルタ指導されるとか。楽しみですね、空木先生の三半規管が耐えられるか」

「脅すな!俺は遊園地のコーヒーカップでも酔うんだぞ!」

そこへ、床をきしませながら数学科の川島が現れた。彼もまた、手に持った封筒を睨みつけている。ただし、彼の場合は恐怖の種類が違っていた。

「ボス……。俺も終わったっす……」  

川島がげっそりとした顔(と言っても丸いが)で呟く。

「去年の診断で『これ以上太ると柔道着の帯ではなく、命の灯火が消えますよ』って医者に脅されたんすよ。なのに……正月にお餅を五十個食っちまった……」

「五十個!?お前は餅つき機か!」  

空木がツッコむ。

「今の体重、百八キロっす。煩悩の数と同じっす。……あと一週間で十キロ痩せないと、再検査で病院送りっす……」

「十キロは無理だろ。脂肪吸引でもしない限り」

最後に、国語科の羽上が鏡を見ながら登場した。

「おはよーございまーす。……おや、皆さん暗いですね。健康診断ですか?僕は楽しみですよ」  

羽上が髪をかき上げる。

「身長、また伸びてるかもしれないし。それに、採血のナースさんが美人だったら、僕の血管も喜びの舞を踊るってもんです」

「お前の血管はどうなってるんだ」

と空木。

「羽上先生、視力検査でまた『C』の空いてる方向じゃなくて、『あっち!』って指差して看護師さんを困らせないでくださいよ」

と海田。

こうして、四人の「健康診断に向けた一週間」が始まった。それは、食欲と恐怖、そして悪あがきに満ちた地獄の日々だった。

        

 検診三日前。放課後の職員室では、奇妙な光景が繰り広げられていた。

 まず川島。彼はデスクの周りに『ダイエット結界』を張っていた。  

「餌を与えないでください」

「空腹は最高のスパイス」

「脂肪燃焼中」

と書かれた貼り紙がベタベタと貼られている。

「うう……腹減った……。鉛筆がポッキーに見える……。消しゴムがマシュマロに見える……」  

川島は虚ろな目で文房具を見つめ、時折かじろうとしては海田に

「それはプラスチックです」

と止められていた。

「川島、これを見ろ」  

空木が差し出したのは、こんにゃくゼリーだ。

「低カロリーだぞ。これなら食ってもいいだろう」

「ボスぅぅぅ! 神様ぁぁぁ!」  

川島はゼリーに飛びついた。一瞬で吸い込んだ。

「……味がしないっす。空気っすかこれ?」

「よく噛めよ!満腹中枢を刺激するんだ!」

 一方、空木もまた、独自のトレーニングに励んでいた。彼は給湯室で、飲むヨーグルトを片手に、真剣な表情で予行演習をしていた。

「いいか、これをバリウムだと思い込むんだ。……一気に飲む!ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……!」

空木はヨーグルトを一気飲みし、口の周りを白くしたまま、その場で回転椅子に座った。

「海田! 回せ!」

「はいはい」

海田が椅子の背を持って、空木をグルグルと回す。

「右に一回転! はい、止まって!次はうつ伏せ!息を止めて!」

「うぷっ……!め、目が回る……!」

「ゲップしちゃダメですよ。ゲップしたら最初から飲み直しですからね」

「んぐぐぐ……!」

空木は必死に口を押さえた。

「……だ、ダメだ……出る……!」

「我慢してください。ここで出したら、本番では追加のバリウム、通称『おかわり』が待ってますよ」

「おかわりは嫌だぁぁぁ!」

その横で、羽上は美顔ローラーで顔をコロコロしていた。

「当日の顔色が大事ですからね。血圧測定の時、上腕二頭筋を美しく見せるために、ちょっとパンプアップもしないと」  

彼は鉄アレイを持ち上げた。

「フンッ!フンッ!見てくださいこの血管!ナースさんイチコロですよ」

「血管が見えすぎて採血しやすいだけだろ」

と海田。

        

 そして迎えた、健康診断当日。会場は、近所の市民体育館。 朝九時。絶食状態の四人は、受付の列に並んでいた。川島の格好が異常だった。真冬だというのに、彼は半袖のTシャツと短パン姿なのだ。

「……おい川島。寒くないのか?」  

コートを着込んだ空木が尋ねる。

「寒いっす……。唇が紫になってるのが自分でも分かるっす……。でも、服の重さで数百グラムでも減らしたいんすよ!」

「その努力、もっと早くからやっておけばよかったのにな」

「パンツも、一番布面積の少ない勝負パンツ履いてきたっす!」

「見たくない情報をありがとう」

受付を済ませ、検査着に着替える。いよいよ、死のロードの始まりだ。

 第一関門:『身体測定』。

 身長と体重。シンプルにして残酷な数字。 まずは羽上。

「はい、背筋を伸ばしてー」  

看護師さんに言われ、羽上は背伸びをするどころか、首をキリンのように伸ばした。

「……一七三・二センチですね」

「ああっ! 前回より二ミリ縮んでる!重力のバカヤロウ!」  

羽上はショックで膝をついた。次は川島。運命の体重測定。 彼は深呼吸をし、肺の中の空気を全て吐き出した。空気の重さすら削ぎ落とす作戦だ。そして、秤の上に乗る。そーっと。重力を騙すように。

 ピピッ。

「……えー、一〇七・五キロですね」

「……」  

川島が固まった。

「……あの、お姉さん。この機械、壊れてません?俺の計算だと九十キロ台になってるはずなんですけど」

「正常ですよ。後ろがつかえてるんで降りてください」

「嘘だ!俺のパンツは五グラムしかないのに!」

川島はよろめきながら秤を降りた。

「終わった……。また医者に怒られる……。再検査……サラダチキン生活……」  

彼の目から光が消えた。

 第二関門:『血圧測定』。

 空木の番だ。彼は極度の緊張しい(あがり症)である。腕をカフに通しただけで、心臓が早鐘を打つ。

「はい、力を抜いてくださいねー」  

看護師さんが優しく言うが、空木の腕はカチカチに強張っている。

「空木先生」  

後ろから海田が囁いた。

「知ってますか? 血圧が高いと、血管がパーンってなるらしいですよ」

「ひいっ!やめろ海田!」  

プシューッ。機械が加圧を始める。ドクン、ドクン、ドクン……。

「……あら?上、一六〇もありますね。高いですねー」

「い、一六〇!?普段は一二〇なのに!」

「もう一回測りましょうか。深呼吸して」

「空木先生」  

また海田が囁く。

「さっき、バリウムの列を見ましたけど、すごい行列でしたよ。みんな死にそうな顔で出てきてました。中から『うぐっ』って声が聞こえました」

「やめろぉぉぉ!俺を追い詰めるな!」  

ドクン、ドクン!

「……あら、一七〇に上がりましたね」

「海田ァァァァ!」

結局、空木は三回測り直し、最後は「無の境地」に至ることでなんとか正常値を出した。

 第三関門:『採血』。

 羽上の見せ場(?)だ。彼は袖をまくり、準備万端で椅子に座った。担当は、ベテランの看護師おばちゃんだった。

「はい、ちょっとチクッとしますよー」

「ふっ、僕の血管は素直ですからね。どうぞ、優しく愛してください」  

羽上がキザなセリフを吐く。看護師さんは無視して、ブスリと針を刺した。

「あだっ!」

「はい、終わりましたー。止血バンド強く巻いとくねー」  

看護師さんは事務的に処理し、羽上の「痛い」という訴えはスルーされた。

「……美人ナースはいずこ……」  

羽上は傷心を抱えて退場した。

 そして、最終関門。  『胃部X線検査バリウム』。

 検査室の前で、空木は震えていた。まるで処刑台に向かう囚人のようだ。

「……ボス、生きて帰ってきてくださいっす……」  

川島が手を合わせる。

「先生の遺志は継ぎますから」  

海田がまだ生きているのに過去形にする。

「お前ら……。もし俺が中で回転しすぎてバターになったら、パンに塗って食ってくれ……」

「嫌ですよ。おっさん味のバターなんて」

空木の名前が呼ばれた。

「空木さーん、どうぞー」

意を決して、検査室に入る。中には、巨大な白い機械が鎮座していた。あれが、人間を回すための祭壇か。

「はい、じゃあまず、この発泡剤を飲んでください。少量の水で一気にね」  

技師のおじさんが粉薬を渡してくる。

空木はそれを口に含み、水で流し込んだ。シュワワワワ!口の中で炭酸ガスが爆発する。胃が膨れるのが分かる。

「ゲップしないでくださいねー。我慢ですよー」

(うぐっ……! すでに苦しい……!)  

空木は口をへの字に結んだ。

「じゃあ、このバリウムを飲んでください。はい、一気に!」

渡されたのは、ずっしりと重いコップに入った、ドロドロの白い液体。匂いは……甘いような、薬臭いような。

(こ、これが……!海田の言っていた『飲むセメント』!)

空木は覚悟を決めた。ゴクッ。……重い。喉を通る感触が、液体というより固体に近い。ゴクッ、ゴクッ。味は、劣化したヨーグルトと石灰を混ぜたような味だ。

(うぷっ……! まずい! でも飲まなきゃ!)

涙目で飲み干した。

「はい、上手ですよー。じゃあ台に乗ってください」

ここからが本番だった。空木が台に乗ると、機械がウィーンと音を立てて倒れ始めた。

「はい、左の手すりを持って!右に三回回って!」

空木は必死に回った。ゴロン、ゴロン、ゴロン。胃の中のバリウムがタプタプと揺れる。

「はい、止まって!うつ伏せになって!お腹を圧迫しますよー!」

台の下から枕のようなものが出てきて、膨れた胃を容赦なく押してくる。

(ぐふぅっ! ゲップが出る! 出ちゃう!)

「はい、息止めて! 止めてー!……はい楽にしてー」

空木は白目を剥きそうだった。しかし、技師は容赦ない。

「はい、次は逆さまになりますよー。頭が下がりますー」

ウィイイイン。台が傾き、空木は頭を下にして吊るされた状態になった。血が頭に上る。バリウムが逆流しそうになる。

「はい、そこで右向いて!もっと!もっと体ひねって!」

(無理だ! これ以上ひねったら腰が折れる!)

「はい、じゃあもう一回回って!早く早く!」

空木は回った。回るしかなかった。三十五歳の男が、検査着姿で、白目を剥きながら台の上を転がり回る。それは滑稽であり、同時に生命の尊厳をかけた戦いでもあった。

(海田……川島……羽上……。俺は今、回っているぞ……。地球とともに……!)

「はい、オッケーです!お疲れ様でしたー」

機械が元の位置に戻る。空木は、生まれたての小鹿のように震えながら台を降りた。髪はボサボサ、顔面蒼白。口の端には白いバリウムがついている。

「……お、終わっ……た……」

下剤と水を渡され、空木はフラフラと退室した。

        

 待合室に戻ると、三人が待っていた。空木の姿を見た瞬間、海田が吹き出した。

「ぶふっ! 空木先生、その顔!ゾンビ映画のエキストラですか?」

「ボス、生きてるっすか!?」

「やつれましたね……。五歳くらい老けましたよ」

「……何も言うな。俺は今、宇宙を見てきたんだ……」  

空木はベンチに崩れ落ちた。

全ての検査が終了し、四人は体育館を出た。外の空気は冷たくて美味しかった。

「さあ、終わりましたね!健康診断も終われば、あとは自由です!」  

川島が復活していた。

「俺、もう我慢の限界っす!行きましょう、ボス!『焼肉食べ放題』へ!」

「お前……さっき体重で落ち込んでたじゃないか」

「終わったことは忘れる主義っす!減った分を取り戻さないと!」

「減ってないだろ、増えてただろ!」

「僕も賛成です」

と羽上。

「採血で失った血液を、レバーで補給しないと。僕の美肌のために」

「海田はどうする?」

海田は時計を見た。

「いいですね。バリウム後の下剤が効いてくる前に、サクッと食べて解散しましょう」

「お前な……デリカシーというものが……」

結局、四人は近くの焼肉屋へと吸い込まれていった。網の上で焼ける肉の匂い。空木の胃袋は、バリウムのダメージを忘れ、食欲を取り戻していた。

「うめえええ! カルビ最高!」  

川島が肉を吸引している。

「空木先生、ホルモン焼けたわよ」  

海田がオネエ言葉で取り分ける(時々キャラが崩れる)。

空木も肉を頬張った。

「うまい……。生きててよかった……」

しかし。食事が進むにつれ、空木の腹の中で、時限爆弾がカウントダウンを始めていた。下剤である。ゴロゴロゴロ……。遠雷のような音が、空木の腹から響いた。

「……ん?」  

空木の箸が止まる。

「どうしました、ボス?」

「いや……なんでもない。……うっ!」  

波が来た。第一波だ。

「空木先生、顔色が青から土色に変わりましたよ」  

海田が冷静に指摘する。

「……と、トイレ……」

空木は立ち上がった。しかし、焼肉屋のトイレは一つしかない。そして、そこには『使用中』の赤いマークが。

「なっ!?」

絶望。空木の額に脂汗が浮かぶ。

「だ、誰だ!こんな時にトイレにこもっている奴は!」

中から、苦しそうな声が聞こえてきた。

『うう……食べ過ぎた……。脂が……脂が俺を攻めてくる……』

「川島かよ!!」

空木はドアを叩いた。

「川島!開けろ!俺の尊厳に関わる緊急事態だ!」

『無理っすボス!俺も今、ビッグバンが起きてるんす!』

「このバカ弟子がァァァ!さっきのカルビか!あのカルビが仇になったのか!」

「空木先生、近くのコンビニまでダッシュです!」  

海田が叫ぶ。

「羽上先生、道を確保して!」

「了解!道を空けろ!緊急車両(空木先生)が通るぞ!」  

羽上が店内の客をかき分ける。

空木は走った。三十五歳の冬。バリウムと下剤と焼肉を抱え、彼は風になった。お尻の筋肉に全ての神経を集中させ、コンビニの光を目指して。

「間に合えぇぇぇぇ!!」

その必死な背中を見送りながら、海田はこっそりと動画を撮っていた。 タイトルは

『爆走!バリウム先生』。

後日、空木の健康診断の結果が届いた。

『異常なし』。  

ただし、問診の欄には『検査後の過度な運動と飲食は控えましょう』と書かれていたとかいないとか。

職員室の四銃士。彼らの健康(?)な毎日は、今日も騒がしく続いていく。 川島の体重が、焼肉のせいでさらに二キロ増えたことは、また別の話である。


(エピソード8・完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ