番外編 〜三十五歳の憂鬱と、雪解けのサプライズ〜
十二月半ば。星ヶ丘中高一貫校の校庭には、冷たい木枯らしが吹き荒れていた。期末考査が終わり、もうすぐ冬休み。生徒たちは浮き足立っているが、教師たちにとっては成績処理という名の「数字との格闘技」が始まる季節である。しかし、国語科の空木の心は、別の理由で寒風に晒されていた。
(……誰も、何も言ってこない)
空木は職員室の自席で、赤ペンを握りしめたまま凍りついていた。今日は十二月十二日。そう、空木の三十五回目の誕生日である。三十五歳。四捨五入すれば四十歳。人生の折り返し地点。そんな記念すべき日だというのに、朝から誰一人として「おめでとう」の一言がないのだ。
「おはようございます、空木先生。……あ、そのネクタイ、昨日もしてましたよね。加齢臭、大丈夫ですか?」
出勤してきた社会科の海田が放った第一声は、祝辞ではなく衛生面への指摘だった。
「……おはよう、海田。今日も爽やかに毒を吐くな」
「事実を述べたまでです。それより、成績一覧表の提出、今日中ですよ。遅れたら教頭先生の雷が落ちますからね」
海田は冷たく言い放ち、自分のパソコンに向き直った。
(海田……。お前、去年の俺の誕生日は『空木先生、半世紀へのカウントダウン開始ですね』って笑ってくれたじゃないか。今年はそれすら無いのか……)
続いて現れたのは、数学科の川島だ。
「ういーッス。腹減ったー。……あ、ボス。今日、学食の限定メニュー『冬将軍カツ丼』の日っすよ! 一緒に行きましょうよ!俺、二杯食うんで!」
「……川島。俺、今日ちょっと胃が……」
「えっ、元気ないっすね。じゃあ俺、ボスの分も食っときます!ラッキー!」
川島は満面の笑みで去っていった。
(川島……。お前、俺の誕生日よりもカツ丼か。まあ、お前らしいけどさ……)
最後に、国語科の羽上が鏡を見ながら登場した。
「おはよーございまーす。あー、今日の僕もイケてる。……あれ、空木さん?なんか顔色悪くないですか?目の下のクマがすごいですよ。老けました?」
「……羽上。お前、今日が何の日か知ってるか?」
「え? 今日は……『漢字の日』でしたっけ?今年の漢字、何になるんですかねー。『美』かな。僕のことかな」
(羽上……。お前の頭の中は自分しかないのか)
空木は深く溜め息をついた。 これが、三十五歳の現実か。いつもの「四銃士」としての結束はどこへ行ったのか。俺は、ただの「口うるさい年上の上司」になり下がってしまったのだろうか。空木は孤独を噛み締めながら、黙々と採点作業に戻った。
午後六時。日が落ち、職員室の人口密度も減ってきた頃。空木は、不穏な空気を察知した。海田、川島、羽上の三人が、給湯室の奥で何やらヒソヒソと話しているのだ。
「……おい、バレてないだろうな」
と海田の声。
「大丈夫っすよ。ボス、今日ずっと落ち込んでて周り見てないっすから」
と川島。
「準備は万端ですよ。ブツは家庭科室に隠してあります」
と羽上。
(ブツ……? 隠してある……?)
空木の心臓がドクンと跳ねた。まさか。彼らは何か、とんでもないトラブルを起こして、それを隠蔽しようとしているのではないか?先週、教頭先生が大事にしていた盆栽の枝が折れていた事件。あれの犯人が彼らなのか? あるいは、期末テストの問題用紙を紛失したとか?
(俺に隠し事をするなんて……。俺はそんなに頼りない先輩か?)
空木の中で、寂しさが疑念へと変わり、そして責任感へと変わった。もし彼らが過ちを犯したのなら、それを正し、一緒に頭を下げるのがリーダー(年長者)の役目だ。
「よし……」
空木は決意した。彼らの悪事を暴き、そして守る。それが三十五歳の最初の仕事だ。
三人は、こそこそと職員室を抜け出し、北校舎の方へ向かった。空木は一定の距離を保ちながら、刑事のような足取りで尾行を開始した。廊下は暗く、冷え切っている。彼らが吸い込まれていったのは、予想通り「家庭科調理室」だった。
(調理室……? まさか、証拠隠滅のために何かを燃やす気か!?)
空木はドアに耳を当てた。
「おい川島!つまみ食いするな!形が崩れるだろ!」
「だって美味そうなんすもん!クリームが俺を呼んでるんすよ!」
「羽上、火加減はどうだ?」
「バッチリですよ。僕の情熱と同じくらい燃えてます」
(クリーム……? 火加減……?)
会話の内容が奇妙だ。空木が首をかしげたその時、廊下の向こうから、コツコツという足音が近づいてきた。鋭く、重い足音で現れたのは、教頭先生だった。規律に厳しく、最近「職員の無断残業と光熱費の無駄遣い」に目を光らせている、あのおっかない教頭だ。
「……む? 空木先生?こんなところで何をしているんですか?」
懐中電灯の光が空木の顔を照らす。
「あ、いえ、その……見回りです!消灯の確認を!」
空木は慌てて直立不動になった。
「ほう。……しかし、調理室から物音がしますが?」
教頭の視線がドアに向けられる。 中からは、
「あちゃー!倒れた!」
「隠せ!」「匂いが漏れる!」
という慌ただしい声が聞こえてくる。
「こ、これは……」
空木は冷や汗を流した。もし教頭に見つかれば、彼らは確実に怒られる。無許可での調理室使用、火気の使用、そして何より「怪しい行動」。始末書は免れない。
教頭がドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
「おい、中に誰かいるのか!」
その瞬間。空木は動いた。教頭の前に立ちはだかり、ドアを背中でブロックしたのだ。
「ど、動かないでください教頭!」
「な、なんだ空木先生!退きなさい!」
「退きません!ここは……今、非常にデリケートな空間になっているんです!」
「デリケート? 何を言っているんだ!」
空木の脳味噌がフル回転する。嘘だ。彼らを守るための、最高の嘘をつかなくては。
「じ、実は!あの中で……ネズミの捕獲作戦が行われているんです!」
「ネ、ネズミだと!?」
「はい! 最近出没するという巨大ネズミを、海田先生たちが命がけで追い詰めているんです!今開けたら、ネズミが逃げ出して校内にパニックが起きます!」
「そ、そうなのか?しかし、甘い匂いがするが……」
「それは……ネズミをおびき寄せるための餌です!高級チーズの香りです!」
「ショートケーキの匂いだが!?」
「教頭先生!」
空木は大声を出した。
「彼らは、学校の衛生環境を守るために、残業代も出ない中で戦っているんです!どうか、彼らの勇姿を、今はそっとしておいてやってください!もし何かあったら、全ての責任は年長者である私が取ります!始末書でも辞表でも書きますから!」
空木の必死の形相。普段は頼りない空木が見せた、鬼気迫る「覚悟」。教頭は一瞬たじろぎ、そして溜め息をついた。
「……わかった。そこまで言うなら、君に免じて今回は見なかったことにしよう。……ただし、火の始末だけは徹底させなさい」
「は、はい!ありがとうございます!」
教頭は狐につままれたような顔で去っていった。空木はその場にへたり込んだ。膝が笑っている。
(よかった……。なんとか守れた……)
その時。背後のドアが、ゆっくりと開いた。
「……ボス」
そこには、海田、川島、羽上の三人が立っていた。 全員、エプロン姿で、小麦粉まみれになっていた。
「……お前ら、全部聞いてたのか」
空木がバツが悪そうに顔を背ける。
「聞いてましたよ。……『全ての責任は私が取る』ですか。かっこよすぎて震えましたよ」
海田が眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「ボスぅぅぅぅ! 一生ついていくっすぅぅぅ!」
川島が泣きながら抱きついてきた。重い。小麦粉が空木のスーツにつく。
「空木さん、やっぱりあなたは最高のリーダーです」
羽上もニッコリと笑っている。
「……で、お前ら。一体何をしてたんだ?本当にネズミ退治か?」
三人は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「どうぞ、中へ」
調理室の中央にあるテーブル。そこには、歪な形をした、しかし巨大なホールケーキが置かれていた。クリームの塗り方は雑で、イチゴの配置もバラバラ。チョコプレートには、海田の達筆すぎる字と、川島の丸文字と、羽上の飾り文字が混在してこう書かれていた。
『空木先生 35歳 お誕生日おめでとう(笑)』
「……え?」
空木が固まる。
「今日は一日、わざと無視してごめんなさい。サプライズにしたかったんです」
海田が申し訳なさそうに、でも楽しそうに言った。
「放課後、こっそりスポンジから焼いてたんですよ。だから時間がかかって」
「俺、つまみ食い我慢してイチゴ乗せたっすよ!偉いでしょ!」
川島が胸を張る。
「僕はこの、マジパンで作った空木先生人形を担当しました。どうです、実物よりイケメンでしょ?」
羽上がケーキの上にある、変な顔の人形を指差す。
「お前ら……」
空木の視界が歪んだ。 寂しさも、疑念も、全て吹き飛んだ。こみ上げてきたのは、熱い何かだ。
「……バカヤロウ。……心配させやがって……」
空木は袖で涙を拭った。三十五歳の大人が、部下の前で泣くなんて。でも、止まらなかった。
「さあさあ、ボス!ロウソク消してください!三十五本立てようとしたらケーキが穴だらけになりそうだったんで、太いヤツ三本と細いヤツ五本にしました!」
部屋の電気が消され、ロウソクの火が揺れる。
「ハッピーバースデートゥーユー♪」
野太い男四人の合唱。音程はバラバラだが、空木にとっては世界で一番美しいハーモニーだった。空木は大きく息を吸い込み、吹き消した。
「おめでとうございまーす!!」
クラッカーが鳴り響く。
「さあ、実食です!」
切り分けられたケーキは、見た目は悪かったが、味は最高だった。甘さ控えめのクリームと、ふわふわのスポンジ。隠し味に入れたというコーヒーシロップが、大人の味を醸し出している。
「うまい……。店で売れるぞこれ」
「でしょう?僕がデータ分析して、黄金比率のレシピで作りましたから」
海田が得意げだ。
「さて、次はプレゼントタイムっす!」
川島が巨大な包みを取り出した。
「俺からはこれっす!」
開けてみると、出てきたのは一升瓶サイズの「特製プロテインドリンク」と、ダンベルだった。
「ボス、もう三十五なんで、筋肉量が落ちる時期っす。これでいつまでも動ける身体を作ってください!」
「……重いよ。物理的にも気持ち的にも。でも、ありがとうな。これで川島みたいな体を目指すよ」
「それはやめた方がいいです」
と海田が即答した。
次は羽上だ。
「僕からはこれです。センスの塊ですよ」
綺麗なラッピングの中から出てきたのは、真っ赤なジャケットだった。しかも背中に龍の刺繍が入っている。
「これ、僕とお揃いです。『還暦にはまだ早いけど、情熱の赤』ってことで。これを着て、一緒に街を歩きましょう」
「歩けるか! チンピラだろこれ!……でも、まあ、部屋着にするよ」
「えー、着てきてくださいよー」
最後に、海田が小さな箱を差し出した。
「僕からは、実用的なものを」
それは、重厚な革張りの箱に入った、万年筆だった。 黒檀の軸に、金色の装飾。見るからに高価なものだ。よく見ると、クリップの部分に小さく『Utsugi』と刻印されている。
「……海田、これ、高いだろ?」
「安くはありません。でも、先生には必要でしょう」
海田が真面目な顔で言った。
「先生は、僕たちの始末書を書いたり、生徒への手紙を書いたり、文字を書く機会が多いですから。……それに、先生の書く文章、僕、嫌いじゃないんで。もっといい道具で書いてほしくて」
それは、海田なりの最大の敬意の表れだった。普段は毒舌で、空木をイジり倒す海田が選んだ、「書く人」としての空木へのプレゼント。
「……ありがとう。一生、大事にする」
空木は万年筆を胸ポケットに差した。心臓の近くで、その重みが心地よかった。
宴もたけなわ。四人は甘いケーキとコーヒーで、すっかりくつろいでいた。
「ねえ、空木さん」
羽上が頬杖をつきながら言った。
「なんで空木さんは、さっき教頭先生に『責任を取る』なんて言ったんですか?僕たちが本当に悪さしてたらどうするつもりだったんです?」
空木は苦笑いしながら、コーヒーを啜った。
「そりゃあ……お前らが俺の自慢の『仲間』だからだよ」
三人が顔を見合わせる。
「俺は、抜けてるし、機械音痴だし、すぐパニックになるダメな先輩だ。お前らに助けられてばっかりだ。海田には事務処理を押し付け、川島には力仕事を頼み、羽上には……まあ、場の空気を和ませてもらってる」
「扱いが雑ですね」
と羽上。
「でもな、お前らがいるから、俺は教師を続けられてるんだ。だから、お前らが何かやらかした時は、俺が泥をかぶる。それが、俺にできる唯一の恩返しだ」
空木は照れ臭そうに言った。沈黙が流れる。調理室の冷蔵庫の音だけがブーンと響く。
「……ズルいっすよ、ボス」
川島が鼻をすすった。
「そんなこと言われたら、また好きになっちゃうじゃないっすか」
「勘違いしないでくださいよ、空木先生」
海田がそっぽを向きながら言った。耳が少し赤い。
「僕たちが先生を助けるのは、先生が放っておけないからじゃありません。……先生が、誰よりも生徒のことを見ていて、誰よりも教師という仕事を愛しているのを知っているからです。尊敬できない上司なら、とっくに見捨ててますよ」
「海田……」
「僕もですよ」
と羽上。
「空木さんみたいに、かっこ悪くても必死になれる大人、なかなかいないですからね。僕の次にイケてますよ」
「一言多いな」
四人は笑い合った。 窓の外では、雪がちらつき始めていた。 ホワイト・バースデーだ。
「よし!片付けるぞ!教頭先生との約束だ、証拠隠滅だ!」
「了解っす!」
四人は手際よく片付けを始めた。皿を洗い、テーブルを拭き、ゴミをまとめる。その連携は見事なものだった。
帰り道。雪が積もり始めた校門を出て、四人は駅へと向かった。寒さは厳しいが、今は誰も寒さを感じていなかった。
「あ、そうだ空木先生」
海田が思い出したように言った。
「さっきの万年筆、インク入れるの忘れてました」
「えっ、書けないじゃん」
「入れ方、教えますよ。……ただし、一回千円の手数料で」
「金取るのかよ!」
「ボス、俺、腹減りました。ラーメン食べて帰りましょうよ!」
「さっきケーキ食べただろ!」
「甘いものは別腹、ラーメンは本腹っす!」
「意味わからん!」
「空木さん、その赤いジャケット着てくださいよ。雪に映えますよ」
「絶対嫌だ!職質される!」
いつもの騒がしい会話が、夜の街に溶けていく。三十五歳。何者にもなれていないような焦燥感があった。でも、この三人が隣にいてくれるなら、三十五歳も悪くない。いや、むしろ最高だ。空木は夜空を見上げた。街灯に照らされた雪が、ダイヤモンドダストのように輝いていた。
「……ありがとうな、みんな」
小さな声で呟いた言葉は、風にかき消されたけれど、 三人の耳には、しっかりと届いていたようだった。
職員室の四銃士。彼らの絆は、どんな寒波でも凍ることはない。明日の朝もまた、騒がしい一日が始まるのだろう。
(エピソード7・完)




