炎の体育祭と呪われたハイテクスニーカー
その年の九月、星ヶ丘中高一貫校の職員室は、かつてないほどの熱気に包まれていた。気温三十度を超える残暑のせいではない。ある一人の男が発する、過剰な情熱(と暑苦しさ)が原因である。
「いいか、お前たち! これはただの体育祭ではない! 聖戦だ!」
国語科の空木が、机の上に仁王立ち……はさすがにマナー違反なので、椅子の上に片足を乗せて叫んだ。彼の背後には、メラメラと燃え盛る炎の幻影が見えるようだ。
「……空木先生。聖戦と言われましても、所詮は『部対抗リレー』のエキシビションマッチですよね?」
社会科の海田が、冷房の設定温度を一度下げながら冷静にツッコミを入れる。彼の手元には、すでに分厚いデータ資料があった。
『過去十年間のリレーにおけるコーナーでの転倒率と湿度との相関関係』
という、読むだけで眠くなりそうなタイトルがついている。
「甘いぞ海田!エキシビションだからこそ、負けられない戦いがあるんだ!生徒たちは見ているぞ。我々教師の、大人の本気を!ここで無様な姿を晒せば、明日の授業から俺たちの言うことなど誰も聞かなくなる!学級崩壊のトリガーは、リレーのバトンミスから引かれるんだ!」
「飛躍しすぎです。バトン落としたくらいで崩壊するクラスなら、最初から崩壊してますよ」
「ボス!俺はやるっすよ!この日のために、炭水化物を二倍にしてエネルギーを蓄えてきたっすから!」
数学科の川島が、あんパンを両手に持って叫ぶ。その体型は、すでにエネルギーの貯蔵限界を超えているように見える。
「川島、お前の場合、エネルギーを蓄えるんじゃなくて、重りを増やしただけだろ。物理法則を無視するな」
国語科の羽上が、手鏡で前髪を整えながら呆れたように言った。
「ていうか空木さーん、僕、当日は日焼け止め塗るのに忙しいんで、走るのはパスでいいですか?紫外線はお肌の大敵なんで」
「バカヤロウ!『職員室の四銃士』が三人になったら『三銃士』になっちまうだろ!ダルタニアンがいない三銃士なんて、肉のない牛丼みたいなもんだ!」
「例えが貧乏くさいですね」
空木は拳を握りしめた。今年のリレー、教員チームの対戦相手は、陸上部、バスケ部、サッカー部、そして野球部という、バリバリの現役運動部たちだ。平均年齢三十歳の教員チームが彼らに勝つには、奇跡か、あるいはドーピング(合法的な範囲での)が必要だった。
「勝算はある!」
空木がニヤリと笑った。
「俺には秘策があるんだ。これを見ろ!」
空木がデスクの下から取り出したのは、毒々しいほどに蛍光イエローの箱だった。箱には
『瞬足の稲妻』『時空を超えるグリップ力』『履くだけでウサイン・ボルト』
といった、景品表示法ギリギリの煽り文句が並んでいる。
「ジャジャーン!通販で買った最新鋭ハイテクスニーカー、『ライトニング・ゼウスV3』だ!」
「……ダサっ」
三人の声が重なった。
「ダサくない!機能美だ!このソールを見ろ、バネが入ってるんだぞ!着地の衝撃を推進力に変える、夢のシステムだ!」
「それ、昭和の漫画雑誌の裏表紙に載ってた『身長が伸びる靴』と同じ匂いがしますけど」
と海田。
「ボス、それ履いて歩くと『ビヨーン、ビヨーン』って音がしそうっすね」
と川島。
「空木さん、それ履いて職員室歩かないでくださいよ。床に傷がつきますから」
と羽上。
「うるさい!俺はこの『ライトニング・ゼウス』で、アンカーとしてゴールテープを切る!そして生徒たちの黄色い声援を独り占めにするんだ!」
空木の野望は、すでに成層圏まで達していた。
そして迎えた体育祭当日。 空は突き抜けるような青空。グラウンドの砂埃。熱中症アラートギリギリの灼熱地獄。
教員テントの中では、四銃士たちがウォーミングアップ(という名のダベり)をしていた。
「あー、暑い。溶ける。俺の脂肪がオイルになって流れ出そうだ」
川島がパイプ椅子に座り、扇風機を独占している。すでにTシャツは汗で色が変わっていた。
「川島、お前は走る前から消耗しすぎだ。……おい羽上、お前は何をしてるんだ」
空木が指差した先には、サングラスをかけ、ビーチチェア(自前)に寝そべって優雅にトロピカルジュースを飲んでいる羽上がいた。
「イメージトレーニングですよ。自分がカリブ海のビーチにいると思い込むことで、暑さを無効化してるんです」
「ここ日本のグラウンドだぞ!砂埃しかねえよ!」
「空木先生、作戦の最終確認です」
海田がタブレットを持って近づいてきた。彼はジャージの上までボタンをきっちり留め、一滴の汗も流していない。この男の汗腺はどうなっているのか。
「第一走者は羽上先生。スタートダッシュで観客の視線を集め、イケメンオーラで他チームを撹乱してください」
「ラジャ。ウインク爆弾で女子生徒を気絶させます」
「殺人兵器か」
「第二走者は川島先生。直線番長として、その質量と慣性の法則を最大活用し、トラックを戦車のように蹂躙してください」
「了解っす!目の前にカレーパンが吊るされてると思って走るっす!」
「動機が不純だ」
「第三走者は僕、海田が行きます。冷静なコース取りとデータ分析に基づいた走りで、上位をキープします」
「頼もしいな。お前だけが頼りだ」
「そしてアンカーは空木先生。……先生には、ある意味、一番重要な役割があります」
「なんだ?ゴールの栄光を掴むことか?」
「いいえ。……『生きて帰ってくること』です」
「どういう意味だ!」
「その靴ですよ」 海田が空木の足元を指差す。そこには、太陽光を反射してまばゆい光を放つ『ライトニング・ゼウスV3』が鎮座していた。
「さっき試走を見てましたけど、その靴、コーナーを曲がるたびに『キュピーン!』って変な音がしてましたよ。あと、バネの反発力が強すぎて、一歩ごとに微妙に浮いてました」
「それがいいんじゃないか!無重力走法だ!」
「制御不能とも言います。……くれぐれも、自爆だけは避けてくださいね」
午後二時。 プログラム最終種目、部対抗リレーの時刻がやってきた。 グラウンドのボルテージは最高潮。全校生徒がトラックを取り囲み、声援を送っている。
「赤組、頑張れー!」
「陸上部、世界記録出せー!」
「先生チーム、怪我しないでー!」(これは保護者からの切実な声援)
第一走者の羽上が、スタートラインに立った。彼は髪をかき上げ、観客席に向かってバチーンとウインクを飛ばした。
『キャー!』
という黄色い悲鳴と、
『キモーイ!』
という冷静な野次が交錯する。
「位置について……用意……」
パンッ!
号砲と共に、リレーがスタートした。羽上のスタートは……遅かった。なぜなら、ピストルの音に驚いて「ビクッ」として髪型が崩れるのを気にしたからだ。
「おい羽上!何やってんだ!走れ!髪なんてどうでもいいだろ!」
空木が叫ぶ。
しかし、走り出した羽上は意外にも速かった。手足が長く、フォームも美しい。ただし、走るたびにサラサラヘアーをなびかせ、カメラマン(写真部)を見つけるたびにカメラ目線でキメ顔をするので、タイムロスが激しい。
「あいつ、リレーをPV撮影か何かと勘違いしてやがる!」
空木が地団駄を踏む。
それでも羽上は、なんとか三位でバトンゾーンへ滑り込んだ。 待っているのは、巨神兵・川島だ。
「羽上、遅せえっすよ!俺の筋肉が冷えちまったっす!」
「ごめんごめん、ファンサービスが忙しくてさ」
バトンパス。川島がバトンを受け取った瞬間、グラウンドに衝撃が走った。ドスンという着地音と共に、川島が加速(?)を始める。
ドス、ドス、ドス、ドス! 地響きだ。もはやこれはリレーではない。怪獣映画のワンシーンだ。トラックの砂が、彼の足元から爆発的に舞い上がる。
「す、すげえ……!遅いのか速いのか分からねえ!」
実況の放送部員が叫ぶ。
「川島先生、重戦車のような走りです!前を走るサッカー部員が、恐怖で道を譲っています!これは……モーゼの十戒走法だー!」
川島は直線で驚異的な加速を見せた。重力加速度と体重×速度の運動エネルギー保存の法則が、彼を未知の領域へと押し上げる。 しかし、問題はカーブだった。
「うおおおお! 曲がれねえええ!遠心力が俺を外へ連れて行くっす!」
第一コーナー。川島はコースを逸脱し、外側の芝生エリアへと突っ込んでいった。そこには、給水係のテントがあった。
「あぶねえ!逃げろー!」
生徒たちが蜘蛛の子を散らすように逃げる。川島はテントの柱を一本なぎ倒し、それでも止まらずに、なぜかショートカットのような形でコースに復帰した。
「反則じゃないのかあれ!?」
空木が叫ぶが、審判の先生は
「……まあ、面白いからヨシ!」
と親指を立てている。いいのか星ヶ丘。
川島は息も絶え絶えになりながら、第三走者の海田へバトンを繋いだ。順位は、ショートカットのおかげでまさかの二位。
「ゼエ……ハア……。あ、あとは頼むっす……。もう、一歩も動けねえ……」
川島はその場に大の字になって倒れ込み、救護班に担架で運ばれていった。マグロの水揚げのようだった。
「やれやれ。世話の焼ける人たちですね」
海田は眼鏡をクイッと押し上げ、バトンを受け取った。その走りは、機械のように精密だった。無駄のないフォーム。一定のリズム。表情一つ変えず、淡々と前を走るバスケ部のエースを追い詰めていく。
「速い!海田先生、速いです!まるでターミネーターです!感情のない走りが、逆に生徒たちに恐怖を与えています!」
海田の計算通り、最終コーナー手前でバスケ部を抜き去り、トップに躍り出た。
「空木先生!準備はいいですか!」
海田が叫ぶ。
「任せろ!いつでも来い!」
空木はアンカーゾーンで構えた。『ライトニング・ゼウスV3』の紐を、これでもかというほどきつく締めた。血流が止まるくらい締めた。
「行きますよ!」
海田からの完璧なバトンパス。空木はバトンを握りしめ、地面を蹴った。
キュピーン!
甲高い音と共に、空木の体が宙に浮いた。バネの力だ。すごい。体が軽い。まるで背中に羽が生えたようだ!
「見たか生徒諸君!これが大人の財力……じゃなくて、科学力だ!」
空木は快調に飛ばした。トップを独走後ろからは、陸上部のアンカーが猛スピードで迫ってくるが、今の空木には関係ない。風とお友達になれている気がする。
しかし。悲劇は、バックストレートの中間地点で起きた。右足を踏み出した瞬間。『ライトニング・ゼウス』の最大の特徴である、ソールに埋め込まれたバネの留め具が、金属疲労(安物ゆえの強度不足)により、弾け飛んだのだ。
バインッ!
右足のスニーカーが分解した。 ソールが剥がれ、バネがビヨーンと飛び出し、まるでびっくり箱のようになった。
「なっ!?」
空木のバランスが崩れる。 右足だけ高下駄を履いたような状態になり、ガクンと体が傾く。
「うわあああ! ゼウスゥゥゥゥ! 裏切ったなゼウスゥゥゥ!」
空木は叫びながら、たたらを踏んだ。しかし、転ぶわけにはいかない。ここで転んだら、ただの「靴が壊れたおじさん」として伝説になってしまう。
「耐えろ! 俺の体幹!バスケ部顧問の意地を見せろ!」
空木は、右足をケンケンのように使い、左足だけで走るという、奇妙な『片足スキップ走法』に切り替えた。
ピョン、ピョン、ピョン、ピョン!
会場がざわめく。
「なんだあれ?」「新しいトレーニング?」「いや、靴が爆発してるぞ!」
スピードは激減した。背後から陸上部、サッカー部、バスケ部が一気に抜き去っていく。
「ま、待ってくれ!俺を見捨てないでくれ!」
空木の悲痛な叫びも虚しく、彼は一気に最下位へと転落した。それでも、ゴールは遠い。 あと五十メートル。右足の靴は完全に崩壊し、裸足同然の状態になっている。左足のゼウスも、今にも爆発しそうだ。
その時。 放送席から、聞き覚えのある声が響いた。 あの問題児、田中である。
『あー、実況の田中です。現在、空木先生、マシントラブルによりスローダウン。ピットインが必要です。……が!空木先生、諦めていません! あの無様な姿を見てください! 靴が壊れても、プライドが壊れても、まだ走っています!あれが……あれが僕たちの担任です!頑張れ空木!負けるな空木!明日の宿題減らしてくれ空木!』
「田中ァァァ!最後のお願いは余計だァァァ!」
空木は涙目で絶叫した。 田中の実況に煽られ、会場全体から「空木コール」が巻き起こる。
「ウ・ツ・ギ! ウ・ツ・ギ! 靴を買え! 靴を買え!」
「うるさいわ!来月ボーナス出たらもっといいやつ買うわ!」
空木は最後の力を振り絞った。裸足になった右足と、爆発寸前の左足で、地面を蹴る。ゴールテープが見えた。もう順位なんてどうでもいい。ただ、この忌々しいゼウスと共に、ゴールに辿り着きたい。
「うおおおおおお!」
空木はヘッドスライディングの要領で、ゴールラインに飛び込んだ。
ズサーッ!
砂煙が舞う。
ゴール。
最下位でのフィニッシュ。
会場が、一瞬静まり返り、次の瞬間、割れんばかりの拍手に包まれた。爆笑と、少しだけの感動が混じった、温かい拍手だった。
放課後。祭りの後の静けさに包まれた職員室。四銃士たちは、ボロ雑巾のようになっていた。
「……痛い。全身が痛い。筋肉という筋肉がストライキを起こしてる」
川島が湿布を全身に貼り付け、ミイラ男のようになっている。
「僕の美肌が……。日焼け止め塗ったのに、やっぱり少し焼けちゃいました。最悪です」
羽上が鏡を見ながら嘆いているが、誰も聞いていない。
「空木先生」
海田が、氷嚢を空木の頭に乗せながら言った。
「お疲れ様でした。……まあ、結果は散々でしたが、盛り上がったのでよしとしましょう」
空木は机に突っ伏したまま、ピクリとも動かない。彼の足元には、無惨な姿になった『ライトニング・ゼウスV3(残骸)』が転がっている。
「……海田」
空木が掠れた声で呟いた。
「はい」
「俺は……かっこよかったか?」
「……ええ」
海田は少し間を置いて、フッと笑った。
「靴が爆発して、片足でピョンピョン跳ねて、最後は顔面から砂に突っ込んで。……最高にかっこ悪くて、最高に先生らしかったですよ」
「そうか……なら、いいか……」
空木は満足そうに目を閉じた。
「あ、ボス」
川島がスマホを見ながら言った。
「またバズってますよ。SNS」
「え?」
空木がガバッと起き上がる。
「タイトル『靴が爆発した教師、奇跡のゴール』。再生回数、五万回突破っす」
「なにぃいいいい!?」
「コメント欄も熱いですよ」
と羽上。
「『この先生、身体張るなあ』『靴のメーカーどこ? 逆に欲しい』『リアル・マリオカート』……大人気ですね」
「しかも」
と海田。
「メーカーの公式アカウントが反応してますよ。『弊社の製品をご愛用いただきありがとうございます。耐久性の向上に努めます。お詫びに最新モデルV4をお送りします』だそうです」
「いらねええええ! 二度と履くかあんな欠陥商品!」
空木の絶叫が、夕焼けの職員室にこだました。机の上には、生徒の誰かが置いていったのか、泥だらけのバトンと、一枚のメモが残されていた。
『先生たち、お疲れ。まあまあ速かったよ。 陸上部一同』
それを見た空木は、文句を言いながらも、少しだけ目尻を下げた。 筋肉痛は痛いが、心の痛みは不思議と消えていた。
こうして、星ヶ丘の熱い一日は終わった。 明日からはまた、普通の授業が待っている。しかし、空木先生の伝説(黒歴史)は、また一つページを増やしたのである。
(エピソード5・完)




